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鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

小諸城~穴城

2011-01-16 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 0 年 1 2 月 2 5 日 ( 土 )

午 後 1 時 4 8 分

長 野 県 小 諸 市

懐 古 園 前



立ち食いそばじゃない、



本物の小諸そばをたらふくいただき、小諸城【国指定史跡】の登城へ。


小諸城は、しなの鉄道をはさんで北に大手門公園、南に懐古園と分かれています。


そばをいただく前、あらかじめ大手門公園に寄りました。
大手門公園は、駅から歩いて5分もかからないところにあります。
管理棟の様なものも一切見当たらない。
狭い空き地に、門がポツンとあるだけ。



しかししかし侮ってはいけません。
この大手門【国指定重要文化財】は慶長17年(1612年)建造で、小諸城で最も古い建物となっています。
建造主は仙石秀久、漫画「センゴク」の主人公です。
大坂に豊臣が残っていた当時、戦乱の火種はくすぶっており、華美な装飾が省かれた実践的な城門です。


戦国時代、佐久・小諸地方を治めていたのは大井氏であったが、甲斐の武田晴信(信玄)がこの地を攻め取りました。
晴信は、小諸の地を重要拠点と位置づけ、軍師・山本勘助に命じて小諸城を築城させたといいます。

武田家が滅亡すると織田、徳川の手に渡り、天正18年(1590年)豊臣秀吉小田原征伐で大功を立てた仙石秀久が城主となりました。
秀久は曲輪に石垣を用いるなど、小諸城を近世城郭に変貌させました。
現在残っている小諸城は、このときの普請をもととしています。
また秀久は、殖産興業の一環として、小諸地方で採れるそばを特産物にしました。
領民にはそば切り(現在の麺としてのそば)を振る舞い、そばの普及に努めたそうです。

秀久の子・忠政上田へ転封となり、さらに2代後の政明は丹後国(兵庫県北部)出石に移ります。
上田のそば職人が出石に移ったため、出石でもそばが名産品となりました。

小諸城は、仙石家の転封以降は6氏16城主の居城となり、明治維新を迎えました。



大手門公園から、しなの鉄道を越えて徒歩約7分。
この日はしなの鉄道をくぐる地下道が工事中だったので、余計に時間がかかってしまいましたが・・・



懐古園の入口に到着しました。
シンボルである三の門【国指定重要文化財】に出迎えられます。
正面にある「懐古園」の額は、徳川慶喜の子・家達(いえさと)の筆によります。

そして三の門は、門の位置より高い道路から撮っています。
体感では、撮影場所の道路と大手門公園が同じくらいかな~、いや道路の方が少し低いかな~といった具合。
いずれにしても、三の門の高度は大手門の高度よりも低い位置にあります。
小諸城は「穴城」、すなわち本丸に行くにつれ高度が低くなるという珍しい城なのです。

そういう「穴城」なので、攻め落とすのはカンタン・・・というわけではありませんでした。
それは低い本丸に行けばわかります。


三の門をくぐると、料金所がありました。
入園料は300円。(※旅行当時の金額です)



入園券といわんばかりでしょうか、なかなか小粋な贈り物をもらいました。



三の門をくぐった先は、二の丸です。
園内をそぞろ歩くと、ところどころに野面積みの古石垣が残っています。
関ヶ原の戦いで別働隊を率いていた徳川秀忠の軍勢を城主・仙石秀久が迎え、小諸城の二の丸が本陣となっていました。
ここから秀忠軍は上田城へ出陣し・・・痛い目に遭うわけです。



こちらは二の門跡
二の丸と、北の丸および南の丸を隔てていました。

画像の石段をのぼったところは、二の丸の高台。
上田合戦前の徳川秀忠は、この高台の屋敷に逗留していたそうです。


さらに進むと、橋が架かっています。



断崖絶壁にかかっている黒門橋
戦時には橋を壊し、本丸への侵入を防ぎます。
また、橋の向こうには黒門という櫓門が建っていたそうです。



黒門橋を渡ると本丸
石垣に生した苔が、古城の雰囲気をかもし出しています。

黒門橋から右に回ると、城内唯一の井戸・荒神井戸と、天守台が残っています。



築城当初は3層の天守が建っていましたが、寛永3年(1626年)に落雷で焼失してしまいます。
その後、天守が再建されることはありませんでした。



天守台の向かいには、藤村記念館があります。
ふ~ん、ふじむらって誰だろう? 小諸地方の名士なのかな~。



もしかして、ヒゲDのことじゃないよね?
ヒゲDの記念館だったら展示物は・・・ドイツの道ばたで立てたテントとか・・・?

立て看板をよく見て、英語表記の部分から私は誤りを悟ります。

  × 藤村(ふじむら)記念館
  ○ 藤村(とうそん)記念館

小諸は、明治の文豪・島崎藤村が7年ほど居住していたそうです。
「藤村」=Dを連想した私は、かなりの病でしょうか?


小諸なる古城のほとり
雪白く遊子悲しむ



さて、天守台にのぼるには、黒門橋の方からから回りこむこととなります。



本丸の石垣に囲われた曲輪は、現在は懐古神社の境内となっています。
境内には「鏡石」という、山本勘助が鏡の代わりにしたという石があります。
私は見逃してしまったんですけどね・・・。

懐古神社には、ニシキゴイが回遊する池があります。
この日は気温1ケタの寒さ、池中のニシキゴイはま~ったく動いていませんでした。



小諸城の最奥へ。



水の手展望台という見晴台からのながめ。
はるか下を千曲川が流れています。
見晴台の真下は断崖絶壁、こんなところから攻め入るのはほぼほぼ不可能でしょう。



こちらは懐古園の裏口にあたる酔月橋
本丸は地獄谷とよばれる深い谷で隔てられています。


小諸城で籠城戦を行うことを想像すると・・・
背後が断崖絶壁で囲まれているので、守備する場所が前面の大手門に限られます。
援軍は大手門の横から現れるので、攻城軍は二正面作戦を強いられることにもなります。
また大手門を取られると城内が見渡せて不利なので、城兵は大手門を死守することとなります。いわば「背水の陣」の効果もありそうです。

小諸城が「穴城」であっても、難攻不落であることがよくわかります。



この日は城3つを攻略し、疲労がたまった私は早々に小諸駅へ戻ろうとしました。

100名城スタンプをもらってない!

小諸駅の手前で思い出した私は、あわてて懐古園に戻ります。
スタンプがもらえる懐古園事務所は、料金所よりも入口側にありました。
事務所の、さらに奥の事務室。
職場感が満ち満ちている空間の、デスクからスタンプが登場。



28番、小諸城!
絵柄は・・・おそらく三の門でしょうか。




それにしても危うくスタンプなしで小諸を発つところでした。
安堵したところで、三の門をくぐり小諸駅へ戻っていきました。





上田城~真田の城?

