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聖堂騎士団という組織がある。
香港は清の
当然、
だが
型どおりにミサを行い、日曜学校を開き――しかし、ほかの教会では絶対に見られない光景が、この教会では日常的に存在していた。
武装した聖職者の存在である。
異端審問官兼悪魔祓い師という役職を持つ彼らは、時折やってきてはいなくなる――幼いころの彼女には知る由も無かったが、彼らは聖堂騎士団と呼ばれる、ヴァチカンが非公式に擁する対化物戦闘集団だった。
その構成員は聖堂騎士、あるいはパラディンと呼ばれ、その技術や武装は各個で異なる。
聖堂騎士たちは吸血鬼の様な強大な化け物を相手に戦うために特化した訓練を受けており、特に聖堂騎士団第一位、
彼らを育てたのが、目の前にいるこの男だった――かつて真祖カーミラを殺し、行く先々で吸血鬼を狩って回る、史上最強の魔殺し。
その吸血鬼が、彼女の眼の前で盛大にくしゃみをした――風邪かなあ、とありえないことをつぶやきながら、びっくりして膝の上から転がり落ちたマークツーを抱き上げる。
彼は司祭控室の床の上に、足を投げ出して腰を下ろしていた――椅子があるのにそれを使わないのは、膝の上のマークツーがもしも椅子の高さから床に落ちたら大怪我になりかねないからだろう。
彼は司祭控室の入り口から見ているこちらに気づくと、受話器のスピーカー側をちょっと傾ける様にして耳から話し、
「どうした?」
「いえ、食事の用意が出来ましたから、お呼びしようと思ったんですけど」
その言葉に、アルカードは左手の腕時計を見下ろした。アナログの文字盤の中に液晶ディスプレイとアナログの文字盤がみっつついた、デジタルアナログ併用式ののクロノグラフだ。金髪の吸血鬼が時間を確認して、ああ、そうかと声をあげる。
「道理で腹が減ってると思った。ただ、まだ電話がつながらないんだ。終わったらすぐに行くよ。先に食べててくれ」
「え? でも――」
「レイルか? 俺だ」
レイル――おそらく聖堂騎士団長レイル・エルウッドと直接話をしているのだろう。
聖堂騎士団は教皇にさえ秘匿された部分の多い組織で、細かい報告が教皇に行われることはあまり多くない――もしも彼のことが聖堂騎士団から教皇庁に漏れれば、聖堂騎士団の根幹を揺るがしかねない大問題になるだろう。
なぜなら、彼は――吸血鬼を含めたあらゆる魔物たちから人間を守るために人間によって作られた対魔組織である聖堂騎士団の最古の外部協力者であり、また実質的な最強戦力であるこの男は、人間ではないのだから。
吸血鬼アルカード。
十五世紀にワラキア公国、現在のルーマニア南部で発生した強大なる真祖ヴラド三世――すなわちワラキア公ヴラド・ドラキュラ公爵に直接吸血を受けて吸血鬼化した、欧州最強の呼び声も高い同族殺しの吸血鬼。
彼が聖堂騎士団の協力者となったのは、一九二九年にインドのカルカッタでのちの聖堂騎士団長である当時の聖堂騎士団第一位、セイル・エルウッドと矛を交えたときだとされている。
それ以来、彼はセイル・エルウッドの息子である現在の聖堂騎士団長レイル・エルウッドや彼の同期のブレンダン・バーンズ、さらにレイル・エルウッドの息子で現在の第一位であるライル・エルウッド、斗龍の父親である
彼らだけでなく、アルカードによって鍛えられた弟子たちは過去八十年間の間に数十人に上り、その全員が十位以内の位階を受けていた。そして彼の弟子たちはそのいずれもが、上級幹部や教師、高位の聖堂騎士としての地位を確固たるものにしている。
だが彼が数日教会に滞在している間彼を見ていた
実際のところこの吸血鬼は、教会に平気で入ってくるし風呂にも入る。
さすがにお祈りはしない様だが、それだってただ単に信心が無いだけで、別に聖書を忌み嫌っているわけではないのだろう。
先日電話がつながるまでの間、手持無沙汰を紛らわすために聖書を斜め読みしているところを目撃したことのある
夏場には日本で世話になっている老夫婦の孫を連れて、海水浴に行くこともあると話していた。大蒜入りの餃子も平気で食べていたし、鏡にだって姿が映っている。
