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<シルクロードを点で繋ぐ旅><朝顔・君子蘭・竹など>

シルクロードの都市を点々と歩き、砂漠や高山、信仰と食事=文化に興味を持つ。
朝顔・君子蘭・竹などを育てている。

劉邦<背水の陣>垓下(がいか)の戦い-資料Nスペ-

2014-08-22 17:34:39 | シルクロードの旅--中国

生きて帰らぬ覚悟を兵たちに示した。

兵糧を炊く釜を壊し、川を渡る船を沈めた。

資料

紀元前203年、劉邦は楚の国に帰国しようとする項羽に奇襲をかけ、で包囲した。

しかし、猛将・項羽は自軍の士気を高め

この包囲を突破しようとしていた。

四面から楚歌が聞こえてきた。

夜半になって、劉邦の漢軍の兵士は包囲した項羽軍に聞かせるように、

故郷の楚の歌を合唱したのだった。

一人悲劇のヒーロー気分になってしまった項羽は、詩を詠みました。

<「四面楚歌>の言葉が生まれた。

その夜、項羽が愛人虞美人(虞姫)に送った詩が<垓下の歌>である。

「力は山を抜き,気は世を蓋う。時、利あらず,騅、逝かず。

騅の逝かざるを奈何にす可き。虞や、虞や,若を奈何んせん!」」と。

四方から聞こえる楚歌を耳にして項羽の楚軍は士気が衰え、

戦意を喪失する。

------------------------------------------------------

四面楚歌の言葉。

その夜、項羽が愛人虞美人(虞姫)に送った詩が垓下の歌。

「力は山を抜き,気は世を蓋う。時、利あらず,騅、逝かず。

騅の逝かざるを奈何にす可き。虞や、虞や,若を奈何んせん!」

------------------------------------------------------------

 大勢を知った虞姫は項羽の足手まといにならぬように、自ら命を絶った。

項羽は最後の28騎になって国境を接する烏江に達するが、

川を渡らずに最後の決戦に臨む。そして、

満身に矢を立て文字通り一騎になった項羽は自決して果てた。

大漢帝国が建国されて、劉邦が皇帝の座についた。

しかし、腹心の部下たちが各地で反乱を起こし、劉邦は鎮圧に明け暮れるのだった。

天下を取った劉邦も功労者に封土と王位を与えた。

しかし、功労者は実力者であり、天下を取った後は目ざわりでしかない。

楚(そ)王・や梁(りょう)王・彭越(ほうえつ)ら天下統一に最も貢献した者たちは、

謀反の疑いをかけられ、一族皆殺し、族誅された。

 しかも、梁王・彭越は誅殺された後、塩漬けにされ、

その肉は群臣に漏れなく配られた。

「こういう目に遭うぞ」という恐怖政治の極みである。

劉邦は紀元前195年に亡くなる。

 高祖・劉邦が没して劉盈(恵帝)が即位すると、

劉邦の妻・呂后(りょごう)は皇太后としてその後見にあたる。

この呂后がまたすさまじい。

まず、恵帝の有力なライバルであった高祖・劉邦の庶子である趙(ちょう)王如意(にょい)と

その生母・戚(せき)夫人を殺害した。

この時の呂后の殺害の仕方は、猟奇的などという次元をはるかに超えている。

呂后は戚夫人を奴隷とし、趙王如意殺害後には、

戚夫人の両手両足を切り落とし、目玉をくりぬき、薬で耳・声をつぶし、

その上でまだ生きたまま便所に投げ入れて人彘(人豚)と呼ばせたという。

呂后は我が子である劉盈(恵帝)以外のほとんどの劉邦の息子を殺し、

呂氏一族を要職に付け専横をほしいままにする。

しかし、これまた因果は巡るで、呂后の死後、

逆に呂氏一族は族誅される側に回り、皆殺しされるのである。


国士無双・背水の陣--股くぐりの韓信-資料Nスペ-

2014-08-21 21:52:31 | シルクロードの旅--中国

資料

紀元前221年、法家思想を取り入れた秦(しん)が全国制覇を成し遂げました。

しかし絶対的な力を持った君主・始皇帝が崩御(ほうぎょ)するや、

わずか数年で秦王朝は瓦解(がかい)の兆しを見せ、

陳勝(ちんしょう)・呉広(ごこう)の農民叛乱を皮切りに、

再び乱世の様相を呈しました。

乱立する群雄の中で最後に覇を競ったのが、

(そ)の項羽(こうう)と漢の劉邦(りゅうほう)です。

劉邦は戦いにかけては百戦百敗というあり様で、

鬼神のごとき勇猛を誇る猛将・項羽の敵(かなわ)ない。

その劉邦が最終的な勝利者たりえたのは、

ひとえに彼の人柄を慕って有能な人材が幕下に集まって来たおかげです。

劉邦の幕僚には、後世「三傑(さんけつ)」と称される逸材がいました。

兵糧の手配など、

地味で困難な実務一切を取り仕切った蕭何(しょうか)

