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鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

一面の雪原!一乗谷・其之弐

2012-10-31 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 1 年 1 2 月 2 6 日 ( 月 )

午 後 2 時 2 5 分

福 井 市 一 乗 谷

タ ク シ ー の 車 内 に て



吹雪の中で出会ったタクシーで、一条滝から戻る。



上の地図の南側から、復原町並へ戻った。


タクシーの料金メーターは4,000円くらいだったか?
支払ってから降りようとしたら、運転手氏は復原町並の出口で待つという。

雪に次ぐ雪にやられていた私は、断固拒絶する気力もなく、なし崩し的に運転手氏の言われるがままに。


復原町並は、入場料210円。
そして、入城券売り場で100名城スタンプがもらえる。



37番、一乗谷城!・・・には行ってないんだけどね、山の中だし。


朝倉氏は、朝倉孝景(英林)の代に一乗谷に本拠を構えたとされる。

英林は、応仁の乱に参戦して西軍から東軍に寝返り、その過程で越前守護・斯波氏や守護代・甲斐氏と争い、越前国に覇を唱えた。
越前平定戦は英林の子・氏景、孫・貞景の代まで続いた。

貞景の代で越前は平定され、加賀の一向一揆とも和睦し、越前国内は貞景の子・孝景の代まで戦乱とは無縁であった。
そのため公家などの文化人が、戦乱を避けて越前に移り、一乗谷には今日にも劣らない華やかさを誇ったという。

しかし朝倉義景の代になると、一向一揆衆が再び蜂起。
織田信長との戦いにも消耗し、1573年の刀根坂の戦いで朝倉軍は壊滅。
義景は一門の裏切りにあい自害、一乗谷の城下は織田軍の焼き討ちにあい灰燼に帰する。





一乗谷朝倉氏遺跡の発掘調査に基づき、原寸大に復元されたという街並み。



こんな悪天候の日にもかかわらず、観光客のために雪かきがなされていた。





こちらは戦国時代の武家屋敷。





中では将棋を指してたり、食事の支度をしていたり。



一乗谷は、某・つながらない携帯一家の故郷でもあるらしい。


復原街並みを出ると、くだんのタクシーが私を待ち構えていた。

・・・料金メーターが順調に増加しているようだ。



次は、一乗谷朝倉氏庭園【特別名勝】で下車。タクシーはメーターを止めず待機

一乗谷のシンボル・唐門



唐門は、豊臣秀吉が朝倉義景の菩提寺を建てた際に造られた。
現存の唐門は、江戸時代に再築されたもの。



唐門の裏には豊臣家の家紋「五七の桐」が掲げられている。

唐門をくぐった先が、義景館跡



建物の礎石などは、すべて雪の中に埋もれてしまっていた。



朝倉義景墓は、白一色の空間とは別の空間をなしていた。合掌。



小高い所に上がってから、義景館跡を見下ろす。

このあたりに位置するのが、湯殿跡庭園









雪が深すぎて、庭園を味わう余裕がない・・・

そして、一時は弱まっていた雪がまた吹雪いてきて、
またまた雷鳴が轟く

私は固まってしまった。

5分ほどフリーズしていたが、とりあえず動かなきゃということで雪中を歩き回り、別の庭園にたどり着いた。



諏訪館跡庭園は、朝倉義景の側室・小少将の館にあった庭園。







朝倉義景は小少将を溺愛し、毎日毎夜・・・と記録に残っているそうな。



一乗谷城!? 行けねぇよ、あんな雪山!




遭難!一乗谷

2012-10-30 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 1 年 1 2 月 2 6 日 ( 月 )

午 後 1 2 時 3 3 分

J R 福 井 駅




福井駅前で食事をして、次の目的地・一乗谷へ。


JR福井駅 12時49分発
  九頭竜線(越美北線) 普通 九頭竜湖行き
  一乗谷駅 13時05分着


なんと・・・一乗谷駅で降りたのは私だけ。



一乗谷駅は、ホームが1本たたずんでいるだけ。
駅舎もなく、山に囲まれた田園に民家とともにぽつんと存在する。

駅のそばにある家の犬がうるさい。



(↑クリックすると拡大地図に飛びます)

まずは駅の近くにある一乗谷朝倉氏遺跡資料館に寄った。



こちらは入館料100円。

展示されている出土品はほとんどが【国指定重要文化財】らしい。
後から知った。ちゃんと見ておけばよかった。
(資料館の展示物の写真はない)



展示品の一つに将棋の駒があった。

現存最古の駒で、現在にはない酔象(すいぞう)というのがある。
動きは、真後ろに下がれない王将、といったところ。
しかし敵陣に入ると「太子」に成り、王将を取られても負けとならないのだという。

一乗谷はとにかく歩くので、ここのコインロッカーに手荷物を預けた。


一乗谷散策開始!!

