街の中は悲惨な有り様だった。血塗れの人々が地面に蹲り、動いているのはグールだけだ。既に人間とは思えない肉片があちらこちらに散らばっている。真っ青な空がおどろおどろしい風景に全く似つかわしくない。近寄ってくるグールを成るべく避けながら、教会を目指す。この街では一番高い建物だ。血界の眷属の目的ははっきりしないがあの目立つ建物を見逃す筈がない。
「クラウス、こんな時に悪いが」
「む?」
「もし子供達がいたら彼らの前で僕の名前を出さないでほしい」
「それは…」
「頼む」
クラウスが言い終わる前に口を挟む。緑の瞳には疑問が浮かんでいるが、切羽詰まった感のあるスティーブンの声に飲み込んでくれたようだ。
「承知した」
祈るような気持ちで教会の裏手の小さな孤児院へ向かった。この時間なら子供達は自室で勉強しているか、もしくは外で畑仕事をしている筈だ。感慨に浸る間もなくスティーブンは扉を乱暴に開けた。
「誰かいないか!?」
スペイン語で叫ぶスティーブンの声に反応する者はいない。一つ一つ部屋の扉を開けるが何処にも人の気配はなかった。部屋の中は慌てていたのか少し散らかってはいたが、部外者に荒らされた跡はない。
「大丈夫かね、スティーブン。酷い顔色だ」
「…ああ…」
「まだ死体がない。皆で避難したのかも…」
死体がなくてもグールになっているか、最悪転化させられたか、避難した可能性よりそちらのほうが余程現実味があった。
「ここには誰もいないようだ。教会のほうに行ってみよう」
クラウスの言葉に従って教会のほうへ回り込む。災害時など何かあった時に避難場所となる教会は堅牢な造りになっている。地下には大量に備蓄があるはずだ。誰かが避難していてもおかしくはない。
正面一ヶ所しかない真っ白い扉は固く閉ざされて、乾き始めた血液が大量に付着していた。一見して致死量だと分かる。スティーブンは絶望的な気持ちに陥った。
「しっかりしたまえ。まだ希望はある」
クラウスが体が通るだけの扉を開き、慎重に中へ飛び込む。スティーブンもそれに続いた。教会の中は窓が閉められているため薄暗い。正面のステンドグラスだけが光を取り込み、床に色彩を溢している。
祭壇の奥、貼り付けにされたイエスの像の前に子供が佇んでいた。後ろ姿からでも服は血塗れだと分かる。クラウスが急いで子供に近付き手を差し伸べた。
「無事で良かった」
ゆっくり子供が振り返る。短く揃えた銀色の髪に大きな深紅の瞳。少年のようだ。人形のように整った顔立ち。スティーブンの記憶の中にその姿は見当たらなかった。うっとりしたような笑みを浮かべて血色の瞳を輝かせる。
「離れろ!!クラウス!!」
スティーブンの声と同時にクラウスは飛び下がったが、袈裟懸けに切られた傷が血飛沫を上げる。
「つっ…!」
少年は手に付着した血液をペロリと舐める。途端に顔を大袈裟にしかめた。
「うえええ、まずい。君達牙狩り?」
鈴を転がしたような声だった。首を傾げる姿は愛らしい。スティーブンは持ち歩いている鏡で少年の姿が写るように翳す。案の定少年は鏡に写っていない。スティーブンの背中に汗が流れた。血界の眷属だ。
「何故この街を襲った?」
時間稼ぎのつもりでスティーブンが問う。少年の姿をしていても相手は自分達より遥かに長い年月を生きている。
「え?知らないの?」
知るかよ、と悪態付きたくなる気持ちを押し殺す。幸いクラウスの傷は浅そうだ。孤児院の子供達がいないのならここから早々に撤退すべきだった。出来るかどうかは別にして。
「ここは牙狩りの卵達がいる場所でしょ?」
「え」
ふふふ、と笑う少年の言葉に目を剥く。そんなこと聞いたことない。心臓の鼓動が早まる。どくどく、と音が体の中で響くようだ。
「可哀想に。知らないで助けに来たの?そういえば援軍、全然来ないねぇ?僕が最初の牙狩り達を殺して24時間は経つよ?」
スティーブンは混乱した頭で、何処か冷静な自分が納得しているのを感じていた。この孤児院は非合法に集められた牙狩りの才能を持つ子供達の巣だ。能力に目覚めてトントン拍子に里親が決まったことも、スティーブンにはずっと疑問だった。牙狩りは慢性的な人手不足だ。血筋による継承は現代のように近親婚が許されない時代、血が薄まり難しくなっている。突然変異で生まれた子供達をそれとなく牙狩りとして養成する為に人攫い同然に親から引き離す。当然発覚すれば本部は非難を免れない。本部の上役達はそれを隠蔽するためにこの街を見捨てたのだ。
「そんなことが許されるとでも…!!」
呆然としていたスティーブンの横でクラウスの怒気が膨れ上がる。怒りの矛先は血界の眷属ではない。
「あはははは!!残念だったね!」
甲高い嘲笑が教会の内部にこだまする。
「でもさぁ…肝心の牙狩りの卵達は中々出てこなくて困ってたんだ。お兄さん達、引っ張り出してくれない?」
その言葉に弾かれたようにスティーブンは顔を上げた。まだ生きている…!!
