バリ記 

英語関係の執筆の合間に「バリ滞在記」を掲載。今は「英語指導のコツ」が終了し、合間に「バリ島滞在記」を連載。

バリ記35  だまされた分 / 食

2020-01-17 10:58:59 | バリ記
2000年7月3日
だまされた分

 925と彫ってあるシルバーアクセサリーも安く出まわっているものはほとんどニセモノである。  
 ウブドのマーケットで売っているものはサギ同様のものである。シルバーを磨く時に使う液で拭いてみたらすぐわかる。メッキがはがれてしまうのである。
 僕は、だから気をつけろよ、と言いたいのではない。
 発展途上の国では、この手のやり口が実に巧妙にできあがり、それを売っている純朴そうな女の子は、きっと本物だと思って売っているのだ。作る巧妙さから売る巧妙さまで「やるなぁ」と感嘆してしまうのである。
これがいけないことだとか、悪いことなのだから、と言っている倫理や法の基準では、そこを問題にする限りは、やられた側は怒るしかないのだ。
 別の観念の導入が必要である。「それは、騙された分をあげる」と言う考えである。原材料費、加工賃、手数料の合計が売っても良い値段だとすれば、それ以上はボーナスである。そのボーナスは、衣類や食べものや家賃にまわるかも知れない。決してアワのように、お金はまわっていかないのである。「だまされた分」は確実に、このインドネシアやバリ島の経済の中に組み入れられ、新しい生産を増やしている。こう考えた方が、まあまあ怒りもおさまる。
 観光客で行く限りは、このくらいのおさめ方の心の準備が必要だろう。それをカンカンと怒っていたのでは旅も台無しである。
 「だまされた分」のお金は、日本でだったらもっと巧妙にスケールが大きく、しっかりとシステム化されている。麻薬にまわるのか、天下った元官僚にまわっていくのか、そしてそれが生産を促すものなのか、判然としない。
 お金の一部は、とにかく海外口座、幽霊会社、他人名義でまわるやり口の中で、裏に沈んで眠っていたり、時効となって表に出てきたりである。
 日本人が戦後身につけたものは、僕は何度もこの日記で書いたことだが、「神経症」とこのような「高度なだましのテクニック」である。テレビ局やマスコミはさしずめこの二つの象徴的存在である。
話が長くなりすぎた。

2000年7月8日

 いつも不思議に思っていたのだが、まだその理由を聞かずにいる。
 それは、食事をとる、そのとり方と場所のことである。バリでは、お腹がすいたときに、ナシチャンプル(白いご飯のまわりに、鶏肉や野菜などの四~五点を置き、混ぜて食べる。)をそれぞれが食べる、ということは知っていた。
 僕が働く事務所には、楕円形のテーブルがあって、そこは会議などをする場所である。そこには、椅子もあるのだから、そこで食べるのかな、と思っていたら、ひとりなぜか隅のほうの机の前で、ひとりは更衣室の中で、ひとりは通路の脇で、ひっそりと隠れるようにして食べるのだ。丸イスにナシチャンプルを置いて、右手でひっそりと、しかもさっさと食べる。食べる時間もそれぞれ違っている。みんなでワイワイと喋りながら食事をすることは決してないのである。
 唯一、一人になれる時間なのかな、と思ったり、まあ、それは習慣なのだからそんなもんなのか、と思ったりしていた。
「食」にさほど関心がないという人たちは平均的に、消費生活は先進国から言えば、貧しいものがある。生きてゆくのに絶対に必要な、つまり基本的に体力を維持する食、そして衣、住で収入のほとんどが消えていきそうなところにプラス通過儀礼のための蓄えがいる。
 食べることなどは、必要最低限のものを食べればよく、あとはさっさと働いて、みたいな感じがあるのか、あるいはいつも出入りする家の中で、食事時間を決めて、家族一同そろって食事をするというのは、さらにもっと煩わしいことなのかも知れない。日本では、個人の生活も尊重され、家族が一同にそろうのは夕食くらいしかない、だからその一回くらいは家族が集まって、いろんな話をしようという気持になるのかも知れないが、バリでは四六時中、親、祖父母、兄弟、嫁、いとこやはとこ、それに近所の人がいて、今さらみんな集まってなどということは、それこそ通過儀礼での時で上等だと思っているのかも知れない。
本当のところはわからない。
 毎日、変ることのない食事の内容では、食はただ本能的なものであるかも知れず、淡々としたものなのだろうか。
クタで食事をする、などとなれば、一ヶ月の給料のうちの一週間分くらいが飛んでしまう。印象としてバリの人たちは、たとえ観光客がワイワイと食事をしていてもいっしょに食べるということは苦手のようで、高給とりのガイドですら、ひっそりと屋台とかワルンという小さな食堂で食事を済ませ、気長くお客の食事の終了を待っている。
 クタやレギャンがいくら賑わっていても、村に帰った人々は、ひっそりの食事をしているのだ。そして、その時、たったひとりになって食に集中しているのだ。そしてまた共同の世界に戻ってゆく。まるで、日本と逆なのである。互いに似通ったところがいっぱいあるのに、この点は逆なのである。



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