ここでいきなり道を間違える。

資料館から遊歩道(地図上のオレンジ色の道)が始まるのだが、これをスルーして県道(地図上の赤い道)をたどってしまう。

この県道は歩道が十分確保されていない。
人通りもない上に雪が積もっていてきわめて歩きづらい。


風は強くなり吹雪いてきた!
さらに恐怖の雷鳴が轟く!!


ようやく商店を見つけ、そこの軒下で待機。

10分ほど待ったが、天候の回復する気配がまったく見られない。

すると、1台のタクシーが通りかかったではないか!
私は迷わずタクシーを停めた。


タクシーに乗車し、「一乗谷復原町並までお願いします」と言ったが、
運転手氏は「近くに一条滝という滝がありますよ、佐々木小次郎で有名な・・・ここから3キロくらいですよ」

とにかくタクシーがこんな山の中でつかまえられたことが嬉しかった私は、判断力が明らかに弱くなっていたのだろう、二つ返事で快諾してしまう。


このページの地図からははずれてさらに南、タクシーで考えたら近いとは言えない距離
料金メーターはみるみるうちに上昇。

そして一条滝まであと少しというところ。

車は全く通らないのか、除雪が全くされていない。
積雪は30~40センチほどであろうか。

運転手氏はこの道を強行突破!
タクシーは雪に阻まれ、前輪を左右に振りながら雪をかき分け進んでも、秒速10センチといったところ。



俺、生きて帰れるのだろうか・・・?
車窓の後ろに続く雪面の(わだち)は、運転手氏の強行突破の跡である。

そしてその間も料金メーターは右肩上がりであった。
運転手氏もこのことには気づいており、「この分は値引きするから」とは言ってくれた。


ある程度坂を上ったところで、タクシーを下車。

足下には40センチの雪が積もっており、一歩足を踏み出すにも一苦労。




滝の入口に立つ佐々木小次郎像にもどっさりと雪が積もっていた。

その奥に、佐々木小次郎が秘技「燕返し」をあみ出したとされる一条滝が流れる。


私はそのままタクシーに戻った。
だって~ムリだよ~あんな雪道なんて~


運転手氏は、上ってきた坂道を雪の轍に沿ってバックで下っていくのだった。




越前丸岡城~武骨

2012-10-29 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 1 年 1 2 月 2 6 日 ( 月 )

午 前 9 時 4 4 分

福 井 県 坂 井 市

丸 岡 城



現存12天守のひとつ、丸岡城【国指定史跡】に着きました。
金沢を発ったときには白かった空が、丸岡城に着いたころには澄みきった蒼天になっていました!

入城料は300円。
そしてここでも、受付で手荷物を預かるサービスをしていました。とても有難かったです!!



北陸の大雪に耐えてきた天守は、華美な意匠もほどほどで、まさに武骨という言葉がふさわしい。


丸岡城は、1576年に柴田勝家の甥・勝豊により築城されました。

築城以来、丸岡城はめまぐるしく主を変えていきます。

まず本能寺の変の後、清州会議(信長の家臣による領地配分)により、柴田勝豊は長浜城(近江国)に移ることとなり、丸岡城は勝家が城代を置くことになります。
しかし、柴田勝家と羽柴秀吉は鋭く対立、勝豊が移った先の長浜城は対立の最前線となります。
このとき勝豊はあっさり秀吉に降伏。勝家も賤ヶ岳の決戦に敗れ、北ノ庄城(現在の福井市)で自害。

越前国は丹羽長秀の所領となり、丸岡城には青山宗勝を城主として配置しました。
丹羽長秀死後、丹羽家は所領を大幅に削られ、青山はそのまま大名として独立します。
しかし関ヶ原の戦いで西軍についたため、改易となります。

代わって越前国を治めたのは、徳川家康の次男・結城秀康でした。
丸岡城は、その家老であった本多成重が城主となります。

秀康を祖とする結城松平家は、1624年に秀康の子・忠直の不行跡で改易となってしまいます。
本多家は大名として独立し、丸岡藩が成立しました。

1695年、本多家はお家騒動により改易。
その後は有馬家(キリシタン大名の有馬晴信を祖とする)が藩主となり、明治維新まで続きました。

明治維新後は、天守を残してすべて取り壊されました。
天守のみは、旧丸岡町が買い取ったため保存されます。

その天守も、1948年の福井地震で倒壊してしまいました。
再建にあたっては、もともとの部材を組みなおして修復されました。



現存最古の天守とされる丸岡城天守【国指定重要文化財】。

外観だけでなく中もあっさりしたものでした。
天守の中はたいてい資料館のように刀剣や文書などが展示されていますが、ここ丸岡城ではそのような類のものはありません。
1層目にほかの100名城の写真があったほかは、展示物はまったくありません。

