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鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

皇居東御苑

2013-07-04 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 3 年 6 月 1 6 日 ( 日 )

午 前 1 0 時 3 1 分

千 代 田 区 大 手 町

大 手 門



大手門【復元】から皇居東御苑へ。



一の門が高麗門



二の門が渡櫓門枡形構造になっている。
・・・って同じ流れの記述を何回も繰り返している・・・。
それぐらい江戸城は規模が大きく、そして堅固なのだ。



大手門の石垣は、石が整形されて隙間なく積まれている。
こういう石積みは切込接(きりこみはぎ)という。


大手門をくぐると管理事務所があり、ここでプラスチック製の入場札を受け取ることになる。
入場料は無料であるが、入場管理を札で行っており、皇居東御苑を出るときは、札を返却することになる。
つまり、札をなくすと後々面倒かも。
(私は札をなくしたことはないので、どうなるかは不明)

皇居東御苑には、宮内庁病院などの重要施設があったり、宮中へ通じる通路があったりするので、進入禁止のところがある。

また、皇居の一部とされているので、公園でありながら管理は宮内庁が行う。
そのため、御苑内の現存遺構はのきなみ文化財指定の対象外になっている。





大手門から中に入ると、皇室の財宝が収蔵されている三の丸尚蔵館があり、そのとなりに休憩所(大手休憩所)がある。
普段以上の距離を歩いたため、足が悲鳴を上げていた私は吸い込まれるように入っていった。

ここでは絵はがきなどの皇居みやげのほか、アイスを売っている。
種類は少なく、ロッテの「モナ王」がやたら多い。
小腹を満たしたかった私は「モナ王」(120円)を買って食べた。

休憩所で放映している天皇・皇后両陛下の被災地行幸啓のビデオを拝見して、私は立ち上がる。


大手休憩所のすぐ近くに、枡形構造の跡と思われる石垣が並ぶ。
・・・江戸城、堅すぎ。



そして枡形のところにある同心番所【現存】。
警備の任務を負う同心の詰め所で、同心とは庶務・警備の仕事をしていた下級役人の総称。

ここをカゴや馬に乗ったまま通れるのは尾張・紀伊・水戸の御三家だけで、それ以外の大名はカゴや馬から降りて検問をうけた。
伴の者はここで主人の帰りを待ち、他家の者と情報の交換をしていて、これが現在の「下馬評」の語源になったという。


枡形を出ると、広い空間に出る。
ここは二の丸と本丸の分岐となっており、ここにはさらに大きな百人番所【現存】がある。
その長さ、50メートル超(*_*)!!



根来組、伊賀組、甲賀組、二十五騎組の4組が交代で詰めていた最大の検問所。
各組とも与力20人、同心100人が配置されていたところから百人番所と呼ばれたという。


百人番所の目の前に、中之門跡



本丸に通じる門はこちら。
この先から坂が急になるあたり、城を攻める側からすればいやらしい縄張りだ。


その先にまたまた番所、大番所【復元】。



他の番所よりも位の高い与力・同心によって警備されていたという。
本丸へ続く最後の番所で、「最後の砦」として警備上の役割はきわめて重要だろう。


本丸への最後の門であった中雀門跡



ここを過ぎればようやく江戸城本丸

幕末の薩長軍はホントにこんな城を攻めようとしたのだろうか?
最後の将軍・徳川慶喜が恭順しなかったら、戊辰戦争はこう着状態になっていただろうなぁ。



本丸を回っていきたいところだが、携帯のバッテリーがもたない・・・。
行けるところまで行くとしよう。


桔梗門(内桜田門)付近の桔梗濠からちらりと見えた富士見櫓【現存】。



(↑ こちらは桔梗濠越しの富士見櫓)



本丸側から見た富士見櫓。
門扉に閉ざされており、近づくことはできない。

こちらは三階建ての三重櫓であり、天守が焼失した江戸時代中期以降は天守の代用となっていた。

江戸城は、はじめは五重の天守が建っていたが、火災による焼失が相次ぎ、財政状況からついに再建されなかった。
この影響は各地の城郭に及んだ。
「将軍様がお住まいの江戸城に天守がないのに、ウチの城で天守を造るのはちょっとね・・・」
ということで、実質的には天守の役割をなしている建物が、「御三階櫓」などという名がついたりした。



参考までに、こちらは福島県白河市の白河小峰城
天守「的」建物は御三階櫓という。


さて話を江戸城に戻そう。
本丸には広大な本丸御殿が建っていた。



その一角、松の大廊下跡
本丸御殿の大広間から将軍との対面所までの廊下で、廊下に沿ったふすまには松の並木と千鳥の絵が描かれていた。
元禄14年(1701年)浅野内匠頭長矩がこの廊下で吉良上野介義央に斬りつけた事件で有名。



うぅっ、スマホさんが勝手にシャットダウンしたか・・・本日はここまで。



日本100名城登城の旅・第5段「皇居 ランナー ウォーカー」 第8話へ続く。

お濠散歩

2013-07-03 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 3 年 6 月 1 6 日 ( 日 )

