<シルクロードを点で繋ぐ旅><朝顔・君子蘭・竹など>

シルクロードの都市を点々と歩き、砂漠や高山、信仰と食事=文化に興味を持つ。
朝顔・君子蘭・竹などを育てている。

日露の激戦地203高地

2014-11-28 18:25:54 | シルクロードの旅--中国
私の記録より、下記を紹介いたします(^^; 
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http://www.bell.jp/pancho/travel/china-2/sept03_203kohti.htm

203高地 旅順港を巡る日露の争奪戦で激戦地となった海抜203mの山

高地の山頂より旅順港を望む
203高地の山頂より旅順港を望む

突撃と退却が繰り返され多くの死傷者を出した戦場
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<爾靈山>にれいさん=203

下記が詳しい!
http://www.sakanouenokumo.com/nogisanzetu.htm

資料!!砂漠を行く大谷探検隊ー馬蹄銀を大量に運ぶ

2014-11-25 12:46:47 | シルクロードの旅--韓国
砂漠を行く探検隊、途中強盗や山賊に襲われる恐れもあったとか。

資料
旅順博物館を見学する前に、どうしても触れておかなければならないことがある。
ほかでもない、博物館と大谷探検隊との関係である。


砂漠を行く大谷探検隊

1902年8月、ロンドン留学中だった光瑞は、
教団活動の一環として西域探検のためインドに渡り、
仏蹟の発掘調査に当たった。

探検・調査活動は1904まで続行させている。
探検隊は2手に分けられ、
一隊はタクラマカン砂漠に入り、
ホータンやクチャなどを調査している。
別の隊は雲南省を探検した。

菩薩石頭-隋代
菩薩石頭-唐代

第二次探検は1908年から1909年。光瑞が派遣した橘瑞超と野村栄三郎の二人によってなされた。二人は、外モンゴルからタリム盆地に入り、トルファンを調査した。
その後コルラで二手に分かれ、
野村はカシュガル方面、
橘はロプノール湖跡のある楼蘭方面を調査した。

第三次探検は、1910年から1914年にかけて実施された。
光瑞は今回は橘瑞超と吉川小一郎を派遣して、

トルファン・楼蘭など前回調査した地を再調査させている。


これら三次にわたる探検によって、
中央アジアで発掘・収集されたさまざまな品が光瑞のもとにもたらされた。


大連旅行ー旅順博物館ー

2014-11-25 07:47:38 | シルクロードの旅--中国
殷の時代の青銅器・陶器など。
饕餮(とうてつ)紋。
ここには、2体のミイラがあった。
足が長く、シルクロードの交流がわかる。
撮影禁止でした。

資料
旅順博物館を見学する前に、どうしても触れておかなければならないことがある。
ほかでもない、博物館と大谷探検隊との関係である。


砂漠を行く大谷探検隊
1876年(明治9)に、
浄土真宗本願寺派の第21世門主・光尊(明如)の長男として誕生した大谷光瑞(おおたに こうずい,1876 - 1948))は、宗教家としても探検家としても知られている。
1902年8月、ロンドン留学中だった光瑞は、
教団活動の一環として西域探検のためインドに渡り、
仏蹟の発掘調査に当たった。27歳のときである。
この若き探検家は、翌1903年の1月14日には、
長らく謎の地の山であった釈迦ゆかりの霊鷲山を発見し、
またマガタ国の首都だった王舎城も特定している。

1903年の1月、父・光尊が死去し、
門主を継職するために帰国したが、
探検・調査活動は1904まで続行させている。
探検隊は2手に分けられ、一隊はタクラマカン砂漠に入り、
ホータンやクチャなどを調査している。別の隊は雲南省を探検した。


菩薩石頭-隋代
菩薩石頭-隋代

第二次探検は1908年から1909年にかけて、
光瑞が派遣した橘瑞超と野村栄三郎の二人によってなされた。
二人は、外モンゴルからタリム盆地に入り、
トルファンを調査した。
その後コルラで二手に分かれ、
野村はカシュガル方面、橘はロプノール湖跡のある楼蘭方面を調査した。
有名な李柏文書は、この時に楼蘭古跡で発見された。
李柏文書とは、前涼の西域長史李柏が現地の国王に当てた2通の手紙の草稿で、
王羲之(303 - 361)とほぼ同時期の肉筆資料として知られる。

第三次探検は、1910年から1914年にかけて実施された。
光瑞は今回は橘瑞超と吉川小一郎を派遣して、
トルファン・楼蘭など前回調査した地を再調査させている。
二人は、ジュンガリアでも調査を行なったが、敦煌で若干の文書を収集している。

これら三次にわたる探検によって、
中央アジアで発掘・収集されたさまざまな品が光瑞のもとにもたらされた。
光瑞はそれらを整理して公開展示した。
ところが、第三回の探検進行中に、
探検の費用を本願寺の会計から不当に流用したということで、
1914年にその責任をとって光瑞は門主を辞した。


菩薩石頭-唐代
菩薩石頭-唐代
彼はその年、西域の発掘品の主要部分と蔵書をたずさえて旅順に移り、研究を続けた。
光瑞は発掘品の一部を旅順博物館に寄託したが、
1921年に上海に居を移すと、
これらの発掘品は旅順博物館の所有となった。
光瑞は終戦の年膀胱ガンで倒れ、
入院中にソ連軍に抑留されたが、1947年に帰国、翌年別府で死去した。

旅順博物館の建物は、
もともと帝政ロシア時代に「将校クラブ」として使われていたものである。
日本軍が旅順を占領した後、
1917年に「関東州満蒙物産館」として落成した。 
翌1918年には関東都督府
博物館となり、さらに1919年には関東庁博物館となったが、
1934年からは旅順博物館として日本によって管理されてきた。
終戦後は管理が中国に移ると、
1951年に旅順歴史文化博物館と改称されたが、
1953年には旅順博物館に戻された。

旅順博物館の敷地面積は25000㎡で、
主館と分館からなる。
主館は歴史文物を青銅工芸や漆器、仏像、銅鏡など13項目に分けて展示している。
一方、分館は大連古代文明と日本画、日本・朝鮮陶瓷、古代インド石刻、
外国近代切手などの外国文物を展示している。

大谷探検隊が
<トルファンで発掘した1300年前のミイラ>も
陳列されており、

旅順博物館を有名にしているのは、
大谷探検隊が持ち帰り光瑞が寄贈した文物のためだとすら言われている。

大連旅行ー旅順博物館ー

2014-11-25 07:46:17 | シルクロードの旅--中国
古い中国の武器。

資料
展示品は、
大まかに3つのジャンルに分けられる。
1つ目が古代から近世にかけて中国の王朝で利用された
青銅器・漆器・エナメル器・古代玉器など、

2つ目が西方からシルクロードを通して伝わってきた品々と仏像、

そして3つ目が東方の朝鮮や日本の陶磁器・日本画である。

なかでも興味深いものは、シルクロードに関連する品々で、

その一つの目玉が、西暦500年にトルファンで成立した漢人国家
高昌を建国した麹氏のミイラである。

これもまた大谷探検隊によって集められた。

このように、この博物館のメインは、
戦前に日本が大陸各地で収集したコレクションである。