【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

シリーズ・登山家の横顔_001ー④

2013-10-09 16:17:02 | 冒険記譜・挑戦者達

=アナトリ・ブクレーエフ(ロシア)=

= K2 1993 年=

ブクレーエフとピーター・メッツガーそして、アンディ・ロッキィーたちは、「非情の山」・K2の山頂から降下を始めた。 世界第二位の高峰を足下にした喜びに浸る時間は無い。 1993 年7月30日の日没が迫っていた。 下降の先頭をブクレーエフが切る。 三名の行動は緩慢、四方を覗う余裕は無く ただ足元に神経を集中する下降であった。 登り来た足跡を忠実に追い始めた。  

ブクレーエフはチームメンバーであるラインマー・ジョスィグが頂上近くの急斜面を登って来るのを視界の中に納めた。 声を掛ける気力は無い。 そして、8000m峰を陥落せしめた勝利の喜び 8611mのK2山頂にて感じた地獄の労働から解放された満足感=それは 本当に短い時間であったが=は彼を確認した瞬間に一瞬にして吹き飛び、ブクレーエフは「精神的な そして 肉体的疲労に一気襲われていた。」と記している。 そして、「危険な立場にいる自分自身を発見しました。」とも記す。  

彼はあまりにも多くエネルギーを費やしてきた。 希薄な空気・危険極まりない岩稜ルートへのフィックス・ロープ(安全確保用固定ロープ)の設営配置、前夜の狭くて足すら延ばせなかったビバーク(仮営宿泊)での体力消耗が・・・・互いに眠られぬまま、頂上攻撃を断念すべきか繰り返し協議してきた。  

しかし、今朝 太陽が温めてくれる仮眠から目覚めた彼らは安全な下部テント・サイトへの下降話題に上がらず、無視黙認の形でビバーク・サイトを離れた。 太陽は天空高く、正午近くに登攀チームは頂上へのアタックを開始していた。 

ブクレーエフは記述している。 「私がスキー競技者としてトレーニングし、登山家に成ろうとしていた頃、体力が尽きる前に自己のエネルギーをうち絞出す方法も学習しました。これは登山で、巨大な山の攻略で頂上への危険な完登を競争のようにエネルギーを使い切るのではなく、生き残るために 余裕の在る内に禁止ゾーンから降りる必要があること」。  

ブクレーエフがK2 山頂で直面している危険は、昨夜から今朝に掛けて話し合った状況とは全く異なっている事だった。 彼は日記に「自己を含め全員が“絞りレモンの残骸”のように感じたし、降下のための残したものを持っていなかった」と書いている。  

数多くの危険を回避した重い直観と登山経験を頼って、ブクレーエフは急激な石と氷の岩稜をゆっくりゆっくりと下降して行った。 しかし、アイゼン(滑り止め用スパイク)は利かず、アイス・アックス(氷壁用斧)は奈落の底に落下してしまった。 彼は全神経を足元に傾注、また フィックス・ロープを頼りに、緊張の連続を強いられて最終高所キャンプのテントに辿り着けた。  

しかし、ドイツのチームメート ピーター ・ メッツガー氏とラインマー・ジョスィグ氏はテントに現れなかった。 下降中に彼等は滑落したのか、その姿はルート上には見いだせなかったのです。 アンディ・ロッキィーはなんとか独力で安全な最終高所キャンプまで下降し終えている。 

= Everest 1996年 = 

ブクレーエフは1996年のエベレスト遠征で先鋭的登山ガイドとして広く知られるようになる。  1996 年 5 月スコット・フィッシャーが率いる“熱狂的山岳遠征隊・the Mountain Madness expedition”の登攀指導チーフとして参加した。マッキンリー (デナリ)登行が縁である。 遠征隊は同年5 月10 日にエベレストを登頂しようとしてた内の 1 つだった。 

当日、エベレスト山頂を目指す遠征隊は数隊。 頂上攻撃のノーマル・ルートは混雑していた。 危険な箇所は先行隊の通過を見守る時間待ちの状況であった。

当日の5 月10日 “熱狂的山岳遠征隊”メンバーが頂上攻略に成功したすぐ後に、悲惨なブリザードが山頂を急襲した。 翌日5 月 11 日、山頂に佇んでいた各地からのエベレスト遠征隊の3隊から8名の登山者がピークに近い山稜で一晩にて遭難死したのです。

