「もののあはれ」の物語

古き世のうたびとたちへ寄せる思いと折に触れての雑感です。

お中元という言葉

2007年07月12日 | 塵界茫々
 折々の季節に、さくらんぼ、ラ・フランサ、林檎とお心づくしを届けてくださる山形の人へ、感謝の気持ちを伝えたくて、今年は辛子明太子を送ることにしました。

 配送をお願いする段になって、のし紙はどうしましよう。といわれて、時季としては「お中元」でいいのでしょうが、なにか引っかかるものがあって、選んだのし紙に、気持ちをそのままに、“感謝のおしる志”と書いて、名前だけを入れました。

 いい歳をして、型破りを気取ることもないとは思いましたが、カードの用意をしてこなかったので、親しい相手だし、この方が私の気持ちの納まりがよかったのです。

 当地方では、七夕も、お盆も、従ってお中元も、ひと月おくれで行う人のほうがまだ多いようです。この日も平日の午後、老舗のこの店の客は私だけでした。

 ところで、お中元という言葉ですが、道教に由来する中国伝来の三元(陰暦1月15日が上元、天の神、7月15日中元、水の神、10月15日下元、地の神の生まれた祭日)のうち、中元だけが、わが国古来の霊祭や、盂蘭盆の行事と重なったことから、死者へのお供えもの、やがては夏の贈りものの習慣として根付いたもののようです。

 お中元に拘りを感じたのは、この言葉が半ば形骸化して、義理を果すような一種の素っ気なさを内包するのを否定できない気がしたからです。

 今では、慶弔の、のし紙の約束事も、結びのきまりも度外視されて、驚くような場面に遭遇します。こうして伝統文化が一つづつ失われて行くのでしょうか。

 


母が遺したサボテンに今朝1日だけの花が開いていました。


気まぐれの読書

2007年06月26日 | 塵界茫々
 雨の日は、気まぐれに手元の本を手にします。
 たまたま題名に惹かれて開いたのが、古田史学の系統の方(新庄智惠子)の書かれたもので、”謡曲の中の九州王朝“でした。
 熱っぽく語られる九州王朝の存在。白村江の戦いに敗北し、4百隻の舟を一度に失い、筑紫君も捕虜となってこの王朝が最後を迎えるに至ったとする説は、九州人の身びいきもあって面白く、終りまで一気に読んでしまいました。

 多くの邪馬台国論争や“隠された十字架”(梅原 猛)の法隆寺論が持っていた歴史認識の意外性と同じ種の興味をそそられて、馴染みの曲目に関しての解明には、謡本を出してきて当りながら、時に驚くことや、納得する点もありました。

 記されている歴史的考証の当否を論証することなど到底できませんが、長年にわたって自分の頭にすりこまれてきた古代史を、根底から考え直すには、相応の時間が要ります。

 ただ、ものの見方の多元性という点では、とかく、単純に教えられた通りにしか見ようとしなかった自分の愚直さを反省する材料にはなりました。
 万葉集に関係する記述もかなりの量があります。

 折りも折、沖縄慰霊の日には、歴史教科書から消える「軍主導の自決」に関して、住民の方たちは反発の声を挙げていました。

 歴史が、勝者の手で記される時の事実の変貌は、太平洋戦でも事例に事欠かない事実です。時間の経過とともに、政治的に不都合な点は、表現が弱められ、やがて削られてゆく現実を考え合わせると“九州王朝の滅亡“も、ある種の説得力を持ちます。

 良寛の書、詩、和歌に日本の美を想い、古代史の渺茫に遊ぶ、心満たされる雨の一日でした。



「違いがわかる」人逝く

2007年06月13日 | 塵界茫々
 観世流シテ方の観世栄夫さんが8日に亡くなられました。ピアニストの羽田健太郎さんに続く惜しい方の訃報です。
“違いがわかる男“のキャッチコピーでコーヒーCMに出ておられましたから顔を知られているのは、能楽師の誰よりも多いはずです。

 振幅の大きかった生き方は、能楽の世界の人にしてはやや異色でしょう。
 観世流の宗家の次男に生まれながら、喜多流の強さに惹かれて移籍して10年、さらには、能楽の世界から離れて、現代演劇、映画、演出家、俳優と多彩で、精力的な求道でさまよい続けておられました。もう能楽には戻られないと思っていましたが、最後は観世の能楽に戻られたようです。

 記憶に新しいのは、喜多の神遊『箱崎』です。長く上演されることの無かったこの復曲は、この方なればこそでしょう。
 意欲的な模索で成し遂げようと目指されたものが何だったのか、わかるはずもありませんが、能の世界の今後のありようを考えておられたことだけは、おぼろげながら察せられます。

