青い空のもとで(日記)・・・・青い空の下で

「メインのHP」は左下のブックマークから(人生の目的・哲学・キリスト教と科学・医学。命の木と善悪の木。青い空の下で)

クリスマス礼拝&パーティー

2007-12-28 02:10:41 | 日記
キャンドル・サービスを「ろうそくを、サービスしてタダで配ること」だと思っている人がいるようです。
。。。が、「サービスservice」とは「礼拝」のことです。

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教会で、ホテルを借りてのクリスマス・キャンドル・サービス(燭火礼拝)&パーティーが行われました。

「信仰義認・人間の構成と精神病理」の図表の改訂

2007-12-24 03:14:01 | 精神科学と福音
●拙HPの「信仰義認・人間の構成と精神病理」の図表を改訂しました。
(左下のブックマークからリンク)
http://www.geocities.jp/bluewhitered34/roma1224matrixakinasi.htm


●精神病理学者のルーク氏のHP(ブックマークからリンク)
にある、「ヒューマン・マトリックス(人の構成の図表)」

http://www.kingdomfellowship.com/Ministry/Hardcore/humatrix.htm
(記事→「ハードコア・プロファイルズ」→「最終回」→「ヒューマトリクスへのリンク」にあります。)

・・・は、きわめて有用な表であると思いますが、これをたいへん参考にさせていただきました。

***

●例えば、
(・・・・引用させていただいた私の図表
で、右下の「信仰・安息・アイデンティティ」の付近にあるように・・・)

「良心」に「安息」がなく「葛藤・不安・とがめ」がある時に、信仰義認の理解により、

「罪責感の消失」

という解決をみると、矢印のように「魂の領域」にも、
解決をもたらし、それが、矢印のように、「体の症状の改善」につながってゆきます。

●また、その表の横軸は「信仰による安息→歩み→戦いに立つ」という風に、キリスト者の歩みとなっていますが、それに伴い、良心も「罪責感の消失→安定性→確信」という風に、成長して行きます。

●このように、いろいろな事を系統的に理解する上で、「ヒューマン・マトリックス」の表は、きわめて有用と思いました。

(写真:沖縄)

佐世保の事件と黒ミサ

2007-12-17 18:06:48 | 日記
ネット記事に以下のようにありました。


***【以下引用】

<「黒ミサ」「逆ギレ」「普通の男」社会性乏しい一面も>

 【佐世保】「逆ギレして仕事を辞めた」「黒ミサについて度々、語っていた。不気味でかかわりたくなかった」-。銃乱射事件の馬込政義容疑者のかつての同級生や職場関係者からは、「普通の男」という顔の一方で、社会性に乏しい別の一面が浮かび上がる。
と語る。

・・・だが、ある同級生の見方は異なる。高校のクラスメートだった男性は「友達付き合いは狭く、社交的ではなかった」。休み時間などには教室で悪魔を崇拝する儀式の話を好み、「黒ミサを話しているときの表情は暗く、真剣だった。友人にはしたくないタイプ。事件はショックだが、彼ならやりかねない」。

2007年12月17日長崎新聞掲載


【引用終】

***

歴史上の人物でもオカルトにかかわっていた人は少なくないようです。また、今の日本でも、そのようなマンガなどを読んでいる若い人も少なくないようです。が、黒ミサなどのオカルトにかかわるのは危険です。http://www.geocities.jp/bluewhitered34/zensonzainohyou0831tensiweb0809.htm

しかし、神の「この世への啓示」である、イエスの十字架は「すべてに勝利」しています。オカルトなどに惑わされている人には、イエスのもとに来て平安と安息を得ることができるように お勧めし、また祈ります。

職員旅行・・・沖縄②

2007-12-16 08:10:11 | 日記
沖縄旅行の写真の続きです。

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3月まで10年以上、病院勤務をしていました。
ヨーロッパだかの医師は、1年に1回、1か月位のバカンスがあるとどこかで聞きました。とてもうらやましかったのですが、今回、少しは、その気分を味合わせていただき、感謝でした。

医師は、「人間の健康的な生活」に対して、患者さんにアドバイスをするのも使命です。つまり、「医師は、世の中に対して、人間の健康的な生活を広める使命」があると思います。
しかし、これまで、それでは、「医師自身が、(少なくとも、肉体的に)健康的な生活を送って来たかどうか」というと、疑問です。特に、産科医や小児科の激務を見ていると。。。。

***

【結論】

医師が、自分の使命に反して、「みずからが、社会に対して、健康的な生活の模範を示すことを怠ってきた」のは、いいのか悪いのか。。。。(もちろん、いわゆる「自己犠牲」を否定しているわけではありませんが)

もしかすると、「自分は、自分を犠牲にして、人々に仕えているんだ」と思うこと「だけ」を、「生きるための、心のささえ」として、「利用」してきただけではなかったのか?(私はこれを「ねじれた赤ひげ精神」と命名しています。)

(・・・・これには、私は、こういう事実を知っています。ある、患者さんに人気のある40代の先生(伴侶も子どももいる)がいました。しかし、その方はある時、こう言っていました。「この前、飛行機に乗っている時に、『もし、ここで、墜落して死んでも、別にいいかなと思った』と。つまり、この先生は、残念なことに「人の命自体に、尊厳を感じているわけではない」ことが、判明したと言えます。

