「2083―ー欧州独立宣言」日本語版

グローバル極右界の「共産党宣言」、現代世界最大の奇書

フランクフルト学派への更なる考察(p32~)

2012-09-12 20:49:28 | 左翼思想批判
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 PC主義の及ぼす脅威を理解するためにはその歴史をより深く理解しておくべきだ。生みの親フランクフルト学派は1923年にフランクフルト大学にできた社会調査研究所が原型だ。PC主義が60~70年代の学生運動の名残ではないというこの事実は非常に重要だ。
 その開祖フェリックス・ヴェイルは後にこう語った。「私は有名になりたかった。本当ならモスクワのマルクス・エンゲルス研究所にならってマルクスの名を冠したかったのだが、より多くの人に受け入れられるようにマルクスの名を隠して中立的な名前にした。しかし、本心ではモスクワのようなドイツ・ソヴィエト共和国の一部門に育てたかった」と。そして1933年この「マルクス研究所」はニューヨークへ渡った。
 マーティン・ジェイが『弁証法的想像力 フランクフルト研究所と社会研究所の歴史 1923~50』(邦訳はみすず書房)でその頃の経緯をまとめている。同書は左翼のジェイが書いた研究所の「半公式本」だが、これを読めばPC主義と同研究所のつながりがよくわかるはずだ。
 研究所誕生のいきさつを語る第1章に、マルクスやPC主義(文化マルクス主義)へのつながりを示す決定的な記述がある。初代理事のカール・グリュンバーグはマルクス主義を国家社会主義と同等の科学と認め、研究所の根本精神とした。そして当初はブルジョワ社会の下部構造を分析していたが、1930年以降は文化的な上部構造の研究がメーンになった。
 第2章「批判理論の天才」では、PC主義の柱となった「批判的研究」の本質が語られる。その真髄は真理の探究ではなく、言葉遊び程度のものだったのだ。グリュンバーグの跡を継いだマックス・ホルクハイマーは「マルクス主義の真の目標は真理の追究ではなく、社会変革意識の培養にある」とのたまった。批判理論もそれと同じだ。
 第3章のタイトル「心理分析の統合」には、マルクスとフロイトを統合する研究所の姿勢がうかがえる。それによると、後期フロイトは資本主義に妥協したが、革命的ポスト資本社会では人はフロイト的抑圧から「解放」される。ここに性的「解放」要求と「父権的」西洋文化への攻撃というPC主義の萌芽をみてとれよう。
 第4章をみればそれは明らかだ。フランクフルト学派はナチスを逃れて渡米したのだが、その原因を調べるために「権威主義的パーソナリティ」の考察が行われた。予想通り、このパーソナリティを持つ者はナチスに親和する右の者で、心理的に不安定ということになり、左の者は正しいということになった。テオドール・アドルノの同名のベストセラーはここから生まれたのだ。
 第6章「美学理論と大衆文化の研究」では、なぜ「真面目な」アートが人を畏怖させるのかが語られる。ショーンバーグなどの音楽批評家として身を立てたアドルノは、ブルジョワ社会の抑圧の中では、「作品内部に矛盾をそのまま抱え込ませ、調和を拒む作品こそが人を引きつける真実を体現した傑作になる」と述べた。
 アドルノは映画、ラジオ、ジャズなどの新興大衆文化には否定的だった。しかし、もう一人の重要なフランクフルト学派ヴァルター・ベンジャミンはその潜在力を見抜き、こうした娯楽産業をPC主義の推進役にする基礎理論をつくりあげた。ジェイがまとめるように「文化産業を繊細かつ有効に活用すれば、前時代に行われてきた野蛮な支配作法より巧みに、男たちを奴隷化できる」ことに研究所は気づいたのだ。
 フランクフルト研究所は第二次大戦後ドイツへ戻ったので、記述はここで終わる。1960年代の動きへの連関性は不明確だが、ここにPC主義の典型的な主張の原形をみてとることができるだろう。
 ここから先はアドルノの1969年の死までを扱ったロルフ・ヴィガースハウスの本に基づいて話を進める。ヴィガースハウスはジェイよりも左翼でドイツに戻った「保守派」に批判的なのだが、それでもPC主義の罠にはまった西洋人の姿を映し出している。
 1970年、ギュンター・ロールモーザーは『批判理論の貧困』の中で、マルクーゼやアドルノ、ホルクハイマーらを文化革命を起こして西洋キリスト教の価値観を破壊する「知識テロリストの親玉」と位置付けた。エルンスト・トーピッチュは1972年、「合理的討論」や「支配なき対話」のスローガンの下で、ナチスもしなかったような史上空前の暴力が振るわれたと述べた。

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