 

上層階への階段?
あまりにも急なため、ロープが備え付けられています。



瓦は石でできています。
積雪で割れないようにするためといいます。



屋根から下がっているのは、懸魚(けぎょ)です。
火災の防止を祈念して懸けられる魚型の飾りをいいます。
丸岡城の天守で装飾らしいものはこの懸魚くらいなのですが、染色していないため華美さがおさえられているようです。




北陸の風雨に400年耐えた天守は、松本や姫路と比べると大きくはありませんが、戦国の城としての風格を感じます。


天守から出ました。



天守入口の近くにあるお静慰霊碑

丸岡城の普請が難航したため、人柱を立てることになりました。
このときお静という女性が、自分の息子をさむらいにするということを条件に、人柱になることを志願しました。

丸岡城は建ちましたが、その後柴田勝豊は長浜へ移ってしまったため、お静との約束は守られませんでした。
お静はこれを恨み、濠の藻を刈るころになると春雨を降らせ、城を水ひたしにしたといいます。





天守から少し下ったところにある井戸

柴田勝豊が丸岡城を築いたころには、まだまだ越前国は平定されておらず、一向宗の勢力が跋扈していました。

あるとき柴田軍は、一向宗の門徒らに丸岡城を囲まれてしまいました。
このとき井戸から大蛇が現れ、霞を吐いて丸岡城を護ったといいます。


この逸話から、丸岡城は「霞ヶ城」とも呼ばれます。




天守のそばにぽつんと立っているのは、「一筆啓上の碑」

一筆啓上 火の用心
お仙泣かすな 馬肥やせ

「日本一短い手紙」ともいわれますが、これは本多作左衛門重次長篠の戦いの時に妻に出したものであるといいます。


本多重次は、徳川家康の最古参の家臣。
家康が岡崎城主のときは、「岡崎三奉行」のひとりとして「鬼作左」と称されました。
とても剛毅な性格で、誤りがあれば、相手が家康であっても直言したといいます。

豊臣秀吉が天下統一を進めているころ、秀吉は家康を臣下に加えようとして、大政所(秀吉の母)を人質に送り込んできました。
これにはさすがの家康も折れて、秀吉のもとに出向くこととなりました。

重次はこのとき留守を任されましたが、大政所のいる屋敷の周りにまきを並べ、「家康の身に何かあったら母を殺す!!」という姿勢を表したそうです。
大政所に話を聞いた秀吉も、これにはさすがに不快感を示し、これがもとで重次は蟄居の身となりました。
謹慎先は取手(茨城県)に変わり、そこで病死しました。


「お仙」とは仙千代、のちの本多成重です。



さて、この日はもう1ヶ所行かねばならないところがありました。
次行くところがなんとも交通の便が悪いところなので、丸岡城を早々に切り上げなければなりませんでした。

駆け足でみやげ物(絵ハガキ)を買い、資料館には一応寄りましたがチラ見程度で出ます。

受付で手荷物を回収し、



36番、丸岡城!


武骨なる名城・丸岡城を後にしました。





金沢城・終章~石垣博物館

2012-10-28 | 城郭【日本100名城】
2 0 1 1 年 1 2 月 2 4 日 ( 土 )

午 後 1 2 時 2 2 分

金 沢 城 本 丸



金沢城は、「石垣の博物館」という異名があるそうです。
多種多様の石垣が残っているというので、城内を歩き回ることとしました。



その前に、本丸に到達する前に見てきた石垣を紹介。

金沢城石川門の石垣

まずは兼六園方面の城門・石川門の石垣。
左側は、形の整った割石を積む打込接うちこみはぎ
右側は、形を徹底的に整えて隙間なく積む切込接きりこみはぎ

切込接は比較的新しい年代のもので、金沢城では出入口などの重要な箇所に用いられました。

石垣の刻印

石垣の石をよく見ると、当時の技工たちの刻印が残っています。
これらの刻印は、作業分担を表しています。

金沢城の石垣from兼六園

金沢城東側(兼六園側)の石垣。
こちらは、年代の古い野面積のづらづみ
自然石や、それを割った粗石をそのまま積み上げたもの。

金沢城大手門跡

大手門跡に残る石垣は打込接。
そしてここの石は鏡石という巨大な石が用いられています。
大手門は城の正面玄関にあたるので、城主の権勢を表すために巨石が配置されます。