午 前 1 0 時 0 5 分

千 代 田 区 皇 居 外 苑

桜 田 門 二 の 門 前



皇居を1周。
顔本にしてしまった公約をまがりなりにも果たし、顔本上で報告したところで・・・

あとは皇居をま~ったり歩くとしようかねぇ。
やっぱり俺には走るよりも歩く方が性に合うわい。





桜田門【国指定重要文化財】から、また歩き出す。



桜田門の一の門は、高麗門という形式の造りになっている。
高麗門は、シンプルな屋根(横から見たら「へ」の字のような屋根;切妻屋根)で、脇の柱にも小さな屋根がついている。



二の門は、頭上から攻撃できる櫓と一体になっている渡櫓門

桜田門は、正しくは外桜田門という。
かつては小田原方面への街道の起点であり、桜田門は「小田原口」とも呼ばれていた。


桜田門から水濠ぞいに歩くと、皇居のシンボル登場。



桜田濠と、その先の二重橋濠にかかる二重橋
手前のめがね橋は正門石橋、奥の橋は正門鉄橋といい、橋が二重に架かっているから二重橋の名があるとされる。





正門石橋の向こうに構える門が、皇居正門
正門前には皇宮警察職員の詰所が設けられ、正門石橋には障害物が置かれて渡ることはできない。



正門石橋から二重橋濠を望めば、鉄橋が濠からかなりの高さに位置することがわかる。
江戸時代には低い橋を架け、その上にもう1本橋を架ける必要があった。
そのため二重橋の名称があった。

鉄橋の先にある櫓は、伏見櫓【現存】という。
もともとは京都の伏見城から移築したものといわれるが、本当のところは違うらしい。
関東大震災で破損したが、修復される。
装飾性の高い二重櫓が印象的だが、その脇に多聞櫓(城壁に櫓の機能をつけたような、横長の櫓)がついている。





二重橋からそのまま二重橋濠に沿って歩けば、皇宮警察の警備が厳重な坂下門【復元】。



かつては桜田門と同じく一の門・二の門が存在する枡形構造であったが、現在は二の門が復元移築されて残る。

江戸時代には、坂下門外の変という事件が起きている。
桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の後を継いで幕政を指揮した老中・安藤信正
幕府は、14代将軍・徳川家茂の正妻に孝明天皇の妹・和宮を迎えようと動いており、その主導的立場であった安藤は、尊攘派の浪士に襲撃されてしまう。
安藤は命を取り留めたが、幕府の重臣が相次いで襲撃されるという事実は、幕府の権威失墜を早めてしまった。

現在は宮内庁の正面玄関となっている。


二重橋濠は坂下門で止まり、その先は(はまぐり)となる。



蛤濠のむこうにわずかに見えるのは、三重櫓である富士見櫓【現存】。


蛤濠はすぐに終わり、次いで桔梗濠



両者の濠を隔てる桔梗門【復元】。
こちらは一の門が高麗門、二の門が渡櫓門枡形構造となっている。
桜田門が外桜田門というのに対し、こちらが内桜田門

この門は皇居参観のスタート地点になっている。
いつか行きたいねぇ。

 ※皇居参観の申込み : 宮内庁 http://sankan.kunaicho.go.jp/


走ったほぼ歩いた桔梗濠ぞいを再び歩いて・・・



立派なお姿の桜田二重櫓((たつみ)櫓)【現存】を仰ぎ見つつ・・・



すでに開門していた大手門【復元】の中に入っていった。



日本100名城登城の旅・第5段「皇居 ランナー ウォーカー」 第7話へ続く。

やっと皇居1周完歩

2013-06-29 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 3 年 6 月 1 6 日 ( 日 )

午 前 9 時 3 0 分

千 代 田 区 一 番 町

内 堀 通 り ・ 千 鳥 ヶ 淵



皇居1周まで、あと2キロほど。
某麻雀漫画のごとく展開を引っ張って回を重ねてしまったが、今回で皇居を1周するとお約束しよう。



前回は、代官町通りから内堀通りに合流する千鳥ヶ淵交差点で、デジカメさんが不具合を起こしたのだった。
ここは仕方がないので、スマホさんのカメラ機能をフル活用する手法を採ることとした。



これまた広い広い水濠、半蔵濠
半蔵濠の向こうは、天皇陛下がおわす吹上御所で、かつての西の丸だ。

これまで見てきた大手濠、平川濠などとはちがって、こちらは石垣が高く組まれていない。
画像では見づらいが、濠の上部はしっかり石垣が組まれていて、鉢巻石垣という。
正面玄関の大手濠や本丸に近い平川濠で石をガンガン使ったから、本丸には遠い西側では石をケチったようだ。