ブクレーエフは8000 メートル以上での天災・予期せぬ凶暴なブリザードで孤立した遠征隊の3隊及び“熱狂的山岳遠征隊”メンバーの救援に向かう。  

三名を8000 m以上の高所から救出、六名の“熱狂的山岳遠征隊”に参加した登山家を無事安全地帯に誘導したのです。 また 身動きできずに孤立していた登山者達は彼の助言・救援活動で二十数名が無事下山を果たしたのです。 

このニュースにガレノス ラウエルはブクレーエフの救助努力としてウォールストリート ・ ジャーナルに投稿・記述している:「登山の歴史の中で最も驚くべき救助の 1 つ、単独で実行、エベレストの山頂近くで酸素なし... 」 

 ※;Scott E. Fischer (December 24, 1955 – May 11, 1996) was an American climber and guide, and the first American to summit 27,940-foot (8,516 m) Lhotse, fourth highest mountain in the world. 

 ※;Galen Avery Rowell (August 23, 1940 – August 11, 2002) was a wilderness photographer and climber. Born in Oakland, California, he became a full-time photographer in 1972. 

※;Jon Krakauer (born April 12, 1954) is an American writer and mountaineer, primarily known for his writing about the outdoors and mountain-climbing. He is the author of best-selling non-fiction books―Into the Wild, Into Thin Air, Under the Banner of Heaven, and Where Men Win Glory: The Odyssey of Pat Tillman―as well as numerous magazine articles. 

しかしながら、アメリカの著名な作家・登山家のジョン・カラクワールは彼の著本“薄い空気後で”にて、ブクレーエフに対する一般な批判的評論を表した。 その後、ブクレーエフは様々なメディアから連絡・インタビューを受ける。

これら一連のブクレーエフが対応に対して、彼は再びゲイリー・ウェストン・デェオルトとの共書“エベレスト登攀”を彼自身が責任編集で発刊し、ブクレーエフを批判する論陣を張った。 

その後に山岳界に巻き起こった論争の中核は、ブクレーエフの補助酸素でエベレスト頂上を試登攻撃する方法論に発展。 さらには、ブクレーエフのリーダーとしての決断力に関する資質にまで書き騒ぐ。

ブクレーエフが災害・遭難の当日、頂上に到達した第一番のグループを引率し、または頂上付近で約 1.5 時間もの長時間滞在しいた事実と夕刻の17時に下方のテントに戻った行動。

近づいてくる闇とブリザードに直面たブクレーエフは、彼のクライアントを置き去りにして 先にキャンプに下降したブクレーエフの決断・リーダーシップに疑問符が付けられた。 引率者としての判断力と翌日の努力はそれとして、救援活動の始動時間が指摘され、ブクレーエフの登山家としての資質が批判された。 

 

 =エベレストの初登頂=

1893年、東アジアで軍人として活躍したフランシス・ヤングハズバンド (Francis Younghusband) とグルカ連隊の勇将チャールズ・グランヴィル・ブルース准将 (Charles Granville Bruce) がエベレスト登頂について話し合ったのが具体的なエベレスト登頂計画の嚆矢であるといわれる。1907年には英国山岳会の創立50周年記念行事としてエベレスト遠征隊の派遣が提案された。この時代、北極点到達(1909年)および南極点制覇(1911年)の競争で敗れていたイギリスは帝国の栄誉を「第三の極地」エベレストの征服にかけようとしていた。第一次大戦の勃発によって計画は先送りになるが、戦争の終結とともに英国山岳会と王立地理学協会エベレスト委員会 (Mount Everest Committee) を組織し、ヤングハズバンドが委員長となって、ここにエベレスト遠征が具体化し始めた。

1921年、エベレスト委員会によって第一次エベレスト遠征隊が組織される。隊長にはグルカ連隊で長年勤務し、地理に明るく、地元民の信頼も厚いチャールズ・グランヴィル・ブルース准将がふさわしいと思われたが、軍務のため断念し代わってチャールズ・ハワード=ベリ (Charles Howard-Bury) 中佐が選ばれた。隊員としてカシミール地方に詳しく高度と人体の影響に関しての専門家であったアレキサンダー・ミッチェル・ケラス博士、ハロルド・レイバーン、そして気鋭の若手として有名なジョージ・マロリー (George Mallory) とジョージ・イングル・フィンチ (George Ingle Finch) が選ばれた。フィンチは後に健康状態を理由に交代させられ、代わってマロリーの推したガイ・ブロック (Guy Bullock) が選ばれた。この第一次遠征隊の目的はあくまで本格的な登頂のための準備偵察であったため、一行はエベレストのノース・コル(North Col、チャン・ラとも呼ばれる、標高7020m)にいたるルートを確認し、初めてエベレスト周辺の詳細な地図を作成した。

