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青い空のもとで(日記)・・・・青い空の下で

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聖書の中に法則はあるか?

2011-03-29 18:19:23 | 「命の木」「善悪の木」の生き方・コメント
物理の世界では、「ニュートンの法則」のような、
法則がなければ、「問題」というものを考えることすらできない。

聖書の世界も、同様に「法則」がなければ、
問題を考えることはできない。

***

聖書には重要な二つの法則がある。
(創世記より)

命の木の法則=「命の木の実を食べると永遠に生きる」
善悪の知識の木の法則=「善悪の知識の木の実を食べると死ぬ」

http://www.geocities.jp/bluewhitered34/inotinonenpyou.htm***

従って、善悪の知識の木を選んだ人類は「死んだ世界」を選んだのである。
また、「地はのろわれた(神の恵みから離れてしまった)」のである。
神の恵みから離れてしまっているのであるから、自然災害などの苦難が起きても、
理屈の点では不思議とは言えない。

(ただし、神は、旧約時代にも、また その後、キリストを通しても、人類に恵みをもたらす介入
をしている。命の木であるキリストを信頼するものは、永遠の命を得るのである。)

***

このように、「法則」をもとに聖書を解釈しなくてはいけない。

***

キリスト者は、簡単に、「苦難の理由は私にはわかりません」
と言ってはいけない。

せめて「私も、苦難の理由を教えて下さいと、必死に神に求めています」
くらいのことを言うべきであろう。
または、「いくつかの私案はありますので、知りたい方にはお教えします。」
というべきであろう。


さもないと、「私は思考停止しています」と告白するようなものである。

***

このように、

「法則」

をもとにして聖書全体の流れを理解しないと、「わからないことだらけ」
になってしまう。これでは「弁明の用意」はできない。


賢い日本人に選ばれるChurchを。

2011-01-24 16:20:55 | 「命の木」「善悪の木」の生き方・コメント
なぜ、日本にはキリスト者が少ないのか?

一つの理由は、「福音を正確に伝えていない」からではないかと考えています。
(福音に加えて、「日曜礼拝厳守、禁酒、献金」をセットで伝えている・・・ことがある。・・・結果的に。)

福音に、少しでも律法主義を混ぜて伝えたら、本当に見る眼を持っている誠実な日本人の方々は、「何かおかしい、変だ」と気づき、教会に行くことを選ばない可能性があります。

(「福音を正確に伝える」ためには、「命の木と善悪の木」という視点が不可欠と考えています)

http://www.geocities.jp/bluewhitered34/inotitokaminoikikata.htm
http://www.geocities.jp/bluewhitered34/ihtozhnohyousihon.html


***

JTJ宣教学院の「福音総合理解」という科目では、岸先生がそれに関連したことがらを、わかりやすくレクチャーしています。

キリスト教界の最大の課題は何か? (注:キリストには課題はありません)

2011-01-24 12:52:16 | 「命の木」「善悪の木」の生き方・コメント
今の教会は、どれだけ「真の安息、心の平安」を信徒に与えているだろうか?

「行ない」も大切だ・・・・という教育を気にするあまり、信徒に負担を与えていないか?

***

私の主張する、聖書全体をつらぬく「命の木の生き方」という法則は、なかなか、わかって下さらない人も多い。

しかし、「心の本当の平安、安息」がないために、家庭や個人での問題が、いつまでたっても解決しない人が、とても多い。

おそらく、今のキリスト教会の限界なのであろう。

***

最大のポイントは、やはり

①(黙示録の最後に書いてあるように)「神の最大の目的は、人と共に住むことである」ことを、悟ることであろう。

そうすれば、これはキリスト者はすでに達成しているので、「安心」を得ることができる。

②ヘブル書にあるように、「すでに、キリスト者は安息している」ことを、知ること。

③「信じた後も、がんばって良い行いをしないと、救いからもれてしまう」などという、反聖書的な考えは、捨てること。

・・・・これにより、どれだけのキリスト者がだまされているであろうか?本当の福音とは、驚くばかりの恵みであり、「信仰のみ」なのである。

日曜学校の教師でさえ、「油を用意していなかった乙女」のたとえの箇所から、「もし、良い行いをしていなければ、救いからもれる」などと、間違って、教えてしまうありさまである。

