【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

“難民の父”/ フラム号で北極点へ=06=

2017-12-17 06:04:34 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ 19世紀末 探検家ナンセンは大胆な企てに乗り出した =フラム号の軌跡= ◎○

= Webナショジオ_“北極探検 この物語”に転載・補講 & 世界のスーパーアルピニスト =

流氷の流れを利用して北極点への到達する冒険を開始_氷の世界の1,000日_

◇◆氷雪に向かった船出、そして・・・・◆◇

 船が完成すると、オスロ港には大勢の支持者が集まり、ナンセンの妻エヴァが船をフラム号と命名した。 そして1893年の夏、ナンセンは13人の隊員と5年分の食料とともにオスロを出発し、バレンツ海に面したバルデを経由してノボシビルスク諸島を目指した。 ナンセンは旅を始める前に、当初の計画を修正することにした。 ジャネット号の辿ったベーリング海峡からノボシビルスク諸島に行く代わりに、近道をしてノルデンショルド北東航路、すなわちシベリアの北海岸沿いを進むこととした。

  フラム号は1893年6月24日にクリスチャニア(オスロの旧名)を出港し、砦からの祝砲でその道を示され、数千人の観衆の喝采に送られた。 これは一連の見送りの中で最初のものだった。 フラム号は海岸を回って北に向かい、7月1日にベルゲンに到着し(ナンセンの栄誉を称えて大きな晩餐会があった)、7月5日にトロンハイム、1週間後には北極圏の円内のトロムソに入った。 最後に訪れたノルウェーの港はヴァードーであり、7月18日に到着した。 最後の物資補給を行い、ナンセン、スベアドラップ、ハンセン、ブレッシングは最後の陸での時間を、二人の若い女性がカバノキの枝で焚くサウナ風呂で過ごした。

  旅の第一段階はバレンツ海を東にノヴァヤゼムリャに進み、北ロシアのハバロフの町で最初の犬の組を積み込んだ。 8月3日、フラム号は錨を揚げて慎重に東に移動し、翌日にはカラ海に入った。 それまでカラ海を航行した船はほとんど無く、海図は不完全だった。 8月18日、エニセイ川デルタ近くで、海図に無い島が発見され、フラム号船長にちなんでスベアドラップ島と名付けた。 このときフラム号はユーラシア大陸の最北端であるタイミル半島とチェリュスキン岬を目指した。

  厚い氷が進行を遅らせ、8月末には、船のボイラーを修理し清掃していた4日間は止まっていた。 乗組員は死水現象も経験していた。 これは重い塩水層の上に清水層が乗ることで生じるエネルギーの消散により、船が前に進まなくなる現象だった。 9月9日、広い範囲で氷の無い海が現れ、翌日にはフラム号がチェリュスキン岬を回り込んだ。 その向こうにあるラプテフ海に入ったのは、1878年のノルデンショルドが乗ったヴェガ号以来2隻目となった。

  2番目の犬の組が待っているオレニョーク川河口には氷のために接近を妨げられた後、北と東に動いてノボシビルスク諸島に向かった。 ナンセンの期待通り、9月になるとフラム号はさっそく海氷に閉じ込められた。 氷は猛烈な力で絶え間なく船体にぶつかり、引っかいて、恐ろしい音を立てる。 「耳をつんざくような音がし始め、船全体が振動した」と、ナンセンは書いている。 だがフラム号は押し寄せる海氷の圧力をなんなく耐え抜き、氷の上に無傷のまま乗り上げることに成功した。

  ナンセンの希望では北緯80度まで開けた海があり、その後に叢氷に入るということだったが、9月20日、北緯78度より南で氷を見つけた。 フラム号は氷の端部を進んだ後、北緯78度を超えた所にある小さな湾で停船した。 9月28日、氷が割れそうにないことが明らかとなり、犬達は船から氷の上の犬小屋に移された。 10月5日、舵を上方の安全な位置まで上げ、スコット・ハンセンの言葉では、船は「うまくまた真に冬のために繋留された」ことになった。 その位置は北緯78度49分、東経132度53分だった。

 こうしてフラム号は流氷に乗り、1日に数キロという実にゆっくりとしたペースで北極点に向けて進んだ。 オスロを出発してから1年半ほどは、ホッキョクグマに襲われて隊員が負傷し、犬が2頭殺されるなどの事件はあったものの、航海は不思議なほど平穏だった。 隊員たちは新聞を定期的に発行し、運動不足を解消するためにスキーで遠足に出かけたりした。 そして、水深を計測し、測量を繰り返した。

  しかし、船上での暮らしが退屈なことに変わりはなかった。 ある隊員は「地の果てで送る修道士のような暮らし」と悪態をついたが、隊員たちは物質的な不自由を感じていなかったようだ。「私自身は、これほど悠々自適な生活を送ったことがない」と、ナンセンは書き残している。 しかし、1895年の初めには、このままでは北極点に到達できそうもないことが明らかになっていた。

  10月9日、フラム号は初めて氷の圧力を受けた。 船が持ち上がってから下に落ち、氷が船殻を掴めなかったので、直ぐにアーチャーの設計が想定通りに機能したことが証明された。 それでなくても氷の中の第1週は失望するものだった。 予想外の漂流でフラム号を旋回させ、ある時は北に、ある時は南に向かせた。 6週間が経った11月19日までに、フラム号は氷の中に入った緯度より南に来ていた。

  10月25日、極夜となり、風力発電機で起こした電力で電燈を灯した。 乗組員は退屈さと不活動が大敵である快適な日常に落ち着くことになった。 隊員同士がイライラを募らせ、時には喧嘩も起きた。 新聞の発行も間もなく立ち消えになった。小さな任務が遂行され科学的観測が継続されたが、緊急性は無かった。ナンセンはその日記で憤懣を表現していた。

「私はこの生気のなさ、この無気力を破らなければならないと思い、私のエネルギーのはけ口を見つけねばならないと思う」と記し、後には「何か起こるだろうか? ハリケーンが来てこの氷を破るということはないだろうか?」とも書いていた。年が改まった1894年1月になって北向きの漂流に変わった。 3月22日には北緯80度をやっと通過できた。

  ナンセンは漂流の不確かな方向性と緩りとした速度に基づいて、船が北極点に達するまでに5年間掛かるかもしれないと計算した。 1894年1月、ヘンリクセンとヨハンセンと共にフラム号から北極点まで犬橇の旅を行う可能性について初めて検討したが、直ぐには計画を作らなかった。

  ナンセンが最初に犬の制御を習おうとした試みは全くの失敗だったが、辛抱強くやっているうちに次第に形になってきた。 また通常のクロスカントリースキーの速度が、荷を積んだ橇を犬が曳く速度と同じであることを発見した。 人は橇には乗らずに自分の力とスキーで動けば、それだけ多くの物資を橇に積むことが出来るはずだった。 伝記作者かつ歴史家のローランド・ハントフォードに拠れば、このことは極地での移動方法として革命的なことだった。

動画資料 : クリック➡

https://youtu.be/lSIFtforNk8

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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