少年犯罪の凶悪化、低年齢化が叫ばれて久しい昨今。やれ残酷ゲームの所為だ、やれエッチィ本やアニメやゲームの所為だ、やれ教師の指導力の低下だ、やれ親のモラルが低下している・・・などなどなど、もっともらしい理由はいくつもあるが、果たしてそれは本当なのか。それに反論した記事がある。
広田教授の「教育も、教育改革もけしからん」 「凶悪犯罪は低年齢化」していない~子どもに対してせっかちな大人たち
これからしばらくの間、「子ども」をテーマにした話をお届けしていこうと思います。子どもの話というと、身近にいる子どもをサンプルにして、一般論を展開しがちです。実際、僕が尋ねても「(子どもたちが)おかしくなっている」と答える人もいれば、「昔と大して変わってない」と言う人もいます。
こうした床屋談義は、それはそれで面白いのですが、もう少し客観的なデータで見ると、どうなのか。教育改革論が下敷きにしている「青少年の規範が低下している」「少年犯罪が凶悪化している」といった現状認識は正しいのか。広田先生は、早くからこうした言説に疑いの目を向け、安易な<青少年の凶悪化>論に警鐘を鳴らし続けてきました。
誤った現状認識のもとでは、ソリューションもまた誤ってしまいます。果たして子どもは本当に変わったのか? 実は子どもを見る大人の視線が変わっただけではないのか。今回も、皆様からのさまざまな意見をお待ちしております。
今回と次回にわたって、昨今の教師バッシングや教育改革論を用意した、より大きな背景に戻って考えてみたいと思います。あらかじめ結論を言えば、ここ最近の教師バッシングや教育改革論には、子どもの成長を「プロセス」として考えることができない、世の大人たちの「せっかちさ」みたいなものが孕まれているのではないかと思うのです。
「学校が○○をやっていないから、子どもがひどいことになっている」と決めつけて、過剰で性急な要求を学校に押しつける。こうしたせっかちな要求をぶつける先が、教師であれば教師バッシングになるし、「今までのシステムはおかしいぞ」という話をすれば教育改革論になる。
いずれにせよ、ここには子どもの成長や成熟を待ちきれないで、大人側のいろんな願望が入り混じった性急な要求が、教師や学校改革論にぶつけられているという構図が見られます。
しかし、学校も教師もドラえもんの四次元ポケットではありません。それどころか、行政や家庭から無理難題を突きつけられて、パンク寸前になっているのが現在の学校の実態です。
少し先回りして言えば、こうした現状に、いたずらに要求を積み増ししても、さらに消化不良を起こさせるだけで得策とは言えません。大切なのは、「あれもこれも」ではなく、学校でやるべきこと/やらなくてよいことを峻別すること、さらに、各学校段階で子どもの発達に見合ってやるべきこと/やるべきでないことを区別することです。
「規範が身につかずに育っている」のウソ
私の見るところ、道徳教育の強化という議論も、そうした「あれもこれも」の1つです。そこで今回は「今の子どもは規範が身につかないまま大人になっている」という議論はウソだという話をしたいと思います。道徳教育が必要だとか、徳育を教科にしろとか、そういう主張の背景にある現状認識は、果たして正しいのかどうか。
2003年に提出された中央教育審議会の教育基本法の見直しに関する答申では、「教育の現状と課題」についてこんなふうに書かれています。
「教育は危機的な状況に直面。青少年が夢を持ちにくく、規範意識や道徳心、自律心が低下。いじめ、不登校、中途退学、学級崩壊が依然として深刻。青少年の凶悪犯罪が増加……」
これを読むと、教育がひどいことになっている。誰でもそう思うでしょう。しかし、この種の「今の子どもたちは大変な状況だ」という言説は、中身のバリエーションを違えながら、1960年代にも、70年代にも、80年代にも、90年代にも繰り返されてきています。明治の終わりだって、大正期だって、同じように青少年の問題は語られていました。大人が教育を語るときのステレオタイプであるとも言えます。
確かに、今の学校には、さまざまな解決すべき問題がある。また、すべての子どもが学校にうまく適応し、親や先生の言いつけをよく聞いて、まじめで規律正しく生きているわけではないでしょう。
しかしながら、人が成長・成熟していくプロセスは直線的なものではありません。誰もが多かれ少なかれ、「イライラ、モヤモヤ」を抱えながら彷徨するのが、10代半ばの時期の子どもたちだと私は思います。
考えてみるべき重要なポイントは、「子どもたちは規範が身につかないまま大人になっていっているのか?」という問いです。私の答えは「NO!」です。大人が用意したマジメな規範の世界からはみ出して生きている子どもたちが少なくないことは確かです。でも、その「イライラ、モヤモヤ」のプロセスを経て、ほとんどの子どもは、ちゃんとした大人に成熟しているのです。
このことを同僚と話していたら、同僚がこう言った。
