南京大虐殺

2008-11-26 11:35:43 | Weblog
昨日書いた食糧の調達についての補足を書きます。笠原教授の「南京事件」に次のような記述があります。 南京事件の前史 近代戦においては、大部隊は前線部隊と後方の兵站部隊とに別れ、前線の戦闘部隊は後方の兵站部隊からの食糧・軍事物資の補給を受けながら前進していく。したがって、前線部隊の新たな前進は、兵站部が補給可能な位置まで移動してきてからおこなうのが常識であった。ところが中シナ方面軍の独断専行で開始された南京攻略戦ではこの作戦常識が無視された。上海派遣軍の場合、もともと上海周辺だけを想定して派遣された部隊であったから、各師団の兵站部隊は最初から弱体だった。それにもかかわらず、前線部隊は「南京一番乗り」をあおられ、補給を無視した強行軍を余儀なくされたのである。そのため、中シナ方面軍は糧秣(食糧と軍馬の飼料)のほとんどを現地で徴発するという現地調達主義をとった。これは「糧食を敵中に求む」「糧食を敵のよる」という戦法であり、通過地域の住民から食糧を奪って食べることであった。 中シナ方面軍の兵士の多くが予備役兵・後備役兵で、妻子を残しての出征であった。上海戦が終われば帰還できると思いきや、そのまま南京攻略戦に駆り立てられた不満や憤りが兵士間にくすぶっていた。それらの不満のはけ口として、軍の上官たちは性的蛮行を「兵の元気をつくるに却って必要」といった理由で黙認する風潮があった。「中国女性を征服し」「力ずくで女をものにする」という戦場の役得としての婦女陵辱行為が兵士を南京攻略に駆り立てるために黙認された(国府台陸軍病院附軍医中尉 早尾乕雄「戦場に於ける特殊現象とその対策」・・・・・・・・・・・・ このようなわけで、兵士たちは徴発せざるを得なかった。 12月16日(1937年) 本日各大隊は掃蕩に出る。多くの敵の焼死体があちこちに転がっている。真っ黒にこげた死体、また黄疸のように真黄になり皮の破れた者等々で、戦いが終わってみると可哀想である。何処の部落に行っても若い男は一人もいない・・・豚一頭殺して早速料理して食う。鍋の徴発にはいかにも困った。苦労した。(「牧原日記」) 12月17日 白水橋着同地付近の警備に任ず。(「四中隊日誌」) 敗残兵の掃蕩を行う。多数の捕虜広場にいるを見る。(「増田日記」) 午前八時半、謝塘を出発。部落を通過ごとに火をつけて南京へ向かう。今夜も2,3ヶ所に火の手があがっている。(「牧原日記」) 12月18日 白水橋西北方地区掃蕩のため大西伍長以下21名午前8時30分出発、午後0時20分帰隊す。(四中隊日誌」) ちょう発に出る。面白し。洋服を着るやら、トランクをさげるやら、種種様々の服装でもはや凱旋気分いっぱいだ。(「上羽日記」) 八時に食事を終わる。皆の者は何時とはなしに徴発に出る・・・あめ、もち米、唯米、それに醤油等、色々と徴発品があったので当番も大助かりだった。(「牧原日記」) 12月21日 太平門の入口に死体五百名ほどうちころし、無残につんであった。人間ははかないものなり。腹を突き破り、頭、顔など所きらわず切った死体、砲車などなかなか奮戦の跡を思わせる。(「上羽日記」)にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ  
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