

2日夜テレビで「釣りバカ日誌20ファイナル」を見ていたら、主人公浜ちゃんが話していたことに気にかかった。
取引先の常務さんが息子さんの引きこもりで困っていると、すると浜ちゃんが「赤穂浪士の討ち入りした47士はヒーロー扱いでかっこイイが、浅野内匠頭には230人の家来がいて、230-47=183 討ち入りに参加しなかった183人の気持ちが…」と云うような例え話を持ち出して、常務さんに話していたシーンがあった。
今これを書きつつ、この事が引きこもりとどう関連付けていたのかあやふやになってしまったが、ドラマでは、ともかく常務さんは何か得ることがあったようで、浜ちゃんに感謝し、そのお礼として、見返り情報を遠回しに告げて帰った。
ドラマの話はここまでで、ドラマが終わってから、私はこれまでは、不義士のことはあまり念頭になかった。
寺坂吉右衛門 ・ 瀬尾 孫左衛門
強いて云えば、討ち入りには参加したが、泉岳寺に行く途中で逃げ出した(?)とされる、寺坂吉右衛門(てらさかきちえもん)が義士とか、いやそうではないと言われていることは知っていた。
その他には、高田郡兵衛(たかだぐんべえ)や萱野重実(かやのしげさね)の名前が思い浮かぶ程度で脱盟した経緯などはもう忘れてしまっていた。
それから、「最後の忠臣蔵」より、もう一人討ち入り直前に逃げ出した(?)とされる、瀬尾 孫左衛門(せお まござえもん)を教えられた。
なので、不義士のことが話題になれば、この程度のことをを思い浮かべていたのだが、今回の「釣りバカ日誌」の浜ちゃんの話から、もう少し調べてみた。
もともと討ち入りに参加していない家臣がたくさんいて、その人たちも元禄15年の義挙の後は不義士とのレッテルを貼られたことになり、以後不義士として、世を忍びながら生きていかざるを得なかった。だから、子々孫々にもその由来を語らず死んでいった。 そんな人生を送った元家臣が多くいたことを教えられた。
先の寺坂は吉田忠左衛門(ちゅうざえもん)に仕えていた足軽であった。瀬尾は浅野家の家臣ではなく、大石良雄の家臣であり、この二人については浅野家の家臣ではないからか、大石内蔵助より「何等かの密命を受けての逃亡」ではないかと云われているので、不義士とされることに当人はもとより、私でもそれは違うのではと思っている。
この二人は別として、脱盟した人たちにも様々な事情があり、脱盟した時期もばらばらである。
だがもっと早い時点での脱盟には、年齢や体力もあるが、家庭の事情も大きかっただろうと思う。ただ義挙の後は結果的には「不義士」と云われても仕方ないだろうが、義挙に参加しなかった事がそれ程問題視されているとは知らなかった。
浅野家家臣は士分だけでも300名以上いたが、このうち討ち入りしたのは46名で(寺坂は足軽身分のため)、8割以上が討ち入りに参加していない。
討ち入りした46士が義士として称賛されれば称賛されるほど、そのあおりとして、討ち入りに参加しなかった元藩士とその家族に対しては幕末まで厳しい批判が向けられていたと云う。
討ち入りに参加した浪士の子弟らは各藩から争って招聘の声がかかるのに、脱盟した元藩士で後に仕官が適った者は大石信興以外には確認されていないと云う。
状況は違うが、世間体に耐えかねて、小山田庄左衛門の父小山田一閃は、息子が同志の片岡高房から金を奪って逃げだしたことを恥じて自害した、また岡林直之も兄の旗本松平忠郷から義挙への不参加を責められ切腹させられた。
高田郡兵衛は仇討を強行に主張した江戸急進派のリーダでありながら、最初の脱盟者として世間の悪評がたかい。
彼の場合は養子に来なければ、討ち入りをお上に訴え出ると云われてやむを得ず脱盟して養子に入ったはずなので、その後の悪評に耐えかねた養父に家から追放されているが、本当は義挙を見届けた時点で自害していれば、「義士外義士」として180度違う評価になったと思うのだが…
不義士とされた元赤穂藩士たちとその子孫は町人からさえも「不忠者」と蔑まれ、味噌、醤油さえ売ってもらえず、出自を隠して名前をえ変えるほかなかったと云われている。
ただ、討ち入りには参加しない道を選んで、結果的に「不義士」となってしまったが、彼らの討ち入りを事前に密告するような裏切り者はいなかったとのことなので、そのあたりでは義士と共通認識であったのだろう。
大野九郎兵衛 ・ 奥野将監
この様にただの藩士でさえ義挙に参加しなかったとして、強い批判を受けたのだから、浅野長矩が刃傷におよんだ頃に幹部であった、大野九郎兵衛(おおのくろべえ)や奥野将監は幹部であるがゆえにその代表格としてより世間の強烈な批判の対象にされてしまったようである。
奥野将監は赤穂藩浅野氏の家臣で赤穂の生え抜きでは№2であった、また内蔵助の親戚筋にあたり、千石をはむ組頭で五万石の浅野家にあっては名門である。
奥野は血判にはその名が記されていて、最初の義盟には加わっていた。
しかし、その後、内匠頭の弟の大学が処分され、浅野家再興の望みが断たれた段階で脱盟してしまう。
時に奥野将監56歳であった、すでに隠居の年齢であり、討ち入りなどという暴挙に付き合うには、体力も精神力も衰えていたのだろうか。ただ、義士のなかには奥野より年長の者は4名、最年長は堀部弥兵衛の77歳であった。
第二陣は ?
