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鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

岡山城~黒き烏の天守

2015-10-02 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 3 月 2 0 日 ( 金 )

午 前 9 時 5 7 分

岡 山 市 北 区

岡 山 駅 前 郵 便 局





岡山駅前郵便局で重要な用事を済ませた私。





桃太郎像がたたずむ岡山駅南口東口から、登城の旅をスタートします。



岡山で借りた青い名馬にまたがり、岡山城へ急行します。




駅前から続く大通りを、路面電車とともに進んでいきます。
岡山駅から自転車でだいたい10分ほどで、岡山城本丸に到着しました。

旭川のほとりにたたずむ岡山城。


対岸には日本三名園のひとつ後楽園があり、



旭川にかかる月見橋という橋で行き来できます。
月見橋付近にある砂利の広場が駐輪場になっているようで、ここに青き名馬を停めて、岡山城へ。


戦国時代、岡山周辺を支配していた金光宗高を、1573年(天正元年)に宇喜多直家が暗殺して勢力を拡大したところから、岡山城の歴史は始まります。
直家は備前の戦国大名浦上宗景の支配下にあった「暗殺のプロ」ともいうべき謀略家でした。
ついには宗景に反旗を翻して勝利、追放し、備前一国を支配する大名にのし上がりました。

そんな折、近畿からは織田信長が中国地方にまで勢力拡大を図ると、直家は中国攻略の総大将・羽柴秀吉に降伏し、その勢力を保つことに成功。
ですが直家は病に倒れ、嫡子秀家の行く末を秀吉に託し、世を去ります。
このとき直家は、自らの妻を秀吉の側室に出したため、秀家は秀吉の一門と同様の扱いを受けました。

その秀家は成長して備前57万4千石の大名となり、直家以来の居城が手狭になったため、あらたな城を築くことを計画します。
天正18年(1590年)から築城が始まりました。
途中の朝鮮出兵で秀家は総大将になったため中断しますが、帰国後に再開し、慶長2年(1597年)ここに岡山城が建ったのでした。

しかし秀吉死後の関ヶ原の戦いで西軍の首脳となった秀家は八丈島へ流されることとなり、代わって備前に入ったのは小早川秀秋です。
秀秋は岡山の城下の開発に精を出しましたが、2年で死去。
世継ぎがいなかったため家名は絶えてしまい、代わって池田家が入り、明治維新まで続きました。

明治に入ると城の建物は多く撤去され、また戦時には空襲のため天守などが戦災にあって焼失してしまいます。
天守は昭和41年に外観復元というかたちで再建され、現在に至っています。



それでは岡山城を登城しましょう。

まずは旭川の川べりの道から、廊下門をくぐります。



廊下門をくぐると、早くも岡山城の本丸です。
この門からのルートは城の搦め手(裏手)、岡山城最大の泣き所ともいうべきところです。
そのため宇喜多秀家は、旭川の流れを変更して、その弱点をカバーしました。

このあたりは、岡山城の御殿があった場所です。
廊下門は藩主の住居(本段)と政庁(表書院)を結ぶ廊下の役割を果たしていたため、この名が付いたといいます。



廊下門をくぐりました。
門と城壁に囲まれた白壁の通路もいい感じです。

この先は、表書院跡
岡山藩の政庁があったところです。

表書院跡の一画になにやら窪地が。

 

宇喜多秀家の頃の石垣が展示されています。
こんな石の塊の、そのまた一部を見たところでなんの面白味もなさそうですが・・・
案内板によると、この石垣の隅にあたる部分は、2辺のなす角が70度。
このような、石垣の2辺がなす角が鋭角となっている石垣は、全国的に珍しいそうです。

それにしても「なす角」「鋭角」なる表現は、数学以外ではとんと聞かないですね。



表書院跡からの天守と廊下門。
そこから後ろを振り向くと、

 

月見櫓【国指定重要文化財】です。
岡山城で歴史的価値のある建物はこちら。
1620年代に建てられたそうです。
城の北西を守る隅櫓で、城外(右の画像)は白漆喰で塗り固められ、防火も万全の堅固な造り。
しかし城内(左の画像)は、2階に雨戸付きの縁側が備えついていて、月見などの催しがあったそうです。



