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鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

弘道館昇殿

2014-04-03 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 4 年 3 月 2 9 日 ( 土 )

午 前 1 0 時 0 6 分

水 戸 市 三 の 丸

国 指 定 特 別 史 跡 ・ 弘 道 館





弘道館昇殿。正庁の玄関・・・・・・



ではなくその脇にある出入口で靴を脱ぎます。



まずは正庁【国指定重要文化財】から。



この部屋は諸役会所といい、おもに来客者の控えの間として用いられました。

玄関から見えた力強い「尊攘」の書。
徳川斉昭が水戸藩の藩医・松延年に書かせた安政3年(1856年)の作ですが、ものすごいインパクトです。
斉昭自身もかなり豪快な筆づかいの書を遺していますが、この書はそれをも凌駕する、光圀から起こる水戸学が積み重ねてきたエネルギーが込められているかのようです。


館内の釘隠しは三つ葉葵の御紋が施されています。



そして軒先からも梅を愉しむことができます。



武芸の試験場であった対試場も、前庭にあります。




正庁の最奥にある正席の間です。
この日は老年層を中心に観光客が多い日だったので、じいさまがそのまま写っています。



24畳敷きの部屋で、藩主や重臣が臨席して文武の試験を行い、諸般の儀式を挙げたところです。
外の対試場は至近にあり、藩主らはこの部屋から観覧したそうです。

この部屋の掛け軸は、弘道館の建学の精神「弘道館記」の拓本です。
「弘道館記」は藤田東湖が考案し、徳川斉昭が作成したもので、漢文で書かれています。
これを石碑に刻み、その拓を掛け軸にしたものです。



弘道とは何ぞ。人能く道を(ひろ)むるなり。
(「弘道」とはいかなる意味だろうか。それは人が「道」を広め、人が「道」をもとに生きることができるという意味である)
道とは何ぞ。天地の大経にして、生民の須臾(しゅゆ)も離るべからざる者なり。
(では「道」とはいかなる意味だろうか。それは自然界の大きな秩序を立てているものであり、生きている人間がしばらくもそれを離れてはならないものである)

このような問答形式で「道」が天孫降臨以来どのように変遷してきたかを述べ、建学の精神を記しています。
そしてところどころに不自然な改行があったり、不自然な空白があったり、行頭がそろっていなかったりします。
行頭の飛び出している部分の文字は「皇」「神」「王」などで、「東照宮(家康を表す)」にも不自然な改行、「義公(光圀)」「威公(初代藩主・頼房)」「国家」「祖宗」などに不自然な空白があります。
このような記述をすることで、皇室や偉大な先祖に敬意を表しているそうです。

予習はしてきているのですが、やはり弘道館は難しい(?_?)



次は離れの至善堂【国指定重要文化財】です。
正庁が藩士の勉学、試験の間であるのに対し、至善堂は藩主一家の勉学の間でした。
藩主の子息は、二の間・三の間・四の間で勉学に励み、その中には最後の将軍となった徳川慶喜もいました。



そして最奥の御座の間は、藩主の休息の間として用いられていました。
のち戊辰戦争で朝敵とされた徳川慶喜は、この部屋で恭順の意を表して謹慎していました。

右上に「至善堂」の扁額が懸っています。
そして左の掛け軸は要石歌碑の拓本です。



行末毛 富美奈太賀幣曽 蜻島 大和乃道存 要那里家
(ゆくすえも ふみなたがえそ あきつしま やまとのみちぞ かなめなりける)

太古の昔から我が国に伝わる大和の道はいつまでも変わらない大いなる道であるから、これを固く信じ迷い惑わされることなく、信念をもって正しく歩むように、という教えを記した徳川斉昭の和歌で、歌碑には万葉仮名で刻まれています。
斉昭の文字は豪快ですねぇ。





中庭の梅は終わっていましたが、花はなくても十分素晴らしい!