内堀通りの向かい側は・・・



雨でちょっと元気のないユニオンジャックとともに、イギリス大使館が建っている。


半蔵濠が尽きるところに、半蔵門



半蔵門も警備が厳重で、門正面の写真が撮れなかった。
皇宮警察の威に屈してしまったのだ・・・。

半蔵門もかつては2段構えの枡形門であったが、現在は一の門のみとなっている。
「半蔵」とは、徳川将軍家を支えた影の軍団・伊賀忍者の総帥であった服部半蔵のこと。
服部家の当主は、代々「半蔵」を名乗った。

2代目の半蔵・服部正成は、徳川家康に仕え「徳川16神将」のひとりに数えられた。
1590年に家康が江戸城に移封された際に、服部正成の屋敷がこのあたりに与えられたことから「半蔵門」の名があるとされる。
また一説には、1582年に本能寺の変が起きた際、軍勢をもたず堺を街ブラしていた家康が、伊賀を通って本拠地への逃亡を図った際(神君伊賀越え)、伊賀が地元であった服部正成の助力があり虎口を脱することができたことを賞し、「半蔵門」の名をつけたともいう。

半蔵門から桜田門までは、桜田濠が皇居を隔てる。
半蔵門は、三宅坂の坂上に位置するので、掘りがものすごく深い。



桜田濠も半蔵濠と同様に、石を節約した鉢巻石垣になっている。
なんたってこの掘りの深さだから、斜面をすべて石にしなくても防御力は遜色ない。


半蔵門前から、内堀通りは国道20号となり、三宅坂の下りが桜田門まで続く。
ゴールまで、あと1.5キロほど。


錚々たる国家機関の庁舎が、通りの向こう側に現れる。



司法を志した者が恐れ敬う?司法府の最高機関・最高裁判所


最高裁前で、国道246号・青山通りが合流。



桜田濠の先に、桜田門が見え始めれば、ゴールは残り1キロ弱。


司法府の次は、立法府。



国会議事堂が見え始めたら、ゴールはもう少し!



ゴールの桜田門がはっきり見えてきた!



午 前 9 時 5 9 分

桜 田 門 一 の 門 前

つ い に 皇 居 1 周 完 走



やっと完走。

スタートが8時40分。
ゴールが9時59分、かかった時間は1時間19分。

遅い、あきらかに遅い。
途中のデジカメ故障で15分ほどもたついていたし、写真を撮りまくっていたから・・・
だいたい5キロを1時間で回ったことになるか。

・・・ええ、歩きました。
ちい散歩を少し速く長く歩いた程度でしたよ!


ちい散歩はよかったなぁ~。
若大将のゆうゆう散歩はまったく見る気がしねぇ。



ともかく皇居周回コースは回った。
だが江戸城はあまりにも広大。
まだまだ江戸城の半分も回ったとはいえないだろう。


早朝の天気では雷雨!!だったはずが、皇居を回るという苦行?をなした私を、天は照覧していたのだろうか、雨は弱まっている。



桜田門二の門【国指定重要文化財】の前で一服して、江戸城の登城は続く。



日本100名城登城の旅・第5段「皇居 ランナー ウォーカー」 第6話へ続く。

皇居1周完歩?

2013-06-29 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 3 年 6 月 1 6 日 ( 日 )

午 前 9 時 0 9 分

千 代 田 区 一 ツ 橋

代 官 町 通 り ・ 竹 橋



皇居1周まで、あと3キロ。



内堀通りからいったん離れ、竹橋を渡って代官町通りへ入る。



雨の中咲き誇るあじさい。
背後には、濠ごしの見事な石垣。



上にいくにつれて勾配が急になる「扇の勾配」も見られる。



私が考える江戸城の最大の見どころ、桔橋(はねばし)



深く大きな平川濠
高くそびえ立つ、けた外れの規模を誇る石垣。
関東では大きな石はあまり採れず、佐倉城のような土づくりの城が主流であることから、征夷大将軍の絶大なる権勢をもって西国から大量の石材を運んだのではないだろうか。



そして北桔橋門の先は江戸城の本丸で、すぐ近くに天守があった(現在は天守台のみ残る)ので、きわめて堅固なつくりになったのだと推測できる。
かつては大手門のように城壁に囲まれる二段構えの枡形門であり、現在はない第2の門は渡櫓門であった。
また「はね橋」の名のとおり、橋は内側から跳ね上げができた。

現在は、ここから皇居東御苑(かつての江戸城本丸・二の丸・三の丸)に入ることができる。


代官町通りは、江戸城の北の丸を貫いて通っている。
北桔橋門からは、代官町通りをはさんで北の丸公園へ行くことができる。
北の丸には、日本武道館東京国立近代美術館科学技術館などがある。


北桔橋門からだいたい200メートルほどで、首都高速の入口(代官町ランプ)が見えてくる。
その脇にあるのが・・・



江戸時代にはなかった乾門
かつて坂下門の近くにあった西の丸裏門を移築したものという。

ここは警備が厳しく、近づくこともできない。


代官町ランプの分岐から先は、交通量がぐっと減り閑静な雰囲気に。
しかしこの一帯は、天皇陛下のおわす吹上御所から最も近いため、皇宮警察の職員がいたるところに配置されている。
そのため、ランニングコースとしては治安が非常によく、女性も安心というわけだ。



首都高越しに見えるハイカラな建物は、東京国立近代美術館工芸館【国指定重要文化財】。
近代美術館の別館であり、帝国陸軍近衛師団司令部庁舎を改修したもの。


警察職員の多い吹上御所ぞいの代官町通りを抜け、再び内堀通りにさしかかったとき・・・

デジカメ殿、ご乱心!!