表書院跡と、天守側を隔てる不明門をくぐります。

不明門をくぐった先の広場は本段跡で、藩主が生活していたところです。



本段の勝手口、六十一雁木上門は、石段が61段あったためその名が付いたとか。



そしていよいよ天守【外観復元】が見えてきます。



「烏城」の異名をとる黒い天守は、当時、壁を黒漆で塗ったためであり、戦国時代末期のトレンドに沿ったものといいます。
フォルムはかなり個性的で、2階建ての建物を上中下の3層に重ねた構造です。
天守の礎である天守台は、かなり珍しい不等辺の5角形をしています。



天守に入ろうとすると・・・展示品入替のため入場料半額になっているではないか!
ということで、150円を支払って中に入ります。


天守入口にある100名城スタンプを滞りなく回収します。



70番、岡山城!
このスタンプ帳に新たなるスタンプが押印されるのは、なんと3年ぶりのことです。涙、涙、涙(T_T)

あ!観音寺城のスタンプがあったか・・・でも中国地方の城攻めは初!ですな。




中はえらく近代的なエレベータが配備されています(T_T)
例のとおり、岡山城の歴史、宇喜多直家・秀家や小早川秀秋ら城主の業績などが展示されていました。
あとは、備前焼の陶芸体験なんてものもありました。なぜ城の中で!?



天守のしゃちほこを見て、



次に行く後楽園を望んで、早々に出てしまいました。


ふたたび旭川の川辺。



いろいろな角度から天守を見上げます。
まずは北東から。



天守の石垣は、宇喜多秀家の築城当初から残る野面積みのものです。



南東側から天守を仰ぎ見て・・・そろそろ時間かな。



岡山城本丸から旭川にかかる月見橋を渡ります。





いちばん画になる旭川の川べりに立つ天守を眺めつつ、後楽園に向かいました。




観音寺城登城?

2015-07-11 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 3 月 1 9 日 ( 木 )

午 後 3 時 3 3 分

滋 賀 県 近 江 八 幡 市

安 土 城 址 を 出 る



2011年には雪で中に入れなかった安土城を、見事にリベンジ登城した私。



時刻は午後3時半を回っていました。
安土城をじっくり2時間も回るという、予定時刻をはるかにオーバーしていました。



次の城は、同じ近江八幡市内(旧安土町内)にある観音寺城です。

安土城からは4km近く離れているので、

 

レンタサイクル「信長号」を借りたのですが・・・
事前に調べたところによると、観音寺城は安土城よりもかなり広大で、しかも山も高いというのです。

「信長号」を借りたレンタサイクルの優しき媼によると、観音寺城の登城にはとても時間がないだろうということでした。


幸いにして安土城登城の時に降っていた雨は上がっています。
「信長号」にまたがり、とりあえず観音寺城を目指します。



観音寺城は、雲がかかる繖山(きぬがさやま)の上。

ちなみにふもとの建物は、



左から滋賀県考古博物館



中央は文芸の郷セミナリヨ
セミナリヨは、安土城下に実際にあった宣教師の学校で、そこからネーミングをとったのでしょう。
セミナリヨの裏手には「信長の館」があり、安土城天主の上層部分の復元模型があります。



2011年、雪のため安土城に上れなかった私は、「信長の館」でスタンプを確保しました。



いちばん右の安土マリエートは、あんな見てくれですが、総合体育館です。




中腹に見える寺院。

たしか観音寺城には、観音正寺という寺院があったはず・・・
ということは、今からあそこに行かなければならないのか!? とても時間がない・・・。

などと当時は考えていましたが、この寺院はおなじ繖山にある桑實寺で、観音正寺とはまた別の寺院です。



レンタサイクルの媼からもらった地図をもとに、近道作戦をとったりしましたが、知らない集落に迷い込んでしまいました。



ようやく正規の道へと出てみると、もう午後4時前。

 

観音寺城入口と思われるゲートを通過していきます。
・・・このゲート、封鎖されているんじゃねぇのか?



そして、観音正寺参道の近くにあるこの建物は、石寺楽市なるおみやげ処のようです。



・・・そう、登城よりもまずは確実にスタンプ確保の途をとりました。
この登城記おなじみの姑息な作戦

しかし扉が閉まっている・・・まさか、姑息な作戦がかえって仇となったのか?



