テレビのツボ

テレビ番組の中の面白試聴ポイント(ツボ)を探し出し、それらを面白おかしく紹介するブログですε=┏(; ̄▽ ̄)┛

絵に描いたような軽薄才子、ホリエモン

2013-04-28 16:18:34 | ニュース・時事ネタ




のっけから個人的な偏見で申し訳ないが、ホリエモンなる人物には、どうしても違和感を禁じ得ない(言うまでもなく堀江貴文のこと。揶揄する意味も込めてホリエモンという表記で統一する)😜

違和感を覚え始めたのは、ホリエモンがIT業界の風雲児として一躍、時代の寵児に祭り上げられた当初から。かれこれ10年近くになる。
その頃のホリエモンは、近鉄バッファローズ(当時)の買収計画をぶち上げたことに始まり、ニッポン放送や、その親会社であるフジテレビまで、いわゆる裏ワザを駆使して買収を画策するなど、まさに飛ぶ鳥落とす勢いだった。そのあまりの大胆不敵さには驚嘆させられたものだ。が、驚嘆しつつも、どこか共感し切れなかった。はっきり言って反感さえ覚えていた。
その理由は? 業界の慣行を無視した常識はずれの手法を用いたこと? 若くして巨額の資金を運用し、メディアをも翻弄するほどの力を得た故に生じたのであろう、傲慢さが滲み出た態度や物言い? それらはちょっと違う。確かにそれらの理由もないではないが、決定的な理由ではない。常識はずれや傲慢不遜なんてホリエモンに限った話ではない。業界の慣行を無視した点については、既得権にクサビを打ち込んだ快挙として拍手を送りたい気持ちすらあった。

ホリエモンに違和感を覚える最大の点は損得感情のみに特化した底の浅~い思考パターン😒
その点を集約し濃縮した姿を、4月27日未明OAの『朝まで生テレビ2013』で嫌というほど見せつけられた。最初に断っておくと、私は『朝まで…』という番組自体あまり好きではない。時事問題を深く掘り下げ、各界の識者が夜を徹して白熱した議論を繰り広げるというコンセプトそのものはいい。だが、演出?が頂けない。互いに罵声を浴びせ合い、怒鳴り合う。他人が発言してる最中に大声で遮り、それに大声で反論する。話題になった『ハーバード白熱教室』のような、熱を帯びつつも冷静な議論を交わす雰囲気には程遠い単なる口喧嘩で、見るたびウンザリさせられてしまう。番組開始当初こそ物珍しくて見ていたが、最近では殆ど見なくなった。たとえ見ても、たいてい途中でテレビを消して寝てしまう。眠くなるのと、上記の理由で嫌気が差すからだ。

が、今回は議題が「激論‼ ネット世代が日本を救う⁈」で、総合司会の田原総一郎が「若い人の意見を聞いてみたい」ということで、いつもとは違うゲストが多数出演していたので、ちょっと気になって見てみた。恒例の罵り合いもなく、久しぶりに朝まで見られた。番組終了間際、ゲストの一人が(リアルタイムでチャットをしている)パソコン画面を見ながら「上品すぎて物足りないという意見も来ている」と語っていたが、口汚いトークバトルなんかよりよっぽどいい(この点にはホリエモンも賛同していた)。

ところがその良好な議論環境に水を差していたのは他ならぬホリエモンだった。ホリエモンは田原の右隣の最上席に陣取り、田原の次に主導的役割を担っていたが、態度の悪さがどうも気になった。議論をリードするのはいいのだが、自分と異なる意見には茶々を入れたり、終始冷笑を浮かべたりで、見ていてそれだけでも不快な気分になった。コメント内容も然りで、論理的で説得力がありそうなのに、何故か腑に落ちない。その主たる要因こそが、何でもかんでも損得で割り切る底の浅さだ。

