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南京大虐殺

2008-11-26 20:51:51 | Weblog
笠原教授の「南京事件」の記述による    南京大虐殺の定義と範囲 「南京大虐殺事件は、日本の陸軍ならびに海軍が、南京攻略戦と南京占領時において、中国の軍民に対しておこなった、戦時国際法と国際人道法に反した不法残虐行為の総体のことをいう。 事件発生の区域は、南京城区とその近郊の6県を合わせた行政区としての南京特別市全域であり、それは南京攻略戦(中国にとっては南京防衛戦)の戦区であり、南京陥落後における日本軍の占領地域でもあった。 事件発生の期間は、日本の大本営が南京攻略戦を下令し、中シナ方面軍が南京戦区に突入した、1937年12月4日前後からはじまる。大本営が中シナ方面軍の戦闘序列を解いた38年2月14日が南京攻略作戦の終了にあたるが、南京における残虐事件はその後も続いたので、南京事件の終焉は、日本軍の残虐行為が皆無ではないまでも(近郊農村では相変わらず続いていた)、ずっと少なくなった3月28日の中華民国維新政府の成立時と考える事ができる。だたし、37年8月15日から開始された海軍機の南京空襲は、南京攻略戦の前哨戦であり、市民に対する無差別爆撃は、南京事件の序幕といえるものだった。」 「陣中日記」の続き12月22日  於南京 馬家山砲台および同火薬庫一帯南側より清沿山砲台、水道塔、文化学院、漢西陵以北の地区内の捜索を実施す。午後四時掃蕩を了し帰還す。(四中隊日誌」) 特務兵が何処にいたものかシナ兵を引っ張り出して水溜りのところで殺している。你公(にいこう)が大勢たかって見ている。(「北山日記」)12月23日 軍司令部南京に移動と共に大隊は軍直轄となり同地の警備に任ず。(「四中隊日誌」)12月27日漢中門を出て、菜っ葉、水牛の徴発に行く。出たところものすごい死人の山である。五百を超えるであろう。折り重なって殺されている。敵兵が主らしいが一般の你公の服装のもいる。大方敗残兵をしたものであろう。道路の両側も敵兵の死体でいっぱいである。(「北山日記」) {IMAGINE 9}より想像してごらん世界から戦争のなくなった平和なせかいを。 でも、どうやったらそんな世界がやってくるのかな? 一つひとつ考えてみよう。 にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
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南京大虐殺

2008-11-26 11:35:43 | Weblog
昨日書いた食糧の調達についての補足を書きます。笠原教授の「南京事件」に次のような記述があります。 南京事件の前史 近代戦においては、大部隊は前線部隊と後方の兵站部隊とに別れ、前線の戦闘部隊は後方の兵站部隊からの食糧・軍事物資の補給を受けながら前進していく。したがって、前線部隊の新たな前進は、兵站部が補給可能な位置まで移動してきてからおこなうのが常識であった。ところが中シナ方面軍の独断専行で開始された南京攻略戦ではこの作戦常識が無視された。上海派遣軍の場合、もともと上海周辺だけを想定して派遣された部隊であったから、各師団の兵站部隊は最初から弱体だった。それにもかかわらず、前線部隊は「南京一番乗り」をあおられ、補給を無視した強行軍を余儀なくされたのである。そのため、中シナ方面軍は糧秣(食糧と軍馬の飼料)のほとんどを現地で徴発するという現地調達主義をとった。これは「糧食を敵中に求む」「糧食を敵のよる」という戦法であり、通過地域の住民から食糧を奪って食べることであった。 中シナ方面軍の兵士の多くが予備役兵・後備役兵で、妻子を残しての出征であった。上海戦が終われば帰還できると思いきや、そのまま南京攻略戦に駆り立てられた不満や憤りが兵士間にくすぶっていた。それらの不満のはけ口として、軍の上官たちは性的蛮行を「兵の元気をつくるに却って必要」といった理由で黙認する風潮があった。「中国女性を征服し」「力ずくで女をものにする」という戦場の役得としての婦女陵辱行為が兵士を南京攻略に駆り立てるために黙認された(国府台陸軍病院附軍医中尉 早尾乕雄「戦場に於ける特殊現象とその対策」・・・・・・・・・・・・ このようなわけで、兵士たちは徴発せざるを得なかった。 12月16日(1937年) 本日各大隊は掃蕩に出る。多くの敵の焼死体があちこちに転がっている。真っ黒にこげた死体、また黄疸のように真黄になり皮の破れた者等々で、戦いが終わってみると可哀想である。何処のに行っても若い男は一人もいない・・・豚一頭殺して早速料理して食う。鍋の徴発にはいかにも困った。苦労した。(「牧原日記」) 12月17日 白水橋着同地付近の警備に任ず。(「四中隊日誌」) 敗残兵の掃蕩を行う。多数の捕虜広場にいるを見る。(「増田日記」) 午前八時半、謝塘を出発。を通過ごとに火をつけて南京へ向かう。今夜も2,3ヶ所に火の手があがっている。(「牧原日記」) 12月18日 白水橋西北方地区掃蕩のため大西伍長以下21名午前8時30分出発、午後0時20分帰隊す。(四中隊日誌」) ちょう発に出る。面白し。洋服を着るやら、トランクをさげるやら、種種様々の服装でもはや凱旋気分いっぱいだ。(「上羽日記」) 八時に食事を終わる。皆の者は何時とはなしに徴発に出る・・・あめ、もち米、唯米、それに醤油等、色々と徴発品があったので当番も大助かりだった。(「牧原日記」) 12月21日 太平門の入口に死体五百名ほどうちころし、無残につんであった。人間ははかないものなり。腹を突き破り、頭、顔など所きらわず切った死体、砲車などなかなか奮戦の跡を思わせる。(「上羽日記」)にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ  
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