(もっとも、この箇所は、いのちのことば社の有名な注解書でさえ、まちがって解釈しているようである。・・・・これにより、今のキリスト教界のレベルと体質が明らかである。その停滞の原因は「聖書全体をつらぬく法則やモデル」の議論が欠けているからであろう。

「モデル」を作って、積極的に議論をして、モデルの修正をしていけばいいのである(科学の分野では、すでに行なわれていることである。キリスト教界がそれをできないのは、力量が欠けているからであろう。このままでは、科学者には相手にされなくなるであろう。)そして、そういう方法以外に「真理へ接近する道」はないのではなかろうか?

ぜひ、「聖書全体を貫く最大のテーマは、命の木の生き方を人はすべきであるという事ではないか」という「モデル」を、まな板の上に置いて、自由に議論、吟味していただければと思う。

それが、「知性を有効に生かす」信仰のありかたであろう。

「ただ、聖霊に満たされるように祈ってさえいればいいい」というものでもなかろう。

 祈るだけで すべてが解決してしまったら、人の頭はカラッポになり、成長は止まってしまう。

知性を適切に用いることも、キリスト者の成長に不可欠であろう。

***


なつかしい、共通一次テスト

2011-01-16 00:51:30 | 「命の木」「善悪の木」の生き方・コメント
息子が、今日から大学入試センター試験を受けている。
昔は、共通一次テストと言っていた。
私は、浪人したので、第1回目を受けている。(自慢にもならないが・・・)
千葉大学が会場だったが、その日も雪だった。

***

以前は「青い空のもとで」のキーワードで、当HPがトップに出てきたが、今は5番目くらいになってしまった。時々、こうして書かなくては。。。。。

***

「命の木の生き方について」・・・・

「キリストにある命」を守り、そだてるためには、善悪の木「的」な部分も、時には用いることも必要かもしれないと、最近感じている。あくまでも、「立ち位置を命の木に置く」ことが、絶対条件!であるが。
善悪の木「的」な部分も用いるとは、「意識して良いおこないをすることで、それによって、命が育つこともある」ということである。(たとえば、朝早く起きることに決めるとか・・・)ただし、あくまでも「自分で、そう決めて行う」という自主性が大切だ。人に強制されると、また、おかしなことになってくる。






聖書の基本法則

2010-12-08 08:44:16 | 「命の木」「善悪の木」の生き方・コメント
「人は、命の木の生き方で生きるべき存在である」というのが、聖書の最も基本となる法則ではないか・・・と書いてから、かなり経った。
ずっと、吟味&検討し続けているが、最近、その確信がますます増している。

***

いつも思うのであるが、キリスト教界は、「いいかげんと思われてもしかたがない部分があるのではないか?」と思うことがある。
そう思うのは、「科学や数学の厳密な世界」についての記事を読んだ後に多い。

***

医学の世界でも「ある一つのこと」を言うのには、その背後に、「論理と法則にもとづいた」多くの実験と検証がある。
しかし、キリスト教界では、その点が「なおざりにされている」ように思う。

その理由は、「基本となる法則」があいまいであるためであろう。

***

その点からも、「命の木の生き方」という法則は、答えを明瞭に導くと考えられる。


「命の木の生き方」による生活のために(参考資料)

2010-08-19 15:39:22 | 「命の木」「善悪の木」の生き方・コメント
<http://www.gotquestions.org/Japanese/Japanese-alcohol-sin.htmlより、資料として引用>



【質問】

: 聖書はアルコール/ワインを飲むことについて何と言っていますか?飲酒はクリスチャンにとって罪ですか?