今回取り上げられたテーマを個別に挙げてゆくと、まず靖国問題。ホリエモンは、超党派の国会議員168人が参拝したことに噛みついた。参拝には反対だという。それ自体は別に問題ない。日本は言論・思想信条の自由が保証された国だから、どんな意見があっても構わない。実際、左派勢力もこぞって反対している。
違和感を覚えるのは反対理由で、そんなことをしても何の得にもならないからやめろと言うのだ。慰霊・鎮魂の念というのは損得を超越した、言葉では表せない根源的な心情に根差したものではないかと思うのだが、ホリエモンにはそんな心情は露ほども無いらしい。左派勢力にしても、政治家の靖国参拝に反対するのは「A級戦犯が合祀されている靖国神社への参拝は、アジア諸国の人々を心情的に傷つけるから」というのが大きな理由の一つで、視点が違うものの一応は心情に寄り添ってることに変わりはない。A級戦犯なるレッテルは、勝者による一方的な断罪によって貼られたものではないのか?など、靖国を巡る議論を追求してゆくと切りがないし本題ともズレるので割愛するが、賛否どちらの立場にしても、単純な損得二元論で割り切る論調はあまり見られない。イデオロギーにせよ、ナショナリズムにせよ、何らかの思想的裏付けがあるのが普通だ。
参拝した議員の一人、自民党の高市早苗政調会長は「外交問題になること自体がおかしい」と参拝時のインタビューで述べており、慰霊と外交(国益)を絡めることに明確に反対の意志を示しているし、外交上のデメリットを懸念する評論家やジャーナリストにしても、多くが(形だけかも知れないが)「戦没者に感謝の念を持つのは当然だが…」と前置きした上でコメントしている。
だがホリエモンはとにかく損得だけ。田原が参拝の意義として「感謝の念」について語ろうとしても、薄ら笑いを浮かべて意にも介していない様子。(感謝の念? 何それ? そんなの1円の得にもならないじゃん! そんなもんのために、反対押し切ってまで参拝に行くなんてバカじゃないの?)てな心の声が聞こえてきそうな表情だった。

ホリエモンは天皇制についても言及している。このテーマを田原が切り出した時「微妙な問題だから、右翼が押し寄せて来るんじゃないの?」と言葉を濁したホリエモンだったが、田原が「大丈夫だよ」と事も無げに答えたのを受けて次のような持論を展開した。「そもそも憲法の第一条が天皇制に関する条文なのに違和感がある」。
この持論は始めて披露したものではなく、2005年9月6日に都内の日本外国特派員協会講演で「憲法が天皇は日本の象徴であると言う所から始まるのは、はっきり言って物凄く違和感を覚える」と述べている。
他の発言も総合して考えると明らかに天皇制に対して批判的な立場のようだが、反対理由も左派勢力のそれとは違うようだ。天皇制なんて何の得にもならないから反対、と考えてるように思える。
番組のなかでも天皇制について「訳のわからないグニョグニョしたもの」と表現していて、(そんな訳のわからないものを、なんで崇拝なんかしてんだよ!)っていう本音が滲み出てるように見えた。

でも天皇制に限らず、訳のわからない、混沌として理屈では説明できない、敢えて言葉で表すなら「グニョグニョ」としか形容しようがない不可解なものこそが、本当は一番大事なものではなかろうか? その辺りの機微をホリエモンは全く理解していないし、理解しようとする意志さえ窺えない。一見、何の役にも立っていないようで、実は何よりも重要な役割を担っていることを「無用の用」と表現するが、ホリエモンの辞書にこんな語句は無いに違いない。
ホリエモンの論理は玉ねぎの皮剥きと一緒。どんどん皮を剥いてゆくと、最後には芯も無くなってしまう。無駄に見えるものをとことん排除してゆけば、最後には人間そのものまで排除するしかなくなる。地球上で人間ほど無駄な存在はないからだ。合理主義を徹底することは悪くないが、人間はあくまで「訳のわからない」非理性的な価値観をベースにしているものだということを理解しなければ、行き着く果ては完全な自己否定だ。