弘道館内の資料展示館を拝見して外に出ました。

ううぅ、やはり弘道館は難しい(?_?)
水戸学をまとめるのも難しいよ(?_?)
いや、こんなぼやきブログごときが水戸学とか高尚な学問を扱うべきじゃないんだよ、きっと。
うんうん、このブログはあくまで旅日記ですからねぇ。

時間があったらまとめますわ。








遅咲きの梅が盛りを迎えていました。
梅は学問を表す花・・・・・・もう少し水戸学について学んでみようかな、と考えました。
しかし難しいなぁ。



◆参考文献
『弘道館』 http://www.koen.pref.ibaraki.jp/park/kodokan01.html
『弘道館記』 http://www.j-texts.com/kinsei/kodo2.html
『常盤神社』「烈公の名文」(安見隆雄氏) http://www.komonsan.jp/mitogaku/cat34/post_277.html




弘道館

2014-04-02 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 4 年 3 月 2 9 日 ( 土 )

午 前 9 時 5 6 分

水 戸 市 三 の 丸

国 指 定 特 別 史 跡 ・ 弘 道 館



水戸駅から、ふたたび水戸城旧三の丸へ。
水戸城の登城のため後回しにした弘道館に入ります。



なんとこの日は入場料が無料。
なんでも、弘道館の修復が完了したということで特別公開をしていました。
なんという嬉しい誤算でしょう。

弘道館の敷地内に入る前に、まずは弘道館正門【国指定重要文化財】です。



天保12年(1841年)に弘道館が創立されて当時のものが現在まで残っています。
普段は閉ざされたままで、藩主の来館や儀式を行うときにのみ開門しました。
通常の来館者は脇にある通用門(現在の入場門)から入りました。



「三つ葉葵」の御紋もしっかりあります。
そしてところどころにある穴は、水戸における戊辰戦争・弘道館の戦いによる弾痕です。


敷地内に入ると、梅が多く植わっています。



梅は「好文」とも呼ばれ、学問を象徴する花なのだとか。


この日は快晴で、梅の開花が見られる最後の休日と思われ、観光客が多いように思えます。
あとはやはり入場料無料のチカラなのでしょうか。



弘道館は、しっかり予習をして来なければタダの武家屋敷&梅林に過ぎません。
弘道館創立に係る経緯、歴史上の意義がわかっていてこそ訪れる価値があるのではないかと思うのです。
この後訪れる偕楽園もそうですが、水戸の観光地は学習してきた観光客のみを受け入れる、客を選ぶ観光地ともいえるのではないでしょうか。
それゆえに水戸の魅力が理解されないのであって、それは水戸が悪いのではなく、観光客の学習が足りないだけではないのでしょうか。

かくいう私も、弘道館の歴史については多少かじってきましたが、現況についてはあまり調べてきませんでした。
水戸を訪れた日がもう少し早かったら、弘道館は工事中で入れなかったのです。

事前の確認は欠かせませんね(^_^;)



では弘道館を眺めていきましょうか。



弘道館正庁【国指定重要文化財】と、その右側は資料展示室になっています。
観光客の出入口は、2棟をつなぐ廊下の部分になります。





正庁玄関です。
身分の高い武家屋敷に用いられる舞良戸が左右にあります。



その舞良戸にも、弘道館の戦いの弾痕が残っています。



「弘道館」の扁額も注意してみないと読みにくいです。

正庁玄関前には2本の木が植わっています。



ひとつは徳川斉昭公御手植の黒松・・・の3代目のマツ。



もうひとつは左近桜で、こちらは2代目。
徳川斉昭の夫人登美宮が水戸徳川家に降嫁されるにあたり、仁孝天皇が鉢植えの桜を下賜され、それを弘道館に植えたのだといいます。
長い年月を経て初代の桜は枯れてしまいましたが、昭和38年の弘道館修復工事が完了したのを記念して、もとの桜の子孫にあたる苗を宮内庁から譲られ、これを植えたそうです。



弘道館正庁を眺めます。



南側に回りました。



正庁の南面には「游於藝」の扁額があります。
儒教の四書『論語』の一節「志於道 拠於徳 依於仁 游於芸(道を志し、徳を拠り、仁に依りて、芸に遊ぶべし)」から取ったものです。
この「藝(芸)」とは教養という意味で、学問、作法、武芸なども含まれました。

その言葉のとおり、弘道館は学問だけでなく武芸も重要とされ「文武両道」を目指す藩校でした。



「游於藝」の扁額のあたりには武芸の鍛錬の場であった対試場がありました。
武芸の試験が行われ、藩主もその様子を見ていたのだとか。


近くにあった「烈公梅」の名木。





梅もそろそろ終わりですねぇ。



弘道館の外観を見たのちは、玄関脇の入口から靴を脱いで中に入ります。



◆参考文献
『弘道館』 http://www.koen.pref.ibaraki.jp/park/kodokan01.html
『心の免疫力~書とことばから』「游於藝(芸に遊ぶ)」(沙於里 様) http://blog.goo.ne.jp/a1019/e/bd01df253588f460541845be5e8f8b92




学校の中へ!水戸城本丸

2014-04-01 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 4 年 3 月 2 9 日 ( 土 )