パキッと足元が凍りつく。これで逃げるという選択肢は無くなった。
「彼女がそこを退いてくれなくてさ」
少年が顎で示した場所には力なく座っている女性がいた。修道服を血に染めて俯く姿はスティーブンが良く見知った姿だった。背後には地下室に続く扉がある。彼女が身を呈して扉を守っているのは明白だった。スティーブンは少年を明確な殺意を持って睨み付ける。
「殺してないよ。まぁ死ねないだけだけど」
少年は祭壇にあった鋭利な燭台をシスターに向かって投げつけた。腹部に深く突き刺さった燭台はまるでフォークのように見える。シスターは苦しそうに呻き、燭台を引き抜く。動脈を貫いた傷は水道の蛇口を一気に開放した時のように血が吹き出すが直ぐに再生される。
「まさか…」
「そ。彼女はもう僕の仲間だよ。神に遣えるシスターが吸血鬼なんて背徳的で良いじゃない?」
にんまりと笑う少年の唇から人外の牙が覗く。
「シスターに殺される子供…ってのが見たかったんだけどね。彼女、転化したのに僕の言うことを聞いてくれないんだ」
参っちゃうよ、と肩を竦める少年は少しも困っているようには見えない。スティーブンは怒りで頭が変になりそうだった。教会全体がひんやりとした冷気に包まれる。
「エスメラルダ式血凍道」
「ブレングリード流血闘術」
少年の足元に鋭利な氷の刃が出現し、頭上には巨大な深紅の十字架が迫る。
「わお!綺麗だねー」
少年は笑いながら教会天井近くの梁によじ登った。まるで体操選手のようにくるくる回って着地する。
「もう少し遊びたいけど…そろそろ時間だ。彼女、あれだけ血を流したんだからもう限界だと思うし…後は任せるよ。生きていられたら、また会おうね。お兄さん達」
少年は戯れのようにスティーブンとクラウスの肩を叩いて一瞬で扉から出ていった。ぱたん、と扉の閉まる音が背後から聞こえ、気配が完全に消えてしまう。
「くそっ!」
まざまざと力の差を思い知らされた。大切な人が傷付いているのに全く手も足も出なかった。唇を噛み締めると鉄の味が広がる。その刹那。
「スティーブン!!」
クラウスが叫ぶと同時に修道服が翻り、スティーブンの顔を大きく抉った。迸る血に左目が見えなくなる。咄嗟に左手で傷を強く圧迫した。手の平がぬるついて仕方ない。
「つっ…!ビンタにしては強烈すぎるなぁ…!」
衝撃に頭がグラグラする。スティーブンの軽口も姿もシスターには見えていないようだ。
「私…子供達を守らなきゃ…」
シスターの瞳は虚ろで譫言のようにぶつぶつと繰り返す。手には先程の燭台がぶら下がっている。転化してなお、子供達を守ろうとしてきた。それは多量の出血により吸血衝動が高まっている今も、無意識下で刻まれているようだ。かつん、と靴音を響かせて膝を付いているスティーブンに近づく。
「ブレングリード流…」
「クラウス!待ってくれ!」
制止の言葉にクラウスの動きが止まった。その直後シスターは躊躇うことなくスティーブンの肩に燭台を突き刺した。
「ぐっ…!」
激痛に苦悶の表情を浮かべる。シスターは黒髪を包み込むように腕を回して首筋に噛みつこうと、昔はなかったはずの牙を剥き出しにした。スティーブンは目を瞑る。
「守れなくてごめん。シスター(母さん)」
ピタリとシスターの動きが止まる。スティーブンは彼女を強く抱き締めた。こんなに華奢だっただろうか。昔は大きく見えていたのに。
シスターの手が優しくスティーブンの髪を撫でた。記憶にある手つきと全く変わらない。シスターを離して瞳を覗き込むとそこには先程と違い確かな理性が光っていた。
「エステバンなの…?」
シスターの手が優しく頬を包み込む。左頬の傷が痛んだが、彼女の手にそっと自分の手を重ねる。懐かしい響きだ。
少しの逡巡の後、スティーブンは口を開いた。
「そうだよ」
シスターの薄茶色の瞳から大粒の涙が溢れた。
「間に合わなくてごめん」
ふるふると頭を振る。
「…本当に居てほしい時にはちゃんと来てくれる。間に合ったよ。みんな無事だと思う」
ふわりと優しく笑ったシスターはスティーブンのよく知るシスターだった。
「顔をよく見せて」
頬に走った大きな傷に、痛ましげに瞳を伏せる。ボロボロじゃない…とシスターは小さく呟く。
「ずっとエステバンに謝りたいと思っていたの」
「?」
「貴方を牙狩りにしてしまったこと」
孤児院は牙狩り組織の一部で、能力の鱗片が見えたら本部へ報告することがシスターには義務づけられていた。だが子供達の未来を縛り付けることにはならないか、ずっと悩んで苦しんでいたという。
「ケイにもね、兆候があったの。あの子も牙狩りとしての才能がある」
だがシスターはそれを隠蔽した。牙狩り本部に。それは裏切りと捉えられかねない。スティーブンの脳裏には暗い想像が過ぎった。
「私を殺して」
このままでは、いずれまた理性を失う。そうなる前に早く、と。スティーブンにも頭では分かっている。転化したてであれば滅殺は可能だ。彼女を救うにはそれしかない。だが情けないくらい体が震えてしまった。走馬灯のように幼い頃の記憶が甦る。
「スティーブン」
傍観していたクラウスがゆっくりと近づいてきた。その瞳は揺らぎない。
「彼女のフルネームを教えてくれないかね?私は彼女を封印することが出来る。君に母殺しの大罪は似合わない」
シスターはいつも礼拝堂で祈りを捧げる時のように跪いて指を組み瞳を閉じている。それは清廉な儀式のようだった。
「アリシア・アルマス・セラーノ」
滔々とクラウスの声が教会に響く。まるで懺悔する罪人の声を聞く神父のような佇まいだが神父にしては闘気に溢れすぎている。目を細めてスティーブンはその光景に見入った。
「憎み給え
許し給え
諦め給え
人界を護るために行う我が蛮行を
ブレングリード流血闘術 999式 久遠棺封縛獄」
封印される直前シスターは目を開いてスティーブンに向き直る。にっこりと安心させるように微笑んだその目尻には優しげな笑い皺が刻まれていた。
「何でも一人でやらずに友達を頼りなさいね」
昔と少しも変わらない声音。
後にはカランとした音と共に真紅の小さな十字架が転がっていた。
最期まで人のことばっかりだったなぁ…。
回想の海から浮上して手の中の血色の十字架を握り締めた。本来なら血界の眷属を封印した十字架がこの場にあることは有り得ない。牙狩り本部の厳重な管理下に置かれて、外に持ち出すことはまず不可能だった。それが可能だったのはクラウスがこの密封のことを誰にも話さなかったからだ。
「この十字架は君が持つのに相応しい。きっと君を守ってくれるだろう」
そう言って十字架を渡された日を決して忘れることは無い。