ホリエモンがニッポン放送を買収しようとした時、ニッポン放送のみならずメディア業界全体が猛反発した。おそらくホリエモンはこれを「新参者が参入してきて、今までの既得権が失われるのが嫌で反発しているんだろう」としか思ってなかっただろう。それは一面正しい。正しくはあるが、反発の理由はそれだけではない筈だ。ニッポン放送や、メディアの業界人が営々として築き上げてきた有形無形の財産を、札束で頬を叩くようなやり方でかっさらっていこうとする傲慢さに、損得抜きで反発した面もあると思う。
本宮ひろ志が古代中国を描いた劇画の中に「一がある者には二がなく、二がある者には一がなく、一と二が共にある者には三がない」 という台詞があったが、ホリエモンはまさしく「一と二が共にあって三がない者」そのものだ。優れた能力があっても、一番肝心な「何か」が決定的に欠けている。「何か」が何であるのか、それは分からない。分からなくてもいいと思う。ただ、それが何なのかを探求しようという気持を持ち、畏敬の念を抱く謙虚さがあればそれで充分だ。ホリエモンの転落劇は、その「何か」をあまりに軽視し過ぎたゆえの自業自得という気がしてならない。

ホリエモンは番組中でも「僕は誤解されやすい。ブログもすぐ炎上する」と愚痴っていたが、誤解ではなく、意外に本質を見抜かれているのではないか。ブログの炎上にしても、世間からのバッシングにしても原因を作っているのはホリエモン自身の言動だ。自ら火を放って、燃料まで撒き散らしながら「放火された! 大火事になった!」と騒いでいる滑稽な図に見えて仕方ない。
ホリエモンを見ていると、かつて民主党の若手エースとして活躍していながら、「偽メール事件」で墓穴を掘って自滅してしまい、最後には自ら命を絶った某元議員を思い出す。キャラは違えど、ホリエモンと同じく見るからに軽薄才子そのものだった某氏もやはり、態度や言動に傲慢さが滲み出てていたし、同じように「何か」が欠けていた(ように見えた)。
ホリエモンは服役中にも有料ブログで一億円以上も稼ぎ、出所後には早速メディアに復帰するほど、転んでもタダでは起きないしたたかさを持っているから自殺なんかはしないだろうけど、今のキャラではせっかくの能力がスポイルされかねない。それでは本人だけでなく、社会にとっても損失だ。日本の経済界に蔓延る因習に風穴を開けられるくらい卓越した能力があるのにもったいない。

さて、話を『朝まで…』に戻すと、今回もっとも光っていたのは司会の田原総一郎だった。今回は名うての論客ではなく、経験の浅いゲストが多かったせいか議論に深みやコクが不足している感は否めなかった。田原はその不足分を見事に補っていた。田原はアクが強すぎるので『朝まで…』同様、個人的には苦手なキャラクターなのだが、今回はそんな苦手意識など吹き飛ぶくらい、田原の存在感に圧倒された。やはり齢七十九の超ベテランジャーナリストが放つオーラは並ではない。長年の経験に裏打ちされてるだけあって、コメントの一つ一つに半端ないほどの説得力がある。「古い人間として言わせてもらいますが…」と何回も前置きしてコメントしていたが、内容は全然古臭くなかった。いつもは田原に遜色がないくらいアクが強く、コクもあるベテラン論客揃いなので、さすがの田原のキャラもいくぶんかは埋没しているようだが…。