午 前 9 時 2 9 分

水 戸 市 立 第 二 中 学 校 前



水戸城の跡地に設置されている三の丸小学校、茨城大学付属小学校、第二中学校、水戸第三高等学校
小学校はともかく、中学と高校では部活動を絶賛開催中
水戸城跡通りに沿って敷設されているテニスコートでは、女子が独特の掛け声をあげながらソフトテニスをしています。

・・・・・・これは立ち止まったら変質者扱いされるぞ。

そういったある種の緊張感を前に、私は本丸をつなぐ本城橋までたどり着きました。



橋の下は、もともとはひとつの台地であったものを、本丸・二の丸を分けるために掘った切通しです。



現在はJR水郡線が通っています。



それにしても深くて大きい空堀です。


そして橋を渡った先は、



思いっきり水戸一高(茨城県立水戸第一高等学校)の敷地内です!!
橋の前の看板に「水戸一高関係者と史跡見学者以外の通行はご遠慮ください」とありました。
しかしながら、この水戸一高の敷地全体が水戸城の本丸にあたるのです。

意を決して校門を通過し、水戸一高の敷地内に突入!



校門から少し進んだところに建っている橋詰門(薬医門)【茨城県指定文化財】です。



もともとは本城橋のたもと、現在の一高の校門付近に建っていました。
一時水戸市内の寺院に移築されていましたが、再び水戸城本丸の現在地に移されたそうです。


水戸城の築城は古く、馬場資幹すけもとにより1190年代に築かれたといいます。
以後、馬場氏の居城となり、佐竹氏が入城するまでは「馬場城」とも呼ばれていました。

応永23年(1416年)から続いた室町時代の上杉禅秀の乱で、足利幕府方の江戸通房みちふさが馬場城を奪い、以降江戸氏が7代、約170年間城主となりました。

天正18年(1590年)豊臣秀吉小田原攻めで、城主の江戸重通は北条氏側に加担し、太田城(常陸太田市)の佐竹義重・義宣父子は秀吉軍に参陣しました。
これにより佐竹氏は秀吉より常陸一国54万石を与えられ、義重・義宣は江戸氏の籠城する馬場城を攻め、文禄3年(1594年)に重通を追放しました。

義宣はそれまでの居城であった太田城から拠点を移し、城を大改修し、城名もそれまでの馬場城から水戸城に改めました。
ところが義宣は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで、東西どちらにつくか態度をあいまいにしたため、慶長7年(1602年)には徳川家康によって水戸から出羽国秋田に転居させられました。

家康は、水戸を奥州の抑えの地として五男の武田信吉を、翌年信吉が死ぬと十男の徳川頼宣を入城させました。
慶長14年(1609年)頼宣を駿府に移し、末子で十一男の徳川頼房が入城して以降は、廃城まで水戸徳川家の居城となりました。

幕末には水戸藩の藩論が分かれ、改革派の天狗党と保守派の諸生党の対立が起きます。
この対立は明治維新まで続き、明治元年(1868年)には水戸城下で戦闘が行われ、弘道館に立て籠もる諸生党を天狗党が攻撃するなど(弘道館戦争)、血で血を洗う内部抗争に終始してしまいました。
この際に城内の多くの建物が焼失しています。



そして現存する唯一の遺構が薬医門です。
この門をもっとじっくり見ていたかったのですが・・・・・・薬医門の近くにはまたもテニスコート&部活動絶賛開催中ではないか!!

・・・・・・テニス部の視線がこっちに来る前に帰ろう。


水戸城跡通りをこのまま進んで、国道51号に合流。



水戸二中からのルートはこんなもんです。




水戸城の登城はひとまずここまで。




学校だらけの水戸城二の丸

2014-03-31 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 4 年 3 月 2 9 日 ( 土 )

午 前 9 時 1 1 分

水 戸 市 三 の 丸

弘 道 館 前



弘道館前で三の丸歴史ロードを曲がり、水戸城跡通りに入ります。
すぐ先に橋がかかっています。



この橋は大手橋で、三の丸と二の丸をつないでいます。



大手橋の下は深い空堀でしたが、現在はその堀を利用して県道が通っています。


大手橋の先には、かつて大手門がありました。

 (案内板の古写真より)

二階造りの大手門は、徳川氏の前の領主であった佐竹義宣(よしのぶ)が慶長元年(1601年)に建てたもので、徳川氏の代になってもそのまま用いられました。
楼上には太鼓や鐘が据えられ、時などを知らせたといいます。
水戸における戊辰戦役である弘道館戦争では、この大手門で銃撃戦があったそうです。
明治元年(1868年)に取り壊されました。