何を写しても映像が白くなる白飛びを起こしてしまう。

・・・ああ、ここまでか・・・。



日本100名城登城の旅・第5段「皇居 ランナー ウォーカー」 第5話へ続く。

皇居を走る?

2013-06-26 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 3 年 6 月 1 6 日 ( 日 )

午 前 8 時 4 0 分

千 代 田 区 大 手 町

皇 居 外 苑 ・ 桜 田 門



ついに皇居を走る!



1周は5キロ。(正確には5キロより20メートルほど少ないらしい)
歩道の路上には、100メートルごとに「都道府県の花」のレリーフがあり、走行距離の目安となる。
走行を妨げる信号機はないので、悠々と走ることができる。
地下鉄駅も随所にあり、途中棄権も可能(^_^;)




工事中の桜田門【国指定重要文化財】からスタート。

桜田門は、江戸城の内堀を守る門のひとつ。
こちらの門は、正式には外桜田門という。

1860年(安政7年)に、この門の近くで桜田門外の変が起きた。
大老・井伊直弼が、水戸藩浪士らに襲撃され落命している。


皇居周回コースは通常桜田門をくぐって行くのだが、工事中のため通行不可。
桜田門には入らず、祝田橋交差点から左折し内堀通りに入る。


桜田門前は、皇居ランナーたちが「ここをキャンプ地とする」と言わんばかりに、荷物を放置しているようだ。
この日は、ボランティアの人々が多く集まっており、なんらかの駅伝が行われていたらしい。
(なんとひどい文章・・・)


私は、早歩き程度のスピードであったため、順調に皇居ランナーに抜かされていく。


内堀通りに入ってしばらくは、お濠と離ればなれ。
スタートから1キロ地点に差しかかると、左側にお濠が見えてくる。



桜田二重櫓【現存】は、二の丸の一角に配置された隅櫓で、その方位から(たつみ)櫓ともいう。
(巽=辰己=東南。十二支の「子」が北となる)



櫓を隔てる水濠は、桔梗濠と呼ばれる。



なお、この隅櫓に限らず皇居内の建造物は、宮内庁が管理しているため、文化財指定がされていない。


桜田二重櫓のすぐ先には、大手門【復元】。



桜田櫓から続いていた桔梗濠は、大手門で途切れる。



大手門からは皇居東御苑(旧江戸城二の丸・本丸)へ入れる。
開門時刻は午前9時のため、この時点では門扉で封鎖されていた。



大手門からは、大手濠が皇居の前に横たわる。

大手門前の濠には、なぜか白鳥が1羽ずつ停泊?している。
この時季は白鳥って北に帰るのではないか?
ということは、こいつらは白鳥のオブジェ??

少し気になって調べてみたら、どうやら本物の白鳥らしい。
コブハクチョウという種で、白鳥の中ではもっともよく見られる。


そろそろおわかりになってきたであろうか。
「皇居ランナー」といいながら、実際は江戸城めぐりになっていることを。
城好きの私が江戸城の遺構をスルーすることなど、どだい無理だったのだ。

目的が、皇居を走ることから100名城登城の旅に変わっていく。

だいいち、こんなにすばらしい櫓や石垣を見もせずに黙々とただただ走るなど、ランナー諸君のなんとももったいないことよ!
・・・と強弁でごまかしてみる(^_^;)




大手濠ぞいをほんの少し走ってみる。


気象庁前の交差点前は、皇居ランナーの休憩ポイントになっている。
ここは東京メトロ・竹橋駅の入口があり、ここでリタイヤも可能。



和気清麻呂公の銅像


奈良時代後期の女帝・称徳天皇は、怪僧・道鏡より自らの病の治療を受けて以来、道鏡を寵愛するようになった。
769年(神護景雲3年)宇佐八幡宮の神官が宇佐八幡神の神託として、道鏡を皇位に就かせれば天下太平になる、と称徳天皇へ奏上する。
一説には、称徳天皇が道鏡の皇位継承を望んでいたともいう。

このとき勅使として宇佐八幡宮に神託を確認するよう遣わされたのが、和気清麻呂であった。
宇佐八幡の神託は、
「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人は宜しく早く掃い除くべし」
というものであり、これをそのまま持ち帰って奏上した。
(宇佐八幡宮神託事件)

これにより道鏡は皇位継承の途を断たれることになった。
称徳天皇は激怒し、清麻呂を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられ、大隅国(鹿児島県)に流罪とされた。