今回のツボは、ホリエモンの悪い意味での軽さと、田原総一郎のいい意味での重さを、共に再確認したところかな😁


『ビューティー・コロシアム』潰し?のアンチ美容整形番組

2013-04-06 17:18:40 | 特番・スペシャル
4月1日OAのTBS『私の何がイケないの? 整形&ビューティー‼ 危険な女性の欲望SP』は、どう見てもフジの特番『ビューティー・コロシアム』のアンチバージョンだ。
『私の何がイケないの?』は、様々なエピソードや悩みを持つ女性が登場し、驚きのライススタイルを披露したり、ゲストコメンテーターが悩みに対してアドバイスするというコンセプトの番組で、今回取り上げた『美容整形』シリーズはその中の1バージョン。容姿へのコンプレックスが原因で対人関係がうまくいかず、心に深いトラウマを負った女性が美容整形を受け、人生の転機を図る…と、ここまでは『ビューティー・コロシアム』と一見同様の展開をみせる。ところがその美容整形に対するスタンスが、両者では真逆なのだ。
『ビューティー…』では美容整形を受けた女性が輝くような笑顔で登場し、性格もこんなに明るくなりました! 美容整形受けて本当に良かった♪ 的なポジティブ感満載の感想を語り、ゲストも賞賛のコメントで迎えるのに対し、『私の何が…』ではそんなほのぼのとした雰囲気はまるでない。一応華々しく登場はするが、ゲストの対応は至って冷ややか。なんで整形なんかしたの? 的な否定コメントを容赦なく浴びせかける。特別ゲストとして出演している医者やカウンセラー、学者らも、美容整形のリスクや精神面の問題点ばかりを強調する。美容整形をテーマにしていながら美容整形を否定している。

映像や効果音でも否定的スタンスが顕著だ。整形手術シーンを見せる際、右上のワイプにゲストの顔を映し出すのだが、眉間にシワを寄せたり顔をしかめたり、とにかく渋い表情のオンパレード。手術シーンなんてそりゃグロテスクだから、そんな表情になるのは当然。それが分かった上で映しているのだろうから、美容整形に対してネガティブなイメージを植え付けるのが目的かとすら思えてしまう。
効果音もそう。衝撃的なシーンやコメントのたび、細木数子の占い番組で使っていた効果音の使い回しとおぼしき「ドーン」という音を響かせ、観覧している女性客からは「えー⁉」という悲鳴が上がる(これもたぶん録音された効果音)。

だが、この番組で美容整形をネガティブにみせている最大の要因は何より、美容整形を受けた女性自身だ。今回登場した女性は整形の頻度や大掛かりさ、おまけにメンタルの病み具合に至るまで半端ではない超弩級レベルだった。
美容整形業界で「史上最強の整形モンスター」「大阪の整形サイボーグ」と異名を取るヴァニラ(年齢非公開)がその人。





メディアには初登場だというヴァニラは、フランス人形の美しさに憧れ、総額1000万円以上かけて30回にも及ぶ整形手術を受けている。それでもまだ現在進行形で、今後さらに1700万円以上かけて追加の手術も行なう予定だという。生身の人間らしさも捨て、ただひたすら究極の美を求めることのみが目的だと言うから凄まじいとしか形容しようがない。




整形内容がこれまた凄まじい。顔は全く原型を留めないほど「大改造」が施され、バストは豊胸手術でHカップにしたものを更に大きくしてJカップにして、まだこれを倍以上に大きくしたいそうだ。予定している手術のうち、もっとも大掛かりなのはイリザロフ法と呼ばれる「身長を伸ばす手術」。美容整形の専門医でさえ、この手術をしたいと申し出た人に対して「やめた方がいいですよ」とまず止めてリスクを充分説明し、それでもどうしても受けたいと希望した場合のみ手術を行なうという、禁忌中の禁忌といわれる整形手術だ。手術方法は、脛の骨を切断!して切断面を離した状態でギプスで固定。1日で1ミリづつ伸びて再び繋がり、しかも脚の部分だけが伸びて長身かつ足長スタイルになる。伸ばせるのは最大で15センチほど。ヴァニラはその上限である15センチUPを望んでいる(現在の身長156センチから171センチへ)。もちろん骨が繋がるまでは歩くことも出来ず、寝たきり状態を強いられる。15センチなら5ヶ月間は寝たきり。繋がった後も長期のリハビリが必要だろうから、不便さや苦痛は想像を絶する。