 遠くなっているとはいえ、かつて同じ流派の端に列なっていた身として、心より哀悼の思いをささげます。

 「思えば假の宿、思えば假の宿に心留むなと人をだに、諌めし我なり、これまでなりや帰るとて、即ち普賢菩薩と現れ舟は白象となりつつ、光と共に白妙の白雲にうち乗りて西の空に行き給ふ」
『江口』のキリを心をこめて謡うことにします。



白雲を思わせて“珍至梅”が盛りです。


半年検診

2007年04月23日 | 塵界茫々
 速いもので手術から半年が経過しました。今日は半年検診が3時に予約されていましたので、診察前に血液検査他の検査を済ませるため、2時に到着するよう家を出ました。

 毎日通った銀杏並木も今は芽吹きの季節で,鮮やかな緑の新芽をまとった樹々が、活き活きと萌えていました。昨年秋には、日に日に鮮やかさを増してゆく黄金色の葉を、くぐもる目に留め、やがて鳥を思わせて舞い散る姿に、人の命の無常を重ねて見ていたのとは格段の様変わりです。

 体重の増加も、その他の検査結果が示す数値は、転移の可能性も含めて、すべて問題なしということで、次回は1年目に当たる10月が予約されました。
 ご心配くださって、温かい励ましをいただき、お見舞いくださった、ブログでの、お顔も存じ上げない方々に、心からお礼申し上げ、ご報告いたします。
 80歳を越しての手術です。どういう経過を辿っても致し方ないと覚悟していましたので、なにか大いなるものの力で生かされていると実感しています。

 ほっとして、緊張が解けると、祝杯がつい重なってしまいます。今宵だけは大目に見てもらうことにして、私だけは、存分にいただきました。



トラブル

2007年04月13日 | 塵界茫々
 前から様子の怪しげだった私のパソコンが、閉じようとしたとき反抗しました。

 スタート画面が知らん振りで出てこないのです。言語バーも、_Aから、頑として姿勢を変えてくれません。待てど暮らせどお呼びでないとばかりの素気なさ。ついに強制終了。それも最後の手段に訴えて、電源ボタンを消えるまで押すという終了です。
 付いていたガイド本2冊を反復読んでも解決の手がかりもなく、困り果てて、メーカーのサポートセンターへ電話をしました。

 待つこと7分、よく訓練された若いかたが、丁寧すぎるほどの言葉づかいで応対してくれました。目を白黒させて動転している相手に、冷静、的確な指示で、ゆっくりと段階を追って2時間、不具合の原因を探ってつきあってくれました。

 「ご臨終ですかねぇ」「えっ?」「いえ、もうこのパソコン、くたびれ果てて、限界でしょうか?」「いいえ、そんなことはないと存じます。」彼女の声は澄んで、なごやかでした。

 先ずは一時ファイルの削除、クッキーの削除、履歴の削除とはじまって、どうやら常駐のファイルに問題があるようだということになり、常駐ファイルをことごとく外して、同じパソコンとは思えないほどスムースに動くようになりました。

 喜び勇んでインターネットにつないだところ、ファイルとついたものは片端からチェックを外したので、ついでにセキュリティのファイルも削除してしまったと見えて、トップにいつも見慣れたノートンのアイコンがいません。もはや対応してくれる時間外です。
 ウィルスへの恐怖から、パソコンはそっとお休みいただき、翌日また気をよくしているサポートセンターへいそいそと電話し、チェックを戻して、一件落着となりました。この日はおじさんが対応してくださいました。

 が、これで終わりではなく、次なるトラブルの残りは、プロバイダーのホームページから入ろうとして、IDを入力し、パスワードを入れても、更新ボタンを押しても、“表示できません”とつれない返事しか返って来ません。今度は、プロバイダーへ電話です。
 あれこれと試行を重ねること1時間半。セキュリティーの設定に問題があり、一旦すべてのセキュリティーを、再起動するまで外して作業を続けるということになり、無事めでたし、めでたしと相成りました。

 途中、セキュリティー画面が警告のため真っ赤に変色するのを見たり、こんな表示も出るのかと驚いたり、はじめて開かれる画面に興味を持つたりと、大忙しの緊張の連続でした。

 お蔭様で、今までの、のろまな怠け者とはうって変わった働き者に変身してくれました。この分だと、まだ余命がありそうです。



石版画 イギリス・画ーH・Alken 彫ーJ.Haris

同窓会総会

2007年03月31日 | 塵界茫々
 旧制女学校の総会で、議長をやらされました。
 2日前、事務局から人が見えて、総会での議長をお願いします。とレジメを渡されました。
 不慣れだし、近頃は自分でも老耄を自覚していることですからと、お断りしましたが、「もう、みんな年寄りです。」といわれてしまいました。