本丸まで登った後は、城内をなるべくくまなく歩き、さらに石垣を見て回ることとしました。

金沢城鉄門跡の石垣

本丸を守っていた鉄門くろがねもんの跡に残る石垣です。
こちらは重要な門ということで、技術の高い切込接が用いられています。

金沢城薪の丸の石垣

薪の丸の石垣は比較的大きな石の打込接です。
薪の丸には宝物庫がありましたが、かつてはその名のとおり薪を保管する場所であったといいます。

金沢城いもり坂付近の石垣

いもり坂付近の石垣は「金場取り残し積み」という切込接の一種が用いられています。
切れ目は隙間なく整えられているが、表面は粗いままというのが個性的です。
この近くには庭園があったため、見栄えの良い石垣が造られたそうです。

金沢城・色紙短冊積み

庭園があった玉泉院丸の一帯には、さらに趣向を凝らした石垣が見られます。
黒いV字の石組みからは水が流れ、その背景には短冊のような石を配置しています。

金沢城二の丸北面の石垣

二の丸北面の石垣は、完成された打込接。
当時の加賀藩の技師は、「城内でも指折りの石垣」と賞賛したといいます。(自画自賛?)

金沢城土橋門の石垣

北の丸と三の丸をつなぐ土橋に据えられた土橋門の石垣。
正六角形の切込接がとても印象的です。
これは亀甲を表したもので、防火の願いが込められているといいます。



ここまでで金沢城をほぼ1周したことになります。
土橋門からは、大手門より少し西側の黒門跡と歩いて、そのまま金沢城を出ました。




金沢城・第2章~白銀の櫓

2012-10-28 | 城郭【日本100名城】
2 0 1 1 年 1 2 月 2 4 日 ( 土 )

午 前 1 1 時 2 6 分

金 沢 城 橋 爪 門



金沢城橋爪門

橋爪門をくぐった先が、金沢城の二の丸となります。

しかし橋爪門のところでは発掘調査が行われていたようで、この日は通れませんでした。
別の通り道から二の丸へと進みました。

金沢城菱櫓などfrom二の丸

二の丸には御殿があり、加賀藩の政庁となっていました。
橋爪門は、その御殿への正門の役割を担っていたのです。


青く澄んでいた金沢の空は、いつの間にか鉛色になっていました。
そして、冷たい雪が舞い降りてきたのです。


二の丸と三の丸を隔てる菱櫓・五十間長屋・橋爪門櫓の中へ。

工法は往時のものを用いており、材木なども石川県産のもののみを用いているそうです。
また中にエレベータが設置されてたりと、いたるところに現代的な工法も見られますなぁ。

金沢城菱櫓の構造

そして「菱櫓」という名の由来が上の画像。
ちょっとわかりにくいのですが、構造が正方形ではなく、80度と100度の菱形になっています。
こうすることによって、櫓の視野が広くなるのだといいます。


金沢城本丸from菱櫓

菱櫓から望む本丸
次はその本丸に行ってみました。

菱櫓などfrom本丸

本丸から見た菱櫓(左)・五十間長屋(中)・橋爪門櫓(右)。

金沢城三十間長屋

そして本丸には、現存する三十間長屋【国指定重要文化財】がひっそりと、ホントにひっそりと建っていました。
菱櫓だの橋詰門だのよりも、こちらのほうが歴史的価値がずっと高いのですが、ホントに見向きもされていませんでした。
三十間長屋の付近には工事中のオレンジのバリケードが無造作に立てられている始末です・・・。

本丸にはもうひとつ、鶴丸倉庫【国指定重要文化財】という価値の高い建造物があったのですが、私はスルーしてました(^_^;)




金沢城・第1章~堅牢なる城門

2012-10-28 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 1 年 1 2 月 2 4 日 ( 土 )

午 前 1 0 時 4 1 分

お 堀 通 り



兼六園を出ました。
橋が架かっていて、その先に金沢城があります。

兼六園と金沢城を隔てているのは、お堀通りという幹線道路で、その名のとおりかつては金沢城の水濠でした。


兼六園側からは、右から順に、白をベースに黒い模様が施された城壁、堅固な門、そして整った石垣をみることができます。

金沢城の城壁from兼六園

金沢城石川門一の門

金沢城の石垣from兼六園

この門は、金沢城の城門で唯一現存する石川門【国指定重要文化財】です。

金沢城石川門二の門

兼六園からの通用門で、搦め手(裏口)にあたります。
屋根瓦は鉛でできており、雪国の寒冷な気候により瓦が割れないようにしたとも、鉄砲玉に加工できる鉛を用いて籠城戦に備えたともいいます。