****
本部に連絡しグールを一掃して安全を確かめてから子供達を解放した。地下への扉を開けた瞬間、鉄パイプが振ってきたのは驚いたが。教会の地下で震えていた子供達を守るように先頭にいたのは金髪の少女だった。まるで猫の仔のように威嚇する瞳が懐かしい。少女はスティーブンを認めると訝しげな表情を浮かべた。
「大丈夫だよ。助けに来たんだ」
「お兄さん達、誰?」
年少者を抱き締めていた見知った少年が不信感を露に問いかける。クラウスは少し驚いたようにスティーブンを見た。グレーの瞳が一瞬だけ寂しそうに瞬いたが、直ぐに優しげな表情を作る。警察関係者だと子供達を言いくるめて、実際に後始末に乗り込んできた牙狩り組織の者に子供達を引き渡す。一旦は病院に入って検査をしてから、各々身の振り方を決めなくてはならないだろう。
「シスターどこ?」
スティーブンが孤児院にいた頃はまだ赤ん坊だった少女が涙声で話す。胸が締め付けられるようだったが振り向かずにその場を後にした。
「スティーブン」
気遣わしげなクラウスの声に何時ものような笑顔が出てこない。何故だか無性に誰かに打ち明けてしまいたかった。この真面目な若者はきっと誰にも言わないでくれるだろう。スティーブンは小さく溜め息を吐く。
「彼らは俺のことを知っているけど、知らないんだ」
「…どういうことかね?」
スティーブンは血塗れのTシャツを脱ぎ捨てた。そこには首から心臓に繋がる紅の刺青が白い肌を犯すように伸びている。クラウスは見事な刺青だと思いながらも、何処か禍々しさを感じずにはいられない。
「足の先まで伸びてるよ」
そう言いながら汚れたTシャツを再度着直す。
「血凍道関連のものかね?」
「そう。13歳の時だったかな。これを入れたのは」
13歳の頃、確かスティーブンが初陣を飾ったのと同時期だ。
「氷を使う俺達の術は自身の細胞も痛め付ける。それを戦闘の支障になら無いようにするためのものさ。この術式があるから、エスメラルダ式血凍道はあまり使い手がいないんだ」
絶対零度とは即ち-273度だ。とても人間の体が耐えられる温度ではない。通常であれば一瞬で足が使い物にならなくなる。
「細胞を活性化させて代謝を促進させる。壊死した細胞もそれを上回る早さで甦らせる。けれど人間の細胞分裂の数は限られているだろ?」
クラウスは今までの疑問が繋がって答えが見えた気がした。スティーブンが実年齢よりも老けて見えること、同じ孤児院の子供達がスティーブンのことを分からなかったこと…。知らず拳を強く握り締める。
「それは君が望んで入れたものなのか?」
スティーブンは微笑んだまま答えなかった。クラウスは頭を殴られたような衝撃を感じる。牙狩り組織への不信感は拭いようもない。
「ただ、物理的な攻撃にはあまり効かなくてね。血凍道によるダメージしか回復させてくれないんだ。まぁ例外はあるけど」
スティーブンの顔と肩の傷は痛々しい包帯に覆われている。先程交換したばかりなのに、もう鮮血が滲んでいた。
彼の技は文字通り寿命を削る。強ければ強いほどその代償は大きい。悲痛な表情を隠そうとしないクラウスにスティーブンは軽く腕を叩いた。
「血液を武器とする牙狩りはみんな命を磨り減らして戦っている。俺だけのことじゃないさ」
「……」
遠い目で空を仰ぐスティーブンにクラウスは押し黙る。
「シスターはよく俺のことが分かったと思うよ。多分昔の知り合いに会っても誰も分からないんじゃないかな」
「…それは彼女が母親だったからだろう」
彼は軽く目を見張ってエメラルドの瞳を見返す。そうだね、と微かに聞き取れるくらいの声で呟いた。
****
式は終盤だ。まさか彼女の人生の晴れ舞台に呼んでもらえるとは思っていなかったので素直に嬉しかった。他の兄弟達の顔も見える。それとなく彼らのその後を見守ってはいたが、顔を合わせたのは何年ぶりか。勿論スティーブンが一方的に知っているだけだ。大半がラインヘルツ家の援助している孤児院に入れてもらうことが出来、今では半数が結婚して家庭を持っている。クラウスには感謝してもしきれない。まともな教育が受けられたおかげで就職先にも困らなかったようだ。子供達は牙狩りの血を覚醒させた者も多かったが、組織に属したのは彼女…ケイだけだった。シスターが守った命だ。本音を言えばこの世界とは無縁のまま生きていて欲しかった。
本部で再会した時は問答無用で顔面を殴られた。女の子なのにグーは無いだろう、と抗議したスティーブンに今度は愛銃を突き付けてきたので、言い訳する機会を失ってしまった。彼女とはそれから何度も一緒に仕事をしたが、あの時のことは一度も触れてこない。知らないはずはないのに。
「スティーブン。君はそろそろ名乗り出てもいい頃じゃないかね?」
クラウスとの付き合いも長くなった。顔を見ただけで何となく言いたいことが分かるくらいには。
「俺は彼らから母親を奪ったも同然だ。今更言えないよ」
自嘲気味になってしまうのは許して欲しい。柄にもなくしんみりしているのが分かる。
「それは私も同罪だ。君一人の罪ではない」
「クラウス、それは違う。君のお陰で俺もシスターも救われたよ」
「そうだ。君がいたからシスターは救われたのだ」
「……」
「少なくとも彼女はそれを理解している」
クラウスの言葉に視線を上げると、彼女…K・Kは離れた位置にいるスティーブンに向かって大股で歩いてくる。置き去りにされた夫は優しく微笑んで、K・Kの背中に手を振っていた。
「私の結婚式で辛気臭い顔しないでくれる!?」
睨み付けてくる青い目は昔と変わらない。
「ちょっとK・K…」
苦笑いしたスティーブンの手にブーケを押し付けた。
「次はアンタの番よ、エステバン」
「はい?」
流暢なスペイン語で話したK・Kとスティーブンにすっかり大人になった兄弟達が集まってフラワーシャワーをかける。驚きを隠せないスティーブンに、ようやくK・Kは溜飲を下げたのかにんまり笑った。
年齢からしてエステ兄でしょ、早く兄ちゃんの結婚式に出たいなぁ、いや無理無理、顔は良いのにねぇ、いっそクラウスさんに貰ってもらいなよ、いやエステ兄は仕事が恋人でしょ、まだまだ難しそうねぇ、
飛び交う懐かしい言語に一瞬過去に戻ったかのような錯覚。髪についた花びらがはらはらと落ちる。
「お前達…」
握り締めた十字架が脈打つように温かい。
兄弟達が積年の想いを込めてスティーブンを泣かすまで、あと5分。
====
どうでもいいあとがき。
本当はシスターを殺したのはスティーブンで孤児院の子供達には最後まで正体が知らされないENDにしようかなーと思っていました。そのほうがスティーブンがクラウスに依存するかなーなんて思ったりして。。
でもウルフウッドがあーいう感じだったから・・スティーブンを幸せにしたかったんです。それだけ!
ここまでお読み頂きありがとうございました!