 いつもお付き合いいただくグループでは、どこでも、たいてい最年長ということになっていますので、ついいつもの甘えが口に上ったものです。

 考えてみると、私たち25回生の下には、2期しかありません。27回までで、あとは新制高等学校に統合されていますから、この会では若手グループです。引き受け手がなくて困っているといわれて、引き受ける羽目になりました。

 この歳になると、名簿には故人の欄の記載が増え、総会への出席も、自分の事情だけでなく、家族の介護等でままならない人も多数です。
 各期の代表幹事を中心に、本日の出席は97名、議事は、案じたような紛糾もなく無事に終了できて、ほっとしました。

 出席者の最年長は、昭和10年卒業の14回生で、今年90歳の方でした。矍鑠として、杖の助けもなく、明るい「乾杯!」の声も堂々としておいででした。
 昨年までは10回生が1名出席されていましたが、今年の出席はありませんでした。
 今年卒寿と米寿のかたに小さな花束の贈呈が行われたのが、女学校の同窓会らしい盛り上がりでした。
 久しぶりの縦の会合では、かつて戦時下の学徒動員で、風船爆弾製造に明け暮れた小倉造兵廠での日々、食糧生産で、校庭のそこここを耕したことなどが話題になります。
 統合で学籍は移って、いまは母校と呼べなくなっている学校をお借りしての今回の総会ですが、巣立ちの場であった事実は紛れもなく、春休みの校庭を走り回る体育系の男子生徒の姿を新鮮な目で眺めました。

 今日満開の桜だけは往時のまま、年老いて枯れ細った姿ながら、柊坂(戦時中は報国坂と呼んでいました)の長い両脇で出迎えてくれました。60年ぶりの対面でした。

 この会が、あと何年続けられるか、会員数はひたすら減り続けるだけですから、私たちの期の前後だけで運営を維持できる期間が尽きると、その後は統合後の高等学校にお任せすることになります。

下の写真は、入学した頃の面影を伝える校舎の模型と、校門から今も続く桜並木です。






一周忌法要

2007年01月24日 | 塵界茫々

 母の一周忌法要を営みました。これで一区切りです。
 料亭での会食が終わって帰宅した後、1年の間掛けていた、仏事用の掛け軸を、早春の華やいだ画軸に替え、座布団も重ねて、片付いた座敷に座って去来する思いをかみしめていました。

 贈られた蘭や百合の豪華な花々に飾られ、供物の中で母の肖像はにこやかに微笑んでいます。

 思えば慌しい1年でした。そうでなくても、年を重ねるごとに歳月の過ぎるのが早く感じられるのですが、1月に母を送って以来、周辺に彼岸へと旅立つ人も相継ぎました。お互いにそういう年齢に達したと言うことです。

 仏事が山を越し、秋風の立つ頃、あるじに胃癌が発見され、どうにか手術にこぎつけたものの、感染症で思いがけない長期の入院となりました。
 お正月を自宅で迎えられ、その後の回復が極めて順調なのをよしとしなくてはなりません。
 亡き人たちの加護があったと感謝しています。お顔を見知らぬブログの方々からも胸に迫るお見舞いや、励ましのお言葉をいただきました。


 兄弟、親族が集い、こうした形での供養が営めるのは、私の場合、三回忌までと思っています。その後は、どのような法要になることだろうと思ってしまいます。 もう、体のほうが思いとは別に、動いてくれません。
 こうしてだんだんと身軽になってゆくのもいいものかもしれません。
”老いの品格”は、所詮凡俗の身に、期待しようもなく、これが今の実態です。
 
 

去年今年

2007年01月02日 | 塵界茫々
 俳句の新年の季語に「去年今年」(こぞことし)という語があります。
一夜を境に昨日が去年となり初昔で、今日は今年という、時の歩みに対しての感慨を言う季語のようです。ある人は時の迅速を、あるいは、うって変わる清新な展開を捉えて多くの句があります。

 去年今年貫く棒のごときもの  あまりに有名な高浜虚子の句ですが、棒のごときの直喩がいまひとつ身に添わなくて敬遠してきましたが、最近では実感を持って感じ入っています。
 
 去年といい、今年と区切って言ってみても、そこには時間の連続した流れがあるだけで、いくら区切ってみたところで、棒のようなもので貫かれて断ち切ることのできない時の流れが厳然と存在するというのでしょうか。

 年寄ると、新年といっても別段に改まった喜びがあるわけではなく、なんら変わるところもない月日があるだけです。
 しかし、気持ちのどこかでは、煩悩具足の人間の性で、不本意だった古い歳月を清算して、なんらかの期待を新しい年に託すことを性懲りもなく繰り返して、年迎えの準備をしているようです。