現在の大手門跡です。
スクールゾーンの交通標識が立っていますが、これが水戸城の恐ろしさを教える標識だとはこのとき気づいていません。

 

大手門跡に立っているのは徳川頼房(よりふさ)公像です。
徳川頼房徳川家康の十一男で、水戸徳川家の初代にあたり、光圀の父です。





大手門跡の両側には、当時の土塁が残っています。


大手門跡から進んでいくと、水戸市立第二中学校です。



校門の傍らに立つのは、「大日本史編纂之地」の碑です。



かつてここには彰考館(水戸彰考館)があり、徳川光圀以来の水戸藩の一大事業である大日本史の編纂が行われていました。
大日本史の編纂事業は光圀の代では終わらず、その完成はなんと明治36年(1906年)までかかりました。



水戸城跡には至るところにこのような案内があります。
水戸彰考館跡の案内の向こうにあるのは、水戸城跡二の丸展示館です。



大日本史のレプリカがあったり、



水戸城の縄張りがわかりやすく説明されています。
この図は左側が二の丸、空堀に隔てられた右側が本丸ですね。

この二の丸展示館、じつは水戸二中の施設のひとつです。
展示館の壁1枚隔てた向こうは二中の弓道場で、この日も弓道部の練習が行われていました。

展示館のそばにも1体の銅像があります。

 

国民的時代劇『水戸黄門』の「格さん」のモデルとされる安積澹泊(あさかたんぱく)です。
安積澹泊は、大日本史の編纂にあたっていた水戸藩士で、「助さん」のモデルである佐々宗淳(さっさむねきよ)とともに彰考館の総裁を務めていました。


水戸城跡通りを歩いていきますと、あたりから女子の黄色い声が聞こえてきます。
二中の女子ソフトテニス部でしょうか、なんだかわけのわからない、ある種の呪文とでもいいましょうか、へんてこりんな掛け声が絶え間なく飛び交います。
そのとなりのテニスコートは水戸三高(茨城県立水戸第三高校)のソフトテニス部が練習していて、やはり女声の呪文が飛び交っています。
奥の方では男子が練習していましたが、こちらはだまって球を弾き返します。
なんなんでしょ、あれは????

30男がひとりで学校地帯を徘徊していたら、いつ変質者に間違えられるかと思うとヒヤヒヤものです。
こっちはただただ城めぐりをしているだけなのに・・・・・・。

これが、水戸城の恐ろしさ
水戸城を訪れるのは、学徒が学校にいない日曜日が無難でしょう。


さてさて、水戸城跡通りの右側に水戸三高が現れたあたりに建っていたのが、三階櫓です。

 (案内板の古写真より)

二の丸に三階建ての物見を建てたのが始まりで、明和元年(1764年)の火災で全焼した後に、天守の役割をもつ櫓が建てられました。
(江戸城の天守が再建されなかったので、それに遠慮して「天守」ではなく「三階櫓」と呼ばれたといいます)
多くの城が取り壊された明治時代を乗り切ったのですが、残念ながら昭和20年の戦災で焼失してしまいました。



通りの左側には水戸城跡の大シイ2株【水戸市指定天然記念物】が生い茂っています。
戦国時代から自生していると伝えられ、樹齢は400年を超えるとされています。
このシイはスダシイという種類で、茨城県のあたりが日本列島の北限なのだそうです。



この大シイのところから「二中見晴らし台」というところに行けます。
思いっきり水戸二中の敷地内で、近くで野球部の男子が練習していました。
天覧記念碑もあり、観光客も自由に出入りできます。



見晴らし台からは、水戸城の守りの要であっただろう那珂川が悠然と流れていました。


今回のルートはこうなっています。




大して移動してませんが、水戸城の散策は続きます。




再登城・水戸城三の丸

2014-03-31 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 4 年 3 月 2 9 日 ( 土 )