次からはおまけです。
K・Kとスティーブンは兄妹っぽいと思っていたので更なる捏造を重ねました。。
====
ヘルサレムズ・ロットの高級レストランでスティーブンが接待しているのは、牙狩り組織における幹部の一人だった。灰色の頭髪を後ろに流して、丸い眼鏡をかけており、歳は70半ばといった具合か。ワイングラスを持つ手には深い皺が刻まれている。
「聞きしに勝る魔境だな、ここは」
「恐れ入ります」
営業用の完璧な笑顔でスティーブンは応対する。相手は既に現役を退いたとはいえ組織の上役を長年勤め上げている曲者だ。
「で?ライブラは牙狩り本部の手を離れたいと?」
「ええ。暖簾分けという形になるでしょうか。勿論今後も血界の眷属に対しては協力が必要不可欠ですから、そこは今まで通りにご高配を賜りたく存じます」
「上から目線だな」
鼻で笑う老人がワインを一口含む。ごくりと枯木のような喉が上下した。
「資金はともかく人材はどうする?今でも本部から人材を派遣されているだろう。牙狩りの血を持つ者は少ない。育てるにも時間がかかる」
「そう言えば貴方は後継者対策に奔走されていましたね」
スティーブンの口調が変化しグレーの瞳が剣呑な光を湛えて笑む。からん、と老人がフォークを取り落とした。
「ヘルサレムズ・ロットは世界の覇権を握る場所と言われている。その中で我々ライブラが活動する意義は大きい。知っていますか?本部の精鋭の殆どが今やライブラに属しています。またここは人間だけではない。異界の住人が多数暮らしている。神と呼ばれる者も、不本意ながらその恩恵にあずかった者も。牙狩りの血だけが必要とされる時代は終わったのですよ」
返答はない。胸を押さえて脂汗を流す老人にスティーブンは微笑む。
「貴様…何を盛った…っ…!」
「何のことです?ああ、ここのワインはお口に合いませんでしたか?異界産のフルーツで出来ているそうですから」
老人の唇は紫色に変色してきている。手足が痺れて普通に座っていることも困難だった。
そうそう、とわざとらしくスティーブンが老人に明るく声をかけた。
「私も貴方のお陰でここまで来れたのですよ。感謝しています」
最後のプライドなのか床に這いつくばるのを拒否してテーブルにすがり付く。
「はっ…そうか…!貴様、は…あの小娘の…」
「お喋りが過ぎたようですね。ご老体にはそろそろ隠居をお勧めします」
喘ぐような呼吸の中、老人はスティーブンを睨み付けた。
「こんな、ことをして、身の破滅だとは思わん、のか…!」
「ここでは些細な出来事ですよ。何が起こるか分からない場所ですから」
何処にでもありそうなリボルバーの銃をスーツの懐から取り出して撃鉄を起こす。 老人の目が限界まで見開かれ、恐怖の色が浮かんだ。
そう、この街では銃で撃たれるなど蚊に刺されるくらい良くある話だった。
「おやまあ、スティーブンせんせーじゃないの?」
半分以上は私怨での一仕事を終えて外に出ると真っ赤なコートを翻した金髪の美女が立っていた。スティーブンの顔が引き攣る。
「K・K。君何故ここに?」
スティーブンの質問には答えず襟を掴んで引き寄せる。くん、と匂いをかいで端正な顔をしかめた。
「硝煙の匂いね」
その言葉に天を仰いで額に手を当てる。
「血凍道を使うとアンタだと直ぐにバレる。賢いやり方だと思うわ」
にっこりと弧を描いた唇に、スティーブンは「あ、まずい 」と思った。そのままパァンと小気味良い音が響く。
「いった~~~」
頬の傷の上から見事なくらいの紅葉が咲いた。
「はっ、いい気味ね。スカーフェイス」
「酷いじゃないか、K・K」
「酷いのはどっち!?どうしてアタシに声をかけないの!?何でも一人で抱え込んで…!!アタシにも復讐する権利はあると思うけど!!?」
「シィー!声が大きいってK・K!」
なんだなんだ痴話喧嘩か?そんな言葉と視線を集めて更にK・Kが憤る。
「こんな男と痴話喧嘩ですって!?冗談じゃ無いわよ!!」
哀れな通行人はK・Kの怒気に当てられて顔面蒼白だ。
「まぁまぁ…」
青い目がきつくスティーブンを睨み付ける。
「何も無かったよ。本当だ」
「この嘘吐き男…!」
K・Kは苦い顔で吐き捨てる。溜め息をついて金髪をかき上げた。
「で?独立の話は本当?」
「何処で聞いてくるのかなぁ…」
スティーブンは呆れたように呟く。
「クラっちは知っているんでしょうね」
「僕の独断で決められるわけないじゃないか。心配しなくても、今はまだ牙狩りの傘下にいるよ。今はね」
「この腹黒が…」
取りあえず戻ろうかと言ってタクシーを捕まえ、K・Kと並んで後部座席に乗り込む。何やら戦隊モノのような音楽が流れて、横を見ると彼女の携帯からのようだった。
「ハァイ、ママだよー」
猫なで声のK・Kに苦笑いすると鳩尾に肘が入る。スティーブンが腹を抱えて痛みに耐えている間に要件は終わったようだ。
「君は結婚したら家庭に入ると思っていたよ」
目をぱちくりしたK・Kはスティーブンの言葉に呆れ返る。
「それはアンタの願望でしょ。私は辞める気は無かった。大切なものを守りたくてこの力を手に入れたんだから」
そこには一切の迷いは感じられない。守れなかったものが彼女をここまで大きくしたのだろう。
「男らしいなぁ」
「さっきから喧嘩売ってんの?」
降参の意を込めて両手を上げて肩を竦める。
守りたいもの、か。スティーブンは思考の海に沈み込んだ。