【答え】

: 聖書には、アルコールを飲む事に関して多くの警告があります。

(レビ記10章9節;民数記6章3節;申命記29章6節;士師記13章4、7、14節;第1サムエル1章15節;箴言20章1節;31章4、6節;イザヤ5章11、22節;24章9節;28章7節;29章9節;56章12節;ミカ2章11節;ルカ1章15節)


しかしながら、聖書は、クリスチャンがビール、ワイン、そのほかのアルコールの入った飲み物を飲むことを必ずしも禁止してはいません。
事実、聖書のある箇所では、アルコールについて肯定的な議論がされています。 伝道者の書9章7節では「愉快にぶどう酒を飲め」と言っています。
詩篇104章14-15節では、神は人の心を喜ばせるぶどう酒を与えてくださるとも言っています。
アモス9章14節では、自分のぶどう園からできたぶどう酒を飲むことは神の祝福のしるしだと述べています。
イザヤ55章1節では、「さあ、、ぶどう酒と乳を買え。」と勧めています。


アルコールについて、神がクリスチャンに命令されていることは、酒に酔ってはいけないということです。(エペソ5章18節)
 聖書は酔っ払うこととその影響を罪としています。(箴言23章29-35節)それから、クリスチャンは自分の体をどんなものにも支配されないようにとも命令されています。(第1コリント6章12節;第2ペテロ2章19節) アルコールを飲みすぎると依存症になる可能性があることは否定できません。聖書は、クリスチャンが他のクリスチャンの気を悪くさせたり、その人の良心に反して罪を犯させたりするようなことするのをも禁じています。(第1コリント8章9-13節) これらの原則によると、クリスチャンが誰であれ、自分は神の栄光のためにアルコールを飲んでいると言えるかどうか非常に難しいことです。(第1コリント10章31節)


イエスは水をぶどう酒に変えられました。
それに、イエスも時々、ぶどう酒を飲んでおられたようでもあります。(ヨハネ2章1-11節)。
新約時代には、水はあまりきれいではなかったのです。 現代の公衆衛生設備がなかったので、水には多くのばい菌、ウイルス、その他、各種の汚染物質が混じっていました。今日でも、多くの第三世界各国は同じ状況です。 その結果、ぶどう酒、(またはぶどうジュース)の方が汚染が断然少なかったので、人々はぶどう酒やぶどうジュースを飲んでいました。第1テモテ5章23節には、パウロがテモテに水を飲むのをやめるようにと言っています。(多分テモテの胃の問題は水のせいだったのでしょう。)その代わり、ぶどう酒を飲むようにと勧めています。

その当時、ぶどう酒は発酵していたのですが、(アルコール分を含んでいた)必ずしも今日のそれほどではなかったのです。 それはただのぶどうジュースであったというのは間違っています。が、今日常用されているぶどう酒と同じであったというのも間違っています。

もう一度言いますが、聖書はクリスチャンがビール、ぶどう酒、その他アルコールの入った飲み物を飲むことを禁じてはいません。アルコールそのものは罪で汚れているわけではありません。クリスチャンが絶対に避けるべきことは、酒に酔うこととそれに依存するようになることなのです。(エペソ5章18節;第1コリント6章12節)

アルコールを少量飲むのは害にもならないし、依存症にもなりません。
実際、健康、特に心臓のために少しの赤ワインを飲むことを勧める医者もいます。
少量のアルコールを飲むことはクリスチャンの自由の問題です。
酒に酔うことと依存することは罪です。 しかしながら、アルコールとその影響についての聖書の警告、大量に飲むことになる誘惑、他の人をつまずかせる可能性、などを考えると、クリスチャンは、完全にアルコールを避けるのが普通は一番だと言えるでしょう。

(引用終わり)