午 前 8 時 5 3 分

J R 水 戸 駅 北 口



9時前に水戸駅に到着。



黄門様ほどの健脚を持っていない私としては、歩く元気があるうちに、まずは城めぐりをしておきたいところ。

水戸駅の北口から徒歩10分程度で、水戸城の城跡にたどりつきます。
水戸城のあったところは、現在「三の丸」という地名になっています。

水戸駅から国道50号・黄門さん通りを歩くと、右手側に大きなイチョウの木があります。
ここを曲がると銀杏坂を上り、三の丸歴史ロードに入ります。




私はなぜか銀杏坂に入らず、国道118号へと遠回りをしてしまいました。


三の丸歴史ロードのあたりは、旧水戸城の三の丸にあたります。まぁ、そのまんまかな。
三の丸には、水戸藩の藩校であった弘道館が建ち、現在も残っています。



水戸城の跡地は、現在はおもに学校などの教育機関が建っています。
三の丸に建つのは水戸市立三の丸小学校
校門は冠木(かぶき)門があしらわれています。



校内外を分けるのは、フェンスではなく白塗りの城壁です。


三の丸小学校の次に現れるのは、弘道館【国指定特別史跡】です。



弘道館の正門【国指定重要文化財】は、水戸を襲った弘道館戦争や第二次大戦などの戦災を免れ、建造当時のものが残っています。

なお、100名城スタンプは弘道館の料金所でもらうことができます。



前回の登城は2012年の2月か・・・・・・2年ぶりの水戸城。


弘道館の前の交差点からは、水戸城跡通りが分かれています。



その交差点の近くに、弘道館を建てた徳川斉昭公(烈公)の像が立っていました。

 

像自体の大きさはだいたい50センチ強といった、人形のようなものです。


徳川斉昭は、水戸藩の第9代藩主で江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の実父です。

藩政では藩校・弘道館を設立し、家柄にとらわれず広く人材を登用することに努めました。
こうして、戸田忠太夫、藤田東湖、安島帯刀(たてわき)、会沢正志斎、武田耕雲斎などの藩士が集まり、藩政改革を推進していきました。
また偕楽園を造園し、民衆に開放しています。

しかし、弘化元年(1844年)に改革の行き過ぎをとがめられ、幕命により家督を嫡男の徳川慶篤に譲った上で強制隠居と謹慎処分を命じられてしまいました。
その後守旧派の巻き返しがありましたが、斉昭を支持する藩士の復権運動などもあって、弘化3年(1846年)に謹慎を解かれました。

嘉永6年(1853年)6月のペリーの浦賀来航に際して、老中・阿部正弘の要請により海防参与として幕政に関わり、水戸学の立場から斉昭は強硬な攘夷論を主張しました。
安政2年(1855年)に軍制改革参与に任じられますが、安政の大地震で藤田東湖や戸田忠太夫らのブレーン失いました。

斉昭は開国論に対して反対する姿勢を貫き、開国を推進する井伊直弼と対立します。
さらに第13代将軍・徳川家定の将軍後継では、徳川慶福(よしとみ)を推す井伊直弼に対して、息子である一橋慶喜を推して、直弼と争います。
しかしこの政争で斉昭は敗れ、安政5年(1858年)に直弼が大老となって日米修好通商条約を独断で調印してしまい、さらに将軍職も慶福(家茂)を第14代将軍としてしまいます。

このため、安政5年(1858年)6月に将軍後継問題及び条約調印をめぐり、越前藩主・松平慶永らと江戸城無断登城の上で井伊直弼を詰問したため、逆に直弼から7月に江戸の水戸屋敷での謹慎を命じられ、幕府中枢から排除されてしまいました。
安政6年(1859年)には、孝明天皇による戊午の密勅が水戸藩に下されたことに井伊直弼が激怒、水戸での永蟄居を命じられることになり、政治の世界から退くこととなりました(安政の大獄)。

万延元年(1860年)8月15日、蟄居処分が解けないまま心筋梗塞により水戸で急逝しました。享年61(満60歳没)。



斉昭像の先には・・・



彼を支えたブレーンが輩出した弘道館が建っています。




皇居外苑

2014-02-09 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 4 年 元 日

午 前 1 1 時 3 3 分

東 京 都 千 代 田 区

桜 田 門





皇居ランナーの出発地でもある桜田門【国指定重要文化財】に到達した私とママチャリ「飛電」は、このあたりで休憩をとった。



皇居外苑にある楠公レストハウスで一時の休憩をとったあとは、鎮座する楠公像(楠正成像)を拝見する。





楠木正成(楠正成)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将で、鎌倉幕府からは悪党と呼ばれる大阪河内の豪族であった。
後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒の挙兵に応じ、鎌倉幕府の大軍を千早城で迎え撃ち、ゲリラ戦法や糞尿攻撃(!!)で撃退。足利高氏(尊氏)らとともに鎌倉幕府打倒の立役者となった。
だが、後醍醐天皇の指導する建武の新政は破たんを迎え、足利尊氏が離反する。鎮守府将軍・北畠顕家(あきいえ)らとともにいったんは尊氏を破るも、勢力を盛り返し九州から西上する尊氏の大軍と戦うこととなる。
正成は尊氏の実力を認め、これと和睦すべきと進言するが拒否される。絶対的な劣勢のもと、嫡子・正行と今生の別れをしたうえで(桜井の別れ)、兵庫の湊川で尊氏軍と戦い、自刃した。
その事績は「忠臣の鑑」とされ、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。