もちろんと言うべきか、ゲストからは否定コメントの嵐。なかでも中尾彬はヴァニラの人間性まで全否定。罵倒に等しいコメントを容赦なく叩きつけていた。
これほどの代償を払ってまで美容整形に執念を燃やすには、当然ながらそれだけの理由がある。ヴァニラは幼少期から父親に愛された記憶が全然ないという。赤ちゃんのころ泣くたび、母親に向かって「捨ててこい!」と言われていたらしい。学校に行くようになってからは常に無表情だったことから「鉄仮面」とあだ名されて酷いイジメに遭い、父親にそのことを訴えても「ブサイクなんだから我慢するしかないだろう!」と冷たく突き放される始末。並外れた美への執着は、その頃に形成されたトラウマを美しさによって穴埋めし、補おうとする補償作用の発現によるものだと思われるから、表面的な美をいくら追求しても切りがないだろう。ゲストの杉村太蔵の「これ以上美しくなれないと思ったとき、自ら命を絶つ選択をするんじゃないか?」との懸念は的を射ているような気がする(ヴァニラ当人もその可能性を否定しなかった)。

それにしてもヴァニラはよくメディアに出てきたなあと思う。見た目もキャラクターもインパクト絶大だから、あっという間に知名度が高まるのは間違いなく、どこへ行っても注目の的、悪く言えば晒し者状態になるのは避けられない。メディアに出てくるにはそれ相応の覚悟は必要だったろう。本人曰く「美容整形の伝道師」として「容姿に悩んだら迷わずに整形すべし」と訴えたいそうだから、メディアに露出することによってその目的(使命?)は果たせたようではある。

もう一人登場した整形女性は、ヴァニラほど極端なキャラではなかったにも関わらず、ゲストから否定コメントを浴びせられることに変わりはなかった。おまけに当人も「整形したあと鏡などを見て、今までの顔とかけ離れていて、こんなに変わってしまって、気持ちがついていかなくなって、自分のことが怖いと思った」と語るなど後悔の念がよぎってる様子(番組ではこの部分を強調したかったようだ)。『ビューティー…』みたいに美容整形外科のステマにしか見えないようなスタンスの作りもどうかと思うが、何が何でも「美容整形否定」の結論に落とし込もうとするスタンスが有りありの『私の何が…』にも違和感がある。もっとニュートラルなスタンスがあってもいいんじゃないかと思う。

望む美しさを手に入れるため、美容整形以外に手段がないとなれば、そういった手段を用いるのは必ずしも悪いことではない。もちろんやり過ぎは良くない。誰から見ても充分キレイになっているのに、それでもまだ「もっともっと美しくなりたい!」との執着から解き放たれないのであれば、メンタルに重大な問題を抱えている恐れが強い。その場合は、メンタル面のケアなど違う形でのアプローチを試みるべきだろうけど、美容整形自体を悪とみなすのには反対だ。
美しくなりたいという欲求はごく自然なものだ。なぜなら、人間(や生物全般)には「機能的に優れた形態を美しいと感じる」本能が備わってるから。だからこそ異性を惹きつけるため、美しさを求めるのは当然すぎるくらい当然なこと。これは男女とも共通の心理。よく「男に見た目は関係ない」なんて言うが、こんなものは大嘘もいいとこ。証拠にあらゆるメディアで、男性向けの薄毛治療、カツラ、植毛や増毛のCMが氾濫している。髪の毛が薄くなろうがハゲようが健康には何の支障もない。にも関わらず髪の毛の量を気にするのは見た目を気にしてるからに他ならない。女性とは気にするポイントが多少違うだけであって、男性も美しさを気に掛けるという点においては女性と何ら変わらないのだ。