国際情勢を見渡し、

常に適切な展望を劉邦に示した張良(ちょうりょう)

そして軍事に関しては

天才的とも称された韓信(かんしん)の三人です。

はじめは劉邦も韓信を評価せず、穀物倉庫の管理人に命じたのですが、

蕭何らがその才能を見抜き、

「韓信は国に並ぶもののない《国士無双》ですぞ」と強く推薦したため、

やがて漢軍の司令官に大抜擢されました。

韓信は、《国士無双》の誉(ほま)れを実証するかのように

(ぎ)と代(だい)を見事に平定した後、

さらに趙(ちょう)へと転戦します。

このとき韓信が率いていた漢軍は、数の上では、

敵の趙軍に比べるとはるかに劣勢でした。

諜報(ちょうほう)によって敵軍の奇襲がないことを察知した韓信は、

策を巡らせ、二千騎の別働隊を密かに出動させました。

そして諸将に「今日は、趙軍を打ち破った上で会食する事にしよう」と言い、

一万の軍を先発させ、川を背にして陣を布(し)かせました。

韓信軍が川を背にした様子を見た趙軍の将士は、

「韓信は兵法の初歩すら知らないのか」と大笑いしました。

川を背後にして陣を布くと、いざという時に撤退する道がなく、

その恐怖心のために軍は恐慌状態に陥ってしまう、

というのは、兵法をかじった事がある者なら誰でも知っている事だったのです。(※2)