逮捕された佐藤優氏の体験と「命の木と善悪の木の生き方」の共通点

2010-07-23 02:49:23 | 「命の木」「善悪の木」の生き方・コメント
鈴木宗男議員と共に(国策捜査で、おそらく不当に)逮捕された佐藤優氏(同志社大神学部卒)の記述で、興味深いものを見つけた。
氏の信仰はどのようなものか、これまでよくわからなかった(というより、かなりユニークと感じていた)が、私のと共通点も多いように感じた。

下記のサイトの記事は「命の木と善悪の木の生き方の違い」という点からも、なるほどとうなずける内容であった。

***

http://webheibon.jp/blog/satomasaru/2008/02/2-1.htmlより、引用。

●なぜ教会から足が遠のいたか

 しかし、保釈後、私は、教会からは足が遠のいてしまったのです。きっかけは実に些細なことでした。私が尊敬するある大学名誉教授が、某キリスト教主義大学の幹部にあたって、私の再就職の可能性について打診してくれました。答えは、「事件の真実は、神様しか知らない。しかし、まず裁判で無罪をとってきなさい。それが再就職の絶対的条件です」という話でした。そもそも大学に再就職しようという気持ちはありませんでしたので、この回答自体は、別に何とも思いませんでした。しかし、刑事裁判で無罪をとってくることをキリスト教主義大学の職員を採用する基準として、牧師であり有名なプロテスタント神学者であるこの人物がもっているということに、私はほんとうにショックを受けました。なぜなら、キリスト教の教祖であるイエス・キリストは、刑事裁判で有罪判決を言い渡され、十字架で処刑された犯罪者だからです。地上の裁判に対するこの神学者の意識を知った瞬間から、私は日本の教会に行く気持ちがなくなってしまったのです。なぜなら、これはこの高名な神学者だけでなく、日本の標準的キリスト教徒の意識だと私が感じたからです。


 ひとたびそのような気持ちをもつと、悪い記憶だけが連鎖してくるようになります。同志社大学神学部出身の牧師で、鈴木宗男疑惑が始まった当初は、「頑張れ。何があっても支援する」と言っていた人のうち、大多数が、実際に私が逮捕されると「一切関わりになりたくない」と言って逃げてしまったことや、「悔い改めないからこういうことになる」と言っていた牧師がいたという類の話が思い出され、どうも日本の教会に行ってもそこに神がいると感じられなくなってしまったのです。
 いまでも、子供の頃、母に手を引かれて通った教会、あるいは十字架のかわりに茨の冠が天井から下がっている同志社大学神学館3階の礼拝堂には、そこに神がいたのだと確信しています。


●救済宗教

 もしかすると将来、私が日本の教会にも神がいると再び感じるようなときが来るかもしれません。そのときは、学生時代やモスクワ時代のように、日曜日には教会に行くというのが、私の生活習慣になるかもしれません。しかし、教会に行かなくなってから、私は聖書を読むことと祈る回数が明らかに増えました。北朝鮮にも、平壌にカトリック教会、プロテスタント教会、正教会があります。朝鮮キリスト教連盟という組織もあり、朝鮮社会民主党(北朝鮮は複数政党制をとっています。朝鮮労働党以外に天道教青友党と朝鮮社会民主党があります)に所属する国会議員もいます。しかし、これらの教会、宗教団体、政党が北朝鮮当局の統制下にあることは明白です。北朝鮮では、多くのキリスト教徒が自宅で聖書を読み、祈ることで信仰を維持しています。

 私は、「教会に行くな」と言っているのではありません。私は、いまの日本の教会に行っても、私はそこに神を感じることができなくなってしまった、つまり教会の建物の中に入っても救いを感じないので教会に行っていないという自分の気持ちを素直に述べているだけです。しかし、私は、イエス・キリストを頭とする「見えない教会」の一員であるという意識は強くもっています。