特徴的な模様の城壁は海鼠なまこといい、白漆喰に瓦を埋め込んだつくりとなっています。
この壁には鉄砲狭間が隠されており、瓦を外すと狭間になる仕組みです。

石川門の石垣はあまりに端正に整って無駄がなく、なんだか近現代に再建されたかのような印象を受けます。
しかしこの石垣も江戸時代の造作です。



石川門から中は、三の丸です。

金沢城三の丸

広大な三の丸の奥に、白銀のように輝く櫓が立ち並びます。
右から菱櫓、長々と続く五十間長屋、左に橋爪門続櫓です。

これらはいずれも復元されたもので、当時の工法を用いてはいますが、バリアフリーや防災にも配慮されています。
中に入るには、三の丸の券売所で入城料300円を支払う必要があります。
私は兼六園で購入した共通券(500円)を持っていたので、券売所をスルーします。なお、共通券は100円お得です。


これらの櫓に進む前に、いったん大手側へ。

金沢城大手堀

大手側にある大手堀は、金沢城で唯一現存する濠だそうです。

金沢城大手門跡

大手堀から三の丸への入口(大手門跡)です。
石垣は、表面が整形された打込接うちこみはぎです。
ひときわ目立つ大きな石は鏡石といい、城主の権勢を表すもので、正面入口にあたる大手門に据えられています。この石が金沢城最大の石です。



大手門跡から入った広場(新丸広場)から。

金沢城河北門&菱櫓

右側は、三の丸を望む菱櫓
左側は、三の丸を守る河北門

金沢城河北門

河北門は、石川門、橋爪門とともに「三御門」と称された重要な門で、大手門からの道の途上にあるため正門の役割をしていました。
「三御門」が大火で焼失した時も、真っ先に再建されています。
河北門は明治に入って撤去されますが、平成22年に130年ぶりに再建されました。

一の門の脇にはニラミ櫓台
1759年の大火前には隅櫓があったそうですが、焼失後には太鼓塀を巡らすのみとなりました。

金沢城河北門二の門

重厚な河北門二の門
外観は石川門と似た感じもしますが、正門であるため規模は一回り大きくなっています。


河北門をくぐると、

金沢城菱櫓

さきほどの菱櫓

金沢城五十間長屋

五十間長屋橋爪門続櫓に、

金沢城橋爪門

「三御門」の一、橋爪門に着きます。




風雪吹き荒れる高岡城

2012-10-28 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 1 年 1 2 月 2 3 日 ( 天 皇 誕 生 日 )

午 後 1 時 0 2 分

富 山 県 高 岡 市

高 岡 古 城 公 園



高岡大仏からやや狭い路地を歩いて5分ほど、高岡古城公園に着きました。

高岡城水濠

高岡城は、城域の3分の1が水濠になっており、その大きさは遊覧船が濠をめぐれるほどです。
そして現在は、市民会館、市民体育館、動物園、博物館などが建ち、すっかり公園化しています。



高岡城は、前田利長の命で、高山重友(右近)が縄張り(設計)を行いました。

利長は、慶長10年(1605年)弟の利常に家督を譲り、富山城で隠居生活をしていました。
しかし慶長14年(1609年)富山城に大火が起きたため、新たに高岡城を築きました。

高岡城に入って5年、利長が亡くなり、さらに元和元年(1615年)の一国一城令により、高岡城はわずか10年で廃城となりました。
しかし有事に備えてなのか、加賀藩は高岡城の水濠などを保全し、現在も築城時のままに残っています。




高岡城に着いたとたんに、いちだんと雪が強くなってきました。
傘がない私は風雪をもろに受け、一気に気が滅入ってしまいました。


高岡城登城は二の丸からスタート・・・とほほ。

高岡城・護国神社

二の丸に鎮座する護国神社射水神社
越中国一ノ宮ですが、風雪のため今回は参拝を見合わせました。

(※高岡古城公園に鎮座するのは射水神社の一社のみです。護国神社(富山縣護国神社)は富山市内におわします。 2014/6/14追記)


二の丸から本丸へ。
本丸へと進む土橋には、かつての石垣がよく残っています。

高岡城・石垣

土橋を渡った先にも射水神社。

高岡城・射水神社

参拝を見合わせましたが・・・やっぱり詣でるべきだったのでしょうか。
「この風雪をなんとかしてください」と。



風雪は、傘のない私に容赦なく襲いかかります。
私はこれに耐えながら、本丸広場をめざしました。

本丸広場の奥まったところに立つ前田利長公像

前田利長公像


前田利長は、豊臣5大老のひとり・前田利家の長男です。
また異母弟には鼻毛の名君・利常がいます。

父と弟のあいだでいまいちパッとしない利長ですが、あの織田信長の娘・永姫と婚姻したあたり、将来を期待されていたのです。

利家の死後に家督と所領を継きましたが、徳川家康から「ワシを暗殺しようとした!」とケンカを吹っかけられます。
これに対しては、母の芳春院(まつ)を人質として江戸に送り、難局を切り抜けました。