子供の頃は無論あの日溜まりのような場所だった。スターフェイズ家に来て牙狩りになってからは、あの子達の平穏を守りたいと思っていた。あの事件の後からは正直何の為に戦っているのか分からないことが多かった。今はどうだろう。
ライブラのあるビルに到着して、見た目は何の変哲も無いエレベーターへ乗り込む。幾重にも刻まれたセキュリティや術式をくぐり抜けるとようやくいつもの執務室だ。
ソファーの上ではレオナルドとザップが珍しく仲良く昼寝をしている。ツェッドは水槽だろうか。チェインは人狼局の仕事だっけ。紅茶の香りがするからギルベルトさんはキッチンだろう。クラウスは・・観葉植物に水を上げている後ろ姿が見えた。振り返って、エメラルドの瞳が穏やかに細められる。
「おかえり、スティーブン」
耳に馴染む低い声。
ああ、分かったよ。
この一言の為に、守りたいのはこの世界だ。
「クラウス、こんな時に悪いが」
「む?」
「もし子供達がいたら彼らの前で僕の名前を出さないでほしい」
「それは…」
「頼む」
クラウスが言い終わる前に口を挟む。緑の瞳には疑問が浮かんでいるが、切羽詰まった感のあるスティーブンの声に飲み込んでくれたようだ。
「承知した」
祈るような気持ちで教会の裏手の小さな孤児院へ向かった。この時間なら子供達は自室で勉強しているか、もしくは外で畑仕事をしている筈だ。感慨に浸る間もなくスティーブンは扉を乱暴に開けた。
「誰かいないか!?」
スペイン語で叫ぶスティーブンの声に反応する者はいない。一つ一つ部屋の扉を開けるが何処にも人の気配はなかった。部屋の中は慌てていたのか少し散らかってはいたが、部外者に荒らされた跡はない。
「大丈夫かね、スティーブン。酷い顔色だ」
「…ああ…」
「まだ死体がない。皆で避難したのかも…」
死体がなくてもグールになっているか、最悪転化させられたか、避難した可能性よりそちらのほうが余程現実味があった。
「ここには誰もいないようだ。教会のほうに行ってみよう」
クラウスの言葉に従って教会のほうへ回り込む。災害時など何かあった時に避難場所となる教会は堅牢な造りになっている。地下には大量に備蓄があるはずだ。誰かが避難していてもおかしくはない。
正面一ヶ所しかない真っ白い扉は固く閉ざされて、乾き始めた血液が大量に付着していた。一見して致死量だと分かる。スティーブンは絶望的な気持ちに陥った。
「しっかりしたまえ。まだ希望はある」
クラウスが体が通るだけの扉を開き、慎重に中へ飛び込む。スティーブンもそれに続いた。教会の中は窓が閉められているため薄暗い。正面のステンドグラスだけが光を取り込み、床に色彩を溢している。
祭壇の奥、貼り付けにされたイエスの像の前に子供が佇んでいた。後ろ姿からでも服は血塗れだと分かる。クラウスが急いで子供に近付き手を差し伸べた。
「無事で良かった」
ゆっくり子供が振り返る。短く揃えた銀色の髪に大きな深紅の瞳。少年のようだ。人形のように整った顔立ち。スティーブンの記憶の中にその姿は見当たらなかった。うっとりしたような笑みを浮かべて血色の瞳を輝かせる。
「離れろ!!クラウス!!」
スティーブンの声と同時にクラウスは飛び下がったが、袈裟懸けに切られた傷が血飛沫を上げる。
「つっ…!」
少年は手に付着した血液をペロリと舐める。途端に顔を大袈裟にしかめた。
「うえええ、まずい。君達牙狩り?」
鈴を転がしたような声だった。首を傾げる姿は愛らしい。スティーブンは持ち歩いている鏡で少年の姿が写るように翳す。案の定少年は鏡に写っていない。スティーブンの背中に汗が流れた。血界の眷属だ。
「何故この街を襲った?」
時間稼ぎのつもりでスティーブンが問う。少年の姿をしていても相手は自分達より遥かに長い年月を生きている。
「え?知らないの?」
知るかよ、と悪態付きたくなる気持ちを押し殺す。幸いクラウスの傷は浅そうだ。孤児院の子供達がいないのならここから早々に撤退すべきだった。出来るかどうかは別にして。
「ここは牙狩りの卵達がいる場所でしょ?」
「え」
ふふふ、と笑う少年の言葉に目を剥く。そんなこと聞いたことない。心臓の鼓動が早まる。どくどく、と音が体の中で響くようだ。
「可哀想に。知らないで助けに来たの?そういえば援軍、全然来ないねぇ?僕が最初の牙狩り達を殺して24時間は経つよ?」
スティーブンは混乱した頭で、何処か冷静な自分が納得しているのを感じていた。この孤児院は非合法に集められた牙狩りの才能を持つ子供達の巣だ。能力に目覚めてトントン拍子に里親が決まったことも、スティーブンにはずっと疑問だった。牙狩りは慢性的な人手不足だ。血筋による継承は現代のように近親婚が許されない時代、血が薄まり難しくなっている。突然変異で生まれた子供達をそれとなく牙狩りとして養成する為に人攫い同然に親から引き離す。当然発覚すれば本部は非難を免れない。本部の上役達はそれを隠蔽するためにこの街を見捨てたのだ。
「そんなことが許されるとでも…!!」
呆然としていたスティーブンの横でクラウスの怒気が膨れ上がる。怒りの矛先は血界の眷属ではない。
「あはははは!!残念だったね!」
甲高い嘲笑が教会の内部にこだまする。
「でもさぁ…肝心の牙狩りの卵達は中々出てこなくて困ってたんだ。お兄さん達、引っ張り出してくれない?」
その言葉に弾かれたようにスティーブンは顔を上げた。まだ生きている…!!