 なぜ、私がこのようなことをくどくどと述べるかというと、キリスト教は、個人の救済を基本とする救済宗教だからです。キリスト教の本質は、教義、神学、道徳、倫理、文化などではなく、キリスト教を信じると言うことで「救われた」と感じることにあるのです。

(引用終)

旧約聖書の読み方(キリストの命の視点から)

2010-07-03 19:13:11 | 「命の木」「善悪の木」の生き方・コメント
鹿嶋春平太氏が、ブログで旧約聖書の理解のしかたについて述べておられる。
http://blog.goo.ne.jp/shunpeita1/e/01ccdf8a2c0d83495f557524bae1ea35

(以下引用)

キリスト教では旧約は、イエスをとりまく影を示す書物です。
言い換えると、キリスト教が与える究極のものは「いのち」であり、それを体現しているのがイエスであって、
そのいのちが現れる前に、その外枠を提供しておくのが旧約聖書です。
この論述を、イエスに関する論述と区別しないで、並列するように学ぶと、外枠ばかりが濃く補強されてしまって、
ホンモノに向かって前進しようとする妨げになってしまいます。
 
具体的には、聖霊を受けること、イエスの血(いのち)の力を受けること、
に向かって進めなくなってしまうのです。

(引用終)

***

大変参考になる。

聖書むかし話

2010-07-03 18:46:21 | 「命の木」「善悪の木」の生き方・コメント

実は、聖書が言いたいことは、よく考えると・・・


「昔々、あるところに「命の木」と「善悪の木」がありました。
(中略)
そして、とうとう、天国では「命の木」だけ(黙示録)になり、
皆その木のまわりで、いつまでもいつまでも幸せにくらしましたとさ。
メデタシ メデタシ。」


・・・ということだけではないでしょうか?

***

つまり、「人は、外面だけを取りつくろうような、善悪の木の生き方をしてはいけない。神の象徴である「命の木」から新しい命をいただいて、生き生きと、のびのびと生きることが一番大切なことだ」・・・これが聖書の最大のポイントと考えられます。

***

しかし、なぜか(!)キリスト教界では2000年間ほとんど表に現れてこなかった考えです。
実にフシギです。

***

【参考】
http://www.geocities.jp/bluewhitered34/inotitokaminoikikata.htm
http://www.geocities.jp/bluewhitered34/ihtozhnohyousihon.html



サッカーPK戦

2010-06-30 09:06:54 | 「命の木」「善悪の木」の生き方・コメント
【ワールドカップ・日本代表】
サッカーのPK戦は厳しい戦いである。
私も高校時代に水球の全国大会で(←マイナー競技なので、割とカンタンに出られる。ただし、練習はとても厳しくつらい。医師になってからも、水球の練習ほどきついことはなかったくらいである。だから、いつも「あの頃のころを思えば・・・」とがんばることができた。)をやっていて、実は似たような経験がある。
しかし「(ミスによる)失敗は その人を成長させてくれる」と思う。
失敗を経験した人は、隣人の失敗を許せる人になれる。また、人の弱さを理解できる人になれると思う。

今になって思えば、その苦い体験は貴重な財産とさえなっている。

「神は万事を益に変えてくださる」(聖書)

***

自分は、そのできごとを平気で話せるようになるのに、10年くらいかかった。(高校野球で、相手のその高校が出場して、毎年のようにテレビでその高校名を聞くたびに・・・実は、OO山県の箕○高校・・・古いキズが痛んだ。今は大丈夫^^)v
選手の皆さんも、クサらずに、この経験をバネにしてがんばって欲しいと思う。

「必死」になるということ

2010-06-25 15:26:39 | 「命の木」「善悪の木」の生き方・コメント
ワールドカップ・サッカー・日本VSデンマークを最後の15分だけ見た。
ゴールキーパーの川島選手が惜しくもPKがらみで得点された時、(スーパーマーケットでだだをこねる子供のように)手足をバタバタさせて悔しがったシーンに感動した。