あえてはっきり言えば、「患者さんに親切にすることが、『生きがい』だっただけ」であり、別に、「命は尊いものだという哲学を持っていたから、患者さんに親切にしていたわけではない」というということになるように感じました)


ニーチェの「アンチ・クリスト」の真意

2007-12-01 22:00:55 | 哲学・神学
牧師の息子でもある、哲学者ニーチェの「アンチ・クリスト」を少し読んだ。
(この本の題は「反キリスト」ではなく、「反キリスト教」とした方が妥当と思う。)

本を読むと、ニーチェには、聖書信仰に対する「勘違い」が、残念ながら多いように思った。

しかし、ニーチェは「イエス・キリストという人物」が嫌いなのではなく、当時の「キリスト教という宗教」を批判しているようである。要するに、ニーチェは「本物」を求めていたのであろう。

従って、読んでいて大変参考になった。

(ただし、信仰の まもない方にはお薦めは控えておきます)

親鸞の教えは、キリスト教である ②

2007-12-01 21:29:47 | 聖書と日本のフシギな関係
(①の続き)

歎異抄には、次のようにある。


「だから、阿弥陀仏の本願を信ずれば、他の善行は不必要です。
なぜなら念仏に勝る善などありませんし、また、どのような悪も恐れる必要はありません。阿弥陀仏の本願を妨げるほどの悪はないからです。」

***

これも、驚きである。この一部を、次のように変えるだけで、聖書信仰と
「全く同じ」になる。

・・・・だから、「キリストの十字架の救い」を信ずれば、他の善行は不必要です。なぜなら信仰(キリストへの信頼)に勝る善などありませんし、また、どのような悪も恐れる必要はありません。「キリストの十字架の救い」を妨げるほどの悪はないからです。」

***

ちなみに、「阿弥陀如来」は仏教の初期の頃から重要な役割を担ってきた仏で、人々が死後行くという西方極楽浄土の主である。

阿弥陀は仏になる前は「法蔵比丘」(ほうぞうびく)という名前
だったが、その法蔵は修行中に48の誓い(本願)を立てた。
それは「未来永遠にわたってあらゆる人々が浄土に行けるよ
うにします。それができなかったら私は仏になりません」という内容のもので
あった。

そして、この本願は成就したという。

***

(ちなみに、親鸞は「阿弥陀が作り話か否かは、問題ではない。
ただ、これを信じる気持ちが重要である」と言ったという。

しかし、聖書は言う・・・「キリストはまさに、この阿弥陀と同じであり、
実際に、十字架上で、この『本願を成就』されたお方である。
そして、阿弥陀と違い

「実在の人物」

である。
従って、「この本願は、実際に有効である。つまり、キリストの十字架の罪のあがないを信じずる者は、どんな罪びとでも、信ずるだけで罪が赦(ゆる)されて救われる。」

また、聖書に「だれでも、救い主キリストの名を呼ぶ者は救われる」とある。


・・・親鸞の洞察恐るべしである。


親鸞の教えは、キリスト教である ①

2007-12-01 20:56:32 | 聖書と日本のフシギな関係
親鸞が広めたのは、「キリスト教と同じ」ものだとわかり驚いた。ただし、

「キリストのいないキリスト教」

である。

というのは、五木寛之氏の書いた、
「歎異抄(五木氏の現代訳)」を読んで、歎異抄になにが書いてあるのかが、よく理解できたからである。

これは、ぜひ、特にキリスト者の人には一読をおすすめしたい。
(新潟駅の地下の本屋さんに、平積みにされています。)

なにしろ、書いてあることは
「新約聖書のローマ書と全く同じ!」
であった。

***

親鸞は、「私(人間)は、いろいろやってみたが、自分の力では、どうしても悪い心から完全には離れられないとわかった。したがって、「私はアミダの救いに信頼します」と言う(=ナムアミダブツと唱えること)方法でしか、私は救われないと悟った。人は、善行では救われないとわかった。」
・・・・というのである。これは、キリスト教のポイントと

「全く!」

同じである。

(「アミダの本願」というものも、キリスト教とほとんどポイントは同じである。おそらく、その元になった「浄土教」という経典の成立には、キリスト教の影響が大きくあったのは、間違いがないであろう。)

***

親鸞が(師の法然も?)、「信仰義認」という、キリスト教の「もっとも、大切なポイント」を、「完全に理解していた」ことは、驚きである。親鸞の、真摯な求道心と、洞察の鋭さはすごい。

・・・・すなわち、「歎異抄」のポイントと、ウオッチマン・ニーの「キリスト者の標準」のポイントは

「全く同じ」

なのである。

***

ちなみに、私の家(や親戚の多く)は、もともと親鸞の浄土真宗である。
「親鸞はの教えは、実はキリスト教だったんですよ。
だから、私たちの家の信仰は、実はキリスト教だったんです・・・ただし、『キリストのいないキリスト教』ですが。。。。」
と、今度、親戚のおじさんに話してみよう。

(続)