某の日々是好日

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設楽原古戦場①

2018年05月12日 22時43分30秒 | 史跡めぐり



「設楽原古戦場」に行って来ました。
       
設楽原古戦場は、1575年(天正3年)5月21日、三河国長篠城をめぐって、織田信長・徳川家康連合軍3万8000と武田勝頼軍1万5000との間で行われた戦いの主戦場となった場所であり、数多くの武田家臣が戦死し、武田家凋落の始まりとなった戦いです。
        
古戦場には、武田家重臣の墓や戦死地の石碑、織田軍が築いた馬防柵(復元)などが広範囲に渡って点在しています。
もう数え切れないほど訪問した設楽原古戦場ですが、今回は初めての場所を中心に歩いてみました。


まず、連吾川周辺の激戦地に復元された馬防柵です。





天正3年(1575)「設楽原の戦い」に用いられた馬防柵を再現したものである。連吾川に向かって右側の下手に徳川軍のものを、左側の上手に織田軍のものを、区別して構築してみた。両者の様式には、攻口(出入り口)の設け方に違いが認められる。
当時、天下無敵とうたわれた武田の騎馬隊をこの柵で防ぎ止め、その内側にあって鉄砲でねらい撃ちにするために造られたもので、延長2粁余(2km余)に及んでいた。決戦の正面となったこの連吾川沿いに三重の柵を構え、背後のの弾正山を越えた西側を流れる大宮川沿いには、さらに一重の柵を設けて万一に備えていた。
織田・徳川連合軍にとっては、勝利を呼ぶ重要な布石であり、逆に武田軍にとっては、勝利を阻む痛恨のしがらみとなったのである(案内板より)。




馬防柵左手には「土屋昌次戦死之地」



土屋昌次(1545?~1582)とは・・・


武田晴信の守役である金丸虎義の次男。正しくは「土屋昌続」。
「甲陽軍艦」によれば、信玄側近衆として三枝昌貞、曽根昌世、真田昌幸、甘利昌忠、長坂昌国らと共に「奥近習六人衆」の一人として信玄の傍近くに仕えた。
第四次川中島の戦いでは信玄の本陣を守り切り、それが大きく評価され甲斐の名門である土屋姓への改姓が許され、土屋氏を名乗る。信玄亡き後は家督を継いだ勝頼に仕える。
設楽原の戦いでは、織田軍が作った馬防柵からの攻撃で武田軍は次々と倒され、土屋昌次も敵の三重柵の二重まで突破したところで一斉射撃を受け戦死したという。





「柳田前激戦地」
突撃する武田軍と迎え撃つ織田徳川鉄砲隊との激戦があった場所で、連吾川を渡る橋の近くに「石碑」と「いろはかるた」があります。合戦当時、この付近は水田や泥沼地になっており、武田軍の騎馬は足を取られて思うように動けなかったようです。







「甘利郷左衛門尉信康の碑」
甘利信康(?~1582)とは・・・
甘利虎泰の子として誕生。武田信玄、勝頼2代に仕えた。
1567年に兄・信忠(昌忠)が死去。信忠の子・信頼が幼少であったため名代を務めていたとも考えられている。
「甲陽軍鑑」では左翼の山県昌景隊に「あまり衆」が属していたと記される。





丸山彭氏著「長篠合戦余話」に収録された地元の伝承によると、信康は柳田前激戦地を担当していた。武田軍が敗れ撤退を始めると、信康は織田・徳川方の防御陣地づくりに協力した柳田地区の住民を呪いつつ、庄屋の屋敷門扉に寄りかかり、立ったまま切腹したという。





「甘利郷左衛門尉信康の碑」から北へ750mほど歩くと、「丸山」という小さな独立丘があります。
この丸山には、当初、織田方の佐久間信盛が6000の兵で守備していた。
馬場美濃守信房は700の手勢を二手に分けて攻撃し、佐久間隊を落として丸山を占拠した。











丸山から東へ900mほど行った田んぼの中にある「甲田」
「長篠合戦余話」によると、設楽原合戦で武田方の敗色が濃くなり、側近や馬場信房らに退却を勧められ、とうとう武田勝頼も退却を決意し、武田家重代の諏訪法性の甲を脱いで初鹿野伝右衛門に持たせた。
伝右衛門は敵の追撃を食い止めながら退いたが、暑い日だったので疲れてしまい誤って甲を田圃に落としてしまった。これを見ていた小山田弥助は御家重代の甲でありもったいないと言ってこれを拾って持ち帰った。
このことから甲田の地名が起こったとのことです。









「真田源太左衛門尉信綱之碑・真田兵部丞昌輝之碑」
1574年5月に父真田幸隆の死去に伴い真田家の家督を継いだ信綱は、その翌年、設楽原の戦いに真田の兵を率いて参戦した。三尺三寸の陣太刀・青江貞を振って奮戦し、馬防柵を次々なぎ倒しながら敵陣に迫るが鉄砲部隊の銃撃によって弟の昌輝と共に戦死した。享年信綱39歳、昌輝33歳。
       
信綱の首は着用していた陣羽織に包まれて、家臣の北沢最蔵と白川勘解由が甲斐に持ち帰ったといい、この「血染めの陣羽織」は上田市の信綱寺に収蔵されている。





合戦当日に信綱が着用していたという鎧。









共に奮戦した禰津甚平是広、常田図書春清、鎌原筑前守之綱の墓。



真田源太左衛門尉信綱之碑・真田兵部丞昌輝之碑。




設楽原古戦場②」へ続きます。

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