納得が行かないことがあったならば、このくらい、人間は必死になるべきだ。
キリスト者も。

「キリスト者は本当にalkoholを摂取してはいけないのか?」とか、「日曜日に練習のあるような、中学生の部活は避けるべきか?」などの課題に対して、誰が何と言おうと『自分の良心が納得いくように』、川島くらい必死にもとめるべきだ。(ごまかすことは、最悪である。)そうすれば、「命の木と善悪の木の生き方」という、これまでほとんど無視(?)されてきた宝のような素晴らしい視点に行き着くであろう。


玄葉 光一郎氏(新政調会長)のHPより

2010-06-08 02:00:38 | 「命の木」「善悪の木」の生き方・コメント
玄葉 光一郎氏(新政調会長)のHPより。

***

(以下、引用)

3つ目のテーマは、質の高い精神性、高い道徳性の涵養であります。
 新渡戸稲造が「武士道」のなかで述べた日本人に流れる武士道精神。内村鑑三が「後世への最大遺物」のなかで人が後世に残す最大のものは、その人の生涯そのものであり、生き様であると述べたその価値観。我々のDNAに流れる高い精神性や公共概念を多くの人々に発揮してもらうこと、またその精神的価値を高めてゆくための教育を行ってゆくことが肝要であります。
  新たな公共の概念として、私は“滅私奉公”ではなく、“活私豊公”という言葉を提案しています。自らの得意分野を活用しながら公を豊かにしてゆく。参加する人々が楽しみながら自らの能力を活かして公に貢献するということです。

(引用終わり)

***

とくに、「人が後世に残す最大のものは、その人の生涯そのものであり、生き様である」というのは真理だと思います。(キリストも、「人の身代わりに十字架にかかる」という「生き様」を残した。)
50才にもなると、そろそろ、いろいろと考えます。

「命の木と善悪の木の生き方」と旧約聖書

2010-05-07 18:41:13 | 「命の木」「善悪の木」の生き方・コメント
「命の木の生き方」と「善悪の木の生き方」の違い・・・・という視点で旧約聖書を読むとどうなるのか、検討中である。(非常におもしろいのではないかと考えている。)

***

(以下、記録として、下記のサイトから引用)

http://www.ne.jp/asahi/petros/izumi/2010msg/100314.html

【レビ記の神学的メッセージ(聖書の達人の注解書より)】

 レビ記は,その神学的背景からも明らかなように,神の民がどのような現実の中で生かされるのかを教えるだけでなく,神の契約の本質,更には福音の本質が何であるかを私たちに教えるものである

 ①旧約の宗教の中心は,預言者たちの運動・活動にあるのではなく,シナイ契約に基づき,祭司によって執行される「神礼拝(祭儀)」にある.この場で強調されている神の属性は,「聖」である

 ②神の「恵みの契約」の本質は,神が人の中に臨在され,人と交わりを持たれるという,人格的関係=礼拝にある.イエス・キリストによってもたらされた神の国の福音の中心的内容は,神との人格的関係の回復,また和解である(参照ヨハ4:23‐24,コロ1:20‐22,ヘブ9:11‐14等)

 ③この「交わり」の根拠は,人間のわざによるものではなく,「神の選び」に基づく,神の一方的恩恵によるものである

 ④神の民=教会の生の現実は,「神と共に,神の前に,神との交わりの内に」である.旧約におけるイスラエルの「聖」とは,本来的に,礼拝において表象される「神との交わり」の資格である

(引用終わり)

恵みによる生き方(ルーク氏メッセージより)

2010-05-06 15:31:36 | 「命の木」「善悪の木」の生き方・コメント
以下、ルーク氏のメッセージの要約より引用させていただきました。
「命の木の生き方」の基本である「恵みによる生き方」について述べてあります。

***

(以下、http://www.kingdomfellowship.com/Kfc/Msg/MSG100502.html2010.05.02より引用)