「絶対数としての犯罪が減ったから、相対的に一つの犯罪が目立つようになっただけだろ」
と。なるほど、言われてみればその通りかもしれん。
広田教授の「教育も、教育改革もけしからん」 「凶悪犯罪は低年齢化」していない~子どもに対してせっかちな大人たち
これからしばらくの間、「子ども」をテーマにした話をお届けしていこうと思います。子どもの話というと、身近にいる子どもをサンプルにして、一般論を展開しがちです。実際、僕が尋ねても「(子どもたちが)おかしくなっている」と答える人もいれば、「昔と大して変わってない」と言う人もいます。
こうした床屋談義は、それはそれで面白いのですが、もう少し客観的なデータで見ると、どうなのか。教育改革論が下敷きにしている「青少年の規範が低下している」「少年犯罪が凶悪化している」といった現状認識は正しいのか。広田先生は、早くからこうした言説に疑いの目を向け、安易な<青少年の凶悪化>論に警鐘を鳴らし続けてきました。
誤った現状認識のもとでは、ソリューションもまた誤ってしまいます。果たして子どもは本当に変わったのか? 実は子どもを見る大人の視線が変わっただけではないのか。今回も、皆様からのさまざまな意見をお待ちしております。
今回と次回にわたって、昨今の教師バッシングや教育改革論を用意した、より大きな背景に戻って考えてみたいと思います。あらかじめ結論を言えば、ここ最近の教師バッシングや教育改革論には、子どもの成長を「プロセス」として考えることができない、世の大人たちの「せっかちさ」みたいなものが孕まれているのではないかと思うのです。
「学校が○○をやっていないから、子どもがひどいことになっている」と決めつけて、過剰で性急な要求を学校に押しつける。こうしたせっかちな要求をぶつける先が、教師であれば教師バッシングになるし、「今までのシステムはおかしいぞ」という話をすれば教育改革論になる。
いずれにせよ、ここには子どもの成長や成熟を待ちきれないで、大人側のいろんな願望が入り混じった性急な要求が、教師や学校改革論にぶつけられているという構図が見られます。
しかし、学校も教師もドラえもんの四次元ポケットではありません。それどころか、行政や家庭から無理難題を突きつけられて、パンク寸前になっているのが現在の学校の実態です。
少し先回りして言えば、こうした現状に、いたずらに要求を積み増ししても、さらに消化不良を起こさせるだけで得策とは言えません。大切なのは、「あれもこれも」ではなく、学校でやるべきこと/やらなくてよいことを峻別すること、さらに、各学校段階で子どもの発達に見合ってやるべきこと/やるべきでないことを区別することです。
「規範が身につかずに育っている」のウソ
私の見るところ、道徳教育の強化という議論も、そうした「あれもこれも」の1つです。そこで今回は「今の子どもは規範が身につかないまま大人になっている」という議論はウソだという話をしたいと思います。道徳教育が必要だとか、徳育を教科にしろとか、そういう主張の背景にある現状認識は、果たして正しいのかどうか。
2003年に提出された中央教育審議会の教育基本法の見直しに関する答申では、「教育の現状と課題」についてこんなふうに書かれています。
「教育は危機的な状況に直面。青少年が夢を持ちにくく、規範意識や道徳心、自律心が低下。いじめ、不登校、中途退学、学級崩壊が依然として深刻。青少年の凶悪犯罪が増加……」
これを読むと、教育がひどいことになっている。誰でもそう思うでしょう。しかし、この種の「今の子どもたちは大変な状況だ」という言説は、中身のバリエーションを違えながら、1960年代にも、70年代にも、80年代にも、90年代にも繰り返されてきています。明治の終わりだって、大正期だって、同じように青少年の問題は語られていました。大人が教育を語るときのステレオタイプであるとも言えます。
確かに、今の学校には、さまざまな解決すべき問題がある。また、すべての子どもが学校にうまく適応し、親や先生の言いつけをよく聞いて、まじめで規律正しく生きているわけではないでしょう。
しかしながら、人が成長・成熟していくプロセスは直線的なものではありません。誰もが多かれ少なかれ、「イライラ、モヤモヤ」を抱えながら彷徨するのが、10代半ばの時期の子どもたちだと私は思います。
考えてみるべき重要なポイントは、「子どもたちは規範が身につかないまま大人になっていっているのか?」という問いです。私の答えは「NO!」です。大人が用意したマジメな規範の世界からはみ出して生きている子どもたちが少なくないことは確かです。でも、その「イライラ、モヤモヤ」のプロセスを経て、ほとんどの子どもは、ちゃんとした大人に成熟しているのです。
このことを同僚と話していたら、同僚がこう言った。
「絶対数としての犯罪が減ったから、相対的に一つの犯罪が目立つようになっただけだろ」
と。なるほど、言われてみればその通りかもしれん。