某の日々是好日

本来無一物。身一つあれば何とでもなる

YES/東京ドームシティホール公演(2019年2月23日)

2019年02月23日 23時45分00秒 | LIVE


YES「CELEBRATING 50 YEARS OF YES」

東京ドームシティホール公演に行って来ました。
9月19日のZEPP NAGOYAに次いで今ツアー2度目の参加。



【本日のセットリスト】
-Set1-
01.Close To The Edge
02.Nine Voices (Longwalker)
03.Parallels
04.Clap
05.Madrigal
06.Fly From Here Pt I - We Can Fly
07.Sweet Dreams
08.Heart Of The Sunrise
-Set2-
09.Perpetual Change
10.Does It Really Happen?
11.Soon
12.Yours Is No Disgrace
-Encore-
13.No Opportunity Necessary, No Experience Needed
14.Roundabout
15.Starship Trooper

全15曲、2時間35分の公演でした。



今回の日本公演初出となる「Heart Of The Sunrise」「Perpetual Change」「Does It Really Happen?」「Soon」が新たにセットリストに加わり、その出来も◎。

名古屋公演の残念な演奏を聴いたからこそ、今回のセットリスト、内容には大満足。
特に「Soon」のイントロは、スタジオ盤そのままの音が醸し出され、「やればまだできるじゃん!」と上から目線。



わざわざ時間とお金をかけて上京した甲斐がありました。
明日、2月24日(日)は、同じく東京ドームシティホールにて「THE YES ALBUM」を再現する日本公演最終日。
メンバーの年齢を考えると、「これが最後かも」と悲しい気持ちになることも事実。
来日公演すべてに参加しても良かったよね・・・。







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松陰神社

2019年02月23日 15時00分00秒 | 史跡めぐり


松陰神社

東京都世田谷区若林に所在する。
東急世田谷線松陰神社前駅下車。

鎮座地にはかつて長州藩主の別邸があった。松陰が安政の大獄で刑死した4年後の1863年(文久3年)、高杉晋作など松陰の門人によって小塚原の回向院にあった松陰の墓が当地に改葬された。

1882年(明治15年)11月21日、門下の人々によって墓の側に松陰を祀る神社が創建された。
現在の社殿は1927年から1928年にかけて造営されたものである。



松陰の50年祭に際して寄進された26基の燈籠には伊藤博文、木戸孝正、山縣有朋、桂太郎、乃木希典、井上馨、青木周蔵などの名前が刻まれている。
松下村塾を模造した建物、頼三樹三郎、広沢真臣らの墓もある。松陰らが眠る墓域は幕末時代、徳川勢により一度破壊されたが、明治元年(慶応4年)、木戸孝允がこれを修復整備した。墓域には現在も、木戸が寄進した鳥居が残っている。

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八王子城跡

2019年02月23日 13時30分00秒 | 史跡めぐり


八王子城跡。
      
小田原に本拠をおいた小田原北条氏の、三代目氏康の三男、北条氏照(?〜1590)が築いた山城です。
天正10年(1582)頃に築城が開始され、天正15年(1587)頃までに滝山城(八王子市丹木町)から拠点を移したとされます。
    




豊臣秀吉の関東制圧の一環で、天正18年(1590)6月23日、前田利家・上杉景勝軍に責められて落城しました。
この八王子城落城が決め手となって、本拠の小田原城は開城、氏照はこの時小田原に籠城中で、兄の氏政と共に城下で切腹し、北条氏は滅亡しました。


御主殿の滝。

     
 
天正18年(1590)6月23日の豊臣秀吉の軍勢による攻撃で落城した際に、御主殿にいた女性や子ども、将兵たちが滝の上で自刃をし、次々と身を投じたといわれています。
その血で城山川の水は三日三晩、赤く染まったとの言い伝えが残っています(案内板より)。