パキッと足元が凍りつく。これで逃げるという選択肢は無くなった。
「彼女がそこを退いてくれなくてさ」
少年が顎で示した場所には力なく座っている女性がいた。修道服を血に染めて俯く姿はスティーブンが良く見知った姿だった。背後には地下室に続く扉がある。彼女が身を呈して扉を守っているのは明白だった。スティーブンは少年を明確な殺意を持って睨み付ける。
「殺してないよ。まぁ死ねないだけだけど」
少年は祭壇にあった鋭利な燭台をシスターに向かって投げつけた。腹部に深く突き刺さった燭台はまるでフォークのように見える。シスターは苦しそうに呻き、燭台を引き抜く。動脈を貫いた傷は水道の蛇口を一気に開放した時のように血が吹き出すが直ぐに再生される。
「まさか…」
「そ。彼女はもう僕の仲間だよ。神に遣えるシスターが吸血鬼なんて背徳的で良いじゃない?」
にんまりと笑う少年の唇から人外の牙が覗く。
「シスターに殺される子供…ってのが見たかったんだけどね。彼女、転化したのに僕の言うことを聞いてくれないんだ」
参っちゃうよ、と肩を竦める少年は少しも困っているようには見えない。スティーブンは怒りで頭が変になりそうだった。教会全体がひんやりとした冷気に包まれる。
「エスメラルダ式血凍道」
「ブレングリード流血闘術」
少年の足元に鋭利な氷の刃が出現し、頭上には巨大な深紅の十字架が迫る。
「わお!綺麗だねー」
少年は笑いながら教会天井近くの梁によじ登った。まるで体操選手のようにくるくる回って着地する。
「もう少し遊びたいけど…そろそろ時間だ。彼女、あれだけ血を流したんだからもう限界だと思うし…後は任せるよ。生きていられたら、また会おうね。お兄さん達」
少年は戯れのようにスティーブンとクラウスの肩を叩いて一瞬で扉から出ていった。ぱたん、と扉の閉まる音が背後から聞こえ、気配が完全に消えてしまう。
「くそっ!」
まざまざと力の差を思い知らされた。大切な人が傷付いているのに全く手も足も出なかった。唇を噛み締めると鉄の味が広がる。その刹那。
「スティーブン!!」
クラウスが叫ぶと同時に修道服が翻り、スティーブンの顔を大きく抉った。迸る血に左目が見えなくなる。咄嗟に左手で傷を強く圧迫した。手の平がぬるついて仕方ない。
「つっ…!ビンタにしては強烈すぎるなぁ…!」
衝撃に頭がグラグラする。スティーブンの軽口も姿もシスターには見えていないようだ。
「私…子供達を守らなきゃ…」
シスターの瞳は虚ろで譫言のようにぶつぶつと繰り返す。手には先程の燭台がぶら下がっている。転化してなお、子供達を守ろうとしてきた。それは多量の出血により吸血衝動が高まっている今も、無意識下で刻まれているようだ。かつん、と靴音を響かせて膝を付いているスティーブンに近づく。
「ブレングリード流…」
「クラウス!待ってくれ!」
制止の言葉にクラウスの動きが止まった。その直後シスターは躊躇うことなくスティーブンの肩に燭台を突き刺した。
「ぐっ…!」
激痛に苦悶の表情を浮かべる。シスターは黒髪を包み込むように腕を回して首筋に噛みつこうと、昔はなかったはずの牙を剥き出しにした。スティーブンは目を瞑る。
「守れなくてごめん。シスター(母さん)」
ピタリとシスターの動きが止まる。スティーブンは彼女を強く抱き締めた。こんなに華奢だっただろうか。昔は大きく見えていたのに。
シスターの手が優しくスティーブンの髪を撫でた。記憶にある手つきと全く変わらない。シスターを離して瞳を覗き込むとそこには先程と違い確かな理性が光っていた。
「エステバンなの…?」
シスターの手が優しく頬を包み込む。左頬の傷が痛んだが、彼女の手にそっと自分の手を重ねる。懐かしい響きだ。
少しの逡巡の後、スティーブンは口を開いた。
「そうだよ」
シスターの薄茶色の瞳から大粒の涙が溢れた。
「間に合わなくてごめん」
ふるふると頭を振る。
「…本当に居てほしい時にはちゃんと来てくれる。間に合ったよ。みんな無事だと思う」
ふわりと優しく笑ったシスターはスティーブンのよく知るシスターだった。
「顔をよく見せて」
頬に走った大きな傷に、痛ましげに瞳を伏せる。ボロボロじゃない…とシスターは小さく呟く。
「ずっとエステバンに謝りたいと思っていたの」
「?」
「貴方を牙狩りにしてしまったこと」
孤児院は牙狩り組織の一部で、能力の鱗片が見えたら本部へ報告することがシスターには義務づけられていた。だが子供達の未来を縛り付けることにはならないか、ずっと悩んで苦しんでいたという。
「ケイにもね、兆候があったの。あの子も牙狩りとしての才能がある」
だがシスターはそれを隠蔽した。牙狩り本部に。それは裏切りと捉えられかねない。スティーブンの脳裏には暗い想像が過ぎった。
「私を殺して」
このままでは、いずれまた理性を失う。そうなる前に早く、と。スティーブンにも頭では分かっている。転化したてであれば滅殺は可能だ。彼女を救うにはそれしかない。だが情けないくらい体が震えてしまった。走馬灯のように幼い頃の記憶が甦る。
「スティーブン」
傍観していたクラウスがゆっくりと近づいてきた。その瞳は揺らぎない。
「彼女のフルネームを教えてくれないかね?私は彼女を封印することが出来る。君に母殺しの大罪は似合わない」
シスターはいつも礼拝堂で祈りを捧げる時のように跪いて指を組み瞳を閉じている。それは清廉な儀式のようだった。
「アリシア・アルマス・セラーノ」
滔々とクラウスの声が教会に響く。まるで懺悔する罪人の声を聞く神父のような佇まいだが神父にしては闘気に溢れすぎている。目を細めてスティーブンはその光景に見入った。
「憎み給え
許し給え
諦め給え
人界を護るために行う我が蛮行を
ブレングリード流血闘術 999式 久遠棺封縛獄」
封印される直前シスターは目を開いてスティーブンに向き直る。にっこりと安心させるように微笑んだその目尻には優しげな笑い皺が刻まれていた。
「何でも一人でやらずに友達を頼りなさいね」
昔と少しも変わらない声音。
後にはカランとした音と共に真紅の小さな十字架が転がっていた。
最期まで人のことばっかりだったなぁ…。
回想の海から浮上して手の中の血色の十字架を握り締めた。本来なら血界の眷属を封印した十字架がこの場にあることは有り得ない。牙狩り本部の厳重な管理下に置かれて、外に持ち出すことはまず不可能だった。それが可能だったのはクラウスがこの密封のことを誰にも話さなかったからだ。
「この十字架は君が持つのに相応しい。きっと君を守ってくれるだろう」
そう言って十字架を渡された日を決して忘れることは無い。
