【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

550年後、目覚めた英国王=47=

2016-03-02 18:45:05 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ◎○

 ◇◆ ヘンリー7世を悩ませた僭称者たち ◆◇ 

 ボズワースの戦いでリチャード3世を撃ち破ったものの、ヘンリー7世にとっての最大の弱みは、王権の正統性の根拠が、薄弱であいまいなことだった。 前節でふれたが、彼はリチャード3世を簒奪者と決めつけたが、彼以上にヘンリー7世自身が簒奪者だったのである。 ヘンリーは、ボズワースの戦いで勝利したとき、クラウン・ヒルで即位を宣言したが、その後、即位日は戦いの前日だったと主張したという。 「簒奪者リチャード3世をランカスター家の正統な王が討った」としたかったためである。 ヨーク家のエリザベス(前節イラスト参照)との結婚といい、即位日の繰り上げといい、下種な考え方である。

 ヘンリー7世の正統性が疑わしいことは、その後、僭称者が相次いだことからもわかる。 前節にて記述した
ランバート・シムネル(前節イラスト参照)という身分の低い生まれの人物が1487年にあらわれた。 彼は年若い少年であり、クラレンス公ジョージの長男ウォーリック伯エドワードであると騙り、エドワード6世を名乗った。

 彼は、エドワード4世の妹でフランスのブルゴーニュ公未亡人のマーガレット(前節イラスト参照)の確認をうけ、イングランド中部のストーク・オン・トレントで決起した。 しかし、かれはヘンリー7世の軍に敗れ、捕らえられてしまった。 ところがかれは、処刑されることもなかった。 お粗末なことに、本物のウォーリック伯エドワードはロンドン塔に幽閉されていて、ヘンリー7世にとっては脅威でもなんでもなかったからである。=したがって、この少年は処刑されるこのなく、使用人として王宮の管理下に置かれるている。

 次に、パーキン・ウォーベックという人物が現われた。かれは、ベルギー生まれのアイルランド育ちで、ヨーク派の人間に仕えていた小姓だったが、クラレンス公の息子であるとか、リチャード3世の息子であるとか噂されていた。そこに目をつけたヨーク派によって、彼はエドワード4世の次男ヨーク公リチャードに仕立て上げられた。

 1490年にはパーキン・ウォーベックがエドワード4世の次男ヨーク公リチャードを名乗って国王リチャード4世を自称し、再びブルゴーニュ公妃マーガレットの支持を得てイングランドへ侵攻した。 ウォーベックは、1493年にウィーンでリチャード4世を宣言し、1495年にイングランドに侵攻してきた。 しかしヘンリー軍に敗れ、彼はスコットランドへと敗走していった。

 このとき、ボズワースの戦いの功労者で侍従長となっていたサー・ウィリアム・スタンリーが、この陰謀にかかわっていたとして逮捕され、処刑されているが、 ウォーベックは、スコットランドのジェイムズ4世の支援を受けて翌年にもう一度、反乱を起こす。 この反乱は、当時の著名な指導者達であるフランス王シャルル8世スコットランドジェームズ4世神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世などを巻き込んで国際的な問題となったが 再び敗れて捕えられた。 幽閉していたウォリック伯エドワードとパーキン・ウォーベックは1499年に脱走を図って失敗し処刑された。 エドワードの姉マーガレット・ポールは助命されたが、後にヘンリー8世(前節イラスト参照)によって処刑されることになる。

 自分自身のあいまいな正統性が招いたとはいえ、相次ぐ僭称者の出現に、ヘンリー7世は気の休まるときがなかったのである。 30年以上も続いたこの内戦によってイングランドの国土は荒廃したとされるが、これは新たに成立したテューダー朝によって誇張されたプロパガンダに過ぎない。 当時のイングランドを総括すれば、ヨーク家とランカスター家の権力争いであるこの内乱=薔薇戦争=は他国の戦争や内乱と異なり、抗争を行う貴族たちは臣民の支持を得るために彼らを戦いに巻き込むことを避けており、同時代のフランスの歴史家フィリップ・ド・コミュンヌはイングランドでは田園も建物も破壊されなかったと述べている。

 戦闘行動自体も合計で428日間に過ぎなかった。 戦闘はごく短期間のものが時間を置いて断続的に続いたのであり、攻城戦やそれに伴う略奪は少なく、1460年の北部兵を率いたマーガレット王妃の反攻時の例外的な略奪も、現存する当時の記録からはわずかな影響しか認められない。 この内戦の30年間、民衆の生活はほとんど脅かされておらず、ヘンリー7世は良好な状態の国土を継承できたと言える。

 また、薔薇戦争の結果、貴族がほとんど絶滅したかのように説明されることがあるが、実際の減少は25%程度であり、少ない数字ではないが「絶滅」という表現には当たらない。 家門断絶の理由も、嫡出男子を欠いたことが戦死や処刑と同程度に存在した。 一方で、この時代以前の大貴族(公爵家と伯爵家)がほとんど姿を消したのも事実である。 ヘンリー7世は貴族数を抑制し、1485年の即位時の50家が、1509年に死去した際には35家になっていた。 断絶した貴族の所領は王領地化され、王室財政の強化に資され、ヘンリー8世が礎を築く大英帝国に繋がって行く。

 他方、ヘンリー7世は貴族の私兵である扈従団の抑制を図り、最初の議会で貴族たちに扈従団を保有しないことを誓約させ、1504年には「揃い服禁止法」を出している。 大貴族パーシー家をはじめとする在地貴族が根を張り、王権の支配の弱かった北部については、1489年にノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーが横死すると、これを好機にサリー伯トマス・ハワードを送り込み秩序回復に成功した。 地方統治においては、国王にとって危険な貴族に頼らず、ジェントリ(郷紳)に依存しようとするランカスター朝、ヨーク朝からの政策が踏襲されたが、その達成には長い時間を要することになる。

 即ち、ジェントリは無給の治安判事として地方行政の中心的役割を担わせ、有能な者は中央の国王評議会にも起用し、身分の枠にとらわれない実用主義の人材登用がテューダー朝の国政として形成されて行った。 しかし、ヘンリー7世以降、テューダー朝は王権の強化を通した絶対王政の基礎を固めて行くが、イングランド王は古来からの慣習法(コモン・ロー)や議会による制約が強く、同時代のフランスやスペインの様な強力な中央集権の完成には至らなかった。

 

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森のなかえ

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