八王子城合戦とは・・・
小田原征伐の一環として天正18年(1590)7月24日、八王子城は天下統一を進める豊臣秀吉の軍勢に加わった上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められた。当時、城主の氏照以下家臣は小田原本城に駆けつけており、八王子城内には城代の横地監物吉信、家臣の狩野主善一庵、中山勘解由家範、近藤出羽守綱秀らわずかの将兵の他、領内から動員した農民と婦女子を主とする領民を加えた約3000人が立て籠った。
豊臣側は前夜のうち霧をぬって主力が東正面の大手口(元八王子町)と北側の絡め手(下恩方町)の2方向より侵攻し、力攻めにより早朝には要害地区まで守備隊を追いやった。その後は激戦となり1000人以上の死傷者を出し、一時は攻撃の足が止まったが、絡め手側別働隊の奇襲が成功して、その日のうちに城は陥落した。氏照正室、比左を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられている。城代の横地監物は落城前に檜原村に脱出したが、小河内村付近にて切腹している。落城時に御主殿にいた北条方の婦女子や武将らが滝の上流で自刃し、次々と身を投じたと言われている。麓の村では城山川の水で米を炊けば赤く米が染まるほどであったと伝えられ、現代でも受け継がれている風習として、先祖供養にあずきの汁で米を炊いた「あかまんま」(すなわち赤飯)を炊くことは、この逸話がもとになっているといわれている。


北条氏照及び家臣墓。


    
北条氏照は、早雲の孫、氏康の子で、関東管領上杉家の老臣大石定久に代わって永禄2年(1559)頃、滝山城主となったとされています。氏照は、ほかに榎本・古河・栗橋など数城を併有されたとされ、後北条氏の勢力拡大に大きく寄与した人物でした。武蔵国と甲斐国の境に大規模な山城である八王子城を築いたことでも有名です。
   
天正18年(1590)の小田原攻めでは、豊臣秀吉の武将前田利家・上杉景勝らの軍勢に対する家臣中山勘解由らの防戦もむなしく八王子城は落城しました。兄氏政を助けて小田原城にいた氏照も、開城後、兄とともに秀吉から切腹を命じられました。
  
現在ある氏照の供養塔は、勘解由の孫水戸藩家老中山信治が氏照の死後100年忌の追善供養のために建てたものです。両脇には、家臣であった勘解由と信治自身の墓もあります(案内板より)。





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昭和天皇武蔵野陵

2019年02月23日 11時00分00秒 | 史跡めぐり


武藏野陵(むさしののみささぎ)は昭和天皇の陵。

昭和天皇は1989年(昭和64年)1月7日に崩御した。
平成元年1月17日には陵所地鎮祭が行なわれ、造営が始まった。同年2月24日に斂葬の儀(大喪の礼)が行なわれ、造営中の陵所に埋葬された。同月27日に「武蔵野陵」と命名された。

なお、陵の命名に先立ち、昭和天皇の柩に添えられた陵誌(墓碑)には、礼宮文仁親王(後の秋篠宮文仁親王)の揮毫により「昭和天皇 武蔵野陵 昭和六十四年一月七日午前六時三十三分崩御 平成元年二月二十四日斂葬」と刻まれている。また、この昭和天皇陵の造営により、墓地の名称が「武蔵陵墓地」と改称された。



大正天皇陵の北東に位置し、ほぼ南面している。陵の形態は大正天皇陵などと同じく、上部2段・下部3段の上円下方墳である。陵の形や拝所の構成などは一般拝所に段がないことを除けば大正天皇陵とほぼ同じだが、大正天皇陵より上円部の丸みがなだらかになり、また一般拝所から墳丘がある段までの高さが低くなっており、威圧感を減らす試みがなされている。



毎年1月7日に陵および皇居宮中三殿で昭和天皇祭が行われている。
当日は陵所に幔幕が巡らされ、皇族拝所に仮屋が設置されて祭祀が行なわれる。




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