(①の続き)
歎異抄には、次のようにある。
「だから、阿弥陀仏の本願を信ずれば、他の善行は不必要です。
なぜなら念仏に勝る善などありませんし、また、どのような悪も恐れる必要はありません。阿弥陀仏の本願を妨げるほどの悪はないからです。」
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これも、驚きである。この一部を、次のように変えるだけで、聖書信仰と
「全く同じ」になる。
・・・・だから、「キリストの十字架の救い」を信ずれば、他の善行は不必要です。なぜなら信仰(キリストへの信頼)に勝る善などありませんし、また、どのような悪も恐れる必要はありません。「キリストの十字架の救い」を妨げるほどの悪はないからです。」
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ちなみに、「阿弥陀如来」は仏教の初期の頃から重要な役割を担ってきた仏で、人々が死後行くという西方極楽浄土の主である。
阿弥陀は仏になる前は「法蔵比丘」(ほうぞうびく)という名前
だったが、その法蔵は修行中に48の誓い(本願)を立てた。
それは「未来永遠にわたってあらゆる人々が浄土に行けるよ
うにします。それができなかったら私は仏になりません」という内容のもので
あった。
そして、この本願は成就したという。
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(ちなみに、親鸞は「阿弥陀が作り話か否かは、問題ではない。
ただ、これを信じる気持ちが重要である」と言ったという。
しかし、聖書は言う・・・「キリストはまさに、この阿弥陀と同じであり、
実際に、十字架上で、この『本願を成就』されたお方である。
そして、阿弥陀と違い
「実在の人物」
である。
従って、「この本願は、実際に有効である。つまり、キリストの十字架の罪のあがないを信じずる者は、どんな罪びとでも、信ずるだけで罪が赦(ゆる)されて救われる。」
また、聖書に「だれでも、救い主キリストの名を呼ぶ者は救われる」とある。
・・・親鸞の洞察恐るべしである。