1922年には第二次遠征隊が送り込まれた。隊長にはかねてより宿願であったチャールズ・グランヴィル・ブルース准将がつき、エドワード・リーズル・ストラット (Edward Lisle Strutt) 大佐を副隊長に迎え、大英帝国の威信を掛ける。 しかし、三度の頂上アタックを行った。7620mの地点に設けられた第五キャンプから第一次アタックチームを率いたマロリーは、酸素ボンベなどは信頼性が低いと考えてこれを用いず、サマヴィルやノートンらと無酸素で北東稜の稜線に達した。薄い空気に苦しみながら、一同は8,225 mという当時の人類の最高到達高度の記録を打ちたてたが、天候が変化し、時間が遅くなっていたため、それ以上の登攀ができなかった。

1924年の第三次遠征隊では1922年同様隊長はブルース将軍がつとめ、副隊長にはノートン大佐がえらばれた。隊員として経験者のジョージ・マロリー、ジェフリー・ブルース、ハワード・サマヴィルが選ばれた。 彼らは7000m付近に第四キャンプを設けて頂上アタックの拠点とし、そこから頂上までの間に2つのキャンプを設けることにした。マロリーはジェフリー・ブルースおよびノートン、サマヴィルらと山頂を目指したが失敗し、6月6日、22歳の若いアンドリュー・アーヴィン1人を連れて第四キャンプを出発、再びノース・コル経由で山頂を目指した。2人はこのまま行方不明になり、第三次遠征隊は山を下りた。

1933年、イギリス第四次遠征隊。 

後に遠征隊の隊長をつとめる歴戦の登山家エリック・シプトン (Eric Shipton) もその中に含まれていた。この遠征では高度8570mが最高で登頂はできなかったが、ウィン・ハリスが頂上近くでアーヴィンのものとされるアイス・アックスを発見したことで有名になる。同隊ははじめてエベレスト遠征にラジオを持参した。 1934年、イギリスの奇人モーリス・ウィルソン (Maurice Wilson) が飛行機を山腹に不時着させ単独登頂をするという計画を立てたが、不許可となる。登山経験のないウィルソンは「霊的な助け」によって頂上にたどりつけると信じ、2人のシェルパを雇ってノース・コルのふもとまであがったが行方不明になる。

1935年、イギリス第五次遠征隊。 1936年、イギリス第六次遠征隊。 1938年、イギリス第七次遠征隊。 1949年、ネパールが鎖国を解き、初めてネパール側の登山が可能になる。逆にそれまで唯一のルートだったチベット側は中国の支配下におかれたことで閉鎖された。

1953年、酸素装備の改良、登攀技術の研鑽などによって満を持したイギリス隊が送り込まれる。この機会を逃せば次の派遣は数年後になっており、翌年以降各国が続々と隊を送り込む予定だったため、イギリスは強い意気込みで1953年隊を送り出した。隊長はベテランのシプトンにいったん決まったものの、第60ライフル連隊のジョン・ハント (John Hunt) 大佐が推挙されてもめにもめた。その後、突如シプトンが隊長という決定がくつがえされ、ハントが隊長に代わった。この時のトラブルに心を痛めたシプトンは登山界の表舞台を去ることになる。遠征隊は順調にキャンプを前進させていき、2つの頂上アタックチームを送り出した。まず最初のチャールズ・エバンスとトム・ボーディロンのチームが5月26日にアタック、南峰を制したが酸素不足で撤退した。

後に続いたエドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイの第2チームが5月29日午前11時30分に世界で初めての登頂に成功、エリザベス2世の戴冠と時期を同じくする偉業にイギリスは沸き、マロリー以来の宿願を果たした。

1999年5月1日、アメリカのマロリー&アーヴィン捜索隊が標高8,160m付近でマロリーの遺体を発見した。マロリー達が持参していたカメラ、ヴェスト・ポケット・コダックが発見されたならばエベレスト登山史上最大の謎が解けることになるが、未だ発見に至っていない。しかし、登頂に成功した暁に置いてくるつもりだった彼の妻の写真が遺留品になかったことから、ジョージ・マロリーが登頂に成功していたのではないかという説を唱える人も多い。なお、マロリー&アーヴィン捜索隊は2001年にも捜索活動を行い、前回発見できなかったアーヴィンの遺体とカメラを捜索したが、この時の捜索では何も発見できなかった。


《下線部のクリップにて追記説明》・・・・・続く・・・・・・


We are the WORLD

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

                          森のなかえ

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