皇室を護るという意味合いから、楠公像は甲冑に身をまとい皇居にはせ参じる騎馬像となっており、像の正面から見て顔が反対側を向いているという珍しいつくりになっている。



臣の祖先友信伊豫(いよ)別子(べっし)山に銅坑を開きてより、子孫業二百季を継ぐ。
(臣の祖先である友信が伊予国の別子山に銅坑を開いてより、子孫が200年にわたり事業を継いでまいりました)

亡き兄友忠深く国恩を感ぢ、その銅を用ゐ楠公正成像を鋳造しこれを闕下に献ぜんと欲すれども、家允いまだ果たさず。
(臣の亡き兄である友忠は国恩に深く感じ入り、別子の銅を用いて楠正成公の銅像を鋳造し、天皇陛下の御前に献上しようと望んだのですが、志半ばで没し後継ぎもこれを果たせないでおりました)

臣その志を継ぎ、(わづ)かに工事し、竣工するに及び、謹みて献ず。
(そこで臣がその遺志を継ぎ、わずかに手を加えて竣工の運びとなりまして、ここに謹んで献上いたす次第です)

明治三十年一月  従五位 臣 住友吉左衛門 謹みて記す


碑文にあるとおり、楠公像は住友財閥第13代当主・住友友忠の発案により鋳造が始まり、第15代当主・友純(ともいと)のときに完成し、皇居に献上された。
なお「吉左衛門」は、住友家当主が代々襲名する名である。(片倉小十郎の「小十郎」と同じ)
このとき製作を担当したのは、楠公の像が東京美術学校(現東京芸術大学)教授であった高村光雲、馬の像が後藤貞行である。










楠公の銅像はどの角度で見てもすばらしいですなぁ。



さて私と「飛電」は、皇居外苑のお濠に沿って歩みを進める。



祝田橋から国道1号に沿って進む。

 (画像の左隅が祝田橋)

祝田橋は、皇居外苑を縦断する「凱旋道路」(現在の都道301号)を通すにあたり造成された土橋で、もともとは桜田門からの水濠が続いていた。
日露戦争の勝利を記念して道路が造成され、もとの水濠は二分された。
桜田門から祝田橋までの水濠は凱旋濠と呼ばれるようになる。

そして日比谷濠は、祝田橋から日比谷通りに沿ったところをいう。
楠公像のあるあたりは、日比谷濠の向こう側になる。





日比谷濠の石垣はまっすぐな区画ではなく、ところどころに凹凸が仕組まれる横矢懸りの構造となっている。





日比谷濠の終着となるところに存在した馬場先門
この門内にはかつて馬場があったので、馬場先門と呼ばれるようになった。
この門も大手門や桜田門と同様に枡形門の構造であったが、日露戦争勝利の提灯行列がこの門にはばまれて大勢の死傷者を出したため、明治39年(1906年)に撤去された。

馬場先門から北側は馬場先濠となる。


日比谷通りと行幸(みゆき)通りとの交差点。
馬場先濠はここで尽き、この北側は和田倉濠となる。



行幸通りは、皇居正門と東京駅を結んでいる。
通りの中央は普段歩行者天国となっているが、行幸や外国大使の信任状捧呈の際に車馬が通行するときのみ専用道となる。






和田倉濠にかかる橋の先にはかつて和田倉門があった。




お濠にたたずむ冬鳥たち。
だがこの白鳥はいつまでたっても北に帰らない。
夏には白鳥だけがお濠をぽつんと漂流している。



私はいつまでも皇居あたりで漂流しているわけにはいかない。
新年祝賀の儀は元日ではなく1月2日なので、いつまで待っても皇居に入ることはできない。

ということで、寄り道することなくそうそうに自宅に戻ることとした。




江戸城二の丸庭園

2013-12-02 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 3 年 6 月 2 0 日 ( 木 )

午 後 2 時 1 3 分

皇 居 東 御 苑 ( 江 戸 城 二 の 丸 )