夜が明ける頃、韓信が軍を進めると、趙軍は陣から撃って出て来ました。

激戦する事しばし、韓信が負けたふりをして川岸の陣地に引き返すと、

趙軍は、それまで陣地を守っていた兵士までが、

勝利を確信して撃って出てきました。

川を背にした韓信軍などあっという間に粉砕できるはずだからと、

その戦利品にありつこうとしたのです。

ところが実際に陣地に攻め寄せてみると、

後ろが川で逃げ場の無い韓信軍の兵士たちは、

恐慌に陥るどころか、「もう俺たちには後がないんだ!」と、

予想以上の死力を尽くして善戦してみせたのです。

趙軍が手こずっている間に、あらかじめ韓信が出動させていた二千騎の別働隊が、

空になった趙軍の陣地を奪い取っていました。

本陣を奪われて動揺した趙軍は、

韓信の本隊と別働隊に挟撃(きょうげき)され、

かくて一戦にして趙軍は壊滅してしまったのです。

戦いが終わった後、諸将は韓信に尋(たず)ねました。

「兵法には、山を右後ろにし、水辺を左前にせよ、とあります。

(※3)それなのに将軍は逆になさって勝ち戦となりましたが、こ

れはどういう戦術なのでしょうか」韓信が答えて言うには

、「これも兵法に記されているのだが、諸君が知らないだけの事だ。

兵法には、軍を死地に陥れる事によって逆に生還する事ができ、

亡地に置く事によって逆に生き抜く事ができる、とある。

(※4)我が軍はまだ寄せ集めで訓練がいきとどいておらず、

逃げ場があれば、すぐに逃げ出してしまっただろう。

だから敵前逃亡できないようにして、自ら進んで戦うようにさせたのだ」

兵法の定石(じょうせき)を見事に応用したその説明を聞いた諸将は、

「なるほど、我々の及ぶところではない」と感服したといいます。

韓信のこの用兵から、絶体絶命の立場に置かれる事、

そしてそこで全力を尽くす事を「背水の陣」と言うようになりました。


垓下(がいかの戦い-虞や、虞や,若を奈何んせん

2014-08-21 21:49:41 | シルクロードの旅--中国

資料   蓁から漢へ

勇猛果敢で、向かうところ敵なしの項羽。

戦に弱く九死に一生を得て薄氷を踏む思いをしながら戦乱の世を戦う劉邦は、

項軍に身を寄せ、ともに秦を倒すことを誓い、

項羽と義兄弟の杯を交わした。

同時に、虞姫と劉邦の妻で才気煥発、

知略に長けた呂雉は姉妹の契りを交わした。

鉅鹿の戦いで、40万の秦軍を6万の手勢で破った項羽は、

先に秦のお膝元・関中に入った劉邦に関中王の座を譲らせ、

亡楚の王の末裔を殺し、自ら「西楚覇王」と称した。

しかし、この最中に虞姫を殺されたと錯覚した項羽は

始皇帝の王宮・阿房宮に火を放った。

殺戮、略奪の限りをつくす項羽軍、それらを一切禁じた劉邦軍。

人々は項羽の強さを認めつつも劉邦の徳に傾倒して行った。

劉邦の元には、無頼だった沛県時代の友人とともに張良、陳平といった参謀、

戦術にかけては当代随一の韓信等多くの人材が集まった。

彼らの多くは項羽の軍から降った者たちだった。

それらの力を得て、劉邦もまた項羽と肩を並べる英雄となった。

鴻溝で両雄は相対した。

この決戦は一進一退、決着がつかないまま時が流れ、

両者は鴻溝を境に天下を2分することにした。

紀元前203年、劉邦は楚の国に帰国しようとする項羽に奇襲をかけ、垓下(がいか)で包囲した。

しかし、猛将・項羽は自軍の士気を高め

この包囲を突破しようとしていた。

四面から楚歌が聞こえてきた。

夜半になって、劉邦の漢軍の兵士は包囲した項羽軍に聞かせるように、

故郷の楚の歌を合唱したのだった。

一人悲劇のヒーロー気分になってしまった項羽は、詩を詠みました。

「四面楚歌の言葉が生まれた。
その夜、項羽が愛人虞美人(虞姫)に送った詩が垓下の歌である。

「力は山を抜き,気は世を蓋う。時、利あらず,騅、逝かず。

騅の逝かざるを奈何にす可き。虞や、虞や,若を奈何んせん!」」と。

四方から聞こえる楚歌を耳にして項羽の楚軍は士気が衰え、

戦意を喪失する。

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四面楚歌の言葉。

その夜、項羽が愛人虞美人(虞姫)に送った詩が垓下の歌。

「力は山を抜き,気は世を蓋う。時、利あらず,騅、逝かず。

騅の逝かざるを奈何にす可き。虞や、虞や,若を奈何んせん!」

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 大勢を知った虞姫は項羽の足手まといにならぬように、自ら命を絶った。

項羽は最後の28騎になって国境を接する烏江に達するが、

川を渡らずに最後の決戦に臨む。そして、

満身に矢を立て文字通り一騎になった項羽は自決して果てた。

大漢帝国が建国されて、劉邦が皇帝の座についた。

しかし、腹心の部下たちが各地で反乱を起こし、劉邦は鎮圧に明け暮れるのだった。

天下を取った劉邦も功労者に封土と王位を与えた。

しかし、功労者は実力者であり、天下を取った後は目ざわりでしかない。

楚(そ)王・韓信や梁(りょう)王・彭越(ほうえつ)ら天下統一に最も貢献した者たちは、

謀反の疑いをかけられ、一族皆殺し、族誅された。

 しかも、梁王・彭越は誅殺された後、塩漬けにされ、

その肉は群臣に漏れなく配られた。

「こういう目に遭うぞ」という恐怖政治の極みである。

劉邦は紀元前195年に亡くなる。

 高祖・劉邦が没して劉盈(恵帝)が即位すると、

劉邦の妻・呂后(りょごう)は皇太后としてその後見にあたる。

この呂后がまたすさまじい。

まず、恵帝の有力なライバルであった高祖・劉邦の庶子である趙(ちょう)王如意(にょい)と

その生母・戚(せき)夫人を殺害した。

この時の呂后の殺害の仕方は、猟奇的などという次元をはるかに超えている。

呂后は戚夫人を奴隷とし、趙王如意殺害後には、

戚夫人の両手両足を切り落とし、目玉をくりぬき、薬で耳・声をつぶし、

その上でまだ生きたまま便所に投げ入れて人彘(人豚)と呼ばせたという。

呂后は我が子である劉盈(恵帝)以外のほとんどの劉邦の息子を殺し、

呂氏一族を要職に付け専横をほしいままにする。

しかし、これまた因果は巡るで、呂后の死後、

逆に呂氏一族は族誅される側に回り、皆殺しされるのである。