 初詣も、年始の来客もない今年は、運動不足を解消すべく、家の周りを幾巡りもして、草や樹々と存問を交わしています。庭に漂う香に、水仙が花を開き始めているのを発見し、遅れていた蝋梅が、下枝から2,3輪花を開いて誘っているのを見付けました。

 花だけは私とは好みを異にして、華やかな洋花を愛好した母が、蝋梅だけは殊のほか気にいっていました。母の命日辺りが今年は満開になるようです。



くれてゆく年

2006年12月31日 | 塵界茫々
 自分が高齢になるにつれ、一年の過ぎ去る速さを、侘しさと一抹の悲しみを伴ってしみじみと感じさせられます。
 平安時代には7月の盂蘭盆のように、大晦日にも魂(たま)祭りが行われていました。この風習はもう姿を消してしまったようです。僅かに除夜の鐘に仏事の名残をとどめ、神社の初詣が盛んです。

 今年は、昨年大晦日の入院から始まった、母の彼岸への旅立ちを見送ることで年が明け、七日ごとの仏事、四十九日,初彼岸、初施餓鬼、新盆と一連の仏事で月日が過ぎてゆきました。
 その中で、連れ合いの胃がんの全摘出手術という出来事に翻弄される三ヶ月が後半に加わりました。今まだその続きの混乱の中にいます。
 辛うじての彩りは、晩春の慶州への旅と、師走の奈良への温かな思いやりに包まれた旅があったことぐらいです。

 世の中の出来事のうち、スポーツ界では、逆転からの王ジャパンがワールド・ベースボール・クラシックで、初代の優勝を飾ったこと。夏を湧かせた高校野球で、優勝戦が再試合となった感動が印象に残っています。
 その中にあって、様々な「引退」を見ました。
 有馬記念を優勝で飾っての見事なディープ・インパクトの引退は別として、ワールドカップに敗れての中田英寿、自ら力の衰えを自覚しての新庄の引退、イナバウア旋風を起こした荒川静香、まだまだ若い力を残している人たちが、表舞台から去ってゆきました。
 そして数知れぬ無名の「引退」が存在します。やがて団塊の世代という嫌な呼称で括られる人々の引退が控えています。 こうした「引退」にどうしても目が注がれるというのも、自分の人生からの引退に重ねてのことでしょう。

 来る年が穏やかな平安に包まれることをひたすら祈るのみです。この一年を支え励ましてくださった皆様に心より感謝します。ありがとうございました。

     年ゆくと水飲んで水しみとほり     森澄雄



画像は浄土宗総本山、知恩院での除夜の鐘の試し撞き。今月27日 NIKKEI NETより。

「冬至 冬中 冬初め」

2006年12月22日 | 塵界茫々
 今日は冬至です。亡き母がよく口にしていたのが、「冬至 冬中 冬初め」です。

 冬至という言葉の持つイメージよりも、私たちの地方では、本格的な冬の訪れはずっと遅れ、年を越して、一月下旬から二月にかけてです。従って、冬至とは、本格的な冬支度の始まりの日という捉え方をしています。今日も小春に戻ったような暖かな日差しです。

 冬至は北半球では最も日が短いとされていて、この日を境に日脚が畳の目一つずつ(母は米粒一つずつと言っていました)長くなるといわれています。
 また、冬至は”一陽来復”ともいわれて、陰が極まって、陽に帰る転換の日でもあります。これ以上の災いが訪れることのないよう、祈るとします。
 
 我が家のしきたりも、冬至の日は柚子湯をたて、カボチャを食べるという、どこの家でも行われている習慣と同じですが、それを頑固に踏襲してきました。

 冬至南瓜戦中戦後鮮烈に という小高和子さんの句にあるように戦中派の私には南瓜の黄色は、飢餓の辛い想い出につながるものの、中風と風邪を避けるとあれば、必ず食べねばなりません。南瓜のカロチンは、体内でビタミンAにかわって肌や粘膜を丈夫にし、感染症などに対する抵抗力をつけてくれるそうですから。

 入院中お世話になった方々へのお礼の挨拶まわりもやっと一段落して、今年は昼間から柚子湯です。
 裏年で実が少ないのですが、喪中とあって、今年はおせち用の取り置を心配しなくていいので湯殿へ心おきなく運びました。

    息災の言葉むなしく柚子の湯に  
    昼の湯に柚子を浮かべて満ちたりぬ
    悲しみも軽く浮かべて柚子寄り来
    ほのぼのと柚子を遊ばす胸の前
    到来の銘酒封切る柚子湯かな

 残り少なくなった今年もやはり、岸田今日子さん、青島幸男さん、と訃報が続いています。

 古い知り合いの、鶴島正男さん(火野葦平資料館館長・襤褸の人・の著者)が亡くなった記事を昨日の夕刊の片隅に見ました。ご冥福を祈ります。


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