関ヶ原の戦役では、西軍に属した加賀南部の城を落としました。
丹羽長重(長秀の子)との浅井畷の戦いでは苦戦しながらも勝利。
戦後に加賀、能登、越中、あわせて120万石もの所領を得ました。

利長には男子がなく、弟の利常を養子として家督を継がせ、自身は越中富山(のち高岡)で隠居しました。
高岡城が完成ののち死去。




それにしても水の豊かな城です。

高岡城内濠

しかし風雪が止む気配がありません。
高岡城の散策は早々に切り上げて、100名城スタンプのある博物館へ急ぎました。

33番、高岡城!

33番、高岡城!

そして中の展示物をじっくりと拝見…するわけでもなく、ソファのある部屋でリラックス。
その部屋には、この博物館最強の展示物ともいえる『ドラえもん』全巻がありました。
私はしばし読みふけってしまいます。

ドラ「きみはじつにばかだな」
野比「しかし機械で友だちを作るなんて、かわいそうだね」
静香「あんたはクラスでも有名なへたくそなのよ」
剛田「買ったばかりのバットの殴り具合を試させろ」
骨川「よう、どこ行くんだウスラデブ」


作者の藤子・F・不二雄は高岡出身なのです。


雪が弱まったところを見計らって、博物館を出ました。
博物館から近い大手口へ。

高山右近像

大手口には、高山城築城を指揮した高山右近像が立っています。


高山重友(右近)は、もともと摂津高槻の大名でした。

織田信長が近畿に勢力を伸ばすと荒木村重とともに信長につき、村重の有力与力となる。
村重が信長に謀反を起こしたときはその関係から同調することとなりますが、真っ先に信長に降伏します。

本能寺の変後は、羽柴秀吉に与します。

右近は茶道の名手であり、「利休七哲」千利休の高名な七人の弟子)のひとりとされています。
(ちなみに荒木村重も「利休七哲」のひとりとされています)
また右近は築城の名手であり、近畿の先進的な築城法をもって金沢城の改築や高岡城の築城に携わりました。

そして敬虔なキリシタンとして有名です。

荒木村重の謀反の時は、信長に「おまえのトコのキリシタンを皆殺しにするぞ」と脅され、村重に預けた家族(人質)との板挟みとなって、結局身一つで城を退出しました。
(このとき右近の父・友照は城に残り、人質が殺されないようにしました)

そして豊臣秀吉がキリスト教禁止を発布した時は、あくまでキリスト教を放棄せず、領地を没収されてしまいました。
このとき、右近の才を惜しんだ前田利家が家臣に招いています。
子の利長も右近を相談役として重用しました。

そして江戸幕府もキリシタン追放令を発布します。
右近はみずから加賀を去り、マニラへ向かう船に乗り込んだといいます。
船旅と慣れぬ気候のため、ほどなくマニラで亡くなりました。




高岡城はあまり見られなかったけど…まぁ、いいか。




足利氏館~駆け込み参拝

2011-04-02 | 城郭【日本100名城】


平 成 2 3 年 ( 2 0 1 1 年 ) 1 月 9 日 ( 日 )

午 後 4 時 1 1 分

栃 木 県 足 利 市

J R 足 利 駅



足利駅を出ると、すでに空が暗くなり始めていました。
冬の午後4時は、危険な時間帯。
たいていの城や寺院は、閉門してしまう時刻なのです!
足利に着いたのはいいのですが、門前払いを食うだろう・・・。
空と時刻からみて半ばあきらめつつも、足利氏館跡のある鑁阿寺(ばんなじ)を目指しました。



駅から歩いて10分ほどで、到着・・・



三門太鼓橋【栃木県指定文化財】はまだ開いていました!


