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青い空のもとで(日記)・・・・青い空の下で

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日本の将来

2012-03-26 12:16:28 | 聖書と日本のフシギな関係
先の記事のサイトには、もっといろいろなことが書いてある。

以前、小石豊牧師が書いた本に、確か

<旧約の預言には「将来、天皇をリーダーとして、日本人が大勢、泣きながらエルサレムに帰って来る」
と解釈できる箇所がある>

と、書いてあった。

***

もしかすると、原発事故の悪化(4号機など)で日本に住めなくなる日のことだのだろうか??

親鸞の教えは、キリスト教である ②

2007-12-01 21:29:47 | 聖書と日本のフシギな関係
(①の続き)

歎異抄には、次のようにある。


「だから、阿弥陀仏の本願を信ずれば、他の善行は不必要です。
なぜなら念仏に勝る善などありませんし、また、どのような悪も恐れる必要はありません。阿弥陀仏の本願を妨げるほどの悪はないからです。」

***

これも、驚きである。この一部を、次のように変えるだけで、聖書信仰と
「全く同じ」になる。

・・・・だから、「キリストの十字架の救い」を信ずれば、他の善行は不必要です。なぜなら信仰(キリストへの信頼)に勝る善などありませんし、また、どのような悪も恐れる必要はありません。「キリストの十字架の救い」を妨げるほどの悪はないからです。」

***

ちなみに、「阿弥陀如来」は仏教の初期の頃から重要な役割を担ってきた仏で、人々が死後行くという西方極楽浄土の主である。

阿弥陀は仏になる前は「法蔵比丘」(ほうぞうびく)という名前
だったが、その法蔵は修行中に48の誓い(本願)を立てた。
それは「未来永遠にわたってあらゆる人々が浄土に行けるよ
うにします。それができなかったら私は仏になりません」という内容のもので
あった。

そして、この本願は成就したという。

***

(ちなみに、親鸞は「阿弥陀が作り話か否かは、問題ではない。
ただ、これを信じる気持ちが重要である」と言ったという。

しかし、聖書は言う・・・「キリストはまさに、この阿弥陀と同じであり、
実際に、十字架上で、この『本願を成就』されたお方である。
そして、阿弥陀と違い

「実在の人物」

である。
従って、「この本願は、実際に有効である。つまり、キリストの十字架の罪のあがないを信じずる者は、どんな罪びとでも、信ずるだけで罪が赦(ゆる)されて救われる。」

また、聖書に「だれでも、救い主キリストの名を呼ぶ者は救われる」とある。


・・・親鸞の洞察恐るべしである。


親鸞の教えは、キリスト教である ①

2007-12-01 20:56:32 | 聖書と日本のフシギな関係
親鸞が広めたのは、「キリスト教と同じ」ものだとわかり驚いた。ただし、

「キリストのいないキリスト教」

である。

というのは、五木寛之氏の書いた、
「歎異抄(五木氏の現代訳)」を読んで、歎異抄になにが書いてあるのかが、よく理解できたからである。

これは、ぜひ、特にキリスト者の人には一読をおすすめしたい。
(新潟駅の地下の本屋さんに、平積みにされています。)

なにしろ、書いてあることは
「新約聖書のローマ書と全く同じ!」
であった。

***

親鸞は、「私(人間)は、いろいろやってみたが、自分の力では、どうしても悪い心から完全には離れられないとわかった。したがって、「私はアミダの救いに信頼します」と言う(=ナムアミダブツと唱えること)方法でしか、私は救われないと悟った。人は、善行では救われないとわかった。」
・・・・というのである。これは、キリスト教のポイントと

「全く!」

同じである。

(「アミダの本願」というものも、キリスト教とほとんどポイントは同じである。おそらく、その元になった「浄土教」という経典の成立には、キリスト教の影響が大きくあったのは、間違いがないであろう。)

***

親鸞が(師の法然も?)、「信仰義認」という、キリスト教の「もっとも、大切なポイント」を、「完全に理解していた」ことは、驚きである。親鸞の、真摯な求道心と、洞察の鋭さはすごい。

・・・・すなわち、「歎異抄」のポイントと、ウオッチマン・ニーの「キリスト者の標準」のポイントは

「全く同じ」

なのである。

***

ちなみに、私の家(や親戚の多く)は、もともと親鸞の浄土真宗である。
「親鸞はの教えは、実はキリスト教だったんですよ。
だから、私たちの家の信仰は、実はキリスト教だったんです・・・ただし、『キリストのいないキリスト教』ですが。。。。」
と、今度、親戚のおじさんに話してみよう。

(続)

京都の遺産は「求道心エネルギー」か?

