トトヤンの家庭菜園

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陸奥宗光とシュタイン教授

2018-04-08 21:39:38 | 日記



明治“150年”!


欧米で高く評価された新生日本の偉業
帝国憲法はこうして誕生した 明治の国家ビジョン





陸奥宗光は、後に明治政府で1894年に伊藤博文内閣の外務大臣となり、近代日本の悲願であったイギリスとの間で締結されていた不平等条約を撤廃させることに成功。
関税自主権の一部回復(後に小村寿太郎により完全撤廃されます)と、領事裁判権(治外法権)の完全撤廃を言いますが、この不平等条約改正は当時の国家的課題で、わが国の国家主権を取り戻し、欧米諸国と対等な立場に立つことのできた歴史上特筆すべき事件でもあります。
 以降、アメリカ、ドイツ、イタリア、フランスとの不平等条約を改正し、日本が締結していた15カ国との不平等条約の全てを改正し、治外法権の撤廃を成し遂げています。
この実績は歴代外務大臣として日本の政治史上に燦然とその名を残し、今なお輝いています。

外務省には陸奥宗光の銅像が飾られています。歴代外務大臣は何人もいますが、外務省に銅像が飾られているのは陸奥宗光ただ一人です。


陸奥宗光は1840年、紀州藩の藩士の家に生まれ、父の友人だった坂本龍馬に見込まれて、勝海舟の海軍操練所に入り、その後海援隊に参加します。

龍馬の手紙の中に陸奥宗光について書いたものがあって、その手紙の中で龍馬は陸奥のことを『商法のことは陸奥に任せている』と書いてあることからも、龍馬にとって陸奥宗光は全幅の信頼を寄せる同志の一人であったことがうかがえます。

坂本龍馬が暗殺された後、陸奥宗光は明治新政府の役人となっていきます。

外国事務局に勤め、外国軍艦の購入に尽力した後、廃藩置県後の神奈川県知事などを歴任。
しかし、長州・薩摩閥の専制的な明治政府の方針に反対し、藩閥人事に反発し、あげくは政府を倒すべく画策したとして、
陸奥は、山形で5年間近く監獄生活を送る事になります。

山形の監獄では、ひたすら勉学に励むことに。この前後、陸奥を支え続けたのが亮子夫人です。

山形の監獄を特赦によって出獄し、ロンドンに留学する。ここからが陸奥宗光の真骨頂の始まりです。

その後ワシントン、シカゴ、イギリス、ウィーンで政治学を学び、憲法学を学ぶためウィーン大学教授ローレンツ・フォン・シュタインに師事し、帰国後、親友の伊藤博文に重用され、明治政府の外務大臣として活躍します。

その後の業績は冒頭のとおりです。

宗光の表した外交記録書として有名なのは「蹇蹇録」。

「蹇蹇録」は陸奥宗光の日清戦争についての回想録です。

外務大臣としての陸奥宗光の功績は、条約改正と日清戦争を日本の勝利に終わらせ、清の巨額の賠償金を使って、南下するロシアに対抗する日露戦争の備えができたことと言われています。









19世紀ヨーロッパにおける政治・社会学の権威、ウィーン
大学のローレンツ・フォン・シュタイン教授は、日本の憲法は
ヨーロッパの憲法と比べても大変出来がよいが、憲法はその国
の歴史の産物であり、さらに憲法発達の歴史を編纂して示すこ
とが急務であると助言しました。





明治維新後の新たな国家方針としては有名な「五箇条の御誓文」が有名・・・「広く会議を興し、万機公論に決すべし」の文言に代表されますが具体的な国家ビジョンは見当たりませんでした。 そしていわゆる「岩倉使節団」(不平等条約の改正 、世界に学ぼうと政治・経済・教育を主な目的に視察)の この中のメンバーに伊藤博文が加わったことが、のちの憲法作りの始まりとなります。
そして、憲政実現は国民的課題でもありました。明治維新後の日本は、不平等条約のもとで、国内で外国人が
犯罪を犯しても日本の法律では裁けない、という二流国扱いをされていましたし、欧米諸国と対等な関係を築くためにも、まず近代的な憲法とそれに基づく法体系を作って見せる必要がありました。




明治憲法の特徴は単なる欧米の憲法の引き写しでなく、日本の歴史・伝統に根ざしつつ、「欧
米の憲法学の論理」を適用した、まさに「和魂洋才」の産物で
あったという点にあるかもしれませんね。

陸奥も伊藤に見出されていく。
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