<シルクロードを点で繋ぐ旅><朝顔・君子蘭・竹など>

シルクロードの都市を点々と歩き、砂漠や高山、信仰と食事=文化に興味を持つ。
朝顔・君子蘭・竹などを育てている。

團十郎さんを偲んで 勧進帳ー資料ー

2013-03-22 22:56:50 | 山.・墓・OLY・国芳・歌舞伎など
弁慶が一献のお返しに、冨樫に舞を披露。

團十郎が色々と語っている。
語り口は、説得力があり、言葉を大事にする人!
(息子の不始末の時に、
レポーターに丁寧に答えてたことが思い出された)

市川宗家を継ぐということ、
若くして父=師匠・一家の大黒柱を失ったということの意味。
(何も教えないで他界した父に腹がたっと)

その為、学ぶための苦労etc.
芸の道の厳しさに押し潰れそうになりながら、精進。

並大抵の精神力ではないと思った。

團十郎さんを偲んで 勧進帳ー資料ー

2013-03-22 22:39:07 | 山.・墓・OLY・国芳・歌舞伎など
超有名な関所の場面をやり過ごし、
義経主従の艱難辛苦・心情を察して、冨樫が一献。

資料

源頼朝の怒りを買った源義経一行が、
北陸を通って奥州へ逃げる際の加賀国の、
<安宅の関(石川県小松市)>での物語。

義経一行は
武蔵坊弁慶を先頭に山伏の姿で通り抜けようとする。
しかし関守の富樫左衛門の元には
既に義経一行が山伏姿であるという情報が届いていた。
焼失した東大寺再建のための
勧進を行っていると弁慶が言うと、
富樫は勧進帳を読んでみるよう命じる。
弁慶はたまたま持っていた巻物を
勧進帳であるかのように装い、
朗々と読み上げる(勧進帳読上げ)。

なおも疑う富樫は山伏の心得や
秘密の呪文について問い質(ただ)すが、
弁慶は淀みなく答える(山伏問答)。
富樫は通行を許すが、
部下のひとりが義経に疑いをかけた。
弁慶は主君の義経を金剛杖で叩き、疑いを晴らす。
危機を脱出した一行に、

<富樫は失礼なことをした、と酒を勧め>、
弁慶は舞を披露する(延年の舞)。
踊りながら義経らを逃がし、
弁慶は富樫に目礼し後を急ぎ追いかける(飛び六方)。


書聖 王羲之-資料ー喪乱帖そうらんじょう

2013-03-13 18:37:10 | シルクロードの旅--中国
一部を拡大。
<心肝を貫く>が感動する筆使いと。

読み下し文
羲之頓首、喪亂の極み、
先墓、再び荼毒にかかる。
追惟すれば酷甚だしく、号慕摧絶し、
痛、心肝を貫く。 痛、当に奈何すべき、
奈何すべき。 即ち修復すと雖も、
未だ奔馳するをえず。哀毒、ますます深し。
奈何せん、奈何せん。紙に臨んで感哽し、知らず、
何をか言わん。 羲之頓首頓首。

書聖 王羲之の革命-資料ー喪乱帖

2013-03-13 17:42:37 | シルクロードの旅--中国
異民族(茶毒=匈奴)に先祖の墓が荒らされて、
心胆を貫く程のいかりを。
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王羲之は折にふれて様々な書を残した。
以下の中には、前田家・宮内庁・個人蔵もある。
これらは、遣唐使が持ち帰ったものと。

・行穣帖(こうじょうじょう)
 臨模本がプリンストン大学美術館に収蔵

・奉橘帖(ほうきつじょう)
・妹至帖(まいしじょう)
・平安帖(へいあんじょう)
・姨母帖(いぼじょう)
・瞻近帖(せんきんじょう)
・二謝帖(にしゃじょう、『二謝書帖』とも)
・寒切帖(かんせつじょう)
・初月帖(しょげつじょう)
・遠宦帖(えんかんじょう)
・孔侍中帖(こうじちゅうじょう)
・快雪時晴帖(かいせつじせいじょう)等など。
「羲之頓首」に始まる
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集王聖教序(しゅうおうしょうぎょうじょ)
『集字聖教序』ともいう。
唐の太宗が玄奘三蔵の業績を称えて撰述したもので、
これに高宗の序記、玄奘の訳した般若心経を加え、
弘福寺の沙門[17]懐仁(え にん)が、
高宗の咸亨3年(672年)12月勅命を奉じ、
宮中に多く秘蔵していた
<王羲之の遺墨の中から必要な文字を集めて>
碑に刻したものである。
字数は約1800字で、原碑は現存する。(碑林会館?)

羲之が歿してのち、300年後の仕事であるので困難も多く、
偏と旁を合わせたり、
点画を解体して組み立てた文字もあり、
完成するのに25年を要したといわれる。

平安帖 何如奉橘帖   
行書三帖を合幀したもの。 
古くより唐以前の双鈎填墨本であることが知られている。 
唐の懐仁は「集字聖教序」中に本帖より
「百」「霜」「降」の三字を採用している。