会津若松城の登城は、北からスタート。
北の守りを固める北出丸。
このあたりの石垣は300年以上前のものという。
北出丸大手門跡から入る。
石垣がクランク状に組まれていて、先が見通せない構造となっている。
北出丸に侵入した敵兵を、三方から攻めることができ、「
北出丸から本丸へと通ずる太鼓門跡。
往時は多聞櫓という城門と一体となった形式の櫓が建てられていて、大きな太鼓が備わっていた。
太鼓門は本丸へと通ずる大手門(表玄関)でもあったので、石垣に用いられる石がじつに巨大。
太鼓門の石垣には、本丸側にこのようなV字状の階段が備わっている。
これは武者走りといい、櫓への昇降がラクになる工夫だ。
階段の上の部分には石を積まなくてよいことから、石の節約にも一役買っている。
本丸に立っている案内看板。
会津若松城は、戦国時代から江戸時代初期までは、頻繁に主を変えた。
1.葦名氏 1384年~1589年
2.伊達氏 1589年~1590年
3.5.蒲生氏 1590年~1598年、1601年~1627年
4.上杉氏 1598年~1601年
6.加藤氏 1627年~1643年
7.8.保科氏・松平氏 1643年~1868年
会津若松城は、はじめ黒川城といった。
1384年、
蘆名家は、当主が盛氏のときに奥州を代表する勢力になるが、その後は当主の若死ににより動揺していく。
家中は、常陸の大名・佐竹義重の次男・義広を養子に迎え当主に迎えた。
米沢城主であった伊達政宗は、奥州に覇を唱えるべく蘆名の打倒を目指す。
このころ、豊臣秀吉は関白に叙任され、惣無事令(私戦禁止命令)を全国の大名に発布する。
政宗はこれを無視し戦いを続行、1589年
義広は黒川城を捨て実家の常陸に戻っていった。
伊達政宗が黒川城を手に入れ、ここを居城とした。
(ちなみに政宗は、黒川城で実母・義に毒を盛られ!! さらに弟・小次郎を自らの手で斬ることとなる)
(もうひとつ、蘆名義広はのちに佐竹家が関ヶ原の戦役後に秋田に移封となると、現在の角館一帯を治めることとなる。角館の街並みのルーツになった人物である)
伊達政宗は奥州に覇を唱えることに成功したが、秀吉は関東に大軍を送り天下統一を間近にしていた。
政宗はあっさり秀吉に降伏、秀吉の奥州仕置により会津を没収されてしまう。
次に黒川城の主となったのは、
秀吉が恐れるほどの才略をもっていた氏郷は、奥州の伊達と関東の徳川家康の抑えを期待され、これに見事に応えた。
氏郷は城下の整備にも着手し、町の名を「若松」に改めた。
「若松」の名は、氏郷の故郷である近江国日野の地名に由来する。
また黒川城を改築し7層の天守を建造、城の名も「鶴ヶ城」と改めた。
「鶴ヶ城」は、氏郷の幼名・鶴千代に由来する。
蒲生氏郷は、現在の会津若松の基礎をなした人物として敬われている。
だが、蒲生氏郷は40歳の若さで亡くなってしまう。
(氏郷の辞世の句は秀逸!!)
氏郷の子・秀行が継ぐが、度量は父に劣るとされたため、宇都宮に移封されてしまう。
その石高、90万石から16万石の大減封!!
蒲生秀行の後を継いで会津の主となったのは、越後の上杉景勝であった。
上杉景勝は関ヶ原の戦役で西軍についたため、会津領を没収された。
会津は再び蒲生秀行の所領となった。
蒲生秀行の死後、蒲生家の家中はお家騒動を起こしたため、再び所領を没収されてしまった。
伊予松山から加藤
加藤嘉明の孫にあたる明成も、鶴ヶ城の改修に着手している。
北出丸が築かれたのは、明成のころである。
また、蒲生時代の7層の天守が地震により破損したため、新たに5層の天守を建てた。
現在の復興天守は、加藤時代の天守をモデルとする。
加藤明成が亡くなると、加藤家は後継ぎが絶えてしまい所領没収となった。
その後には、老中として初期の幕政を支えた
保科正之は、恐妻家の2代将軍・徳川秀忠の隠し子であったため、保科家に養子に出されていた。
正之は保科家に恩義を感じ、資格があるにもかかわらず松平姓を名乗らなかったという。
正之の子の代から松平を名乗り、幕末に会津戦争を戦う松平
↑長い!!
文章をまとめる能力のなさがでていますなぁ(^_^;)
政宗なんて1年も城主務めていないのにやたら文章が長いですが、政宗公が好きなんで仕方がないですね。
この回は蒲生氏郷の辞世の句で締めましょう。
心短き 春の山風
(花のいのちは元より限りあるもので、風がなくても散っていくものだ。
なのにどうして春の山風は、短気に花を散らしていくのだろう・・・)
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