だから『私の何が…』の「人間、見た目じゃありません。心の美しさが何より大事です」っていう、陳腐な道徳論丸出しの結論はどうも納得いかない(これは司会を務める江角マキコのコメント。端整な顔立ちの江角が言ってもまるで説得力なし)。
美しさを求める本能を否定するということは、優れた遺伝子を選び取る生物としての本能まで否定してしまうことに等しい。それでは人類という種は優れた遺伝子を残せなくなり、衰亡してゆくことにもなりかねない。確かに心の美しさは何より大事ではあるけれど、外見の美しさを求める本能とて大事なものだ。バランスの取れた言い方をするとすれば「外見の美しさを求めることは大事。それ以上に心の美しさを求めることが大事」っていうところじゃなかろうか? 心の美しさが大事であることを強調するあまり、外見の美しさを求めることがまるで浅はかであるかのように非難する言説がまかり通ってる現状は、どう考えてもバランスを欠いている。

実は『ビューティー…』にしても、根っこの部分では美容整形を否定しているようなニュアンスがないではない。エンディングでわざわざ「決して美容整形を推奨しているわけではありません」なんていう言い訳じみたテロップを出すし、有名人特集の回では絶対に美容整形をやらない。その時は必ず「ダイエット特集」でお茶を濁す。有名人が堂々と美容整形を受けるという社会的なコンセンサスがまだまだ出来ていない。美容整形をしたと「噂」される有名人は多数いるが、美容整形をカミングアウトしている有名人はきわめて少数派。自然かつ努力を要するダイエットは何らタブー視されないが、人為的かつ努力を要さない美容整形はアンチモラルとさえ見なされかねないからのようだ。この価値観は近年に形成されたものではない。日本では古来より、加工されていない「生成り」を尊ぶ価値観が息づいていた。対象物が無機質であってもそうだから、人体に加工を施すなど思案の外であったに違いない。それ故だろうか、かつて中国歴代王朝の文化や制度をせっせと取り入れた古代日本も、纏足の風習や宦官制度など、不自然きわまる人体改造を伴うものは遂に導入しなかった。

纏足や宦官の本家であった中国や、中華文明圏に属していた韓国などでは、現代においても美容整形に対する忌避感は少ない。中国では整形美人ばかりが出場する「人造美女コンテスト」なるものが開催されているし、韓国でも多くの人が美容院でカットするような気楽さで美容整形を受け、臆することなく整形箇所を自ら積極的にアピールまでする。日本と中韓の美容整形に対するスタンスの違いは、そのまま彼我の歴史的背景の違いへと直結する。どちらも民族としてのDNAに根差すほど奥深い背景を有しているから、少々のことでは覆らないだろう。


で、今回のツボは…ヴァニラという際立った個性の持ち主と、美容整形を巡る文化論あれこれ、ということで😁

偉大なる『笑っていいとも!』

2013-04-02 22:27:14 | ワイドショー・バラエティ
…本当に久しぶりの投稿! 日記更新は実に1年8ヶ月ぶり。頂いたコメントへのレスを含めても1年4ヶ月ぶりだ。結局去年は一度も更新することなく終わったことになる。
再開するなら4月から、と密かに思っていた。新年度で区切りがいいことと、番組改編期に当たるためネタにしやすい特番が目白押しだから。で、再開後初のネタとして取り上げる番組は…と迷った末に選んだのは『笑っていいとも!』



「何を今更?」と訝る声が聞こえてきそうだ。放送開始から30年以上。度々リニューアルを繰り返してきたが、それでも経年劣化は避けられず、今やマンネリを通り越して化石状態。司会のタモリにもあまりやる気は見られず、すっかりオブジェと化している。「もう見飽きた」というのが多くの視聴者の本音だろう。先月、1年2ヶ月ぶりにテレビ復帰を果たした「やしきたかじん」(関西地区以外では知らない人が多いかもしれない。本業は歌手だが、仕事の大半は司会。歯に衣着せぬ毒舌で知られるタレント。食道ガン治療のため長期休養していた)も、自身が司会する番組『たかじんNOマネー』で早速「もういい。終わっていいとも」とギャグ混じりの辛口評価を下している。