****
本部に連絡しグールを一掃して安全を確かめてから子供達を解放した。地下への扉を開けた瞬間、鉄パイプが振ってきたのは驚いたが。教会の地下で震えていた子供達を守るように先頭にいたのは金髪の少女だった。まるで猫の仔のように威嚇する瞳が懐かしい。少女はスティーブンを認めると訝しげな表情を浮かべた。
「大丈夫だよ。助けに来たんだ」
「お兄さん達、誰?」
年少者を抱き締めていた見知った少年が不信感を露に問いかける。クラウスは少し驚いたようにスティーブンを見た。グレーの瞳が一瞬だけ寂しそうに瞬いたが、直ぐに優しげな表情を作る。警察関係者だと子供達を言いくるめて、実際に後始末に乗り込んできた牙狩り組織の者に子供達を引き渡す。一旦は病院に入って検査をしてから、各々身の振り方を決めなくてはならないだろう。
「シスターどこ?」
スティーブンが孤児院にいた頃はまだ赤ん坊だった少女が涙声で話す。胸が締め付けられるようだったが振り向かずにその場を後にした。
「スティーブン」
気遣わしげなクラウスの声に何時ものような笑顔が出てこない。何故だか無性に誰かに打ち明けてしまいたかった。この真面目な若者はきっと誰にも言わないでくれるだろう。スティーブンは小さく溜め息を吐く。
「彼らは俺のことを知っているけど、知らないんだ」
「…どういうことかね?」
スティーブンは血塗れのTシャツを脱ぎ捨てた。そこには首から心臓に繋がる紅の刺青が白い肌を犯すように伸びている。クラウスは見事な刺青だと思いながらも、何処か禍々しさを感じずにはいられない。
「足の先まで伸びてるよ」
そう言いながら汚れたTシャツを再度着直す。
「血凍道関連のものかね?」
「そう。13歳の時だったかな。これを入れたのは」
13歳の頃、確かスティーブンが初陣を飾ったのと同時期だ。
「氷を使う俺達の術は自身の細胞も痛め付ける。それを戦闘の支障になら無いようにするためのものさ。この術式があるから、エスメラルダ式血凍道はあまり使い手がいないんだ」
絶対零度とは即ち-273度だ。とても人間の体が耐えられる温度ではない。通常であれば一瞬で足が使い物にならなくなる。
「細胞を活性化させて代謝を促進させる。壊死した細胞もそれを上回る早さで甦らせる。けれど人間の細胞分裂の数は限られているだろ?」
クラウスは今までの疑問が繋がって答えが見えた気がした。スティーブンが実年齢よりも老けて見えること、同じ孤児院の子供達がスティーブンのことを分からなかったこと…。知らず拳を強く握り締める。
「それは君が望んで入れたものなのか?」
スティーブンは微笑んだまま答えなかった。クラウスは頭を殴られたような衝撃を感じる。牙狩り組織への不信感は拭いようもない。
「ただ、物理的な攻撃にはあまり効かなくてね。血凍道によるダメージしか回復させてくれないんだ。まぁ例外はあるけど」
スティーブンの顔と肩の傷は痛々しい包帯に覆われている。先程交換したばかりなのに、もう鮮血が滲んでいた。
彼の技は文字通り寿命を削る。強ければ強いほどその代償は大きい。悲痛な表情を隠そうとしないクラウスにスティーブンは軽く腕を叩いた。
「血液を武器とする牙狩りはみんな命を磨り減らして戦っている。俺だけのことじゃないさ」
「……」
遠い目で空を仰ぐスティーブンにクラウスは押し黙る。
「シスターはよく俺のことが分かったと思うよ。多分昔の知り合いに会っても誰も分からないんじゃないかな」
「…それは彼女が母親だったからだろう」
彼は軽く目を見張ってエメラルドの瞳を見返す。そうだね、と微かに聞き取れるくらいの声で呟いた。
****
式は終盤だ。まさか彼女の人生の晴れ舞台に呼んでもらえるとは思っていなかったので素直に嬉しかった。他の兄弟達の顔も見える。それとなく彼らのその後を見守ってはいたが、顔を合わせたのは何年ぶりか。勿論スティーブンが一方的に知っているだけだ。大半がラインヘルツ家の援助している孤児院に入れてもらうことが出来、今では半数が結婚して家庭を持っている。クラウスには感謝してもしきれない。まともな教育が受けられたおかげで就職先にも困らなかったようだ。子供達は牙狩りの血を覚醒させた者も多かったが、組織に属したのは彼女…ケイだけだった。シスターが守った命だ。本音を言えばこの世界とは無縁のまま生きていて欲しかった。
本部で再会した時は問答無用で顔面を殴られた。女の子なのにグーは無いだろう、と抗議したスティーブンに今度は愛銃を突き付けてきたので、言い訳する機会を失ってしまった。彼女とはそれから何度も一緒に仕事をしたが、あの時のことは一度も触れてこない。知らないはずはないのに。
「スティーブン。君はそろそろ名乗り出てもいい頃じゃないかね?」
クラウスとの付き合いも長くなった。顔を見ただけで何となく言いたいことが分かるくらいには。
「俺は彼らから母親を奪ったも同然だ。今更言えないよ」
自嘲気味になってしまうのは許して欲しい。柄にもなくしんみりしているのが分かる。
「それは私も同罪だ。君一人の罪ではない」
「クラウス、それは違う。君のお陰で俺もシスターも救われたよ」
「そうだ。君がいたからシスターは救われたのだ」
「……」
「少なくとも彼女はそれを理解している」
クラウスの言葉に視線を上げると、彼女…K・Kは離れた位置にいるスティーブンに向かって大股で歩いてくる。置き去りにされた夫は優しく微笑んで、K・Kの背中に手を振っていた。
「私の結婚式で辛気臭い顔しないでくれる!?」
睨み付けてくる青い目は昔と変わらない。
「ちょっとK・K…」
苦笑いしたスティーブンの手にブーケを押し付けた。
「次はアンタの番よ、エステバン」
「はい?」
流暢なスペイン語で話したK・Kとスティーブンにすっかり大人になった兄弟達が集まってフラワーシャワーをかける。驚きを隠せないスティーブンに、ようやくK・Kは溜飲を下げたのかにんまり笑った。
年齢からしてエステ兄でしょ、早く兄ちゃんの結婚式に出たいなぁ、いや無理無理、顔は良いのにねぇ、いっそクラウスさんに貰ってもらいなよ、いやエステ兄は仕事が恋人でしょ、まだまだ難しそうねぇ、
飛び交う懐かしい言語に一瞬過去に戻ったかのような錯覚。髪についた花びらがはらはらと落ちる。
「お前達…」
握り締めた十字架が脈打つように温かい。
兄弟達が積年の想いを込めてスティーブンを泣かすまで、あと5分。
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どうでもいいあとがき。
本当はシスターを殺したのはスティーブンで孤児院の子供達には最後まで正体が知らされないENDにしようかなーと思っていました。そのほうがスティーブンがクラウスに依存するかなーなんて思ったりして。。
でもウルフウッドがあーいう感じだったから・・スティーブンを幸せにしたかったんです。それだけ!
ここまでお読み頂きありがとうございました!