2007-10-23 00:56:25 | 聖書と日本のフシギな関係
学会の途中に、京都に立ち寄ることができた。
(実は、京都市内を観光したのは、生まれて初めて)

「東寺」を訪れた。あの、五重の塔の「美」は感動物である。
また、多くの仏像(中には、巨大な物もあった)を、初めて「ナマ」で見ることができた。写真で見るのと ナマで見るのとは、迫力もリアル感も全然違った。

いずれにしても、これだけの物を造り維持し続ける「エネルギー」はすさまじい。
私はこれは「日本人の求道心エネルギー」ではないかと、感じた。

***

仏像に対する「とらえ方」は、キリスト者によって かなり違うことは承知している・・・が、今回、私は正直なところ次のように感じた。

「もしかすると、日本という国は『求道心が、最高の芸術美のかたちとして表現された国』なのではないだろうか』」

とにかく、あの五重の塔の形は、ほれぼれする位に美しかった。
(また、ちなみに、弥勒菩薩(みろくぼさつ)は再臨のキリストがルーツである、との説がある。)

***

これだけの「求道心エネルギー」を持っていた、そして、持ち続けた国なのだから、「真理」を、「適切に」伝えさえすれば、多くの人が耳を傾けない方がおかしい。


ご質問への回答

2006-10-13 01:15:24 | 聖書と日本のフシギな関係
「いったい聖書と日本を「フシギな関係」にしておかないと、何か不満でもあるのですか。」
というご質問を頂きました。

***

特に不満というわけではありません。
ただ、「聖書と日本とは、実は、もともと関係が深いのである(という、有力な証拠がある)」という事を(以下に述べる、勘違いをされている)日本の人に知っていただければと思っています。

創造主と出会う事は、重要なことです。

しかし、「キリスト教は、西洋の宗教だから、日本人の自分には合わない」と、勘違いをされていて、創造主と出会うチャンスを逃がしてしまっている方に、少しでも役立てばと考え、「情報提供」をさせて頂いているつもりです。

「聖書と日本のフシギな関係」についてのご質問②

2006-09-30 12:05:31 | 聖書と日本のフシギな関係
頂いたご質問をもとに(一部編集)、まとめさせて頂きました。

【Q】
(ある記事を)読んだ限りでは、これをもって日本とイスラエルの関係を証明または仮定することは不可能ではないのでしょうか。

文化、文明とはある地点からある地点までの移動の中で必ず何かしらの痕跡を残していくものですが、中東から日本までの間にそういった痕跡や民族の活動を証明するようなものを発見されていますでしょうか?

考古学的視点からの調査ではこの説を肯定するような物は発見されていませんが、それらはどう説明なさるのでしょうか。

文化的にいくつかの共通点があるからといって、即それが大きな関係があるというわけではありません。

勿論、フィンランドのように言語、遺伝的にアジア人の特徴が色濃く残っているといった例もありますが、そういった例を即日本に当て嵌めるのは大変危険な考えであるといえるでしょう。

【A】

コメントありがとうございます。

証拠(らしきもの)については、ここで話し始めると大変ですので、少しづつ図表などを中心に、まとめたいと考えています。

おっしゃるように、おそらく「誰もが認める考古学的に決定的な証拠」は、今は発見されていないのかもしれません。

(私の個人の考えでは、【旧約聖書の神殿】に、構造がそっくりな【神社】や、【旧約聖書の契約の箱】にそっくりな【おみこし】は、有力な証拠の一つに思えるのですが・・・ただ、私は歴史学は素人ですので、それ以上のコメントは控えさせていただきます。)

「誰もが認める考古学的に決定的な証拠」が、現在発見されていないとすると、その辺については、次のような考えがあるようです。

①(信仰の領域からの考えですが・・・)旧約聖書の
エゼキエル書37:12に「私(神)はあなたがたの墓を開き・・・」とあるように、今は、日本が古代イスラエルの失われた部族の一部であることは、今は(墓の中に)隠されている。

①「有力な証拠」は、(宮内庁が発掘を許可していない)天皇などの古墳の中にあるのではないか。

「聖書と日本の不思議な関係」についてのご質問

2006-09-28 12:16:43 | 聖書と日本のフシギな関係
HPの「聖書と日本の不思議な関係」に図表を試作しました。

ある方から、貴重なご意見を頂きました。
私のスタンスの説明にも丁度良いと考え、掲載させていただきます。
(一部変更)

***

【Q】
幾つか共通している事や似ているというだけで、古代イスラエルの末裔というのは無理があります。
紹介されたHP見ました(←私のではなく、他の方のHP)が、強引なこじつけが多いです。
例えば、水一つとっても、ユダヤ教と神道だけのように書いていますが、キリスト教の洗礼、イスラム教のグスル、ヒンドゥー教の沐浴など他の宗教も清めに用いられたりします。

こういった説を本気で信じてしまうのは危険なので、一度『と学会』(=『とんでも説を検討する学会』の本を一度読んでみるといいですよ。

【A】

>ただ幾つか共通している事や似ているというだけで古代イスラエルの末裔というのは無理がありますよ。

コメントありがとうございます。
確かに、「幾つか」なら、そうかもしれませんね。
ただ、実際に「末裔」かどうかはともかく、やはり「少なくとも、大きな関係がある」と考えるのが妥当のように思うのですが。

「共通している事や似ていること」は「幾つか」というより、「膨大な数」があるようですので。(図表の参考文献によると)

>こういった説を本気で信じてしまうのは危険なので、一度『と学会』の本を一度読んでみるといいですよ。

確かに、「本気で信じてしまう」のは危険ですね。
(ちなみに私は、「本気で信じている」のではなく、「こういう説を、ひとつの【有力なモデル(=説)】として検討したい・・・という姿勢でいたいと思っています。)

『と学会』の本は「検証する」という点で、大変参考にさせて頂いています。アドバイスありがとうございます。