これらの評価、確かに間違ってはいない。どこをどう切り取っても新鮮味のかけらもない。一昔前から何度も打ち切り説が出ており、いつ終わってもおかしくないくらい視聴率も低迷している。こんな超マンネリ番組のどこに「ツボ」があるのか、と疑問を呈する向きも多いかと思う。
しかし、である。注目すべきは番組内容の良し悪しではない。ギャグの面白さなんか二の次三の次。もっとも評価すべきなのは、その基本コンセプトだ。この番組は、かつてなら多くのバラエティ番組にみられた「バラエティの王道」とも言うべき素晴らしいコンセプトを受け継いでいる、殆ど唯一といっていいバラエティ番組なのだ。タイトルの「偉大なる」は皮肉でもなんでもない。

そのコンセプトとは、生放送でかつVTRを一切使用しないこと。
な~んだ、そんなことかと思われるかもしれないが、よくよく考えてみてほしい。特番を除くレギュラーのバラエティで、今この二点に当てはまる番組が他にあるだろうか? 少なくとも私の知る限りひとつもない。
かつてなら以上の二点に当てはまるバラエティ番組なんて珍しくもなかった。それどころか、その二点に大仕掛けの舞台中継までプラスした、今では考えられないほど骨太のコンセプトを誇った番組まであった。『8時だよ! 全員集合!』だ。生放送だから失敗は絶対に許されない。それだけでも大変なプレッシャーだったろうに、セットが倒れるわ、車は飛び込んでくるわの大仕掛けまで盛り込まれていた。目の前には大勢の観客がいるので、失敗は即大事故に直結する。そんな極度の緊張感の中でギャグを繰り出していたドリフターズの面々や、裏方のプロフェッショナリズムには畏敬の念すら覚える。これほどバラエティの王道を貫いていた番組が「子供に観せたくないワースト番組」の常連だったなんて信じられない。

『8時だよ! 全員集合!』当時やそれ以前に生放送のバラエティ番組が多かったのは、録画用テープが高価だったという物理的事情が背景にあったからだが、それはともかくそれらのバラエティ番組は今観ても生放送ならではの緊迫感がみなぎっている。VTR番組において意図的に演出された緊迫感とは似て非なるものだ。
VTR番組が主流になって以降も80年代辺りまでは、過剰な編集は控え、できるだけ生放送に近い形で視聴者に提供しようという気概は受け継がれた。その気概の主な担い手はドリフターズや大橋巨泉らであった。
ドリフターズも特番はVTR収録が中心だったが、編集は必要最小限に抑えられていて、如何にも舞台中継のような作りになっていた。大橋巨泉もそうで、たとえVTR収録であっても編集は極力させなかった。彼らに共通するのは黎明期からテレビ業界に関わっていたこと。バラエティはもちろんドラマでさえ生放送が当たり前だった時代から活躍していたタレントだから、生放送に対するこだわりは並大抵ではないのだろう。

ところが80年代以降、タレントからも制作者サイドからも、これらの気概は急速に失われていく。生放送のバラエティ番組が激減したのみならず、VTR番組の編集も継ぎはぎの域を越え、姑息な演出がやたら目立つようになってしまった。具体的には過剰なテロップや、クライマックスシーンの直前に長々と引っ張り、ゲストの大袈裟に驚く顔のアップとともにCMに入り、一番の見どころはCMのあとにお預けというお馴染みのパターンだ。かつてこんな演出はなかった。ひとつのコーナーがきっちり終わってからCM入りし、CM明けには次のコーナーが始まるというパターンが定番だった。が、今やそんな定番は皆無に等しく、バラエティに限らずどの番組も判で押したようようにCM跨ぎの見苦しい演出を繰り広げている。
そんなVTR番組に嫌気が差し、生放送の番組を観たからといって事は解決しない。番組は生放送でも、番組中では大抵VTRを使用するからだ。そこではやはりテロップが飛び交い、CM跨ぎの演出が幅を効かせている。