12世紀の半ば、足利氏の祖・源義康が居館をこの地に構えました。
建久7年(1196年)義康の子である足利義兼が伽藍を整備し、足利氏の氏寺となりました。

その後居館は消滅しましたが、氏寺は「鑁阿寺」となって現在に至ります。
寺号の「鑁阿」は、寺の開祖である足利義兼の法名からとったものです。



時刻が時刻だけに、まず優先すべきは100名城スタンプをもらうことでしょう。
100名城の本によるとスタンプは本堂にあるということで、正面に鎮座する本堂へ急ぎます。



本堂【国指定重要文化財】には50人近くの人が集まっていました。
そういえばこの日は成人の日の前日、新成人の心に期するものがあったのでしょうか。

本堂を詣でた後にスタンプのありかを探しますが、見当たりません。
本堂の脇で、お札やお守りを売っているお坊さんがいらっしゃいますが・・・この方々に申請しなければならないのでしょうか?
小心者の私は「スタンプのみよこせ」とは言えず、一番安いおみくじ(100円)購入のついでに「スタンプください」と申し出ました。



15番、足利氏館!
間に合った・・・ちなみにおみくじは中吉でした。


あとは、時間の許す限り境内を巡りました。



鐘楼【国指定重要文化財】は、三門から本堂に向かって右側に建っています。



経堂【国指定重要文化財】は、本堂から少し奥まったところに建っています。



鐘楼の対面には、多宝塔【栃木県指定文化財】。
この多宝塔のあたりに、足利家の居館が建っていたといいます。



日が没してきて、デジカメさんがうまく働かなくなってきました。
むむむ・・・こたびの城めぐりは、これにて終了。





姫路城・後編~籠の中の白鷺

2011-02-14 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 1 年 1 月 8 日 ( 土 )

午 前 1 0 時 2 5 分

兵 庫 県 姫 路 市

姫 路 城 西 の 丸





千姫のたたずむ化粧櫓を出て、天守方面へと向かいます。



西の丸から見た天守群は、当時はりきって大修復中!
中には入れないうえに、「白鷺」と称される姿をも見せてはくれません。

しかし、姫路城の素晴らしさは天守のみにあらず!
天守へと向かえどもなかなか行けない、複雑な縄張りもまた、大きな魅力なのです!




通称・「将軍坂」
時代劇でよくでる登城シーンは、ここで撮影されるそうです。

なだらかな坂ながら、白漆喰の塀で囲まれており、大軍が一挙に進めない構造になっています。
これら「将軍坂」を取り囲む塀も【国指定重要文化財】です。。


先には、はの門【国指定重要文化財】が構えています。
はの門の右柱には、灯ろうの台座が使われています。



築城のおりに石材不足をまかなうため、とにかく石製の物を用意する。
このような転用石は各地の城郭でも見られ、ここ姫路城も例外ではありません。




はの門を入って正面に見えるロの隅櫓【国指定重要文化財】。

城門は「い・ろ・は・に・ほ・・・」とひらがなの付番であるのに対し、隅櫓は「イ・ロ・ハ・ニ・・・」とカタカナ表記になっているようです。
それだけ城門も櫓もよく残っているという証でもあります。

天守へ向かうには、はの門の正面であるロの隅櫓・・・
ではなく、門を出てすぐ右に曲がらなければなりません。
まさに迷路、そして行軍の勢いは大きく削がれるでしょう。


そして・・・



いかにも怪しげなにの門【国指定重要文化財】。

天井が低いので、長槍をもつ足軽は通過に苦労しそうです。
そして門をくぐると、伏兵のスペースがあります。


「白鷺城」なんてみやびな名前で呼ばれる姫路城。
しかしその実は、攻められるものなら、かかって来い!!
と言わんばかりの、戦に対する備えが満載の城塞なのです。



いよいよ天守は目の前。



左が乾小天守【国宝】、右が西小天守【国宝】。
中央の櫓はニの隅櫓【国指定重要文化財】。

そして巨大な「鳥籠」の中には、修復中の大天守【国宝】が鎮座している。


天守に向かうには・・・



ほの門【国指定重要文化財】を通らねばなりません。

この低さ。当然一兵ずつでないと通ることはできません。
さらにくぐった先は上り坂。



攻めてくる兵を多人数で取り囲めるようになっています。
守兵はくぐってきた敵兵をひとりずつ長槍で串刺しにする・・・こんな門、絶対先頭でくぐりたくはありませんなぁ。

画像左側、つまりほの門をくぐって転回すると見える水一門【国指定重要文化財】は、天守への近道になります。

白漆喰の塀の中で、ほの門付近だけにある壁は油壁と呼ばれます。
粘土に豆砂利を混ぜ、米のとぎ汁で固めたものといわれ、羽柴秀吉の築城の名残だといいます。



水一門の向かいにある「姥が石」も秀吉ゆかりのものだといいます。

羽柴秀吉が軍師・黒田官兵衛のすすめで姫路城を改修した際、石不足に見舞われました。
このとき、貧しい老女がなけなしの石臼を差し出したといいます。
この話が領民に広まり、皆がすすんで石材を差し出し、石垣が完成したのだといいます。