次からはおまけです。
K・Kとスティーブンは兄妹っぽいと思っていたので更なる捏造を重ねました。。
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ヘルサレムズ・ロットの高級レストランでスティーブンが接待しているのは、牙狩り組織における幹部の一人だった。灰色の頭髪を後ろに流して、丸い眼鏡をかけており、歳は70半ばといった具合か。ワイングラスを持つ手には深い皺が刻まれている。
「聞きしに勝る魔境だな、ここは」
「恐れ入ります」
営業用の完璧な笑顔でスティーブンは応対する。相手は既に現役を退いたとはいえ組織の上役を長年勤め上げている曲者だ。
「で?ライブラは牙狩り本部の手を離れたいと?」
「ええ。暖簾分けという形になるでしょうか。勿論今後も血界の眷属に対しては協力が必要不可欠ですから、そこは今まで通りにご高配を賜りたく存じます」
「上から目線だな」
鼻で笑う老人がワインを一口含む。ごくりと枯木のような喉が上下した。
「資金はともかく人材はどうする?今でも本部から人材を派遣されているだろう。牙狩りの血を持つ者は少ない。育てるにも時間がかかる」
「そう言えば貴方は後継者対策に奔走されていましたね」
スティーブンの口調が変化しグレーの瞳が剣呑な光を湛えて笑む。からん、と老人がフォークを取り落とした。
「ヘルサレムズ・ロットは世界の覇権を握る場所と言われている。その中で我々ライブラが活動する意義は大きい。知っていますか?本部の精鋭の殆どが今やライブラに属しています。またここは人間だけではない。異界の住人が多数暮らしている。神と呼ばれる者も、不本意ながらその恩恵にあずかった者も。牙狩りの血だけが必要とされる時代は終わったのですよ」
返答はない。胸を押さえて脂汗を流す老人にスティーブンは微笑む。
「貴様…何を盛った…っ…!」
「何のことです?ああ、ここのワインはお口に合いませんでしたか?異界産のフルーツで出来ているそうですから」
老人の唇は紫色に変色してきている。手足が痺れて普通に座っていることも困難だった。
そうそう、とわざとらしくスティーブンが老人に明るく声をかけた。
「私も貴方のお陰でここまで来れたのですよ。感謝しています」
最後のプライドなのか床に這いつくばるのを拒否してテーブルにすがり付く。
「はっ…そうか…!貴様、は…あの小娘の…」
「お喋りが過ぎたようですね。ご老体にはそろそろ隠居をお勧めします」
喘ぐような呼吸の中、老人はスティーブンを睨み付けた。
「こんな、ことをして、身の破滅だとは思わん、のか…!」
「ここでは些細な出来事ですよ。何が起こるか分からない場所ですから」
何処にでもありそうなリボルバーの銃をスーツの懐から取り出して撃鉄を起こす。 老人の目が限界まで見開かれ、恐怖の色が浮かんだ。
そう、この街では銃で撃たれるなど蚊に刺されるくらい良くある話だった。
「おやまあ、スティーブンせんせーじゃないの?」
半分以上は私怨での一仕事を終えて外に出ると真っ赤なコートを翻した金髪の美女が立っていた。スティーブンの顔が引き攣る。
「K・K。君何故ここに?」
スティーブンの質問には答えず襟を掴んで引き寄せる。くん、と匂いをかいで端正な顔をしかめた。
「硝煙の匂いね」
その言葉に天を仰いで額に手を当てる。
「血凍道を使うとアンタだと直ぐにバレる。賢いやり方だと思うわ」
にっこりと弧を描いた唇に、スティーブンは「あ、まずい 」と思った。そのままパァンと小気味良い音が響く。
「いった~~~」
頬の傷の上から見事なくらいの紅葉が咲いた。
「はっ、いい気味ね。スカーフェイス」
「酷いじゃないか、K・K」
「酷いのはどっち!?どうしてアタシに声をかけないの!?何でも一人で抱え込んで…!!アタシにも復讐する権利はあると思うけど!!?」
「シィー!声が大きいってK・K!」
なんだなんだ痴話喧嘩か?そんな言葉と視線を集めて更にK・Kが憤る。
「こんな男と痴話喧嘩ですって!?冗談じゃ無いわよ!!」
哀れな通行人はK・Kの怒気に当てられて顔面蒼白だ。
「まぁまぁ…」
青い目がきつくスティーブンを睨み付ける。
「何も無かったよ。本当だ」
「この嘘吐き男…!」
K・Kは苦い顔で吐き捨てる。溜め息をついて金髪をかき上げた。
「で?独立の話は本当?」
「何処で聞いてくるのかなぁ…」
スティーブンは呆れたように呟く。
「クラっちは知っているんでしょうね」
「僕の独断で決められるわけないじゃないか。心配しなくても、今はまだ牙狩りの傘下にいるよ。今はね」
「この腹黒が…」
取りあえず戻ろうかと言ってタクシーを捕まえ、K・Kと並んで後部座席に乗り込む。何やら戦隊モノのような音楽が流れて、横を見ると彼女の携帯からのようだった。
「ハァイ、ママだよー」
猫なで声のK・Kに苦笑いすると鳩尾に肘が入る。スティーブンが腹を抱えて痛みに耐えている間に要件は終わったようだ。
「君は結婚したら家庭に入ると思っていたよ」
目をぱちくりしたK・Kはスティーブンの言葉に呆れ返る。
「それはアンタの願望でしょ。私は辞める気は無かった。大切なものを守りたくてこの力を手に入れたんだから」
そこには一切の迷いは感じられない。守れなかったものが彼女をここまで大きくしたのだろう。
「男らしいなぁ」
「さっきから喧嘩売ってんの?」
降参の意を込めて両手を上げて肩を竦める。
守りたいもの、か。スティーブンは思考の海に沈み込んだ。
子供の頃は無論あの日溜まりのような場所だった。スターフェイズ家に来て牙狩りになってからは、あの子達の平穏を守りたいと思っていた。あの事件の後からは正直何の為に戦っているのか分からないことが多かった。今はどうだろう。
ライブラのあるビルに到着して、見た目は何の変哲も無いエレベーターへ乗り込む。幾重にも刻まれたセキュリティや術式をくぐり抜けるとようやくいつもの執務室だ。
ソファーの上ではレオナルドとザップが珍しく仲良く昼寝をしている。ツェッドは水槽だろうか。チェインは人狼局の仕事だっけ。紅茶の香りがするからギルベルトさんはキッチンだろう。クラウスは・・観葉植物に水を上げている後ろ姿が見えた。振り返って、エメラルドの瞳が穏やかに細められる。
「おかえり、スティーブン」
耳に馴染む低い声。
ああ、分かったよ。
この一言の為に、守りたいのはこの世界だ。
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