何故こんな有様になってしまったのか? 原因は様々あろうが、なかでも大きなものはリモコンの普及ではないかと思う。リモコンが無かった時代、チャンネルを変えようと思えばテレビ本体にまで手を伸ばし、ガチャガチャとダイヤルを回して選局するしかなかった。当然面倒くさい。少々面白くなかろうと、退屈だろうと、視聴者は面白いシーンがやって来るまでじっと待ってくれた。だが今は違う。ちょっとでも面白くなかったら即座に手元のリモコンでチャンネルを変えられてしまう。だからこそテロップだらけで子供でも分かる簡単な内容や、CM中にチャンネルを変えられないよう、クライマックスシーンを先送りするような演出がはびこる状況になったのだ。ハードの進化がソフトの劣化を招くとはなんたる皮肉だろうか。

このような現況を鑑みれば、孤軍奮闘し、細々と黎明期の気概を守り通している『笑っていいとも!』が何やら光ってみえる。なるほど『8時だよ!全員集合!』のごとき真に偉大な先達に比べれば小粒な感は否めないが、それでも芯の部分では昨今のバラエティ番組より遥かに骨太な気がする。
そういえばタモリにとって大橋巨泉は早稲田大の同窓で、芸能界でも師匠格に当たる存在だ。テレビ業界の黎明期を知る先輩の薫陶を得て、姑息な演出に流されない気概を体現するに至ったのかもしれない。
『笑っていいとも!』の後番組である『ごきげんよう』も、よく観ると他のバラエティ番組とは一線を画している。上記の姑息な演出が全くないのだ。この番組はVTR収録ではあるが、生放送かと勘違いするくらいナチュラル感に溢れている。ゲストのサイコロトークが終わってからCM入りし、CMが明けると次のゲストの新たなサイコロトークが始まる。やはりテロップもVTR使用も一切ない(出張サイコロトークなどの特別企画で、例外的に若干のテロップを用いることはあるが…)。こんな当たり前の演出が新鮮に感じられるのは、他のバラエティ番組の演出がひどい証でもあるから手放しでは喜べないのだが…。

最近は民放の姑息な演出に辟易としているせいか、相対的にNHKの番組が良くみえる。NHKにはCM自体がないから、CM跨ぎの演出などやりようがない。テロップはあるにはあるが、民放よりもずっと控え目だ。加えてスポンサーの縛りがないから意外や意外、民放よりも社会的なタブーへの挑戦は積極的。例えば知的障害者によるバラエティなんて、民放だと恐らくスポンサーからクレームが付いてなかなか出来ないだろう。
昔はそれでも企業名や商品名の紹介は一切ダメとか、公序良俗に反すると見なされた芸能人の出演はダメとか厳しい制約があったが、今では大幅に緩和されている。今となっては想像もつかないが、かつてグループサウンズ全盛期の頃、長髪の男性歌手はNHKに出演できなかったのだ。なので当時紅白に出演できたグループサウンズは七三分けのヘアースタイルだったブルーコメッツだけだったという逸話がある。
制約が緩和され、それでいながら民放の悪弊には染まらないとなれば必然的に番組の魅力は増す。シリアスな番組だけでなく、下手をするとバラエティの分野においても民放がNHKの後塵を拝しかねない。

さて『笑っていいとも!』についてであるが、コンセプトはともかく内容に新味がない以上いつ打ち切りになっても仕方ないとは思う。目玉コーナーであるテレフォンショッキングにしても、友達へ繋ぐという建前がなくなり、番組サイドが勝手に次のゲストを選ぶ変則的な形へと変貌している。その一因となったのはたぶん矢田亜希子だ。矢田は次のゲストとして大竹しのぶを指名したのだが、友達である筈の大竹に対し電話口であろうことか「初めまして」と挨拶してしまったのだ! 目玉コーナーがこんな不可解な形になってしまっては、無理に番組を続けていく意味もないように思える。ただ後継番組がどんな内容になるにせよ、生放送でかつVTRを一切使用しないという基本コンセプトだけは何としても守り抜いてほしいと切に願っている😁