称徳天皇崩御後、道鏡が失脚すると、清麻呂は名をもとに戻されたうえで流罪を解かれた。
その後は有力な官僚として活躍し、桓武天皇平安京遷都の建議を献じ、新都の建設に尽力した。

後世になると、孝明天皇より神階正一位と「護王大明神」の神号を贈られた。
1898年(明治31年)には、正一位を贈られた。
皇統を守った功績により、楠木正成とならぶ勤皇の忠臣とされ、その銅像は今も皇居を見守っている。



和気公の銅像から少し進んで、平川門【現存】。



平川門は江戸城の裏門にあたり、大奥に最も近いため大奥女中達の出入りする通用門でもあった。
不浄門ともいい、罪人や遺体はここから出されたという。
殿中で刃傷沙汰を起こした浅野内匠頭は、城内の座敷牢に留め置かれた後にお預け先の田村建顕(一関藩主)邸に出されるときも、この平川門からであった。


平川門に入らず、皇居1周コースを進んでいく。



平川門から先も大手濠が続く。
石垣がまったく見事!
平川門は木橋がかかっているため、大手濠とは一本でつながっている。




濠にかかる竹橋を渡り、皇居周回はあと3キロ。
まだまだ続く。







【参考資料】
  ・国民公園協会皇居外苑支部ホームページ http://www.fng.or.jp/koukyo/info/koukyo_miryoku2.html

佐倉城・其之弐

2013-06-19 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 3 年 6 月 9 日 ( 日 )

午 後 4 時 5 2 分

千 葉 県 佐 倉 市

佐 倉 城 址 公 園



3時間弱滞在した歴博から、菖蒲園へ戻った。
ここからは、佐倉城址公園の周りをめぐる。



城の北東部、国道296号付近。





佐倉城を取り囲む水濠土塁がよく残っている。




歴博入口は、いまでこそ城址公園の正門にも見えるが、往時は田町門があり、搦め手(裏手)であった。


西側にはひときわ大きな水濠が横たわる。





西側は出丸が2つあって、北西の出丸の傍らには、裏口として引き橋が架けられていた。





南西の出丸は、しっかりとした土塁が築かれている。


城の南西部で水濠は途切れるが、高さ3メートルほどの土塁がそびえる。



土塁が続く長さは、およそ500メートル。



民家のブロック塀が出てきたところで、佐倉城の攻城は終了。



佐倉城登城・最終話へ続く。

佐倉城

2013-06-14 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 3 年 6 月 9 日 ( 日 )

午 後 1 時 1 0 分

千 葉 県 佐 倉 市

佐 倉 東 高 校 付 近



菖蒲園から坂を上がって、いったん城址公園を出た。
そして、公園から300メートルほど離れた佐倉東高校の前。



佐倉城の大手門跡は、公園から少し離れている。
大手門から広小路が伸びていて、一帯は武家屋敷街であった。


 

公園への道路を歩いていくと、左側に駐車場と佐倉城址公園管理センターがぽつんとある。
人のいる気配がない。人がいるのを見たことがない。
この中に100名城スタンプがあるのだが、管理がいささか雑ではないか?



ひとまず・・・20番、佐倉城!
スタンプ帳には2011年2月の時点で押印済み。



戦国時代中期、付近一帯を支配していた本佐倉城主・千葉親胤(ちかたね)は、一族の鹿島幹胤に命じてあらたに築城させた。
これが佐倉城のおこりである。
千葉親胤はほどなく暗殺されてしまい、工事は中止となった。

築城はしばらく中断する。

徳川家康が江戸幕府を創設すると、1610年(慶長15年)その命を受けた土井利勝により、ついに完成。
佐倉城を中心に佐倉藩が成立した。

佐倉城は「老中の城」と呼ばれることがある。
初代城主の土井利勝(老中・大老)をはじめ、堀田正盛、大久保忠朝、戸田忠昌、稲葉正通、松平乗邑(のりさと)、堀田正亮(まさすけ)、堀田正睦(まさよし)の8人を輩出している。
(堀田正睦は2度就任している)

明治維新後に廃城となり、帝国陸軍歩兵連隊の駐屯地となった。
それでも、「奇跡」と言われるほど空堀や土塁などの遺構がよく残っている。






公園の入口あたりは、三の御門跡になっている。
本丸から大手門までの間には門が3つあり、それぞれ「一の御門」「二の御門」「三の御門」と呼ばれていた。



三の御門脇の空堀もよく残っているが、ここのはまだ浅い。
芝生の緑鮮やかな窪地のようにも見える。




三の御門跡からそのまま道なりに進むと、2体の銅像が立っている。
江戸幕府の末期、開国交渉で活躍した日米2人。

 

佐倉藩主にして老中の堀田正睦(左)は、アメリカの駐日大使・タウンゼント=ハリスとの通商交渉に臨み、日米修好通商条約を締結した。
堀田は藩政に洋学を積極的に取り入れ、医学塾である順天堂の開設などの成果を残している。




