某の日々是好日

本来無一物。身一つあれば何とでもなる

山本勘助の墓

2018年12月15日 21時17分30秒 | 史跡めぐり


山本勘助の墓。

戦国の昔、勘助は当寺住職念宗和尚と非常に親しく勘助が甲斐武田信玄晴信に召し抱えられた時、入道して道鬼斉と称し遺髪を和尚に託したのであります。永禄4年9月10日川中島の戦いにおいて勘助の死を知った念宗和尚は悲嘆にたえずこの遺髪を埋め墓を建てたのが現在の勘助の墓であります。また勘助の守り本尊であった麻利支天は今なお本寺に安置されています(案内板より)。






山本勘助襟掛本尊 摩利支天像。

摩利支天像は1寸3分(約4cm)の小像で、当寺壇上の厨子の中に安置されています。山本勘助は25才の時、高野山に登り武芸上達を祈願すること7昼夜、満願の夜に霊験によって、夢中に弘法大師空海の作といわれる本尊を授けられ、以来、襟に掛けて己の守り本尊としました。
その後、武者修行のために諸国を歴遊し、45才で武田信玄に仕え、幾多の戦いで勇名手柄をあげました。勘助は出陣にあたり、もし戦場で討死し、身からはなさずに昼夜襟に掛けていた本像が人手に渡らんことを嘆き、当寺の念宗和尚に託しました。
本像は、火焔輪光背を背負い、三面六臂の焔髪(分怒髪)像で4頭の猪に座した騎像となっているのが特徴です。昭和47年に市の文化財に指定されました。
本像を拝み信ずる者は災難を逃れ、かつ武芸に心する者は、深く祈願すれば剣術早業の奥義を究め、将来に名を残すこと疑いなしといわれております(案内板より)。




山本勘助と長谷寺。

山本勘助は、明応9(1500)年8月15日八名郡賀茂村(現豊橋市賀茂町)に山本藤七郎の三男として生まれ、幼名は源助と名乗っていました。勘助は15才で牛窪(現豊川市牛久保町)の牧野家家臣大林勘左衛門貞次の養子となり、名を大林勘助貞幸と改め、26才で武者修行のために諸国(近畿、山陰、山陽、四国、九州)へ出立するまでの若く多感な時期を、この牛久保の地で過しました。勘助が諸国を歴遊し武名を高め、35才の冬に大林家に帰還したところ、勘左衛門に実子が生まれていたため、養子縁組を解き、再び山本性に戻りました。その後、関東の地を歴遊し、45才で甲斐の国(現山梨県)の武田信玄に仕え、幾多の戦いで名軍師と謳われましたが、永禄4(1561)年9月10日、川中島の合戦で討死しました。
勘助は、この地の人々と親交があり、当寺の念宗和尚とは特に親しく、武田信玄に仕えた折には、入道して道鬼斎と称し、遺髪を和尚に託しております。川中島の合戦での勘助の死を知った和尚はこれを悼み、当寺に遺髪を納めた五輪塔を建立しました。また当寺には、勘助の守本尊「摩利支天尊像」が残されています。
毎年、勘助の命日には、地元の人々により、当寺において「山本勘助祭」として供養が執り行われております(案内板より)。






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