2011-01-15 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 0 年 1 2 月 2 5 日 ( 土 )

午 前 1 1 時 2 5 分

長 野 県 上 田 市

上 田 城 址 公 園



すっきりと晴れず、底冷えがする信濃路。
真田六文銭で彩られた上田市街を歩き、上田城址公園に到着しました。


上田城は公園化が進んでおり、二の丸には上田市民会館などがあります。
そんなこともあり、城跡ではあまり聞こえてこないはずのブラスバンドの練習音なんかも耳に入ってきました。


上田城【国指定史跡】は、天正11年(1583年)に真田昌幸により築城されました。
天正10年の武田家滅亡後、昌幸は上田地方一帯の領主として、織田、徳川、北条、上杉らの大大名とわたり合い、権謀術数をもって所領を拡大し「表裏比興の者」と賞賛されました。

天正13年(1585年)徳川軍が7,000の兵で攻め入ったときは、昌幸と長男・信幸らは1,200の兵で迎撃、上田地方の諸城で篭城戦を展開します。
このときは地の利を巧みに利用し、徳川軍に戦死者1,000人以上の損害を与え、撃退しました。(第一次上田合戦

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い前夜。
真田昌幸と二男・信繁(幸村)は西軍に、長男・信幸は東軍につきました。
これは、東西どちらが勝っても真田の家名がのこるように図ったのだといいます。
また、幸村は西軍についた大谷吉継の娘を、信幸は徳川家臣・本多忠勝の娘・小松を妻としていた、という事情もあったようです。

決戦に向けて徳川家康は軍勢を二手に分け、自らは東海道を西進し、三男・秀忠の軍勢38,000を中山道から進ませました。

秀忠西進の途上にある上田城。
真田昌幸・幸村父子が2,000の兵で篭城して待ち構えていました。
昌幸の計略、采配によって秀忠軍はもてあそばれ、城を落とせないばかりか、関ヶ原の本戦に間に合わないという大失態を演じてしまいました。(第二次上田合戦
一説によれば秀忠軍の目的は上田城攻略にあったのですが、状況が変わり家康が関ヶ原への急行を命じたため上田城を落城させないまま西進することとなり、結果本戦に間に合わなかったともいいます。
いずれにしろこの戦いで秀忠の武人としてのキャリアは傷ついたようで、秀忠本人もこの敗戦を相当意識していたそうです。

戦後、信幸とその義父・本多忠勝が嘆願し、昌幸・幸村父子は死を免れ、高野山(のち九度山)に幽閉されることとなりました。
徳川にとって忌まわしの上田城は破却されることとなったのです。
信幸は、父の所領を与えられ、徳川への忠誠の証として父から継いだ「幸」の名を削り「信之」と改名しましたが、2代将軍・秀忠のときに上田から松代へ転封となりました。
真田にひどい目に遭わされた秀忠さんが、嫌がらせのために転封を命じたといわれていますが、実際は信之の才略を見込んでの加増だったようです。

上田の地は、小諸から移ってきた仙石忠政が治めることとなり、このとき上田城が復興します。
現在の上田城は、仙石家が建てたものが残っているものです。
仙石家が出石に移ると、松平(藤井松平)家が藩主を務め、明治維新を迎えました。



上田城の歴史をよ~く踏まえたうえで、上田城の遺構がよく残っている本丸に入ってみましょう。



本丸への関門であった東虎口櫓門【再建】。
両脇を南櫓【長野県宝】と北櫓【長野県宝】が固めています。
これらの2基の櫓は明治維新後に民間に払い下げられ、一時期にはなんと遊郭!!になっていたそうです。
昭和前期に、移築されていた2基の櫓は元の位置に戻されました。



東虎口櫓門の「真田石」
上田城で一番大きな石だといいます。
真田信之が転封のさいに持ち去ろうとしたのですが全く動かず、そのまま残されたそうです。
しかし信之時代には城はなかったはずです。
この話はただの伝承に過ぎないものと思われます。

門をくぐると南櫓の入口があるのですが、この日は閉まっていたのでした。
たしか100名城スタンプはここにあるはず・・・。
まさかスタンプなしで終わるのでは??


さて、本丸へ入ると・・・



本丸の一画には真田神社が鎮座しています。
真田、仙石、松平家の歴代城主を御祭神として祀っています。
しかしもとは「松平神社」といい、松平家の当主のみを祀っていたそうです。

そんな神社の境内で、署名活動をしているおじさまがいらっしゃいました。
その内容は、「真田幸村を大河ドラマに!」とのことでした。
私も署名をしてきました。

(※この署名活動が実ったのか、平成28年の大河ドラマは「真田丸」が放映されましたね)

署名ついでにそのおじさまに、
「南櫓に入れないんですけど・・・」
と尋ねれば、
「冬の間は開いてないんですよ」
とのことでした。
じゃあ100名城スタンプはどこでもらえるの???

社殿の奥には、「真田井戸」があります・・・って、また真田かい!?
この城は真田さんじゃなくて、仙石さんが建てた城だっていうに・・・それはいいとして。
本丸にある唯一の大井戸で、城の北側へ抜け穴が通じていたという伝承があります。



本丸の西側、真田神社の境内からも見える西櫓【長野県宝】。
この櫓は唯一、上田城が再築城された江戸時代から現存しています。



いったん本丸から出て、お濠ぞいに歩いていきました。
どこぞの高校の陸上部の方でしょうか、半袖短パンで疾走しています。
元気ですねぇ~。



二の丸から見た本丸です。
北東の方角のみ、お濠とその上の土塁が切り取られた形をしています。
これは「鬼門除け」といい、北東の方角=鬼門の土地を削ることによって厄災を防ぐおまじないのようなものだそうです。



さて、100名城スタンプです。
スタンプ帳によると、上田城の櫓の中でもらえるとの記述がありましたが、冬季は櫓が閉鎖されています。
今回はスタンプをゲットできないのか?

スタンプ帳をよくよく確認すると、「冬季は博物館」とありました。
そこで二の丸にある上田市立博物館へ。



27番、上田城!
絵柄は東虎口櫓門ですね。

このまま博物館に入るのがスジというものですが、時間がなかったのでそのまま上田城を出たのでした。





松本城~美しき天守

2011-01-10 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 0 年 1 2 月 2 5 日 ( 土 )

午 前 6 時 5 5 分

長 野 県 松 本 市

国 宝 ・ 松 本 城



松本市内のファミレスを出た私は、松本城【国指定史跡】へと歩きました。
到着すると・・・真っ暗。
さすがに早朝では、ライトアップの照明は落とされているようでした。
松本城の入口前にあるコンビニで、週刊誌を立ち読みしながら夜明けをじっと待ちました。

そして6時55分ごろ、空が白く明るくなってきたので、城周辺を散歩することとしました。



まずは天守のほうには向かわず、二の丸のほうへ。



二の丸御殿跡
藩政が行われる場所で、かつ藩主の住まいであった場所が、御殿です。
もとは本丸に御殿があったようですが、焼失したため、二の丸に新たに御殿が建てられたそうです。
以後、幕末まで藩政が行われていました。

 

二の丸と三の丸を隔てる太鼓門【再建】。
二の丸の外を囲う外堀の土橋上にあって、一の門が高麗門、二の門が櫓門となっていて、一二の門の間の空間が包囲されている枡形構造となっています。
もとは太鼓楼が築かれており、時刻の合図、登城の合図などの発信源として重要な役割を果たしていたそうです。


そして・・・天守群とご対面。
天守群は本丸に建っていますが、早朝では本丸に立ち入ることができません。
二の丸から、内堀ごしに天守を仰ぎ見ます。



まずは、内堀南東から。



内堀真向かいからの天守群。
松本城の写真でよく見る画角ですね。



西側からの天守群。



内堀にかかる朱塗りの橋・(うずみ)の橋
ここからの天守群も、写真でよく見る画角とあって秀逸ですね。


天守閣をじっくり眺める以外にやることはありません。


1時間後・・・。



相変わらずの美しい天守。
天守群は5棟の建物から成っております。

一番右、赤い欄かんがついているのが月見櫓【国宝】。
その隣、2層の建物が辰巳附櫓【国宝】。
中央、高くそびえ立っている大天守【国宝】。
一番左にある、3層の建物が(いぬい)小天守【国宝】。
画像からは見づらいのですが、大天守と乾小天守の間には渡櫓【国宝】があります。

そしてこの天守群は、カラスが空を舞おうとする姿に似ていることからから、松本城は「烏城」とも称されます。
その美しさは、西の「白鷺城」姫路城のそれとは対になっているようですね。



本丸に入れる時刻は、8時半。
それまで、美しい天守を眺めつつ、信州の寒さとの闘いに身を震わせていました。




午 前 8 時 3 0 分

黒 門 が 開 門


松本城の黒門【再建】。



待ちに待った開門時刻。



松本城に到着して約1時間半、ようやく本丸に入ることができました。


松本城は、元を深志城といい、戦国時代には守護の小笠原氏の支配に属していました。
しかし当主・小笠原長時の代に、甲斐の武田晴信(信玄)が侵略してきました。
長時は追放され、深志城は武田氏の支配下となります。

武田信玄の死後、跡を継いだ子の勝頼長篠の戦いで大敗。
その後織田信長による侵略が始まり、天正10年(1582年)天目山の戦い(甲斐国)にて滅亡。
甲斐・信濃は一時的に織田領となります。

直後、信長が本能寺で斃れると、そのどさくさで徳川家康がこの地を攻め取り、小笠原長時の子・貞慶が城主に返り咲き、名を松本城に改めました。

徳川家康が豊臣秀吉に帰順すると、家康は関東に転封となり、小笠原氏もこの地を去りました。
後を受けたのは、もと家康の重臣・石川数正(かずます)でした。

石川数正と子の康長の代に、城下町・松本が形成され、「烏城」ともうたわれる天守が築かれました。
石川康長はのちに江戸幕府により改易されてしまいますが、その後の6氏21藩主の治世を経て、天守は400年の風雪に耐えて現存しています。




天守の中へ。
入場料は、松本市博物館との共通券で600円。(※旅行当時)
松本城は博物館との共通券しか売っていないようです。
時間の関係上、博物館はスルーしなければならないのですが・・・。


松本城は、戦乱の世がまだ完全には終息していなかった時代の城なので、優雅な姿とは裏腹に、内部はじつに実戦的な構造となっています。



急な階段に、低い天井。
特に4階から5階へ上がる階段は、傾斜が60度、1段の高さが約40センチと、かなり上りにくくなっています。
時間帯によっては、この急な階段を先頭に天守内の渋滞が発生するのです。
ただ、今回は早朝ということもあり、観光客が少なかったので、ゆっくりと城内を巡ることができました。

逆に、最上階へ続く階段は、重臣のみが上るものとされ、途中に踊り場があり傾斜も緩やかになっています。



3階は唯一窓がありません。
このため実際は6階建ての大天守は、外観では5層となっています。
この空間は外から見えないので、戦時にはここに兵を隠して敵を待ち受けるための構造でした。
天守の構造をさす時に「●層▲階」と表しますが、この数にズレがある場合はこういった武者隠しの階があることになります。



最上階の天井には、松本城を護る神「二十六夜神」が祀られています。



大天守の最上階から下りました。
こちらは月見櫓の内部。
他の棟が閉鎖的なのに対し、月見櫓は三面が開放できます。
この月見櫓と隣りの辰巳附櫓は、天下泰平の世となった江戸時代に増築されました。


天守の中では、鉄砲などの展示がありました。
当時の私にはあまり興味が湧くこともななかったので、割愛。
「馬上筒」という騎馬隊用の鉄砲も展示されていたのですが、案外馬上筒はデカかったです。
あれを扱う騎馬鉄砲隊はさぞ大変だったでしょう。



外に本出ました。



本丸には「清正公駒つなぎの桜」という桜の木が立っています。
城主・石川康長が、加藤清正に馬を贈るため、馬2頭を桜につないだといいます。

康長「貴殿に馬を贈るため、それがしが2頭選び申した。
  どちらか貴殿のお気に召すほうを連れて帰られよ」
清正「貴殿じきじきに選んだ馬をそれがしごときの眼で選ぶは無礼。
  2頭とも選ぶのが礼儀というものでござろう」

清正はチャッカリと、石川さんから馬2頭を譲り受けてしまったそうな。



100名城スタンプは、本丸の事務所にありました。



29番、松本城!
失敗してしまった・・・。





二本松城~あれが安達太良山

2010-12-18 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 0 年 1 2 月 1 1 日 ( 土 )

午 後 1 時 0 5 分

福 島 県 二 本 松 市

J R 二 本 松 駅



二本松駅の中にある観光案内所に立ち寄り、



11番、二本松城!
早々にスタンプをゲットし、ガイドマップも入手。
スタンプをゲットしたからもう用はない!ということはせず、しっかりと二本松城へ向かいます。


二本松駅から二本松城址のある霞ヶ城公園までは、久保丁坂という坂を上り、丘陵をひとつ跨いでいかなければなりません。

二本松神社の脇から始まる久保丁坂。
これをわが健脚でもって、ひたすら上っていきます。
500メートルほどの坂なのですが、傾斜が半端じゃありません
斜度を表示する道路標識はなかったのですが、おそらく20%ほど。
とある坂沿いの民家に「もう少しです。がんばって」なんて貼り紙もありました。

坂を上りきると、今度は下り坂。
下りは傾斜も長さも大したことはありません。

駅から歩くこと約18分、霞ヶ城公園入口に到着しました。


二本松城は、応永21年(1414年)に二本松満泰が居館を築いたことに始まります。
二本松家は元は足利幕府の管領・畠山氏の系譜を引きますが、勢力範囲は二本松周辺に限られていました。

天正13年(1585年)二本松義継は米沢城主・伊達政宗と敵対し、政宗に攻め込まれてしまいます。
義継は降伏し、政宗の父・輝宗に面会しますがが、一転、輝宗を拉致します。
政宗は粟ノ須(現二本松市)で父もろとも義継を討ち、二本松への侵攻を再開。
一時は人取橋の戦いで苦境に立つも、政宗は二本松城を攻め取りました。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉が小田原の北条氏を大軍勢で包囲すると、政宗は秀吉に降伏。
二本松と会津の地は、蒲生氏郷に与えられました。
蒲生氏郷の死後は上杉景勝に、関ヶ原の戦いの後は蒲生秀行(氏郷の子)に、その後加藤嘉明に移り、寛永20年(1643年)に丹羽長秀の孫である丹羽光重白河小峰城から移ってきてからは、倒幕まで丹羽氏の居城となりました。

戊辰戦争では、二本松藩は奥羽越列藩同盟に加盟したため、新政府軍に攻められて落城してしまいます。
このとき城内の建物はほとんどが焼失してしまいました。
明治5年(1872年)の廃城令により、残っていた建物も破却され、廃城となりました。





霞ヶ城公園の入口にある像は、二本松少年隊の像です。
少年隊の奮戦と、我が子の出陣服を仕立てる母の姿を表しています。


戊辰戦争では奥羽悦列藩同盟に加盟した二本松藩。
対する新政府軍は白河小峰城を奪取し、ここをめぐる攻防(白河口の戦い)が激化します。
列藩同盟軍は白河小峰城の奪還をめざし、諸藩の軍勢を集め白河に幾度も攻勢を仕掛けます。
しかし藩祖・丹羽光重の父・長重が築き上げた石垣の小峰城を、列藩同盟軍は攻め落とすことができません。
そのうち新政府軍が軍勢を整え、手薄となっていた二本松城に攻め込んできました。

このとき主だった兵が白河にいた二本松藩では、少年であった藩士の子弟らも出陣することとなりました。
しかし戦況に利あらず、少年兵はひとり、またひとりと戦場の露と消えていきました。
彼らの歳は、上は17歳から下は13歳。
後世の人々は彼らの生死を悼み、彼らはやがて「二本松少年隊」と呼ばれるようになりました。



背後には石垣が高くそびえ立っています。
これらの高石垣は、加藤氏の時代に築かれたようです。



箕輪門【再建】は、箕輪村という村の樫の木を使い、門としたそうです。
外側には二重櫓、内側には平櫓が備わっています。


門の内側へ足を運ぶと、まず作業用の自動車が何台も停められていました。
作業で出たであろう廃棄物もところどころに落ちていました。
看板から察するに、おそらくは菊人形展の後始末をしているのでしょう。


さらに進むと、るり池、霞池という池があります。
そしてその池に流れ込む水が、上流からこんこんと流れてきています。
城というより日本庭園を歩いているかのようです。

通路は坂の上に続いているようです。



二本松城で唯一江戸時代から残っている建物である洗心亭【福島県指定文化財】。
「墨絵の御茶屋」と称されたこの茶屋は、天保8年(1837年)に城外の阿武隈川河畔に移築されました。
そのため戊辰戦争の戦火を免れ、再び城内に戻されています。



傘のような形をしているので、そのまんま「傘松」【二本松市指定天然記念物】。
アカマツの古木で、樹齢は約300年なのだそうです。



洗心堂の近くにある「洗心滝」
だいぶ坂を上ってきているのですが、なかなかに豊かな水量。
城内の庭園へ水を導くこの水路は二合田用水といい、丹羽氏の時代に幕府に内密に引いたのだといいます。

通路を外れると、イロハカエデの落葉がふかふかのじゅうたんのように積もっています。
カエデはすっかり色あせて、うす茶色になってしまっていました。
季節が合えば、ここの景色はさぞ見事であろう・・・。

それにしても、雨水の流れ道をも覆っているカエデの落葉。
おかげで何度も足をとられてしまい、坂道を上るのにいささか難儀してしまいました。


「洗心滝」を過ぎたあたりから、坂道がきつくなってきます。



智恵子抄詩碑
彫刻家で詩人の高村光太郎が、愛妻・智恵子を偲んで詠んだ詩が刻まれています。

あれが阿多多羅山
あの光るのが阿武隈川


智恵子は二本松で生まれ、画家を志して上京します。
そこで高村光太郎と出会うのですが、精神病にかかってしまいます。
それでも故郷の景色は忘れず、安達太良山と阿武隈川の風景を想っていたそうです。


少年隊を顕彰する碑がある「少年隊の丘」
さらに進んで搦手門跡を経て、本丸に到着。



本丸は全面が石垣で囲まれています。



あれが安達太良山
本丸に登ると、東は阿武隈高地、西は安達太良山を見渡すことができました。

90歳にもなる壮健なご老人が、安達太良の山々の写真を撮られていました。
私が船橋から来た旨を伝えると、ご老人は市川の旧日本軍関連施設に勤務していたことをお話しされました。
お元気な御仁にくらべ、私は息切れが・・・。





本丸から戻りました。
斜陽に照らされる箕輪門を尻目に、二本松駅へと歩き出すのでした。





白河小峰城~北を抑える堅城

2010-10-15 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 0 年 1 2 月 1 1 日 ( 土 )

午 前 1 0 時 1 0 分

福 島 県 白 河 市

J R 白 河 駅



JR白河駅のホームから見える、白河小峰城



駅からは歩いて5分ほどで到着しました。





白河小峰城は、現在城山公園という公園になっています。
こちらが城山公園の入口。
かつては藤門という城門があったそうです。


さっそく本丸へ。



本丸へ入るための城門である前御門
城のシンボルである御三階櫓が凛とそびえています。

これらの建物は平成になってから復元されたもので、木造、そして当時の工法で建てられています。
日本最初の城郭建造物の本格的復元事例なのだそうです。
これには当時の建築基準法が大規模な木造建築を禁止していたため障壁となっていたのですが、小峰城さんは最初は「工作物」ということで建てて、その後人を入れる「建物」に転換するという方法で乗り切ったそうです。
その後建築基準法は改正され、掛川城が日本最初の木道天守閣復元を成し遂げたのでした。


前御門をくぐると、御三階櫓は目前です。
櫓の中は無料で入ることができます。
今回の低予算企画にとってはとてもお優しいお城でございます。
ただ、建築の経緯もあってか、人数は制限されていて、同時に櫓を上れるのは最大10名ほどまでです。



地元の杉で復元された御三階櫓。
白河は白河口の戦いという戊辰戦争の戦場となった地。



こういった弾痕は、1階の床に1箇所、1階の柱にも1箇所ありました。

100名城のスタンプは、この櫓の入口(受付)でもらえます。
受付には、往年の淑女がお二人座っておられました。
「どこから来たんですか?」
と聞かれたので、
『船橋です』
って答えると、淑女のお一人はかつて松戸に住んでいらっしゃったようで、多少話が弾みました。
やはり私は熟女には強い!



13番、白河小峰城!


城内をさらに散策。
御三階櫓の先に広がる本丸御殿跡
寛政の改革を指揮した老中・松平定信もここに住んでいたのか・・・と、ちょっと感慨にふけてみます。




白河小峰城は、南北朝時代に結城親朝が築城したのが始まりとされます。
天正18年(1590年)豊臣秀吉奥州仕置で城主の白河結城氏が改易されると、蒲生氏郷・秀行上杉景勝、再度蒲生秀行と支配が転々と変わりました。
寛永4年(1627年)に丹羽長重が移封されると、幕府の命令で城郭の大改築がなされました。
この改修は、北の雄藩・仙台藩に対しての防備であったといいます。

江戸時代後期には、寛政の改革を指揮した老中・松平定信を輩出しました。
定信は6年で老中を罷免されますが、その後は白河での藩政に尽力し、江戸時代後期を代表する名君として高く評価されています。

戊辰戦争では、白河小峰城が奥羽越列藩同盟軍と新政府軍との激しい攻防の舞台となり、新政府軍により落城。
その後列藩同盟軍が幾度となく奪還をめざしますが、北からの軍勢に対する防御力がいかんなく発揮され、新政府軍は少ない兵力で守り抜くことができました。
この白河口の戦いの勝敗により、列藩同盟軍は劣勢に立たされ、戊辰戦争の大勢が定まりました。





本丸から出ました。



本丸を取り囲む石垣はとても高いです。
盛岡城、会津若松城と並び、東北地方を代表する高石垣の城とされています。



水濠からの高さは、10メートルほどでしょうか。


初代白河藩主・丹羽長重は、幕府の命により小峰城の大改修を行い、石垣造りの城郭を築き上げました。

その際、本丸の一角にある石垣が幾度となく崩れ落ちてしまうことから、人柱を立てることとし、最初に城にやって来た者を人柱にすると定めました。
その日最初にやって来たのが、藩士・和知平左衛門の娘・おとめでした。
父は必死に「来るな」と手で合図したのを、おとめは「来い」と勘違いして登城してしまい、捕らえられ人柱にされてしまったそうです。
小峰城の完成後、人々はおとめの悲運を哀んで桜を植え、これが「おとめ桜」と称されるようになりました。



「おとめ桜」も戊辰戦争で焼失してしまい、現在御三階櫓の傍らに立っているは「おとめ桜」は二代目なのだそうです。



城山公園の園内には、白河集古苑という資料館があり、また白河バラ園ありますありました。

 (※白河バラ園は、東日本大震災の影響もあって、平成26年3月31日をもって閉園となりました。)

白河集古苑は入館料310円(※当時の金額)・・・予算の関係上パスさせていただきました。
白河バラ園は、バラの咲く6月だけ開園のため今回は入れませんでした。
今回は、白河小峰城に登城のみにとどめております。





駿府城~月曜の呪い

2010-09-19 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 0 年 9 月 6 日 ( 月 )

午 後 3 時 3 0 分

静 岡 県 庁



静岡駅から地下道と日陰の道を歩いて約10分、静岡県庁へ。



駿府城へ行く道を遮るかのように建っている県庁。
その脇道こそが駿府城への近道であり、かつ公式なルートとなっているのです。





駿府城(駿府公園)の入口に到達しました。
(当時は「駿府公園」でしたが、現在は駿府城公園となっています)


駿府城は、室町時代に駿河守護であった今川氏の築いた今川館をルーツとしています。
16世紀後半、武田信玄が今川との同盟を破棄し駿河に侵攻すると、今川館は廃棄されてしまいます。

信玄死した後、織田信長徳川家康は、武田を討伐して滅亡させ、駿河は徳川家康が領有しました。
家康は天正14年(1586年)駿府城を築城し、浜松城から本拠を移しました。
天正18年(1590年)に家康が関東に移封となると、のちに「三中老」のひとりとなる中村一氏が城主となります。

関ヶ原の戦い後に中村氏が伯耆(鳥取県)に加増移封となります。
慶長11年(1606年)家康が征夷大将軍を辞すると、駿府城は大御所の隠居城として大きく改修されました。
家康は隠居後も政治の実権を手放さなかったため、このころの駿府は江戸と並ぶ政治経済の中心でした。
家康の死後は、その十男・頼宜が城主となり、頼宜が和歌山へ移ると徳川秀忠の次男・松平忠長が城主となります。
忠長が処分されると駿府は直轄地となり、駿府城代が置かれました。



公園の入口からは、駿府城の二の丸となります。
二の丸は周囲を水濠で囲まれていましたが、このあたりは埋立てがあったところです。



近年復元された(たつみ)



同じく近年復元された二の丸東御門



東御門は、強大な権力を手にした戦国の覇者が居を構えるにふさわしい、堅固な枡形門となっています。
東御門と巽櫓に入るため、券買所へ向かうと・・・



あまりにも非情な現実。
東御門、巽櫓に入れないばかりでなく、駿府公園内にある紅葉山庭園にも入れませんでした。

こうなると気になるのは、100名城スタンプ。
手持ちのガイドブックを見ると、「東御門券買所」とあったのです。
券売所をよくよく観察しても、100名城スタンプは設置されていませんでした。

はぁ~~~~・・・
何が有給バンザイだよぉ(T_T)



仕方がないので、休業日に関係ないものを見ていくこととしました。



家康の隠居城とあって、駿府城にも徳川家康公銅像が立っていました。
駿府の家康像は、彼が生涯趣味としていた鷹狩りをしている様子をモチーフとしています。
それにしても、この日は家康の像を何体も見ています・・・まぁ、ほとんどが岡崎なんですけど。



「家康公お手植えのみかん」なんてものもあります。
家康像のすぐそばに植わっていて、フェンスで厳重に守られていました。
この2つは、少々見つけにくいところにありました。




天守があったところ。
現在は立て看板が立っているだけです。
天守は1635年に失火で焼け落ちたのち、再建されることはありませんでした。



100名城スタンプをあきらめきれない私は、なおも公園内をさまよいましたが、成果はありませんでした。
スタンプ帳の「駿府城」の欄はブランクのまま、駿府公園を後にしたのでした。



駿府公園を出て、かつての駿府城三の丸を歩きます。



二の丸と三の丸を隔てる水濠と、二の丸を取り囲う石垣。
平成21年(2009年)の地震で石垣が一部崩落したため、その部分の修復工事を行っていました。

お濠のそばにそびえ立つのは・・・



静岡県警察本部のビル。
まさに現代の駿府城なのかもしれませんね。





掛川城~海道の名城

2010-09-19 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 0 年 9 月 6 日 ( 月 )

午 後 1 2 時 5 6 分

静 岡 県 掛 川 市

J R 掛 川 駅



掛川駅からのびる駅前の通りを、ただただまっすぐ歩いていきました。
ものの10分もしないうちに、掛川城公園に到着しました。



四足門【復元】から中に入ります。
発掘調査で門の柱などの痕跡は見つかっていないそうですが、正保時代の絵図をたよりに復元されたそうです。


そういえばこの日は平日、観光客はほとんどいません。
掛川城をじっくり堪能できそうです。有給バンザイ!


管理所で入城料300円を支払います。(現在は410円になっています)
ここでの入城券で、天守閣と御殿の両方に入ることができます。




入口付近の隅櫓である太鼓櫓【復元】。
この櫓には大太鼓が据えられ、その音をもって時を知らせたといいます。
現在、大太鼓【掛川市指定文化財】は御殿の広間に移されて展示されています。
この櫓には入れません。

そして・・・



シャープなフォルムが特徴的な掛川城天守【復元】です。
その美しさはまさに「海道の名城」の名に恥じません。
天守は平成6年、当時の技術をもって木造で復元されました。
木造で復元された最初の天守なのだそうです。
掛川城の城主であった山内一豊は、関ヶ原の戦後土佐に加増移封された際、自分が建造した掛川城を模して高知城を築城したとされています。
そのため現存する高知城の天守を、復元の際に参考にしたそうです。


掛川城は、室町時代、駿河守護・今川氏が遠江への進出を狙って、家臣の朝比奈氏に築城させたところに始まり、以来朝比奈氏が代々城主を務めました。
永禄3年(1560年)桶狭間の戦い今川義元が戦死し、子の氏真(うじざね)が継ぐと、今川領は武田信玄・徳川家康の軍勢に東西から挟撃されました。
掛川城は徳川軍に攻められますが、城主の朝比奈泰朝は半年間耐え抜き、和議で開城しました。
以後、徳川家康が天正18年(1590年)に関東に移るまで、徳川が領有し続けました。

家康が関東に移ると、豊臣秀吉の直臣・山内一豊が城主となりました。
一豊は掛川城を改修、拡張し、現在の掛川の礎を築きました。

関ヶ原の戦いののち一豊が高知へ移ると、譜代大名が何度も転封されてきました。
最終的には太田氏(江戸城を築城した太田道灌の子孫)がこの地を治めました。
幕末、安政元年(1854年)安政東海地震が発生、掛川城の建物は大半が倒壊し、多くの建物は再建されることなく、明治維新を迎えました。



天守の傍らには、「霧吹き井戸」が残っています。


桶狭間今川義元が戦死し、子の氏真が当主となると、西の三河では松平元康(徳川家康)が離反、独立しました。
家康は三河を掌握し、隣国の遠江に攻め込んできます。
さらには甲斐の武田信玄が同盟を破棄、駿河へ軍勢を進めてきました。
武田・徳川の東西からの侵攻を、今川軍は防ぎきることはできません。
氏真は本拠地の今川館(のちの駿府城)を放棄し、朝比奈泰朝が守る掛川城に逃れてきました。

そこに徳川軍が攻めかかります。
すると、城内の井戸より霧が出て、掛川城を徳川軍から護ったのだそうです。

掛川城は徳川軍の猛攻を半年間耐え、和議によって開城。
今川主従は同盟者・北条氏康のいる小田原へと退去したのでした。



天守に入らず城の周りを見ると、トゲトゲしい突起物があります。



忍びの者の侵入を防ぐ忍返しです。
そしてこの棟の微妙な出っ張りは・・・



中から石を落とす石落しです。
実際には石は落とさず、ここから鉄砲で射撃をしたといいます。


中に入ると、さすがは日本最初の木造復元天守です。
材木の香りがいまだ漂っていて、階段は傾斜が急で上り下りしづらいものとなっています。
現存の建造物ではないのですが、「城に来たのだなぁ~」という心持になれるのはとても素晴らしいです。




最上階より東の方向を眺めます。
天気がよければ、画像中央あたりに富士山が見えるようです。
それにしても、高楼を吹き抜ける涼風は心地よく、しばし旅の疲れを忘れさせてくれます。

・・・風を浴びてくつろいでいると、最上階に20名くらいの初老の男女が乗り込んできました。
すると、同じく高楼にたたずんでいた男性の老人がウンチクを披露し始めました。
この人、職員さんだったのか(~o~)。


掛川市は、早くから高齢者福祉を充実させる街づくりをしていたそうです。
ある日、ひとりの老女が掛川を訪れました。
その老女は掛川の市政に関心を寄せ、やがて掛川に移住してきました。
その頃、掛川城復元プロジェクトが立ち上がっていたのですが、資金が不足していました。
このときくだんの老女は、建設費11億円のうち6億円を寄付したのだそうです。

(職員さんのお話より)



次に、実際の藩政が行われた御殿へ向かいます。



掛川城二の丸御殿【国指定重要文化財】。
幕末の安政東海地震ののち、城主・太田氏が再建。
以来、現存しています。

靴を脱いで中に入ります。



奥の大書院は、城主の公的な政治の間。
城主と謁見する者は、手前の次の間で待機することとなっていました。



一方こちらは小書院
大書院の反対側にあり、城主のプライベート・ルームでした。



長囲炉裏の間の天井には、桔梗の家紋とかぶら矢の家紋が刻まれています。
いずれもこの御殿を再建した藩主・太田氏の家紋です。



御殿の裏方の廊下から天井を見上げます。
木柱を組み合わせる往時の技法にただただ感心。



御殿の縁側に座ると・・・
おやおや、先客がいましたな。



御殿から仰ぎ見る天守も、また見事!


最後に、御殿の受付職員にお願いして100名城スタンプをいただきます。



42番、掛川城!


掛川城二の丸美術館は月曜休館のため、城内を少し歩いた後、掛川城を後にしました。
当時の私は、掛川城についてあまり認識がなかったこともあり、正直あまり期待してはいませんでしたが・・・

「掛川城に来てよかった!」

心からそう思える、「海道の名城」でした。





岡崎城~家康乱舞

2010-09-18 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 0 年 9 月 6 日 ( 月 )

午 前 8 時 3 6 分

愛 知 県 岡 崎 市

岡 崎 公 園



コンビニで朝食をとってからは、ふたたび岡崎公園に戻りました。



先ほどはスルーした神橋を渡り、この日最初の城・岡崎城へ登城します。




神橋から1分もかからず、天守に到着しました。



天守前には、亀が背負う「東照公遺訓碑」が立っています。
「東照公」とは徳川家康の神号です。(正しくは「東照大権現」

人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し
急ぐべからず


岡崎城で生まれ、今川義元のもとでの人質生活、織田信長への従属、豊臣秀吉への臣従。
忍耐を重ね、ついに天下人となった家康その人が、その半生を振り返って語ったものと言われていますが、じつは偽作とされています。
この言葉は、家康の孫にあたる徳川光圀の遺訓がもとになっているそうです。


天守前にはさらに、「東照公遺訓碑」とはまた別の家康公遺言の碑や、小説『徳川家康』記念碑もあり、なんだか盛ってるかんじもします。
なお、天守の脇には、徳川家康と「徳川四天王」のひとり・本多忠勝を祀る龍城神社が鎮座しています。


天守は午前9時に開くということなので、岡崎公園内を散策することにしました。



徳川家康は、岡崎城主・松平広忠の嫡男として誕生しました。



東照公えな塚
母・於大の方の胎内にあって、家康を護っていた胎盤とへその緒。
これらの“えな”を埋めたところがこの場所なのだそうです。
古来日本には、えなを地中に埋めてその子の成長を祈願する風習があったそうです。



この井戸は東照公産湯井
家康は出生のさい、この井戸で汲まれた産湯につかったといいます。


徳川家康は、能を舞うことをひとつの趣味としていたそうです。。



岡崎城に能舞台があったわけではないのですが、家康が趣味としていたってことで、このような能舞台が設営されています。



この日は特に開演はありませんでしたが、先客がおひとりいらっしゃいました(*^_^*)



さてここからは、岡崎城内にある銅像・石像コーナー。



家康しかみ像

家康が数え年31歳、元亀3年(1572年)のこと。
「甲斐の虎」と称される武田信玄の軍勢が、家康の治める遠江国(静岡県西部)に攻め込んできました。
対する家康は軍勢が少なく、多勢でしかも名うての戦上手である信玄の進軍に、手も足も出ません。
しかし何を思ったか信玄、家康の籠る浜松城を素通りしていくではありませんか。

「敵軍に背を向けるとは・・・追撃して信玄をたたきつぶしてくれる!」

しかしこれは信玄の罠でした。
徳川軍が武田軍に追いつくと、武田軍は軍を返して徳川軍を待ち構えていたのです。
この三方ヶ原の戦いで大敗し、命からがら浜松城に逃げ戻ってきた家康は、無様な己を姿を絵師に描かせ、のちの戒めとしたといいます。


その肖像画を石像にしたもののようです。
ただ、このエピソードは岡崎城とはあまり関係がないかもしれませんね・・・(^_^;)




しかみ像のすぐ近くには、本多平八郎忠勝公銅像
あまり大きい銅像ではないのですが、めちゃくちゃかっこいいです・・・。

「徳川四天王」のひとりで、今川からの独立から姉川、三方ヶ原、長篠、小牧長久手、関ヶ原と、徳川家の主だった戦いに参戦し、武勲を挙げました。
名槍「蜻蛉切」を得物とし、57度の合戦に出陣し、一度も傷を負わなかったといいます。

家康に 過ぎたるものが 二つあり
唐の頭に 本多平八


敵として戦った武田軍からはこのように賞され、織田信長からも「花も実も兼ね備えた武将」豊臣秀吉からも「東国無双の侍大将」と評されました。
戦場では手傷ひとつ追わなかった忠勝ですが、晩年小刀を使用中に手元が狂って傷を負ってしまいました。
このことで忠勝は自分の死期を悟り、その数日後に亡くなったそうです。





水場のそばにあるのは、元康騎馬石像
「元康」は家康が今川から独立する前の名で、「元」の字は今川義元の「元」の字を拝領したものです。
今川義元の部将であった青年期の勇姿は、かくの如しといったところでしょうか。
桶狭間の戦いで義元が敗死した後、今川から独立すると、「元康」の名を捨てて「家康」と名乗ります。




最後に、徳川家康公銅像
戦国の世を生き抜き、泰平の世を創り上げた漢は、このような姿をしていたのでしょうか。





忠勝像の近くにはからくり時計と花時計があります。
時刻は午前9時になりました。



能の音響とともに、からくり時計が開きました。
金屏風の舞台に躍り出たのは・・・



イヨ~、ポン! イヨ~、ポン、ポン!
3分後、大御所様は舞い疲れたのか・・・
人の一生は~重荷を負うて~遠き道を行くがごとし~
人生訓を言い残して、沈んでいかれたのでした(^_^;)



もう少し岡崎公園を歩き回りました。



大手門【復元】は公園の北側にあり、大通りに面しています。



ふたたび園内に戻り、しかみ像のそばにある三河武士の館「家康館」に入ります。
そういえば前日泊まったホテルの翁は、ここを「外せない場所」と話しておられましたなぁ。
ここは午前9時に開館したばかり、入館者は私しかいないようでした。

1階、武具、甲冑のレプリカ、岡崎城の模型などを拝見。

地階、長イスのある最初のフロアに入ると、突然VTRが始まりました。

「わしは大久保彦左衛門忠教(ただのり)ぢゃ」

3代将軍家光に仕えた「天下のご意見番」大久保彦左衛門
その彦左どのが、『三河物語』を執筆しているっていう忙しいときに、私のためだけに家康以前の松平家について語ってくれるというのです。

・・・聞き入ってしまった。

すぐ隣に、徳川譜代の家臣を一家ずつ解説するVTRがありました。
酒井、大久保、本多、鳥居、榊原、etc...

・・・全部見てしまった。

さらに奥に「決戦・関が原!」のコーナー。
関ヶ原の大戦をジオラマで解説する、壮大なスペクタクル!
東の徳川家康、井伊直政、本多忠勝、福島正則、黒田長政・・・
西の石田三成、大谷吉継、宇喜多秀家、小早川秀秋、島津義弘・・・
錚々たる武将たちがフィギィアになって出陣します!

 「西軍は鶴翼の陣だねぇ」
 「東軍も布陣したなぁ」
 「お、井伊が抜け駆けしたなぁ、福島怒っとる」
 「福島、宇喜多は互角だなぁ」
 「家康、前に進むぞ」
 「島津はちっとも動かねぇな」
 「ああっ! 小早川寝返りだ!!」
 「大谷が戦死した」
 「三成、敗れたな」
 「さあさあさあ、島津が正面突破して退却するぞぉ!」


フィギィアがそんなにめまぐるしく動くわけではありませんでしたが、(当時)30にもなる男がえらく盛り上がっていたのでした。


館内のアンケートに答え、ちょっとしたプレゼントをもらい、「家康館」を出ました。



「八丁味噌キャラメル」、美味い!





「家康館」に予想外の好印象をおぼえ、予想外の時間を費やした私は、急ぎ岡崎城天守に登りました。



岡崎城から望む「ビスタライン」

徳川家の菩提寺である大樹寺岡崎城を結ぶ、標高差を利用した約3kmの直線を「眺望ライン(ビスタライン)」というそうです。
3代将軍家光が、家康の17回忌を機に大樹寺の伽藍を整備しました。
寺の本堂から山門、総門、そして岡崎城天守が一直線になっていて、「祖父生誕の地を望めるように」という想いが込められているそうです。
現在大樹寺総門は大樹寺小学校南門となっていますが、このビスタラインの上では3階以上の建物は建てないという不文律があるそうです。


・・・ただ岡崎城からは、ビスタラインはあまり実感できなかったです。
(画面中央付近にちっちゃく写る赤い建物の付近に、大樹寺があります)



ついでに、前日泊まったホテルは、目と鼻の先にありました。


天守閣1階の係員と話し、100名城スタンプをもらいました。



45番、岡崎城!





国宝・犬山城

2010-09-13 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 0 年 9 月 5 日 ( 日 )

午 後 1 2 時 0 4 分

愛 知 県 犬 山 市

犬 山 城 登 城 口





崖の上に建ち川の流れを見下ろすさまを長江中流の名城になぞらえ、「白帝城」と称される犬山城【国指定史跡】。

 
 
登城口前の店で味噌煮込みを賞味し、意気揚々として登城を開始します。



登城口から石段と坂を登れば、ものの数分もせず本丸への門へ。
ここで入城料500円を支払い、



犬山城天守【国宝】に到達しました。


犬山城は、はじめ織田信長の叔父・信康によって建造されました。
足下を流れる木曽川を天然の濠とするこの城は、対齋藤家の戦いにおいて最前線の要害でした。

時は流れ、豊臣秀吉が信長の後継者として天下統一に乗り出します。
その最大の障害は、信長の同盟相手でもあった徳川家康です。
両者が衝突した小牧長久手の戦いでは、秀吉が12万の大軍を率いて犬山城に入り、家康と対峙しました。

秀吉が亡くなり家康の天下が訪れると、尾張徳川家の付家老である成瀬正成が犬山城主となりました。
以後犬山城は、(あいだに明治政府の接収があったものの)なんと平成16年まで成瀬家が城主を務めていました。

犬山城の天守が建てられたのは、天文年間(信長の時代)と慶長年間(秀吉の時代)で学説が分かれているものの、その様式は日本最古のものとされています。



それでは天守へ。靴を脱いで、中に入ります。



入口には自然石をそのまま積んだ野面積みの石垣を見ることができます。



1階は納戸の間で、危急時に作戦を練り、武士が控える間。
2階は武具の間で、その名のとおり武具を格納していたところです。



狭く昇降しづらい急な階段。
天井も低く、油断すると頭をぶつけてしまいます。

 

3階、破風(はふ)の間
天守の装飾である破風を構成しています。
右画像の、屋根が弓なりになっている唐破風が、中からでは左画像のようになっています。

最上階、高欄の間



らんかんの高さは、成年男子のヒザ程度の高さしかありません。
そして長い年月を経た木床のきしむ音が、いささかの恐怖を呼び起こします。

しかし、眺望はとてもすばらしい。



西側。眼下にはライン大橋
対岸に見える山は伊木山といい、齋藤方の砦があったといいます。
空気が澄んでいれば、岐阜城も見えるそうです。



東側。木曽川に犬山橋が架かります。
道路橋と鉄橋の2本の橋がかかっていることから「ツインブリッジ」とも呼ばれます。
犬山城に登城する前に利用した名鉄犬山線がこの橋を渡っていて、橋の北端が新鵜沼駅、南端が犬山遊園駅になっています。

ところで、最上階だけはなぜかレッドカーペットが敷かれていました。


さて、国宝の天守を堪能し、100名城スタンプを探します。
しかしガイドブックには、「城郭内」としか書かれていません。
なんとアバウトな表記だろうか。
とりあえず天守閣入口の職員に尋ねると、

 

スタンプは、入場門の裏手から階段で入る事務所の中にありました。



43番、犬山城!



午後1時、犬山城を出ました。





朝駈けの岐阜城

2010-09-11 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 0 年 9 月 5 日 ( 日 )

午 前 5 時 4 9 分

J R 岐 阜 駅 北 口



夜行列車の移動で、早朝に岐阜駅にやってきました。
岐阜で下車した目的は、岐阜城【国指定史跡】の登城。

事前に調べたところによると、岐阜駅から岐阜城までは3Kmほどの距離があるようです。
寝不足の中、3Kmの行軍はなかなかキツいものがあります。
空腹の状況下、周囲には開店しているような飲食店も見当たりません。
初めて訪れた街で、駅のバスプールを離れるような冒険はせず、ひたすら始発のバスを待つこととしました。


岐阜城へと向かう岐阜バス・高富行きの車に乗り込み、6時18分に出発。




午 前 6 時 3 1 分

岐 阜 公 園 に 到 着


岐阜公園に着くと、市民の皆さんがラジオ体操をされていました。
その横を申し訳なさそうに通り過ぎ、岐阜城の天守閣を目指します。



今いるところから、山のてっぺんまで歩くというわかりやすい構図。
只今より城攻めをする足軽のごとく、胸が高鳴ります。

ただ、登山道が見当たりません。
登山道を探して岐阜公園内をさまようことに。



公園内に立っている板垣退助の銅像。
板垣は岐阜で遊説中に暴漢に襲われ、「板垣死すとも自由は死なず」という名言を残したとされています。
・・・が、このセリフはどうもフィクションであるといわれています。



信長居館跡は、発掘調査中。
工事用のビニールシートで覆われていました。



山頂へはロープウェイで一気に登ることができるのですが、早朝からは動いていません。



公園内をうろうろすること数分、ようやく「馬の背登山道」を見つけました。
この道は、途中で「瞑想の小径」という登山道に分かれているようです。



さあ、このまま山頂にある天守めざして進もうと勇んでいると・・・



木々がうっそうと茂って、ほんとにいのししが出そう・・・
なにせ「美濃のマムシ」の城だから、マムシなんか出たらいやだな・・・
人通りも少ないし・・・

ここは勇気ある転進あるのみ。

別の登山道を探してみます。
岐阜公園の外れのほうにも登山道があるようなので、そちらを進むこととしました。



公園を出て住宅街に入ったところにある「七曲登山道」へ。
「七曲」とは、天守に行くまでにカーブが七つあるということらしいです。
事前に調べたところでは、この登山道が一番ラクだといいます。



はじめは傾斜が急な土の坂。



そのうち石段に変わっていきます。
この石段が意外とキツイ。

もう汗ダックダクでヒィヒィゼィゼィいいながら登ります。
風呂も入ってない、朝飯も食べてない私に、地元民は涼やかな挨拶を交わして下りていきます。


寝不足&空腹の私は、ロープウェイからの合流地点あたりであっさりと体力の限界を迎えてしまいました。
ちょうど休憩するスペースがあったので、ここで休憩をとることに。
セブンティーンアイスの自販機から、本日最初の食事をいただき、再出発。




天守に近づくにつれ、石段の一段がきつくなってきます。





登り始めてから約1時間、ついに天守が見えてきました。


岐阜城は、もと稲葉山城といい、鎌倉時代に築城されたとされています。

戦国時代、「美濃のマムシ」と称された齋藤道三が主君を追放して乗っ取り、城下を整備しました。
また道三は、娘を隣国・尾張国に嫁がせました。
この娘・帰蝶(きちょう)の夫が、のちの織田信長です。

齋藤道三は、嫡男・義龍(よしたつ)と争って敗死。
義龍は、信長の侵略をことごとく防いでいましたが、若くして急死してしまいます。
義龍の嫡男・龍興(たつおき)が継ぎましたが、度量は父に遠く及ばず、美濃国、稲葉山城はほどなく信長のものとなりました。

信長は、稲葉山城の縄張りを変更して新たに城を築きました。
また、この地を「岐阜」と改名し、居城を尾張・小牧山城から岐阜城に移しました。
この地より「天下布武」を掲げ、天下盗りに名乗りを挙げたのです。



天守に入れるのが9時からということで、山頂で休憩。
ときおりスズメバチが飛んでいるのが見えます。

山頂でたたずむ地元の翁の会話を聞くと、
「馬の背(登山道)にもスズメバチいるなぁ」

・・・あの道通らなくてよかった。


9時になったので、天守に入りました。
天守は鉄筋コンクリート造りで、内部は撮影禁止なので、画像はとくにありません・・・

ですがてっぺんからのながめは格別!!





戦国時代には、遠く那古耶(名古屋)のほうまで見えたといいます。
齋藤軍は織田軍の動きがよくわかったことでしょう。


すぐそばの資料館で100名城スタンプをもらう。

 撮影地:岐阜城ロープウェー休憩所

39番、岐阜城! 天下ニ武ヲ布ク!!


休憩所で枝豆ソフトクリーム(300円)を食す。うまい。
そして下山。別のルートで帰ろうかと思いましたが・・・



「無理です」と断言されるとは。
スズメバチも出るっていうので・・・金銭面の憂慮をすることなく、ロープウェーでの下山を即決しました。


帰りのロープウェーは私の他に乗客はなく、女性アテンダントひとりのみ。
その女性は元モーニング娘。の後藤真希に似ててなかなかかわかったのですが、無駄口は一切なくただただ淡々とガイドをするだけ。
ガイドお決まりのセリフが一瞬途切れたので、「終わりですか?」と声をかけたのですが、無言で手を2度ほど振って、また淡々とガイドを始めました。

ガイドが終わったところで、ちょうど到着・・・。



最後の最後でなんだかモヤっとしたものを心に抱えながら、岐阜城を後にしたのでした。



【今回の乗車記録】

岐阜バス JR岐阜駅バスプール・11番乗り場 6時18分発
N80系統 高富行き
岐阜公園歴史博物館前 6時30分着
【移動距離】3.4Km  【運賃】200円


【今回の下山記録】

岐阜観光索道 金華山頂駅 9時10分発
金華山ロープウェー 下り
金華山麓駅 9時13分着
【移動距離】全長 599m 高低差 255m  【運賃】600円

※運賃は当時のものです。



日本100名城登城の旅・第9話へ続く。