そして堀田・ハリス像のあたりが二の御門跡
二の丸へと続く二の御門は、武器庫として用いられていたようだ。



画像では鬱蒼とした雑木林のように見えるが、二の御門の両脇を固める空堀はかなり深い。




二の御門からは道が二手に分かれており、そのまま直進すれば一の御門跡



左折すれば勝手口であった台所門跡に続く。




本丸は明治以降に建物が収去されて、現在は広場になっている。
往時は御殿があり、角櫓、銅櫓、天守が立っていた。

徳川家康が鷹狩りで下総国を訪れることがあったが、そのときの宿泊場所として佐倉城本丸が用いられた。
そのため歴代の城主は、本丸を寝所とすることを避けた。
本丸の御殿を使用するのは、儀礼的な行事などに限られたという。



本丸と二の丸を隔てる空堀もかなり深い。



空堀から掘った土は、本丸を囲う土塁に用いられたのだろう。
この土塁も3メートルほどと、なかなか高い。



 (天守跡から本丸を望む)

本丸の南西部にある天守跡
初代城主・土井利勝は、三層の天守(御三階櫓)を建てた。
利勝はのち古河(茨城県)に移封となるが、資料や礎石を比較したところ、そこの御三階櫓と構造がとても似ているという。



本丸の北西には、(あかがね)櫓跡
記録によれば二層の櫓で、もとは江戸城の櫓を移築したものだという。
さらにこの櫓、徳川家康が江戸城を改築する以前から存在したものらしい。

 

天守跡そばにある一本の大きなモッコク【千葉県指定天然記念物】。
幹に「昭和十八年十月」「砲隊」といった落書きが彫られている。
歩兵連隊が置かれていたころの兵士の落書きだという。


 (椎木曲輪側から)

二の御門跡から、三の御門とは逆の方向に歩くと、椎木門跡に続く。
ここは掘りのすばらしい郭馬出しで防御が固められている。
椎木門の外側は椎木曲輪と呼ばれ、現在は国立歴史民俗博物館(歴博)がそびえ立つ。







明治政府により建物がすべて撤去されてしまった佐倉城において、そのシンボル的な存在がこの郭馬出しであろう。
100名城スタンプの図柄もここである。



それにしても夏場の城攻めは体に堪える。
城内を歩き回ったところだし、屋内で休憩したい。



ちょうどいいところに歴博があるではないか!

しかしこの歴博、とんでもない所であった・・・。



佐倉城登城・第3話へ続く。

隠匿の麟閣?会津若松城・其之参

2013-01-19 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 2 年 4 月 2 日 ( 木 )

午 後 1 2 時 1 4 分

福 島 県 会 津 若 松 市

会 津 若 松 城 本 丸





会津若松城の本丸南東にたたずむ茶室・麟閣


ときは豊臣秀吉が天下統一を成し遂げたころ。
会津若松城の城主は名将・蒲生氏郷
中央政界では、氏郷の茶の師匠で、秀吉の茶の師匠でもあった千利休が健在であった。

しかし利休と秀吉は、茶の精神性をめぐって、あるいは政治のあり方をめぐって対立を深めていく。
ついに秀吉は、利休に切腹を命ずる。
切腹後、利休の首は京の市中にさらされ、犯罪人の扱いを受けてしまう。

利休は、子に長男・道安と次男(養子)少庵がいた。
道安は細川忠興が、少庵は蒲生氏郷が、それぞれ蟄居を引き受ける形で匿ったという。

麟閣は、蒲生氏郷のもとで匿われた少庵が、氏郷に感謝するために造らせた茶室であるという。

道安は、堺千家の祖となったが、現在は途絶えてしまった。
少庵も、利休の茶の道を受け継ぎ、武者小路千家・表千家・裏千家の三千家の祖となる。
千家は、少庵の孫の代で三千家に分かれることとなり、それぞれが現在に継承されている。





麟閣の敷地内に入ると、まず現れる寄付【移築復元】という建物。
茶会に先だって、客が待ち合わせをしたり、身支度を整えたりする、準備用の建物である。



寄付よりも簡易なつくりの建物は、腰掛待合【移築復元】という。
茶会の客が、亭主の迎えを待ったり、茶会の模様がえのときに客が待つ場所であった。



茶室の手前にある水場は、蹲踞(つくばい)という。
茶室に入る前に、俗世の穢れを洗い流し、清らかな心で茶に臨むものとされた。



蒲鶴亭(ほかくてい)は、茶室に隣接する書院。
茶室では一切の華美が許されないのに対し、書院ではある程度の華美は許されていた。



蒲鶴亭に上がろうとするとアラームが鳴るらしい!!



