【大隅半島】
南九州
というとき
「三州」といわれることがあります。
江戸期の
薩摩藩がおさめていた薩摩・大隅・日向ですね。
昨日
ゴールデンウイークの4日間を大隅の義母のところで過ごした
家族のものが
『大隅』51号(2008年)と50号(2007年)を持って帰った。
年に1回、春に刊行されている。鹿屋など大隅半島に住む歴史好きの方の論文が掲載されている。
50号では、これまでの論文リストが掲げれれている。
総投稿者数は、226人。総テーマ数は、989編。
さいわい、
最近、この発行者である
大隅史談会
のホームページができた。
大隅半島の歴史を中心に最近の様子もアップされています。
ブログもある。
【尚五郎に関して】
私は
鹿児島散歩 さんの特設コーナーである「篤姫コーナー」を読んでいますが
テレビドラマの方は家族につられてみている程度で
毎回は見ていません。
『大隅』第51号(2008)では、
○ 巻頭言として
大隅史談会の会長松下高明氏の「篤姫ブームに寄せて」が掲載されています。
・尚五郎の「肝付家」のルーツは、大隅の高山である。
・婿養子先の「小松家」は、大隅半島の豪族・祢寝(ねじめ、地名に「根占」が残る)氏の直系である。
そこから
・・尚五郎こと小松帯刀は、島津氏以前に大隅に土着し、戦って敗れ去った2大豪族・肝付氏と祢寝(ねじめ)氏との「合成エキス的英傑」ということになる・・
と書いています。
このほか、ある程度本格的な論文で
「垂水島津家と篤姫」中島信夫(垂水在住)p55-p60がある。
地理的な関係で
鹿児島で歴史研究といえば、薩摩半島のものが多いが
この『大隅』をみると
実にさまざまなテーマで大隅半島の各地で祖先のあとを丹念にたどっている方がいることがわかります。
*この『大隅』のバックナンバーはこれまでも断続的に見てきましたが、「社会福祉」に直接関連するものはなかったような気がします。
*朝の記事で
私は、「異郷鹿児島に来た」と書きました。
46年前に、東京で、大隅半島の真ん中(高山)から出てきた人と会ってからは
(婿殿ということで)この大隅半島へは何度かきています。「異郷鹿児島市」というべきか。
南九州
というとき
「三州」といわれることがあります。
江戸期の
薩摩藩がおさめていた薩摩・大隅・日向ですね。
昨日
ゴールデンウイークの4日間を大隅の義母のところで過ごした
家族のものが
『大隅』51号(2008年)と50号(2007年)を持って帰った。
年に1回、春に刊行されている。鹿屋など大隅半島に住む歴史好きの方の論文が掲載されている。
50号では、これまでの論文リストが掲げれれている。
総投稿者数は、226人。総テーマ数は、989編。
さいわい、
最近、この発行者である
大隅史談会
のホームページができた。
大隅半島の歴史を中心に最近の様子もアップされています。
ブログもある。
【尚五郎に関して】
私は
鹿児島散歩 さんの特設コーナーである「篤姫コーナー」を読んでいますが
テレビドラマの方は家族につられてみている程度で
毎回は見ていません。
『大隅』第51号(2008)では、
○ 巻頭言として
大隅史談会の会長松下高明氏の「篤姫ブームに寄せて」が掲載されています。
・尚五郎の「肝付家」のルーツは、大隅の高山である。
・婿養子先の「小松家」は、大隅半島の豪族・祢寝(ねじめ、地名に「根占」が残る)氏の直系である。
そこから
・・尚五郎こと小松帯刀は、島津氏以前に大隅に土着し、戦って敗れ去った2大豪族・肝付氏と祢寝(ねじめ)氏との「合成エキス的英傑」ということになる・・
と書いています。
このほか、ある程度本格的な論文で
「垂水島津家と篤姫」中島信夫(垂水在住)p55-p60がある。
地理的な関係で
鹿児島で歴史研究といえば、薩摩半島のものが多いが
この『大隅』をみると
実にさまざまなテーマで大隅半島の各地で祖先のあとを丹念にたどっている方がいることがわかります。
*この『大隅』のバックナンバーはこれまでも断続的に見てきましたが、「社会福祉」に直接関連するものはなかったような気がします。
*朝の記事で
私は、「異郷鹿児島に来た」と書きました。
46年前に、東京で、大隅半島の真ん中(高山)から出てきた人と会ってからは
(婿殿ということで)この大隅半島へは何度かきています。「異郷鹿児島市」というべきか。
恐らく肝付家・小松家の先祖代々の墓も存在するのではないかと思います。
それは平安末期に近衛家に地頭として任ぜられ来た島津氏以前から、この土地に暮らしていた人々です。
大河ドラマ”篤姫”で斉彬が「家名を絶やすには惜しい」と言わしめた理由は、そこにあるように思えます。
ましてや肝付家・小松家ともに大隈で勇を競った家柄だけに斉彬の思いは強かったに違いありませんね。
コメントありがとうございます。
吾平山陵へは
大昔いきました。
吾平の町はバスから見るといい雰囲気ですね。
今度
吾平山陵へいけば
肝付家・小松家の墓が発見できたりして
興味深いことだと思います。
紹介した
大隅史談会会長の巻頭言に
尚五郎を見出したのは久光とあり
テレビの「斉彬が見出した」とちがうので
ミスプリかとも思っています。
念のため、追記します。
尚五郎さんを介して西郷・大久保両氏を紹介された斉彬ですけど尚五郎さんを重用したのは久光です。
そういう意味で「見出した」とするのはあながち間違いでは無いようにも思えます。
久光の小松帯刀・大久保正助(利通)への信頼は半端ではなかったようで2人が「ノー!」と言えば無理強いしなかったようですし。
疑問が解けてよかったです。
蛇足ですが
この巻頭言には
「大隅にも英傑の伝統あり」
の意図が含まれてはいますが
正確にも
「篤姫ブームは指宿どまりで
大隅にはおよぶまい」
と予言?されています。