某の日々是好日

本来無一物。身一つあれば何とでもなる

山本勘助生誕の地

2018年12月15日 21時46分30秒 | 史跡めぐり


山本勘助生誕の地。
          
山本勘助の先祖は清和天皇の後裔、森羅三郎義光の3世、山本遠江守義貞から出たと言われています。家は代々駿河国富士郡に住み、山本伝次郎幸綱になった時、三河八名郡賀茂荘の2500石を与えられ、賀茂の照山に住み着きました。この人が山本家第1代で、現在本願寺に墓があります。第2代は山本帯刀といい、前記を領して賀茂神社の神官をしていました。第3代は山本藤七郎光幸といい鶴巻に住むようになりました。この人には3人の男の子があり、長男を清七、次男を清助、三男を源助といいました。この源助が勘助の幼名です。山本勘助は、明応9(1500)年8月15日にこの地で生まれました(案内板より)。






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山本勘助の墓

2018年12月15日 21時17分30秒 | 史跡めぐり


山本勘助の墓。

戦国の昔、勘助は当寺住職念宗和尚と非常に親しく勘助が甲斐武田信玄晴信に召し抱えられた時、入道して道鬼斉と称し遺髪を和尚に託したのであります。永禄4年9月10日川中島の戦いにおいて勘助の死を知った念宗和尚は悲嘆にたえずこの遺髪を埋め墓を建てたのが現在の勘助の墓であります。また勘助の守り本尊であった麻利支天は今なお本寺に安置されています(案内板より)。






山本勘助襟掛本尊 摩利支天像。

摩利支天像は1寸3分(約4cm)の小像で、当寺壇上の厨子の中に安置されています。山本勘助は25才の時、高野山に登り武芸上達を祈願すること7昼夜、満願の夜に霊験によって、夢中に弘法大師空海の作といわれる本尊を授けられ、以来、襟に掛けて己の守り本尊としました。
その後、武者修行のために諸国を歴遊し、45才で武田信玄に仕え、幾多の戦いで勇名手柄をあげました。勘助は出陣にあたり、もし戦場で討死し、身からはなさずに昼夜襟に掛けていた本像が人手に渡らんことを嘆き、当寺の念宗和尚に託しました。
本像は、火焔輪光背を背負い、三面六臂の焔髪(分怒髪)像で4頭の猪に座した騎像となっているのが特徴です。昭和47年に市の文化財に指定されました。
本像を拝み信ずる者は災難を逃れ、かつ武芸に心する者は、深く祈願すれば剣術早業の奥義を究め、将来に名を残すこと疑いなしといわれております(案内板より)。




山本勘助と長谷寺。

山本勘助は、明応9(1500)年8月15日八名郡賀茂村(現豊橋市賀茂町)に山本藤七郎の三男として生まれ、幼名は源助と名乗っていました。勘助は15才で牛窪(現豊川市牛久保町)の牧野家家臣大林勘左衛門貞次の養子となり、名を大林勘助貞幸と改め、26才で武者修行のために諸国(近畿、山陰、山陽、四国、九州)へ出立するまでの若く多感な時期を、この牛久保の地で過しました。勘助が諸国を歴遊し武名を高め、35才の冬に大林家に帰還したところ、勘左衛門に実子が生まれていたため、養子縁組を解き、再び山本性に戻りました。その後、関東の地を歴遊し、45才で甲斐の国(現山梨県)の武田信玄に仕え、幾多の戦いで名軍師と謳われましたが、永禄4(1561)年9月10日、川中島の合戦で討死しました。
勘助は、この地の人々と親交があり、当寺の念宗和尚とは特に親しく、武田信玄に仕えた折には、入道して道鬼斎と称し、遺髪を和尚に託しております。川中島の合戦での勘助の死を知った和尚はこれを悼み、当寺に遺髪を納めた五輪塔を建立しました。また当寺には、勘助の守本尊「摩利支天尊像」が残されています。
毎年、勘助の命日には、地元の人々により、当寺において「山本勘助祭」として供養が執り行われております(案内板より)。






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今川義元胴塚

2018年12月15日 20時18分15秒 | 史跡めぐり


今川義元胴塚。
          
戦国時代の駿河・遠江・三河の領主今川義元は永禄3(1560)年5月19日、尾張桶狭間の合戦で織田信長の奇襲にあって討死しました。その時、首をとられた義元の胴体を家臣が背負って当地まで逃れ、この寺に葬ってとりあえず石の手水鉢をのせ墓石の代りにしました。それが「義元の胴塚」と言われる由来です。
嫡子上総介氏真は永禄6(1563)年、父義元の三回忌をこの寺で営み、父の位牌所として寺領を安堵しました。
その後、墓は整備され、毎年義元の命日には、地元の人々により慰霊祭が行われています(案内板より)。
    






墓石の一部は、458年前に目印として置かれた手水鉢のまま!


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大岡越前守忠相と豊川

2018年12月15日 19時35分45秒 | 史跡めぐり


豊川市桜ケ丘ミュージアムで開催中の特別展「大岡越前守忠相と豊川」に行って来ました。
            
江戸の名奉行といえば、大岡越前守忠相の名がまずあがるでしょう。
テレビ時代劇「大岡越前」は30年の長きにわたって放映されましたが、現実の大岡越前の江戸町奉行在任期間も約20年と異例の長さでした。その功績により忠相は、寺社奉行・奏者番へ栄進を重ね、三河国に新たな領地(宝飯郡6か村・渥美郡2か村・額田郡3か村)を得て、大名の列に名を連ねました。宝飯郡の村はいずれも現豊川市域でした。
また、忠相は豊川稲荷を篤く信仰していました。稲荷信仰が忠相の活動のバックホーンだったことは想像に難くありません。
本展にお越しいただき、忠相から始まる譜代大名大岡家が豊川と深く関わっていたことに思いを巡らせて下されば幸いです・・・という展覧会。
  


現代に「大岡裁き」として伝えられているものの多くは、忠相の死後、講釈師による原型が作られ、幕末から明治にかけて発展し、歌舞伎などの素材などに使われたものが大半です。
    
しかしながら、南町奉行になってからは江戸の町政改革に取り掛かり、   
・防火対策の強化のために町火消しを創設。
・風紀の乱れをなくすため売春や賭け事の取締りを強化。
・庶民の意見を聞くために目安箱の設置。
・低所得者のための病院として小石川養生所を設立。
    
江戸の町の発展や庶民の暮らしのことを考えた活躍を、後世の作家たちが評価し、名奉行としてその名声を高めるために大岡忠相のエピソードとして創作したというのが真実です。
  
  

・・・が、どうしても、どうしても加藤剛さんにしか見えない。
展示されていた忠相の日記や愛用した将棋盤なども、加藤剛が使ったものと混同することもしばしば(←やや大袈裟)。
      
尚、展示会には、その加藤剛が主演した「大岡越前」のポスターも展示されています。
   
会期:平成31年1月27日(日)まで
開催時間:午前9時から午後5時
観覧料金:一般500円 小中高大生300円

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