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モナコに憧れて~グレース・ケリーとアイルトン・セナ

現在、成田空港のJALラウンジにいるが、今日はこれから欧州出張に出発する。ヨーロッパに行くのは実に久しぶりだが、恐らく前回訪れたのは2003年の頃ではないかと思う。よって、5年ぶりという感じだろうか。2003年頃は仕事で欧州も担当地域だったこともあって割りと行く機会もあった。訪れていた国として多かったのは、ドイツ、英国、フランス、スイス、イタリアの5カ国だったが、この5カ国がITの領域で先進国であるということもあったが、各国にお客がいた為でもある。

今回の出張は、イタリアに本社を置く事業パートナーが開催する大ミーティングに出席する為、まずは開催地である南フランスのマルセイユ、そしてその後事業パートナーの本社があるミラノを訪問予定だ。ミラノは過去2回ほど訪れているが、ファッションとイタリアンデザインが大好きな僕としては、いつも訪問が楽しみな都市であることは間違いない。今回の訪問結果はまた追って報告することとしたい。

南フランスに関してだが、実は思い出深いエピソードがある。入社1年目の終わり頃であった1993年、初めての海外出張が欧州だったが、その時ドイツでの展示会に参加し、その後南フランスのニースにある客先を訪問した。そしてミーティング後に時間の余裕があったので、現地駐在員のメンバー2名とレンタカーを借りてモナコまで南フランスの海岸線をドライブしたのが今でも鮮明に覚えている。だから、南フランス、そしてモナコは僕に取って会社人生の中でも思い出深い場所なのである。

この出張が思い出深い理由はもう一つ決定的な要因があった。モナコは僕の永遠の憧れで、最も好きな理想の女性・女優である、あのグレース・ケリーが王妃として嫁いだ国である。グレース・ケリーは人気の絶頂であった1956年に、モナコのレーニエ3世に見初められ、王妃となった。憧れのグレース・ケリーを求めていずれはモナコを訪問したいと大学生の頃夢を抱いていたが、大学卒業約1年で、こんなにも早くモナコ訪問が実現(しかも出張で!)してしまったことは、今考えても本当にラッキーであった。

ちなみに、モナコは人口約30,000人で、世界で2番目に小さい国だが、所得税が無いので、世界から多くのセレブ、スメ[ツ選手、著名人が移住している。日本人では、元F1レーサーの鈴木亜久里と佐藤琢磨、デューク式ウォーキングで有名なデューク更家、中田英寿などが現在も住んでいる。妻や友人に、”モナコは日本の「熱海」に似てるよね”と良く言ってモナコに対して失礼だと怒られることが多いが、海岸線の起伏の感じや、狭い斜面に多くのホテルやビルが集中して立ち並ぶ様子はかなり雰囲気としては近いイメージである。

グレース・ケリーは1954年に「喝采」でアカデミー主演女優賞を受賞し、その後僕の最も好きな映画監督、アルフレッド・ヒッチコックが彼女に惚れ込み、「ダイアルMを廻せ」、「裏窓」、「泥棒成金」などで主演し、一躍人気女優として開花した。特に僕の好きな映画「裏窓」での彼女の気品と美しさはまさに「別格」である。情熱的なマリリン・モンローに対して、「クールビューティー」と言われたグレースだが、彼女はその美しさの中にも気品と知性が有り、そしてどこか可愛らしい、性格の良さみたいなものが滲み出ている部分が有り、笑顔などは日本で言えば安田成美の独特な笑顔にも通ずるものがある(ちなみに、僕は安田成美の大ファンでもある)。

1954年に南フランスを舞台に撮影したヒッチコック映画、「泥棒成金」がきっかけでモナコのレーニエ公との面識が出来、カンヌ映画祭などでも交流を重ねた結果、「シンデレラストーリー、世紀の結婚」として世界が注目する中、1956年にモナコ王妃となった。王妃になってからも、ヒッチコックが再三映画主演のラブコールを送ったが、その後決して映画に主演することは無かった。グレースは1982年、モナコでドライブ中に心臓発作を起こし、52歳の若さで交通事故によりこの世を去った。

モナコと言って、グレース・ケリー以外に思い出すのは、やはりF1の「モナコグランプリ」だ。僕は昔アイルトン・セナの大ファンであったが、セナと言えばやはり思い出されるのがモナコグランプリである。彼は1987年にモナコで初優勝し、その後1988年はアラン・プロストに優勝を譲るものの、続く1989年から1993年まで5年連続で制覇。過去6回モナコを制しているのはセナだけであり、彼こそが真の「モナコマイスター」なのである。この頃セナの人気・実力共に絶頂であった頃だが、モナコは市街地コースで幅が狭い為、追い抜きは不可能に近い。よって予選でメ[ルャWションを取ったドライバーがそのままPoll to Winで逃げ切ることが極めて多い。その意味で、この難しいコースで常に高タイムを叩き出していたセナはまさに「音速の貴公子」であり、その速さは「神がかり」であった。彼の通算65回のメ[ルャWションは、2006年にシューマッハに破られるまでは最多記録であったのもさすがである。セナは、1994年イタリアのサンマリノグランプリでレース中に交通事故死してしまったことが実に悔やまれる。弱冠34歳であった。


それにしても、天才と名が付くような人物は本当に若くしてこの世を去っている。僕の魂の師匠であるブルース・リーも32歳でこの世を去ったが、セナも34歳の若さでこの世を去っている。若くしてこの世を去ることで、綺麗なまま、絶頂のままのイメージが鮮烈に我々の記憶に残り、そして伝説となるのであろう。

今回の欧州出張ではモナコには行けないが、グレース・ケリーとセナへの思いにふけりたい。またいつの日か家族と旅行で、再びモナコを訪れたいと思う。

コメント一覧

克憲
かくいう私も安田成美が大好きです。
木梨さんが羨ましい限りです。
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