「ああ、そうだ。『クトゥルク』に逃げられた――あの女が復活したのは昨日の晩だ。ああ、ああ。おまえの言いたいことはわかってる。今までより三日以上早い――そうだな。否、どうかな。俺が奴なら、しばらくは市街地で息を潜めるがね。魔力が減退したままなら、俺たちに気取られる可能性は低い。俺だったらその状態で香港を離れるよ――ああ、そのつもりだ。ぎりぎりまで香港を探してみるが、難しいかもしれん。ああ、わかってる。そうだな。時間はまだある――まだ六時半だからな。これから
それで話が終わったのか彼は受話器を机の上の電話機に戻すと、膝の上に転がっていたマークツーを床の上に降ろしてから立ち上がった。
「
結局立ち去らずに話が終わるのを待っていた
「食堂でアルカードさんを待ってますけど」
美玲の答えに、アルカードが額を打った。
「わかった――それはすまないな。じゃあ行こうか」 そう言って、アルカード・ドラゴスは歩き出した。
†
少し前を歩く美玲の肩のあたりで切り揃えた黒髪が、足を踏み出すたびに揺れている――それをなんとはなしに眺めながら、アルカードは彼女について廊下を歩いていった。
どのみち彼のほうが歩幅が広いので、すぐに追いついてしまう。肩が並んだところで、アルカードは彼女が足を早めなくてもいい様に若干歩調を落とした。
彼の記憶が正しければ、あと数ヶ月で十六歳になるはずだ――屋内にいることが多いからだろう、冬だということを差し引いても肌は透ける様に白い。
彼が横に並んだのを察して、
「アルカードさんは、またこのあとお出掛けですか?」
「すぐにじゃないがな――『クトゥルク』は普通の吸血鬼と違って、昼間でも問題無く動けるんだ。奴が現代文化にどれくらい通じているかはわからないが、もしも俺だったら空港から飛行機で脱出するか、もしくは船で高飛びするだろうな」
言いながら、アルカードは足元にじゃれついてきている仔犬を抱き上げた――懐いてくれるのはいいのだが、歩きにくくて仕方無い。
考え事をしながらぼんやり歩いていたために
「ん、ああ、なに?」
「アルカードさん、行きすぎです」
振り返ると、一階に続く階段の前でこちらの袖を掴み、
「ああ、すまない」
「考え事をなさるのはいいですけど、没頭しすぎです――わたしが声をかけても気づきもしないし」
「そうなのか?」 全然気づいていなかったアルカードは、その言葉にちょっとだけ眉を上げた――不満そうな
「ごめんごめん」
その言葉に、
「たいしたことじゃない。あれを始末したあとの、土産物の算段を考えてただけさ――チャイナドレスのネズミとか、そういうのが無いかと思ってね」
その言葉に、
どことなく温度の下がった
「困ったことにな、俺は香港のランドの中なんか詳しくない。千葉の東京鼠ランドに何度か行っただけだからな」
「アルカードさんが、ランドなんかになにをしに行ったんですか?」
吸血鬼が遊園地にいるという構図に馴染みが無いからだろう、少女は不思議そうな顔をしてみせた――少女の頭の中では、今頃ネズミーランドのお城の建物を舞台に縦横無尽に飛び回りながら戦う自分とほかの吸血鬼、たとえばドラキュラあたりでも思い描かれているのに違い無い。
その様子に、アルカードは苦笑した――たぶんそうだろうとは思っていたが、彼女は子供のころに会ったときのことをすっかり忘れているらしい。まあさもあろう、なにせ彼女が八歳のときの話だ。アルカードが何度か東京のランドに行ったそのうちの一回は、
アルカードは少しだけ意地悪く笑いながら、階段に足を向けかけたところで唐突に足を止めた。
「まあそうだろうな、覚えてるはずもないかな――おい、
振り返って、不意討ちで少女の頬に掌を添える。肩のあたりで切りそろえられた黒髪の毛先が指に触れた。その感触や少女の体温を心地よく感じながら、アルカードは少しだけ顔を近づけて、
「覚えてないだろう。だが俺はしっかり覚えてるぞ、
揶揄する様な口調の吸血鬼の言葉に、
「ななななな――」
思いきりどもっている少女に背中を向けて肩を揺らしながら、
「いや、あのときは苦労したぜ。
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