【ただ恵みに頼る】

私たちにが救われたのはただ恵みによりました。

恵みとは受けるに値しない者が何かを無代価で得ることです。私たちの何にもよらず、ただ神の一方的ないさおしにより、私たちは義とされ、永遠のいのちを得て、神の子とされました。私たちが何も誇るところがないのです。


罪の増し加わるところには恵みも増し加わりました。私たちの弱さの中に神の恵みは働きます。つまり神の恵みと人の何かは互いに背反なのです。

もし私たちが自分の義に頼るのであれば、神の義は働きません。
もし私たちが自分の義を放棄するのであれば、神の義は恵みによって働きます。

神はすべてのことを神の知恵と方法とによって成就することを願われるのです。私たちの何かが一切介在しないとき、神の業はなされます。これが私たちの救いの瞬間でした。

そして私たちの歩みもまた私たちの何かに一切よらないのです。すべては神から発し、神の中で、神のために成就されます。神は恵みを通して私たちのうちと外で働かれ、ご自身の義を証し、ご自身の知恵を示され、ご自身が何者であるかを証明されるのです。

私たちはそのための媒体に過ぎないのであって、私たちという存在は、自分自身ではその存在自体を維持することもできません。ただ神の恵みが働く場として、神の力が現れる手段として、神によって用いていただくだけです。

したがって私たちが自分の弱さを覚えるほどに、神の恵みが働く機会となるのです。ただこの一方的な恵みに頼りましょう。

***

御言葉:ローマ3:24;5:15-21;6:14;2コリント12:9


①恵みによって義とされる(ローマ3:24)

②神の恵みは豊かに注がれる(同5:15)

③恵みによって無罪とされる(同5:16)

④恵みによって生き、また支配する(同5:17)

⑤罪が増し加わると恵みも増す(同5:20)

⑥恵みは義によって支配し、永遠のいのちをもたらす(同5:21)

⑦私たちの弱さに働く恵み(2コリント12:9)

(引用終わり)

旧約は「基礎」、新約は「応用」か?

2010-04-15 14:43:04 | 「命の木」「善悪の木」の生き方・コメント
息子から「旧約聖書の神は、なぜあんなに厳しいのか?」という質問をもらいました。
もっともな疑問です。
(これは重要な問題だと思うが、これについて納得のいくように書かれた本を見たことがない!)

これに関して、以下のような案を考えてみました。

***

(以下【仮説】)

【 旧約聖書は「聖書の基礎編テキスト」であり、新約聖書は「聖書の応用編テキスト」である。】


聖書の本来の目的は、人類に「救い主キリスト」を紹介することであるが、その準備、つまり「キリストの十字架のあがない」以外に救いはないことを理解するための「基礎」として旧約はあると考えられる。

新約は、その「基礎」を「裏付け」としてキリストを理解するという、いわば「応用編」である。
(実際は、「信じてから、その後で、裏づけ作業を行なう」場合も多いかもしれないが・・・)

そして、旧約と新約では「神の人類への教育目標の優先順位が異なる」と仮定すると、理解の助けになる。

***

【まとめてみると・・・】

Ⅰ:旧約聖書

 Ⅰ-1 キリストを受け入れる準備段階としての、人類への【教育目標の優先順位】
 
  ①真の神は「ただ一人」であることを、(モデルケースとして選んだイスラエル民族という)一つの民族に徹底的に、教え込む。

(聖戦も、この視点から理解できるのではないか?つまり、優先順位としては、

●「人の命を大切にしよう!」よりも、
●「まことの神はただ一人であることを理解しよう!」

が上位に来ているのである。・

・・・ちなみに、人間は、放っておくと多神教になる傾向がある。) 

  
  ②「良い行いをしたら、救われる」という条件では、人は救われない。

(つまり、「律法を完全に守ったら祝福される」という条件の下で、結局、イスラエルの民は、偶像礼拝に陥るなどして、律法を守りきれなかった。) 

(続く)