○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○
◇◆ 生まれながらの悲劇 ◆◇
メアリー・ステュアート 、このあまりにも有名な女王は、輝かしい血統の持ち主、英国史のサラブレッドだった。
父のジェームス5世はスコットランドの正嫡の王、母メアリーは2人目の王妃とはいいながら、フランスの大名門ギーズ家の出身だった。 さらに父方の祖母マーガレットは英国王女だった。 家柄の面からいえば、メアリーこそ英国とスコットランドの両国の女王にふさわしかった。 しかし、メアリーの人生は、大伯父である英国王の裏切りと父の死という悲劇から始まった。
1542年11月、前々からスコットランドを狙っていたヘンリー8世は、あらかじめ敵国内に賄賂をばらまいた後、おもむろに国境線を侵犯した。 その上、迎え撃ったスコットランド王ジェームス5世は、味方の裏切りによって大敗した。 激しい失望に喘ぐ王のもとに、さらに失望ともいえる知らせがもたらされた。 臨月を迎えていた王妃メアリー(誰もが王子誕生を願ってやまなかった)が、リンリスゴウ宮殿で無事王女を産んだというのである。 もはや生きる気力を無くしていた王は、数日後、29歳の若さで息を引き取った。 1542年12月14日、メアリーは生後6日で父を失ったのである。
メアリー・スチュワートが生まれた場所はスコットランドのリンリスゴー城でジェームズ5世の第3子として生まれた。 1542年12月14日に父・ジェームズ5世が30歳で急死すると、長男と次男が早世していたため、わずか生後6日でメアリーは王位を継承した。 摂政には、ジェームズ2世の曾孫の第2代アラン伯ジェームズ・ハミルトンが就任した。 メアリーは母メアリー皇太后に抱かれて、生後六日目でエジンバラ郊外のスタリング城で、ひっそりと戴冠式をあげる。 その直後、幼い女王を奪ってわが子・エドワードの嫁にしようと企むヘンリー8世が、再び侵略して来た。
今回は防ぐ者もなく、首都エジンバラはイングランド兵の手で破壊され尽くした。 追いつめられたメアリー皇太后は、娘・メアリー王女を人目に付かない辺鄙な修道院に隠した。 その間、イングランド国王ヘンリー8世の要求により、メアリー王女は当時王太子だったエドワード6世と婚約させられた。 更に、身を隠す母子の隠遁生活が五年を過ぎた1547年、イングランドの政権を握ったサマセット公エドワード・シーモアが再びスコットランドに攻撃を仕掛け、迎撃に出たアラン伯が敗れる事態になった。
スコットランド領内はイングランドの侵攻で混乱に陥る。 その翌年の1548年、皇太后メアリーの提案でメアリーはフランスのアンリ2世の元に逃れ、以後フランス宮廷で育てられることに成る。 王母メアリーが5歳まで育てた後、密かにフランスへ幼女のメアリー王女を落ち延びさせたのである。 引き裂かれるようにスコットランドの海岸を離れる船に向かって皇太后は涙した。 甲板では幼いメアリーが母を呼んで泣き叫んでいた。
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