大野九郎兵衛は赤穂藩浅野家の650石の末席家老で、今で云う優秀な経済官僚であったと云われる。特に赤穂塩の開発に尽力し、その塩の利益が藩財政の大きな比率を占めるまでになった。彼は経済的手腕で藩の赤字財政を見事に立て直した実力で出世した一代家老である。
だが、江戸の火急を知らせる早駕籠が到着して、藩士たち総登城で評定が開かれたおりに、城没収なら城を枕に討ち死にと威勢のよい声が飛び交うなかで、彼は恭順開城を唱えたが、皆の声に押し切られた。このため、藩財政の整理を行い、各藩士に今で云う退職金の割り振りを行った後に逐電したのである。
この事で「忠臣蔵」では不忠臣の代表格となってしまった。
ところが調べてみると、大野九郎兵衛には大石らが討入りに失敗したときのことを考え、その後に吉良が実子で出羽米沢藩の第4代藩主上杉綱憲(うえすぎつなのり)の所領へ落ち延びると考え、第二陣として山形県の板谷峠に木こりに扮して潜伏していたとする伝承がある。
そして大石らの討ち入りが成功したのを聞いて歓喜し、その場で自害したといわれている。
この板谷峠には大野のものと伝わる石碑があり、建立した佐藤という米沢の旅籠屋は、浅野家と縁があったと云われている。
万事に用意周到な大石と大野のことだから、失敗した場合の第2陣、第3陣計画を予め準備しておいたとしても不思議ではない。
第1陣で失敗すれば、たとえ討ち入りには成功しても、吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)の首を取らなければ意味がない、吉良の屋敷には討ち入りの噂にに備えて150名程の武士をおき、屋敷は広く170もの部屋がある、隠れた吉良義央を夜明けまでに探し出すのは相当難しい確率であったのだ。
吉良がオーム真理教の麻原彰晃のように本格的(?)な隠れ部屋を造っていたら夜明けまでにはまず見つからなかっただろう。
このような状況であったので第2陣の事も当然考えていなくてはならないと想像する。
第1陣で失敗したとなると、吉良の警戒はより厳しいものとなり第2陣はよりむずかしい暗殺計画を立てる必要がある。
そのためにはまず大将に強い統率力求められるため、地位と実力を兼ね備えた人でなければ務まらない。
大石が遊興遊びにふけって敵を油断させたように、大野九郎兵衛は、わざと大石と対立して破れ逐電したと、そうして吉良方スパイのマークを外した、という可能性も十分あり得る。
たまたま、茶会の日に合わせた第1陣の討ち入りが大成功に終わってしまった結果、生き残った第2陣、第3陣の浪士たちは、討ち入りに参加できなかったが為に、不忠義者と後々の世まで伝えられる結果になってしまったとしたら予期できたこととはいえ可哀想なことである。
その代表が、この大野九郎兵衛としたら。
もしかしたら、彼も大石内蔵助と同様、一番の忠義の士だったのかもしれない。
この様に一つの伝承から推理してみたが、なにか弱い感じがする。
それは、義士47士の名前を一覧して分かるのだか、何組もの家が「親と子」、「親と養子」、「兄と弟」など身内で参加している。間喜兵衛光延(はざまきへえみつのぶ)にいたっては、「親と長男と次男」の3人も名を連ねている。
もし、第一陣のあと第二陣と分けてメンバーを編成するなら、やはり、「父と子」などの身内同士は別々の陣に分けるのではないかと思う。
現に討ち入りのとき表門と裏門に別れて突撃したが、この編成においても身内同士は表と裏に別れて組まれていた。
単純な判断ではあるが、やはりこのように編成するのが昔からの普通の考えではないだろうか。
そうなると「討ち入り」は、第一陣のみで、第二陣の編成はは無かったのではないか。
日本史のなかでも大事件であった「忠臣蔵」を、そんな展開もあるかと資料の空白部を勝手ではあるが、いろいろな断片から組み合わせて推理していくのは楽しいものである。
12月2日の「釣りバカ」の浜ちゃんのセリフから、このような展開となり、何とか12月14日の討ち入りまでに、アップしたかったがあれやこれやと寄り道してしまい少々遅れてしまった(笑)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます