goo blog サービス終了のお知らせ 

鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

驍将狙撃!山形城其之弐

2012-12-23 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 2 年 4 月 1 日 ( 水 )

午 前 1 0 時 4 9 分

山 形 城 二 の 丸 東 大 手 門





二の丸東大手門【復元】から、いったん霞城公園を出た。





二の丸堀もかなりの規模を誇る。



二の丸堀に沿って桜が植えられている。
山形城は桜の名所としても知られる。




午 前 1 0 時 5 4 分

最 上 義 光 歴 史 館


霞城公園から徒歩5分ほどで、最上義光歴史館へ。



最上氏関連の資料を保管・展示し、最上義光と最上氏を顕彰することを目的とした博物館。
入館料は無料。

受付でさっそく・・・



10番、山形城!
絵柄は二の丸東大手門。

最上義光歴史館へ来た理由は、スタンプだけではない。


最上義光は出羽国の大名で、最上義守の嫡男。
妹は義姫(保春院)で、隣国米沢の大名・伊達輝宗に嫁ぎ、政宗を産む。

家督を継ぐと、出羽の統一に乗り出す。
その過程で父や伊達と対立するが、これを乗り切り村山地方(山形盆地周辺)の領域を統一。
最上地方(新庄盆地周辺)を制し、庄内地方(庄内平野周辺)へ進出するが、庄内は越後の上杉景勝に先んじられる。

義光は調略を得意とし、敵の重臣を寝返らせて内紛を生じさせる策を多用した。
その謀将ぶりは、「出羽の驍将」と称される。

豊臣秀吉の政権下で、米沢の伊達政宗は陸奥国岩出山(宮城県北部)へ、上杉景勝は会津若松へ、上杉の陪臣・直江兼続は米沢へ移封となる。
庄内は依然として上杉領であり、最上領が上杉領を分断する格好になっていた。

1600年の関ヶ原の戦役では東軍につき、西軍に着いた上杉景勝を牽制する役を担う。
しかし、所領の状況から直江兼続率いる上杉軍は最上領へ攻め込む。(慶長出羽合戦
兵力では劣勢であったが、長谷堂城の戦いで防ぎ切った。
関ヶ原の戦後は庄内地方も所領に与えられ、出羽山形57万石の大名となった。

だが、最上家は一気に没落していく。
後を継いだ子・家親は若くして死亡、その後を継いだ孫・義俊の代でお家騒動が勃発。
義光の死後10年もたたず、最上家は改易となってしまった。




前話でも登場した最上義光公勇戦像
この像がかぶっている兜と、右手に握っている指揮棒が、歴史館に保存され展示されている。

兜は三十八間総覆輪筋兜(さんじゅうはちけんそうふくりんすじかぶと)【山形市指定文化財】。
最上義光愛用の兜で、織田信長より贈られたものという。
1600年の慶長出羽合戦で、義光は先陣を切って直江兼続の軍を追撃するが、直江勢の鉄砲隊に逆襲され狙撃されてしまう。
銃弾は左の額!!に飛んでいったが、この兜のおかげで助かった。
その時の弾痕が生々しく残っている

指揮棒は鉄製で重量は1,750グラム、刀の2倍ほどもある。
(長さは、銅像のものほどは長くないです)
義光は相当腕力のある人物だったといい、そういうエピソードも残っている。


はぁ~、撮影禁止&係員べったりのため画像はありません・・・。




午 前 1 1 時 4 1 分

ふ た た び 山 形 城 へ


城の北側に回る。
山形城もなかなかでかいのぅ。





北側では、民家のすぐ裏側が城の水濠(二の丸堀)になっている。





二の丸堀ぞいを歩いて、二の丸北不明門跡に着いた。
ここからもう一度霞城公園(二の丸)に入っていく。



西側の門、二の丸西不明門跡
石垣のならびが枡形を構成している。



二の丸沿いの土塁に上がり、西側を見る。


二の丸堀をほぼ一周し、スタート地点の二の丸南大手門跡へ。
山形城はここをゴールとして、城を出た。




驍将勇戦!山形城

2012-12-23 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 2 年 4 月 1 日 ( 水 )

午 前 9 時 5 6 分

山 形 城 ・ 霞 城 公 園





山形のランドマーク・霞城セントラルの展望室からの山形城。

大きな水濠に囲まれた霞城公園は、山形城の二の丸にあたる。
内側にある空堀に囲まれた部分は本丸
霞城公園の外側は三の丸にあたり、現在は埋め立てられた外堀までの曲輪である。






霞城セントラルから最も近い南大手門跡から入城。
水濠からも、山形城の規模の大きさがわかる。
しかし石垣は一部に造成されているのみ。


山形城は、羽州探題・斯波兼頼により築城される。
のち、斯波氏の一族・最上氏の居城となった。

戦国時代後期、最上家当主・最上義光(よしあき)は所領を山形県村山地方・最上地方に広げる。
関ヶ原の戦役では、上杉景勝・直江兼続軍の侵攻を受けるも、長谷堂城の戦いでこれに耐え抜き(慶長出羽合戦)、戦後に山形県庄内地方を獲得、57万石の領主となった。

上杉勢が陣を構えたところは山形城からそう遠いところではなかったが、山形城には霞がかかっており、上杉勢からは見えなかったという。
ゆえに山形城は霞城(かじょう)とも呼ばれる。


山形城は、57万石の領主にふさわしい大規模な城郭に整備された。

最上義光の死から9年で、最上家は改易。
代わって鳥居忠政が入城し、山形城の改修がなされた。
その後も領主がたびたび代わるも、その石高は減り、大きな山形城の維持もおぼつかなくなる。
幕末には、本丸が更地になり、三の丸の半分は田畑になっていたという。

明治に入ると、陸軍歩兵32連隊の兵営敷地となり、城内の櫓や御殿は破却され、本丸や三の丸の堀は埋め立てられた。
現在、二の丸の内側は霞城公園となっている。


内部はすっかり公園化してしまい、いろいろな施設が置かれている。
将来的には史跡として整備されるため、野球場などのスポーツ施設を中心に撤去される予定なのだとか。





本丸堀をはじめ、本丸は復元工事中。
往時は空堀ではなく水濠であった。





本丸一文字門も工事中。
堅固そうな枡形門が早く復元されるといいですなぁ。




霞城公園の南東部に移築された旧済生館病院本館【国指定重要文化財】。
1873年(明治6年)に私立病院として設立、当時の県庁そばに本館が竣工した。
建物自体は公園内に移築され、現在は山形市郷土館となっている。




もうしばらく本丸堀ぞいに歩き、二の丸の東側へ。






最上義光公勇戦像、むちゃくちゃかっこえぇ~。
ご覧のとおり、馬が二本脚で立っている。
この造型は、寄贈者である鈴木傳六でん六創業者)たっての意向であるという。





二の丸東大手門【復元】。
その大きさは、江戸城の大手門にも匹敵する規模である。



最上義光公勇戦像ちかくのベンチで休憩して、いったん霞城公園を出る。




多賀城散策(多賀城其之弐)

2012-12-16 | 城郭【日本100名城】
2 0 1 2 年 3 月 3 1 日 ( 火 )

午 前 9 時 1 0 分

宮 城 県 多 賀 城 市

J R 国 府 多 賀 城 駅



100名城スタンプがある国府多賀城駅の観光案内所が開くのが9時30分。
それまであたりをもうひと回りすることとした。

多賀城跡は駅の西口から出発したので、こたびは反対側の東口へ回る。




東口を出るとすぐにある東北歴史博物館
まだ朝なのでオープンしていない。

博物館に隣接する空き地には、東日本大震災による被災者の仮設住宅が据えられていた。


仮設住宅の反対側には、



移築された豪農の住居・今野家住宅【宮城県指定文化財】。
古民家好きの私はここで少し歩みを止める。


東北歴史資料館から歩いて10分のところに、多賀城跡附寺跡【特別史跡】がある。



多賀城が順調に経営されることを願い、建立されたものらしい。
発掘調査で、多賀城と同様の屋根瓦などが出土した。
おそらく多賀城とほぼ同時期に普請されたものと考えられている。

現在は整備されて開放されている。



礎石からも規模が想像できる講堂跡



高い土台に建っていたという塔跡
ここには三重塔が建っていたという。



再び国府多賀城駅へ戻ってきた。
時刻は午前9時40分。

観光案内所はようやく営業開始。



7番、多賀城!

スタンプと、置いてあった手作りのしおりを5枚ほどもらい、多賀城をあとにした。




歌枕の地・多賀城

2012-12-15 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 2 年 3 月 3 1 日 ( 火 )

午 前 8 時 0 6 分

宮 城 県 多 賀 城 市

J R 国 府 多 賀 城 駅



国府多賀城駅の西口からスタート。



多賀城の政庁をモチーフとした時計は、午前8時06分を指していた。




午 前 8 時 0 7 分

館 前 遺 跡


駅前から歩くと(といっても何にもないが・・・)すぐに史跡に到着。



館前遺跡【国指定特別史跡】は、陸奥国の国司の居館跡とされる。
多賀城に付随する施設と考えられたため、特別史跡に追加指定された。

でも・・・ただの空き地っぽい


早々に館前遺跡を後にする。
国府多賀城駅から多賀城跡までのアクセスは、



このような立て看板がいい具合に据え付けてあるので、これに従えば問題なくたどり着くことができる。
なかには「こんなところを通っていいのか・・・?」って疑ってしまうようなところもある。




午 前 8 時 1 7 分

多 賀 城 碑 ( 壺 の 碑 )


急こしらえの青い立て看板にしたがって歩いた。





多賀城碑【国指定重要文化財】。

多賀城の概要と、多賀城設置と修築のいきさつが刻まれている。
この碑が立てられたのは、762年(天平宝字6年)12月1日。


多賀城は、亰より1500里、蝦夷国界より120里、常陸国界より412里、下野国界より274里。
西の靺鞨国(渤海国。満州地方に勃興した国)の界より3000里のところにある。
(※奈良時代の1里は、約535メートル)
724年(神亀元年)、按察使(あぜち)(国司を監督する役職)にして鎮守府将軍、官位が従四位上、勲四等の大野東人(あずまびと)が設置した。
762年(天平宝字6年)、参議にして東海東山節度使、官位は従四位上、任部省卿にして按察使、鎮守府将軍である藤原恵美朝猟(あさかり)が修造した。
~多賀城碑より~


多賀城は北における中央政府の一大拠点となり、坂上田村麻呂による蝦夷征伐もここが拠点となった。
蝦夷討伐により、前線は胆沢(いざわ)(岩手県)へ移っていく。

その間、地震もあり多賀城は次第に放棄されていくが、平安時代後期の前九年の役後三年の役の戦乱においては、再び軍事拠点として用いられた。
後醍醐天皇による建武の新政においても、陸奥将軍府が置かれた。



多賀城碑は江戸時代前期に発見されたもので、一説には坂上田村麻呂が矢じりで刻んだ「壺の(いしぶみ)であるという。
「壺の碑」は、和歌でたびたび歌枕として用いられた。

『おくのほそ道』は、多賀城碑が「壺の碑」であるととらえている。
そして、歌枕として名高い「壺の碑」や「末の松山」を見られて感銘を受けた、と結ぶ。

つぼの石ぶみは高サ六尺余、横三尺計歟(ばかりか)
苔穿て文字幽也。四維(しゆい)国堺之数里をしるす。
……むかしよりよみ置る歌枕、おほく語伝ふといへども、山崩川流て道あらたまり、石は埋て土にかくれ、木は老て若木にかはれば、時移り、代変じて、其跡たしかならぬ事のみを、(ここ)に至りて疑なき千載の記念(かたみ)、今眼前に古人の心を(けみ)す。
行脚の一徳、存命の悦び、羇旅(きりょ)の労をわすれて、泪も落るばかり也。




午 前 8 時 2 7 分

多 賀 城 跡


多賀城碑から北を見やると、なだらかな坂が続く。
まだ朝だからなのか、歩くのは私とひとりの老人のみ。



多賀城の政庁へと続く道路が復元されている。

坂を上りきると、南門跡を表す礎石へ。



かたわらの案内レリーフより。



かつての多賀城は、このような四方を回廊で囲まれた役所であったという。



南門跡から進んで、石敷広場跡



多賀城の中央部、政庁跡
征夷大将軍・坂上田村麻呂、「八幡太郎」源義家らの名将がここで作戦を練ったのであろうか。



「後村上天皇御坐之處」と刻まれた石碑。
後醍醐天皇の皇子であった義良(のりよし)親王(のちの後村上天皇)は、鎌倉幕府倒幕後の東国鎮撫のためにこの地にお越しになった。
南北朝の争乱が起こると、鎮守府将軍・北畠顕家(あきいえ)の補佐を受け、東国の武士を率いて京都へ戻った。


政庁から見下ろすと・・・



政庁から続く道路、その先には工業団地がかすかに見えた。




午 前 9 時 1 0 分

J R 国 府 多 賀 城 駅 へ 戻 る


駅には戻ったが、ここに及んで100名城スタンプをもらっていない。
100名城スタンプは、駅にある観光案内所でもらえると確認しているが・・・

駅員さんに尋ねたが、案内所は9時30分にならないと開かないらしい。

案内所が開く間に、次の列車は行ってしまう。
しかしスタンプなしで去るのは避けたい。

その次の列車の発車時刻は、9時56分。
30分程度ならばさほどの影響はあるまい。

それに、この駅前には店が全くないから、食事もできない・・・。

ということで、観光案内所が開業するまで、多賀城の史跡をもう少し見て回ることにした。




対決の地?仙台城

2012-12-12 | 城郭【日本100名城】
2 0 1 2 年 3 月 3 0 日 ( 月 )

午 後 2 時 3 1 分

仙 台 城 本 丸



仙台駅から市営バスで約20分、仙台城の本丸へ。



旧大手門からのルートは、現在も東日本大震災の影響で通行止め。
東北大学の敷地内を迂回するルートで仙台城へ。

仙台城本丸には、宮城縣護国神社が鎮座しているので、本丸の入口には鳥居(護国神社の二の鳥居)が立っている。


仙台城に到着してまずはじめに・・・

 

ずんだ対決!
水曜どうでしょう「対決列島」でのずんだ対決が繰り広げられたテーブルで、ずんだ餅を食す。
ずんだ餅3個、香の物、ところてんにお茶がセットになって600円。








仙台城のシンボル・伊達政宗公騎馬像


伊達政宗公騎馬像は、宮城県出身の彫刻家・小室(とおる)による傑作である。

戦時中、金属などの物資不足から、国家総動員法に基づき金属類回収令が出され、政宗公騎馬像も仙台城から撤去された。

戦後間もなく新しく政宗像が立つが、当時の物資不足のためセメントで作られた。
平時に領内を視察する様子をモチーフとしたこの像は通称「政宗公平和像」と呼ばれる。

その後騎馬像の型が発見され、現在の騎馬像が立つ。
「平和像」は、仙台城以前の政宗の居城であった岩出山城(宮城県大崎市)に移っている。




政宗公が見つめる先は、100万都市となった仙台の街。


仙台城は、もとは「千代城」といい、伊達氏の親戚にあたる国分氏の居城であった。

1591年の豊臣秀吉奥州仕置(天下統一)により、国分氏が改易となる。
さらに1592年に、伊達政宗が移封となり、宮城県中・北部がその領地となると、千代(仙台)も政宗の所領となる。
政宗は、宮城県北部の岩出山城を居城とした。

1600年の関ヶ原の戦役で、白石城などの宮城県南部も伊達家の所領となると、岩出山では所領の北側に位置するため、居城の移転を考える。
政宗は徳川家康に対し、千代の地を居城とする旨申し出て、認可された。

このとき政宗は、家康は警戒して第一希望の築城は認めないと考え、石巻を第一希望とし、千代を第三希望くらいにして、千代に築城する意図を隠したともいわれる。
また異説では、本心は石巻に築城したかったが、あえて千代を第一希望にしたところ、その読みに反して家康が第一希望の千代を認可してしまったともいわれる。


仙台城は、当時の平城&天守造営という流行に反し、山城で天守なしというものであった。
天守がなかったのは、徳川家康の警戒に対し遠慮したともいわれるが、もとより堅固な山城であったため天守は不要であった。
政宗が山城を築城したのは、家康の死後に戦乱が起きると読んだのだろうか、徳川家と一戦交えることとなると読んでいたのだろうか。

立地は戦闘を想定したものであったが、城内の建造物は、桃山文化の粋を集めた御殿など、華麗なものであった。

天下泰平の世となると、政宗は「こんな山城は平和な世じゃ役に立たないから移転した方がいい」と嫡男の忠宗に言い遺した。
政宗の後を継いだ忠宗は、二の丸に御殿を新たに建て、平山城に改築した。
本丸の御殿は、儀式や行事を行う場となった。

明治になると、仙台城は接収され、陸軍の鎮台などの政府の機関が置かれた。
現在もなお、二の丸の跡地には東北大学がある。


100名城スタンプがあるのは、本丸の仙台城資料館



有料の施設が、ずんだ餅を売っているところの近くにあるが、そちらではないのでご注意を。
こちらの資料館は入場無料である。



8番、仙台城!
絵柄は、政宗公騎馬像ではなく旧大手門櫓である。


スタンプを得たので、本丸を出て三の丸へ。
二の丸は、道路が通行止めのため進めないが、三の丸へは脇道から進むことができる。



本丸の北側を防備する本丸北壁石垣
現在の石垣は3代目で、1668年に改修されたものである。

仙台城の本丸は、東は広瀬川に面した崖、南は竜の口渓谷に面した崖、城の背後にあたる西側には青葉山がそびえ、まさに難攻不落であった。



清水門跡に残る石垣。
本丸から三の丸へ続く通路には、野面積みの石垣がいくぶん残っている。


三の丸へ到着。
三の丸には現在仙台市博物館が建っている。

博物館の敷地を歩くと、



政宗公騎馬像の胸像
初代の騎馬像は、戦中の金属回収により撤去されたが、胸から上の部分は転用されずに残っていた。



政宗公の銅像は、トレードマークの眼帯を着けていない。
さらによ~く見ると、失ったとされる右目にも眼球が入っている。



この後は、大学時代に一度も行かなかった仙台市博物館に入ることとなった。




雪辱!駿府城

2012-12-09 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 2 年 1 月 9 日 ( 月 )

午 後 3 時 3 9 分

静 岡 市 葵 区

駿 府 城 公 園



月曜日に受けた駿府での屈辱を・・・
月曜日のこの日に晴らす!!

というわけで、駿府城の跡地である駿府公園(現・駿府城公園)へ。



駿府公園を取り囲む豪快な水濠。
この内側は二の丸ということになる。



堀に対して出っ張った部分は横矢掛りといい、石垣をよじ登る敵兵に横から射撃を加えるためのものである。


水濠に沿って東側を歩いていくと、



二の丸の南東を見張る(たつみ)【復元】がにらみをきかせ、



二の丸の東側を固める東御門【復元】に到着。
東御門の一の門は高麗門という形式。



二の門は櫓門。
堅固な升形構造になっている。


二の門から中に入ると、時刻は午後3時46分。

・・・まずい、急がねば。

全国的に閉城の時刻は、冬場は午後4時とか4時半が多いのだ。
雪辱を晴らすべく訪れた駿府城に返り討ちにあうのだけは避けねばならない。

ということで・・・



41番、駿府城!

スタンプを速やかに確保。


次いで東御門&巽櫓に入る。
入場料は、大人200円。
城内の紅葉山庭園との共通券が300円なので、こちらを購入。



大御所となった家康公を拝見。
中に展示されている資料をじっくり見る余裕はなく、わずか10分で出た。



いちおう雪辱を果たした・・・かな?




出丸を突貫工事!伊豆山中城・其之参

2012-12-09 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 2 年 1 月 9 日 ( 月 )

午 後 1 2 時 2 7 分

静 岡 県 三 島 市

山 中 城 址 駐 車 場





山中城の北西部・本丸部分を約1時間半かけて回った。

山城は広い。
まだ南東部・岱崎出丸(案内図の左側)が残っている。


山中城の岱崎出丸は、豊臣秀吉の小田原攻めの際に真っ先に攻撃を受けたところである。

北条と豊臣の外交が破綻すると、北条軍は山中城の改修にとりかかる。
岱崎出丸は、その突貫工事により造成された。
しかし普請が中途のまま、秀吉の小田原攻めが始まってしまう。

北条軍の大将・北条氏勝、山中城城主・松田康長は、部将の間宮康俊を岱崎出丸に配置した。

しかし豊臣軍は総勢7万
多勢に無勢、奮戦むなしく岱崎出丸は陥落し、山中城は半日で落城する。



まずはじめにあらわれるのが、出丸御馬場跡



土塁で東と北を守り、南は急峻な谷をのぞみ・・・、



西は深い空堀(出丸御馬場堀)に囲まれた岱崎出丸最大の曲輪。
曲輪の中は、本丸と同じく二段構築となっている。
ここには馬場があり、軍馬を調練していたという。


出丸御馬場堀の次には、突貫工事で構築途中の曲輪の跡が残っている。



出丸御馬場堀を掘り返した際の土により、小高い丘のような曲輪を構築しようとしたのだろう。






岱崎出丸からの眺望もなかなか。


岱崎出丸の最先端は、すり鉢曲輪と呼ばれる。



ここの曲輪は、中央に向かってくぼんでいく、まさにすり鉢のような形をしている。
中央部は平らに近いが、曲輪の端に行くにしたがい傾斜が急になる。

私も曲輪に入ってみたが、重荷を持って曲輪を登れるだろうか・・・と考えるくらい急だった。

すり鉢曲輪のかたわらには城兵が控える武者だまりが備わっていた。


最後に、岱崎出丸の南側。



美しい畝堀がここにもあった。
小径をたどって堀のそばへ。



近くで見るとひとつひとつの格子が2メートルほどの深さがあり、落ちたときにはい出ることが困難なのがよくわかる。



植栽に目を向けると、「山中城跡」とあった。





山中城を出た。

旧東海道を100メートルほど歩いて、バス停へ。




眠る士・・・伊豆山中城・其之弐

2012-12-07 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 2 年 1 月 9 日 ( 月 )

午 前 1 1 時 2 4 分

静 岡 県 三 島 市

山 中 城 西 の 丸











山中城の西の丸を取り囲む障子堀畝堀

堀の格子ひとつひとつには雨水や湧水が溜まっていたという。
山城である山中城では、傾斜を考慮しなければならないので、平城のような水濠を造成するのはおよそ不可能。
畝をひとつひとつ形成することで、溜まる水量に偏りがないようにした工夫であろう。

また往時の堀は、現在のように芝生に覆われていなかった。
関東ローム層の赤土がむき出しであり、もろく崩れやすいものであった。
畝の上を歩く足軽にとっては大きな障害となったに違いない。

現在芝生で覆われているのは、展示のために補強したものである。
それでも夏場の障子堀は緑に覆われて美しい。




西の丸の周囲を回ってから、さらに城の外側を歩き、北の丸へと進んでいく。




西の丸のかたわらにある溜池
西の丸からの水、本丸・二の丸からの水がここに溜まる仕組みであった。

発掘調査を行い、溜池を掘っていったが、4メートルほど掘ってもついに池底には到達しなかった。
それほどまでに池は深く、また水の確保に腐心していたのだろう。




北の丸の北側に深く刻まれる北の丸堀

現在の鬱蒼とした林は廃城後の植樹によるもの。
往時はさらに2メートルほど深かった。




北の丸は、深い堀に加え高い土塁で防御されていた。
本丸よりもさらに奥に位置するところであった。




北の丸と本丸を結ぶ本丸北橋。(向こうは北の丸)
戦時には架け橋を破壊して、往来を困難にして防御する。。

また北の丸と本丸の間にある本丸北堀も、当時は植樹されていなかった。
樹木の陰で見えづらいが、ここも畝堀になっている。




本丸は、盛土によって段丘状に造成されている。

城域を見わたせる天守櫓、物資を保管する兵糧庫や弾薬庫といった重要な機能が備わる。
また「矢立の杉」という老木は、山中城の精神的象徴ともいえる。



「矢立の杉」は樹齢500年ともいわれる。
この杉に矢を射て、戦の吉凶を占ったという記録がある。



「矢立の杉」のそばに建っていた天守櫓跡
盛土により天守台が造成され、この土地が城の最高所となっている。



兵糧庫跡
現在はそれっぽい建物が復元され、中は休憩所となっている。


本丸から二の丸へ。





本丸(画像左側)と二の丸を隔てる本丸西堀
こちら側は植林がなく、畝堀もはっきり見える。

二の丸から本丸へは、現在でこそ架け橋があるが、当時は盛土で造成された土橋だけだった。

二の丸側にある高台は二の丸櫓台跡であり、本丸西堀の画像はここから撮影した。



二の丸は、山中城最大の曲輪であり、本丸の中枢機能の一部を分担していたという。
南北に傾斜があり、攻める側にとっては常に上り坂となる。



二の丸の入口にあたる虎口は、規模の大きい土塁で囲まれている。
三の丸側(画像左側)から来た敵兵は、ここで右に曲がる必要があり、傾斜も相まって見通しがきかない。
虎口のそばには櫓台が残っており、攻める足軽の大きな障害となったことは、想像に難くない。




田尻の池に隣接する池は、箱井戸と呼ばれる。

隣りの田尻の池よりも高所にあり、排水が田尻の池に流れる仕組みであったという。
そのため水はよどみなく流れ、水の変色や腐敗を防いだ。
城兵の飲み水として用いられたという。




三の丸は、現在民家が建ったり、公民館の敷地、そして宗閑寺の境内となっている。
宗閑寺には、北条軍と豊臣軍の部将の墓が並んで立っている。


永禄年間(1558~1570)に、相模の戦国大名・北条氏康により築城される。
北条家の本拠地である小田原城の西側を防衛する最重要拠点であり、城は東海道を取り込む形で造られた。

氏康の嫡男・氏政の代になると、天下を統一しつつあった豊臣秀吉との関係が悪化。

1590年の小田原攻めの前に、山中城の改修が行われるが間に合わず、未完成のまま豊臣軍を迎える。

豊臣秀次(秀吉の養子)率いる7万の軍勢が山中城を攻撃。
守将である北条氏勝・松田康長・松田康郷・蔭山氏広・間宮康俊4千は奮戦。
豊臣方は部将の一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)などの戦死者を出したが、猛烈な力攻めの結果わずか半日で落城。
北条方の松田・間宮などの部将や城兵の多くが討死した。

戦後、城は廃止された。



現在は、一柳直末(画像左側)、松田康長、間宮康俊が同じ境内で眠る。




端整な堀・・・伊豆山中城

2012-12-06 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 2 年 1 月 9 日 ( 月 )

午 前 1 0 時 5 2 分

静 岡 県 三 島 市

山 中 城 址 駐 車 場



バスで山中城にやって来た私は、小腹がすいていたので、駐車場脇にあった売店に寄った。



この売店は山中城の案内所の役割も果たしている。
ここで山中城のパンフレットを入手し、



40番、山中城!
スタンプも店内にあるので、どうあっても売店には寄る必要があるのだ。

そして、小腹もみたす。



寒すり団子(300円)をいただいた。
(画像左上にあるのは山中城のパンフ)





上の地図の「現在地」付近に売店がある。

城を貫くように通る道路は国道1号。
山中城は東海道(現在の国道1号)を取り込むように建てられたため、国道をはさんで大きくふたつに分けられる。

地図の左側(南東部)は岱崎出丸という出城部分である。
地図の右側(北西部)が本丸などの本体部分があったところ。

まずは本丸側を歩いていった。



はじめに、オーソドックス?な空堀・三の丸堀



現在は通路となっているところは、当時は畝となっていて、自然の谷に畝を造成したものだという。
堀の長さは約180メートル、最大幅約30メートル、最深約8メートル。
畝の東側は、水路として池からの排水を処理していた。
畝の西側の堀は空堀であった。
(画像は、西側の空堀)



城内のため池・田尻の池

城の生命線である水を貯える重要な施設といえる。
この付近には馬舎があったとされ、この池の水は主に馬の飲料水に用いられたようだ。

田尻の池から、正規のルートを外れ、二の丸下の通路をたどる。



さっそく登場! 山中城の見どころ・畝堀

現在は空堀で、堀は芝生に覆われているが、当時は水濠だったという。
濠を仕切る畝には芝生はなく、足場はかなり不安定であったと想像できる。

敵兵は畝の部分をたどって攻めることとなるが、城兵は畝に集中する兵を狙い撃って防衛した。



西方の防衛拠点であった西の丸
尾根の稜線を削って平らにして形成されている。



見張台が盛土を積んで造成され、曲輪の三方は土塁で守られている。

西の丸は全体的に東に傾いており、雨水が集まってため池に流れるという仕組みであった。


西の丸見張台から下を見下ろすと、







格子状の端正な障子堀が西の丸を取り囲んでいる。



障子堀の向こうは、青空に映える愛鷹山。



富士山はなんとも意地悪な隠れっぷりであった。




壮絶なる遺言!上州箕輪城

2012-11-19 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 1 年 1 2 月 2 7 日 ( 火 )

午 後 1 時 0 5 分

群 馬 県 高 崎 市

高 崎 市 役 所 箕 郷 支 所




高崎駅から、群馬バス箕郷行きに乗って約30分で田町バス停へ。
そこから徒歩10分ほどで、高崎市役所箕郷支所に到着。



今回登城するのは、群馬が誇る堅城・箕輪城。


戦国時代の上州は、はじめ上杉氏(関東管領家)の勢力であったが、当主の上杉憲政河越城の戦い(河越夜襲)で相模の北条氏康に大敗し、没落の一途をたどる。
上杉憲政は、上州を放棄して越後の長尾景虎のもとへ落ちのびる。
(憲政は景虎を養子とし、景虎はのちに上杉謙信と名乗る)

憲政が逃亡したのちも、在地の豪族であった箕輪城主・長野業正(なりまさ)は、北条氏康やその同盟者・武田信玄に抗戦していた。

業正の死後、ついに信玄が箕輪城を攻略。

その後は武田家が治め、武田を滅ぼした織田、本能寺の変に乗じた北条へと移る。

豊臣秀吉の小田原攻めののち、徳川家康が関東に移封となる。
箕輪城は徳川四天王のひとり・井伊直政が預かり、改築にとりかかったが、1598年に高崎城に移り廃城となった。





16番、箕輪城!
登城前にあらかじめ箕郷支所でスタンプを得ておいた。



箕郷支所から歩いて20分くらいで、城の入口へ。



こちらは城の搦め手らしい。
ひさびさの山城なので身が引き締まります。



明らかに攻城の障害になりそうな空堀土橋
往時には城門が構えられていたのだろうか。



もう少し進むと、かなり規模の大きい空堀。
この大きな空堀こそ、箕輪城が難攻の要塞たるゆえんであった。
(画像は城の内部側から見たものです)
そして画像左側には郭馬出が備えられ、向かってくる侵入者に対し横槍を入れられるようになっていたという。



こちらは二の丸
それぞれの曲輪に連絡する出撃の拠点であった。




少し下って三の丸





三の丸付近には、往時の石垣が残っている。


箕輪城の守備の要であった大堀切に下りた。





ざっと10メートル以上は掘り下げたであろうと思われる。
当時の人夫の労苦は尋常なものではあるまい。



大堀切の石垣は、御前曲輪を防衛する。


堀を上って、いきなり城内の最奥部。



御前曲輪は本丸のさらに奥で、持仏堂や井戸があった。
いわば精神的な機能があったという。



持仏堂の跡には慰霊碑が立っている。


箕輪城主・長野業正は知勇兼備の名将であり、武田信玄の軍を何度も撃退していた。
信玄は「業正が生きているうちは上州には手が出せない」と嘆いていたという。

しかし1561年、業正病死。
嫡子・業盛への遺言が壮絶なものであった。

「私が死んだ後、一里塚と変わらないような墓を作れ。我が法要は無用。敵の首を墓前に一つでも多く供えよ。敵に降伏してはならない。運が尽きたなら潔く討死せよ。それこそが私への孝養、これに過ぎたるものはない」

業正の死は隠されたが、武田方が察知してしまう。

1562年、箕輪城落城。
業盛は父の遺言に従い、持仏堂で自害して果てた。享年19。



御前曲輪から本丸へ。



「箕輪城跡」の碑は本丸の隅にひっそり立っている。




本丸から東を見やると、



澄み切った青空に赤城山がくっきり浮かんでいた。


春風に梅も桜も散り果てて
名のみぞ残る箕輪の山里


季節は春ではないが、年若くして討ち死にした長野業盛の辞世の句で、この旅を締めくくるとしよう。



日本100名城登城の旅・初段「雪中北陸縦断」 完