江戸城、ラストは二の丸庭園を歩く。











二の丸庭園は、9代将軍・徳川家重の時代の庭絵図面をもとに復元された。









庭園の菖蒲は、明治神宮から株分けされたものらしい。





庭園を望む諏訪の茶屋は、明治時代に吹上御所に建てられ、のちに移築したものである。









ラストは、大手門から外へ出た。



江戸城の登城はひとまず完了。



日本100名城登城の旅・第5段「皇居ウォーカー」 完

江戸城本丸

2013-12-02 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 3 年 6 月 2 0 日 ( 木 )

午 後 1 時 3 2 分

皇 居 北 桔 橋 門



北の丸公園(江戸城北の丸)を経て、皇居東御苑(江戸城本丸)まで歩いてきた。





本丸と北の丸を隔てる桔橋(はねばし)





毎度のことながら、石垣のまぁ高いこと高いこと。
すぐ先が将軍の御座所であるから、厳重な防御となっているのだろう。



北桔橋門の西側は(いぬい)



東側は平川濠
石垣が濠側に出張っている横矢掛りの構造も見られる。
石垣のカドは扇の勾配と呼ばれる美しい曲線を描いている。

石積みは、加工石を基礎として、その隙間に小さい石を当てはめる打込接(うちこみはぎ)


門をくぐって本丸に入れば、天守台が眼前に現れる。





こちらは加工石で隙間を生じさせない石積みで、切込接(きりこみはぎ)という。

天守は、1657年の明暦の大火で焼失したのを最後に再建されることはなかった。
2020年の東京五輪にあわせて再建しようという話が持ち上がっているが、果たしてどうなるのだろうか。


天守台に上ってみた。



天守台から北の丸を眺める。
日本武道館の屋根と、足元に北桔橋門が見える。



天守台の東側には桃華楽堂が建つ。
香淳皇后昭和天皇の皇后)のご還暦をお祝いして建てられた音楽堂。



天守台の南には広大な御殿が建っており、芝生のあたりに大奥があったという。


大奥のあった芝生のゾーンから東にはずれると、ほどなくして本丸から二の丸を見下ろす展望台にたどり着く。



本丸と二の丸を隔てる白鳥濠
濠の先には、本丸へと続く汐見坂
汐見坂は天守台の東側、桃華楽堂のあたりに続くので、防衛の観点から急坂になっている。



二の丸の白鳥濠付近から、さきほどの展望台を見上げる。


二の丸の散策は次回で。



日本100名城登城の旅・第5段「皇居 ランナー ウォーカー」 最終話へ続く。

蛇!!北の丸公園

2013-12-01 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 3 年 6 月 2 0 日 ( 木 )

午 後 1 2 時 2 9 分

日 本 武 道 館 前



江戸城北の丸、現在の北の丸公園にて。



靴下を脱ぎ、足のほてりを覚ます日本武道館前。





いつまでも休んでいるわけにもいかないので、歩く。
武道館の近くに休憩所があった。



休憩。

ここではランチをとるつもりで入ったのだ。
決してまた足が痛くなったというわけではない。
スペランカーじゃないんだ、私は。



ここには100名城スタンプが設置されている。
江戸城のスタンプはほかの休憩所にもあるのだが、そのひとつ。

ランチをとるつもりであったが、財布の内情がまったく改善されていなかったので、ソフトクリームのみ食べた。


小雨が降っていたが、そのまま北の丸散策へ歩みを進める。













園庭を回り、都会の真ん中に萌える緑を味わっていたが・・・



ロープが・・・動く?

黒いロープ状のもの(画像中央の波線)は、そそくさと茂みに潜っていった。

これはあきらかにアオダイショウである。
こんな都心に蛇がいるなんて・・・
しかもアオダイショウ、ヤツは毒はないものの、よく噛みつく蛇、だったような。

蛇が大っ嫌いな私は、道を変えることにした。


北の丸公園内に寂しく立っている銅像。



画像からは誰だかわからないと思われるが、吉田茂の銅像である。

なぜ遠い位置から撮影しているかといえば、やはり公園の芝生に入るのってあまりよくないかな~と遠慮したわけで・・・。

蛇が怖いから芝生に入りたくないわけではないので、読者の皆様には勘違いなさらぬよう・・・。


吉田茂像は、北の丸公園の東側に位置するが、もう少し進むと、東側を固める清水門【国指定重要文化財】にたどり着く。
江戸城では個人的に好きな門だったりする。


修復工事中の清水門から、いったん北の丸を出た。



清水門からのタマネギ。



見事な石垣は打込接(うちこみはぎ)という積み方であろう。
自然石の型を調整して積んでいき、生じる隙間に小型の石で穴埋めするものだ。



そしてもう一度北の丸に入る。





門内はなかなかの急坂で、きざはしは1段1段が高い。



清水門の内部から外を見るとかなりの高低差である。
非常時にはここから弓矢鉄砲を射かけることとなったのだろう。

現在となっては裏門のような位置になってしまい、桜田門、大手門、田安門に比べると目立たない存在の清水門であるが、防衛の工夫が随所に見られ、その魅力は他の門にまったく劣らないことがおわかりであろう。


清水門の近くには、公園内にある科学技術館などの博物館があるが、もちろん素通りして、江戸城の本丸へと歩いていった。



正面にメチャメチャ高い石垣が見え始めたら、北の丸公園の出口。





来るたびにエクスタシーを覚える桔橋(はねばし)から、いよいよ本丸へ突入!



