【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

現代の探検家《植村直己》 =050=

2017-11-11 06:33:44 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己

= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =

 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠ 

◇◆  公子さんのこと・・・・・ =1/4=  ◇◆

1974(昭和49)年5月、植村直己は野崎公子と結婚した。植村はこのとき33歳、公子さんは少し年上の姉さん女房である。植村はどこかの組織に所属して公的な役割を担ったりしたことはなかった。だから公私二つの顔をもつ必要もなかったのだけれど、冒険家として名前を知られるようになると、彼のふるまいのなかで多少は公私の区別というのが意識されはした。その区分でいえば、結婚と家庭は私的な部分である。

 私は植村の生きた軌跡を追いかけてみようとしてはいるが、もったいぶった評伝を書こうとしているのではない。だからそれを理由に「私的な部分」にどさどさと踏み込んでいくつもりもないし、また必要もない、と考えている。

 しかし、いっぽうで思うのは、植村直己という、全人格が冒険家で成り立っているような男にとって、この結婚はじつに大きな意味をもっていた、ということだ。植村について何事かを語ろうとするとき、公子さんとの生活を無視するわけにはいかない。

 お断りしておきたいのは、公子さんとは植村亡き後もずっとつきあいが続いて、今に至っている。だから率直にいって書きにくい。書きにくいけれど、自分が植村夫妻のことをどう見たかについて、できる範囲で記しておかなければならないと考えている。結婚する相手が見つかった、という照れくさそうな、また嬉しそうな植村の話を聞いてまもなく、つまりは電光石火という早業で彼は結婚した。

 相手は植村の住んでいた下宿の近く、板橋区仲宿にある江戸時代から続く豆腐屋の娘で、野崎公子さん、といった。ここで私の個人的な思いを書いてもしかたがないが、少しずつ公子さんと話をするようになってもつようになった印象は、じつによくものが見える、賢いひとだなあ、ということだった。その賢さをキラキラと表に出しているのではなく、あったかい雰囲気のなかにくるみこんでいる。そしてこの印象は植村がいなくなって28年経た今でもゆらぐことなく、変わらない。

 同じ仲宿の商店街で、公子さんの友人である加藤八重子さんが営むトンカツ屋で顔を会わせたのが、2人の出会いだった。

 前年の73年7月、ほぼ1年間のグリーンランド滞在から帰国した。このグリーンランド滞在は、南極横断のために犬橇の操縦を身につけるためのものだったが、帰国早々に植村は別の企画、北極圏一万二千キロの犬橇旅行の構想を語りはじめていた。息せき切って、来月からでも出かけたいという彼に、もう少し時間をかけて準備する必要があるのではないか、といった覚えがある。彼は74年11月にふたたびグリーンランドに渡るまで、約1年間の時間的余裕をもった。そのときに、公子さんとの出会いと、結婚があった。

 ただ、私は当時、公子さんとの結婚のいきさつについて、ほとんど結果を知ったのみだった。詳しく知るようになったのは、むしろ植村が居なくなってから、というより、2005年2月にこころみた公子さんへのインタビューで、ようやく全体の流れを知ったのである(インタビュー「しんしんと積ってくるもの」は、雑誌「コヨーテ」の同年7月号に掲載)。

 この公子さんへのインタビューは、「私的な」植村を知るための、貴重な記録である。それはこの文章が依拠することになるものの一つである。

 会ったのは73年の7月というから、植村が帰国して間もなくである。以下、特に注記がないかぎり、公子さんの話である。《夏の夕暮れだったんですね。えーと、一九七三年の七月です。トンカツ屋さんが始まった時刻に、「公ちゃん、この人さ、このあいだグリーンランドから帰ってきたんだってよ」と紹介してくれた。へえ、と思って見たら、お風呂帰りだったんです。お風呂帰りの艶やかな顔にしては汚かったんですよ。なんだかちびたものを身につけていて。へえ、とか思ってそれだけでした。》

この通りだったのだろうけれど、この話の向うに、一目惚れしてドギマギしている植村がいる、と思うと微笑ましくなる。8月に1回、9月に1回というふうにトンカツ屋で会って、植村がエベレスト登頂者であることなど、彼が何者なのかをしだいに公子さんが知るようになった。11月には、加藤さんも一緒に三ツ峠にハイキングに行ったりして、少しずつ親しくなった。というより、植村が加藤さんに「公ちゃん呼んでください」と頼むことがしょっちゅうになった。

=補講・資料=

メスナーだけじゃない!すごい海外の登山家まとめ= スティーブン・ベナブルズ

80~90年代を代表するイギリスの登山家。 エベレストなどの超高所以外にも世界各地の未踏峰・未踏壁で数々の輝かしい成果を上げた。

= 人はとかく成果のみで判断される。特にクライマーとかいう性格悪そうな連中の中には、登ったグレードで人を評価する馬鹿者もいるようだが。 スティーブン・ベナブルズという一線級の登山家が、家族との関わりを中心に据えた人生の記録を克明に本(『Ollie)にまとめ上げたということに、まず驚かされる。
 日本には、ロクスノなどのメディアを通じて、細々と海外諸国の登山家達の動向が伝えられるわけだが、家庭での顔までは知る由もない。 登山家である前に、人間であり、家庭がある。 そんな当たり前のことを、あらためて同書をもって知る。
 
 小さい子供を抱えながらも登山活動を続け海外各国を飛び回るベナブルズの姿に、やはり登山で飯を喰っているプロなのだなと思わされる一方、自閉症・白血病との闘病のために様々な医療関係者と関わり、揺れ動く心の描写はやはり人の親なのだと考えさせられる。

 同じイギリスのアリソン・ハーグリーブス女史の遭難死が、スティーブン・ベナブルズ氏にも大きな衝撃を与えた様子が正直に述べられている。 共に山に登ったこともある二人、ハーグリーブス遭難後、ベナブルズはハーグリーブスの旦那と子供をK2の見える場所まで連れて行くのだが、ハーグリーブスの幼い娘がK2を指さして「Is that Mummy?」と尋ねた時には、相当こたえたらしい。

 ベナブルズ自身が先年にヒマラヤ・パンチチュリ5峰で下降中に重傷を負いながらも生還できたこと、息子のOllieのことを思い、運命というものを考えさせられたと書いている。 山で妻を亡くした家族を前に、息子が闘病生活を送り自分は奇跡の生還を果たしたベナブルズの想いは複雑の一言では表現できないものがあっただろう。=

スティーブン・ベナブルズ(stephen venables)の主たる登攀記録: エベレスト東壁新ルート初登頂(イギリス人初無酸素登頂) / パンチ・チュリV峰 初登頂 / シヴリン峰 初登頂 / ソル・タワー 初登頂 / プンバ・リ峰 第二登(新ルート初登頂) / クスム・カングル南西稜 初登頂

=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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