蒲鶴亭の裏手に回ったところが、茶室・麟閣躙口(にじりぐち)である。



茶室の柱には、少庵が自ら削った跡が残っているという。



ああ、茶がうまい~



会津若松城を出る前に、もう一度天守を仰ぎ見る。



そして東側から出た。





本丸と二の丸を隔てる石垣と水濠はなかなか見事。



二の丸から三の丸を分ける空堀もすばらしい。


このまま歩いて、次の目的地へと向かった。



日本100名城登城の旅・第10弾「おくのほそ道」第32話へ続く。

赤い??会津若松城・其之弐

2013-01-18 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 2 年 4 月 2 日 ( 木 )

午 前 1 0 時 3 4 分

福 島 県 会 津 若 松 市

会 津 若 松 城 北 出 丸





北側の太鼓門跡からの復興天守



本丸に入って北西側からの復興天守。



太鼓門跡付近にたたずむ鶴ヶ城稲荷神社は、会津若松城の守護神として鎮座している。



天守の北東、本丸埋門跡
往時の会津若松城は、天守から南方向と北東方向に長櫓が設けられ、本丸が二分されていた。
北出丸から入ってきた者は、北東の本丸埋門か南の門かを通る必要があった。


天守の東南は、かつて御殿があり、また天守の入口があり、会津若松城の中核をなす部分であった。



天守への入口がある東側。
傍らにある券売所では、入城券(大人500円)とともに鶴ヶ城・茶室麟閣・御薬園の共通券(大人700円)が買える。
当然、210円お得な後者を選択。



天守への入口は、石垣のあいだから。



入口付近には、江戸時代初期に再建された当時の石垣が残る。


鶴ヶ城の天守内は、だいたいどこも同じだが、歴史資料館になっている。
そして、鶴ヶ城は主を何度も変えた城であるから、ゆかりの人物も多く、おのずと資料も豊富にある。
その中の展示物を紹介しよう。



黒い鎧具足は、名を紺糸(おどし)二枚胴具足(伝直江兼続所用)という。
関ヶ原の戦い以前の城主であった上杉景勝の家老・直江兼続が使っていたらしい。
直江兼続は、「愛」の文字を前立てにした兜が有名だが、「愛」の兜とセットで着用していたのだろうか。



模擬火縄銃
戦国時代の火縄銃をかたどったもので、もちろん発砲することはできない。
ただ、重さは本物を再現しており、持ってみると意外にずっしりと腕に重みがかかてくる。



会津の民芸品のひとつである会津ろうそく
ろうそくに彩色豊かな絵を描いてあるのが特徴。
会津では、武士階級の内職でろうそくが生産されていた。


天守の最上階から方々を眺める。



南には、天守から伸びる走長屋(くろがね)干飯櫓が本丸を分断している。



南東にたたずむのは、麟閣という茶室。



北東には、雪をかぶった会津磐梯山がそびえ立つ。



鶴ヶ城の建物には、赤瓦というあずき色の屋根瓦が使われている。
江戸時代の鶴ヶ城は赤瓦が使われていたという記録があり、



復興天守の瓦は、以前の灰色(左)から平成23年までの工事によって現在の赤瓦(右)となった。


100名城スタンプは天守にあるので、忘れずに確保。



12番、会津若松城(鶴ヶ城)!
絵柄はやはり復興天守。


天守を下りた。



南側から見た鉄門



さらに南側から見た鉄門と天守。



干飯櫓(左)はこんな感じ。



南東からの鉄門と天守。



鉄門をくぐって表側へ。



鉄門のそばにひっそりたたずむ、上杉謙信公仮廟所跡
上杉謙信は死後、甲冑姿で甕に収められ、越後の春日山城に葬られた。
後を継いだ上杉景勝が越後から会津に移封されると、この付近に仮屋を建て、上杉謙信の遺骸を安置したという。、
上杉家が米沢に移ると、謙信の遺骸も米沢に移っていった。


こんどは本丸の南東へ。



「荒城の月」の歌碑。
仙台生まれの歌人・土井晩翠は、青葉城(仙台城)と鶴ヶ城をモチーフにして作詞したという。
晩翠の自筆をもとにした歌碑で、晩翠夫妻を招待して除幕式が行われた。

春高楼の 花の宴
めぐる盃 影さして
千代の松が枝 分けいでし
むかしの光 今何處


歌碑のあたりには月見櫓が建っていた。



正規の役割は、武器の保管であったが、ここからの月がなかなか美しいということで月見櫓という名があったという。



現在は桜の名所とされている。
桜花につつまれる鶴ヶ城の天守を、心の眼でご覧くださいませ・・・。




主は変わる・会津若松城

2013-01-10 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 2 年 4 月 2 日 ( 木 )