天守はすぐ目の前なのに、天守への入口がなかなか見当たりません。
というのも、天守の周囲を回らなければ、入口にたどり着かない縄張りになっているのです。


次の門、への門【国指定重要文化財】。



への門から先は入れず。
水一門も封鎖されているので、ここで登城断念・・・。


姫路城は、播磨守護・赤松則村が1333年にとりでを築き、その子・貞範が1346年に城を構えたことに始まります。
その後、家臣の小寺氏、黒田氏が守っていた。

小寺氏の家臣であった黒田官兵衛孝高は、主家ともども羽柴秀吉に帰順しました。
秀吉は、姫路を西国攻略の本拠地とし、1581年に改修、天守を完成させました。

その後、秀吉の弟・秀長、秀吉の一族・木下家定が城主を務め、関ヶ原の戦いの後は池田輝政が入封しました。
輝政は、8年の歳月を費やして改修、拡張し、現在の天守を築きました。

池田氏3代の後は、本多忠政が入封し、長男・忠刻とその室・千姫のために西の丸を整備し、現在の姫路城の姿となりました。

その後、城主は松平氏、榊原氏、酒井氏と変わり、明治維新を迎えました。

1993年12月、姫路城は法隆寺地域の仏教建造物とともに、ユネスコの世界遺産委員会で、わが国で初めて世界文化遺産に登録されました。



一方、私は二の丸まで戻り、裏ルートにも回ってみました。



二の丸からぬの門【国指定重要文化財】をくぐって振り返ってみました。

この「上山里」という曲輪には、「お菊井戸」という井戸があります。



「いちま~~い・・・にま~~い・・・」の怪談で有名な、お菊にまつわると井戸といいます。


「お菊井戸」の先にあるりの門【国指定重要文化財】。



・・・無念の退却。


退却には、目立たない埋門(うずみもん)から出ました。



敵が攻めてきたときは、ここに土を埋めて入れないようにするものです。



最後に、三国濠越しの化粧櫓を仰ぎ見る。



入口近くの売店で絵葉書を買います。
石垣に上がって、係のおじさんに注意されながらも小ネタを挟み、



入口に戻っていきました。

100名城スタンプは、入口付近の管理事務所にありました。



59番、姫路城!



11時20分ごろ、姫路城を後にしました。



姫路城・再訪編へ。


夜の甲府城

2011-01-16 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 0 年 1 2 月 2 5 日 ( 土 )

午 後 7 時 0 5 分

J R 甲 府 駅 南 口



「甲斐の虎」と称される武田信玄公が鎮座する甲府駅南口ロータリー。



甲府市には、日本100名城がふたつ存在します。
ひとつは、信玄公が住んでいた武田氏館(躑躅ヶ崎(つつじがさき)【国指定史跡】。
もうひとつは、武田氏が滅んだ後に建てられた甲府城【山梨県指定史跡】。

ちなみに、ひとつの市区町村に複数の100名城が存在するのは甲府市のほかに・・・
 ・愛媛県松山市  松山城【国指定史跡】&湯築城【国指定史跡】
 ・滋賀県近江八幡市  安土城【国指定特別史跡】&観音寺城【国指定史跡】
の2ヶ所あります。

話はそれましたが、甲府駅の目の前にあるのは甲府城です。
正確に言うと、甲府城の城域のど真ん中をJR中央本線が走っているのです。


甲府駅南口から徒歩5分、甲府城址である舞鶴城公園に着きました。


天正10年(1582年)の甲州征伐により、信玄の子・武田勝頼織田信長に滅ぼされました。
しかし程なく、信長も本能寺の変で落命。
甲斐国は政治的空白地となりましたが、徳川家康が占拠し、このころ築城が始まりました。

豊臣秀吉が天下を統一すると、家康は関東へ転封となり、豊臣系大名が築城を継続。
浅野長政・幸長が領主のときに完成しました。

関ヶ原の戦いの後、甲斐国は徳川親藩の領地となります。
一時、5代将軍・綱吉の側用人を務めた柳沢吉保が領主となりますが、その子・吉里が大和郡山へ転封となると、天領となり甲府勤番という代官が入城しました。

戊辰戦争においては、板垣退助が無血開城をなしとげています。
明治になり廃城となりました。



都市公園になっている甲府城は、夜でも入ることができます。
園内はいたるところがライトアップされていて、



鬼門にあたる北東を守護していた稲荷櫓も見ることができました。
しかし夜であることから、櫓の中には入れませんでした。
100名城スタンプはこの櫓の中にあるということなので、甲府城はいつか再訪しなければなりませんね。


虚弱体質の当時のデジカメさんも、ここで終了を宣言なさいました。
今回の甲府城の画像は、この1枚だけです。



甲府城の散策は早めに切り上げ、午後7時25分、甲府駅に戻りました。