日本100名城登城の旅・第5段「皇居 ランナー ウォーカー」 第12話へ続く。

足が痛む靖国通り

2013-12-01 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 3 年 6 月 2 0 日 ( 木 )

午 後 1 2 時 1 0 分

靖 国 通 り



雨が降ったり止んだりの水無月の平日。
時刻は正午を回り、ランチを求める者たちが通りを闊歩する。

靖国参拝を終えた私は、江戸城の本丸を目指し、ただただ歩く。

たいして歩いていないにもかかわらず、足がやたらと痛む。
足底がなんだか熱い。
これは運動不足なのか、痛風なのか・・・?





靖国通りをお濠沿いに歩く。



北の丸を隔てるのは、桜の名所として名高い千鳥ヶ淵

散った花弁がお濠にただよい、彩りを増す光景はなかなか素晴らしい。
ここの隠れたポイントは、靖国通り沿いにある公衆トイレの裏(経験談)。


靖国通り沿いのトイレの近くに、2つの著名な銅像が立つ。



大山巌陸軍大将騎馬像

大山巌は薩摩出身で、西郷隆盛のいとこにあたる。

明治期の陸軍大将を務め、西南戦争では総大将として西郷隆盛を討った。
大山はこのことを終生気に病み、生涯鹿児島に帰ることはなかったという。

日清戦争日露戦争では満州方面の総司令官を務め、帝国軍の勝利に多大な貢献をした。
同郷の東郷平八郎と並び「陸の大山、海の東郷」と賞された。

明治期から大正まで陸軍大臣を務め、元老に列せられたが、政治的野心に乏しく、総理大臣に推挙されることを避け続けたという。

大正5年(1916年)死去。
臨終の際には山縣有朋寺内正毅らの多くの元老に看取られた。





少し先に歩くと、歩道橋のたもとに子爵品川彌二郎銅像

品川彌二郎というと、日本史の授業では「内務大臣として露骨な干渉選挙をやった人物」としか習わない。
なんで銅像になっているんだろうと疑問に感じる人物であるが・・・

品川は長州出身で、松下村塾で吉田松陰に学び、高杉晋作とともに尊攘運動に邁進し、桂小五郎とともに薩長同盟の成立に尽力したのだ。

ただ目立たないだけである。
松陰も「抜きん出る能力はないが、心は広く奥深い」と評していた。

選挙干渉(第2回衆議院議員選挙)の件については、品川や松方正義首相が府知事や県令に対し、政府系候補に有利になるよう内諭をしたのは間違いないらしい。
しかし警察を動員するよう命令した史料はなく、むしろ府知事などから警察を使う意見が出ていたという。

この件で選挙敗北の責任を負って辞任。

その後は西郷従道(隆盛の弟)と国民協会という政党を結成し、獨協学園の設立に関わり、信用組合制度の普及にも努めた。



品川子爵像のすぐ近くに、珍妙なモニュメント?



これは高灯籠だそうで、江戸時代の九段坂上から煌々と灯りを照らしていたのだという。

高灯籠を過ぎれば、ようやく千鳥ヶ淵は終わり、田安門【国指定重要文化財】が現れる。





人によっては、「日本武道館への通り道」というイメージがあるだろうか。
しかしれっきとした文化財である。
北の丸公園は宮内庁の管轄外であるので、遺構は通常通り文化財指定されている。





田安門は当時修復中であった。


曇天に光るタマネギ。





日本武道館に来たあたりで、足の痛みが限界・・・。
私はこんなに体が弱かったか??

仕方ないので、武道館の向かいに立つ大銀杏の下で休憩。
靴下を脱ぐとまぁ気持ちのいいこと。
足先がやたら熱を帯びるのは、たぶんいいことではないのだろうが、とりあえず足の熱が冷めるのを待つことにした。



日本100名城登城の旅・第5段「皇居 ランナー ウォーカー」 第11話へ続く。