午 前 1 0 時 3 4 分

福 島 県 会 津 若 松 市

会 津 若 松 城 北 出 丸





会津若松城の登城は、北からスタート。





北の守りを固める北出丸
このあたりの石垣は300年以上前のものという。



北出丸大手門跡から入る。
石垣がクランク状に組まれていて、先が見通せない構造となっている。

北出丸に侵入した敵兵を、三方から攻めることができ、鏖丸(みなごろしまる)とも呼ばれていた。




北出丸から本丸へと通ずる太鼓門跡
往時は多聞櫓という城門と一体となった形式の櫓が建てられていて、大きな太鼓が備わっていた。



太鼓門は本丸へと通ずる大手門(表玄関)でもあったので、石垣に用いられる石がじつに巨大。



太鼓門の石垣には、本丸側にこのようなV字状の階段が備わっている。
これは武者走りといい、櫓への昇降がラクになる工夫だ。
階段の上の部分には石を積まなくてよいことから、石の節約にも一役買っている。




本丸に立っている案内看板。
会津若松城は、戦国時代から江戸時代初期までは、頻繁に主を変えた。

   1.葦名氏 1384年~1589年
   2.伊達氏 1589年~1590年
   3.5.蒲生氏 1590年~1598年、1601年~1627年
   4.上杉氏 1598年~1601年
   6.加藤氏 1627年~1643年
   7.8.保科氏・松平氏 1643年~1868年

会津若松城は、はじめ黒川城といった。
1384年、蘆名(あしな)直盛が建てた黒川館がはじまりとされる。
蘆名家は、当主が盛氏のときに奥州を代表する勢力になるが、その後は当主の若死ににより動揺していく。
家中は、常陸の大名・佐竹義重の次男・義広を養子に迎え当主に迎えた。

米沢城主であった伊達政宗は、奥州に覇を唱えるべく蘆名の打倒を目指す。
このころ、豊臣秀吉は関白に叙任され、惣無事令(私戦禁止命令)を全国の大名に発布する。
政宗はこれを無視し戦いを続行、1589年摺上原(すりあげはら)の戦いで蘆名義広を破る。
義広は黒川城を捨て実家の常陸に戻っていった。
伊達政宗が黒川城を手に入れ、ここを居城とした。
(ちなみに政宗は、黒川城で実母・毒を盛られ!! さらに弟・小次郎を自らの手で斬ることとなる)
(もうひとつ、蘆名義広はのちに佐竹家が関ヶ原の戦役後に秋田に移封となると、現在の角館一帯を治めることとなる。角館の街並みのルーツになった人物である)
伊達政宗は奥州に覇を唱えることに成功したが、秀吉は関東に大軍を送り天下統一を間近にしていた。
政宗はあっさり秀吉に降伏、秀吉の奥州仕置により会津を没収されてしまう。

次に黒川城の主となったのは、蒲生氏郷(がもううじさと)であった。
秀吉が恐れるほどの才略をもっていた氏郷は、奥州の伊達と関東の徳川家康の抑えを期待され、これに見事に応えた。
氏郷は城下の整備にも着手し、町の名を「若松」に改めた。
「若松」の名は、氏郷の故郷である近江国日野の地名に由来する。
また黒川城を改築し7層の天守を建造、城の名も「鶴ヶ城」と改めた。
「鶴ヶ城」は、氏郷の幼名・鶴千代に由来する。
蒲生氏郷は、現在の会津若松の基礎をなした人物として敬われている。

だが、蒲生氏郷は40歳の若さで亡くなってしまう。
氏郷の辞世の句は秀逸!!
氏郷の子・秀行が継ぐが、度量は父に劣るとされたため、宇都宮に移封されてしまう。
その石高、90万石から16万石の大減封!!

蒲生秀行の後を継いで会津の主となったのは、越後の上杉景勝であった。
上杉景勝は関ヶ原の戦役で西軍についたため、会津領を没収された。
会津は再び蒲生秀行の所領となった。

蒲生秀行の死後、蒲生家の家中はお家騒動を起こしたため、再び所領を没収されてしまった。
伊予松山から加藤嘉明(よしあきら)が新たな城主となった。

加藤嘉明の孫にあたる明成も、鶴ヶ城の改修に着手している。
北出丸が築かれたのは、明成のころである。
また、蒲生時代の7層の天守が地震により破損したため、新たに5層の天守を建てた。
現在の復興天守は、加藤時代の天守をモデルとする。

加藤明成が亡くなると、加藤家は後継ぎが絶えてしまい所領没収となった。
その後には、老中として初期の幕政を支えた保科(ほしな)正之が城主となる。
保科正之は、恐妻家の2代将軍・徳川秀忠の隠し子であったため、保科家に養子に出されていた。
正之は保科家に恩義を感じ、資格があるにもかかわらず松平姓を名乗らなかったという。
正之の子の代から松平を名乗り、幕末に会津戦争を戦う松平容保(かたもり)まで続くこととなる。


↑長い!!
文章をまとめる能力のなさがでていますなぁ(^_^;)
政宗なんて1年も城主務めていないのにやたら文章が長いですが、政宗公が好きなんで仕方がないですね。

この回は蒲生氏郷の辞世の句で締めましょう。

限りあれば 吹かねど花は 散るものの
心短き 春の山風


(花のいのちは元より限りあるもので、風がなくても散っていくものだ。
なのにどうして春の山風は、短気に花を散らしていくのだろう・・・)