「石寺楽市開店のお知らせ」

何だよ~まぎらわしい貼り紙で人を脅かしおって・・・。



入口の傍らには、山登り用の杖が貸し出されています。
さて、中に入りますが・・・中には全く商売をする気のない翁と媼がひとりずつ。
売り物を見ても・・・はっきり言ってここで買う価値のあるものはなさそうですねぇ。

さっさとスタンプをもらって立ち去りましょ。



52番! 観音寺城!
シャチハタ式のスタンプは押すのが難しいのぅ。



100名城スタンプは確保したので、観音寺城をちょっとだけでも・・・と思ったのですが、先ほどのとおり、おそらく中には入れないだろうと考えていました。
そこで、石寺楽市から近い名勝へと「信長号」を走らせます。

味のある集落のなか小道を進んでいくと、



教林坊というお寺があるそうです。
江戸時代初期の作庭家・小堀遠州の手による庭園があると聞いては、庭園好きの私が黙ってられません。

そして午後4時10分ごろ、教林坊に着きました。



「9時30分~16時30分まで」・・・ギリギリ間に合ったようです。
「拝観日 11月1日~12月15日は毎日拝観可能、それ以外は土、日、祝日、1月1日~3日のみ拝観可


・・・私は黙って、安土駅へと「信長号」を走らせることにしました。



その途中、観音寺城の入口を見分するために、くだんの門扉へと近づきました。



その看板。



「石寺集落では全区域にわたり、農作物を食害する『猪の被害を防ぐために』防護柵を設置することにしました」
つまりは封鎖されているわけではなく、通行する車や歩行者は、ここを開け閉めしなければならないというものでした。



観音寺城からだいたい15分、距離にして約5kmほど、安土駅前に戻りました。

ここで「信長号」とはお別れです。
レンタサイクルふかおのお爺さんとお婆さんとお話して、自転車とレインコートを返却。

「観音寺城に行くときに、また伺います――」

そう言って、心温かき老夫妻と別れました。



駅北口のロータリーに立つ信長像を背にして、



安土駅へと入っていきました。





安土城・終章~見寺

2015-07-11 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 3 月 1 9 日 ( 木 )

午 後 2 時 5 5 分

滋 賀 県 近 江 八 幡 市

安 土 城 天 主 台 址





天主址から下りました。



岐路のある伝織田信忠邸址まで戻りました。
そこから今度は大手道とは反対方向の道を下っていきます。



ほどなく広い曲輪に出ます。
ご覧のとおり三重塔が建っている空間、ここがかつて見寺があったところでした。


見寺は、安土城の城内に創建された寺院です。
安土の城下町から安土城に登城するときは、百々橋口から上り、見寺を必ず通るというルートとなっていました。
本能寺の変直後の大火では、天主などは焼失しましたが、見寺は災厄を免れました。
しかし江戸時代に炎上、ほとんどの伽藍を焼失してしまいました。
その後、寺の中枢は大手道脇に移され、現在に至ります。



ということで、当時の建物はほとんど残っておらず、



本堂は礎石のみが残ります。



創建当時のまま残っている建物のひとつ、三重塔【国指定重要文化財】。
三重塔が建っている辺りは崖が迫っていて、なかなかいいアングルがなかったです。



見寺からの眺め。
湖は琵琶湖、ではなく西の湖で、琵琶湖中最大の内湖だそうです。
そして、洪水で孤立してしまったかのような湖面ギリギリの集落がなんとも不思議で、なぜかシムシティを連想してしまいました。




眺望を堪能し、下へ。
このときには雨が上がっていましたが、石段は濡れていて、しかも急なので、大変滑りやすくなっていました。
私はここで転びました。
雨の山城を行く際には十分注意していただきたいものです(^_^;)

階段の下には・・・



二王門【国指定重要文化財】が建っています。
こちらも安土城が築城された当時のものが現存しています。
左右に立つのは金剛力士像【国指定重要文化財】です。

 



二王門の表側に出ました。



二王門の先は、安土の城下へと続いていた百々橋(どどばし)ですが、石段が急峻でしかも踏みしろが小さいので、現在は通行できません。
なので、このまま曲輪ぞいの道を歩いていきます。



伝羽柴秀吉邸址の横に出ました。



大手道を下って入口へと戻ると・・・

 

杖を立ててあったカゴの裏には、安土城の事蹟が記載されていました。

天正4年(1576年)正月、織田信長、安土山に築城を命じる。
天正5年(1577年)6月、13か条のおきてを定め、城下町を楽市楽座、諸役を免除して商業活動の自由を認める。
天正6年(1578年)正月、諸将を城中に招き、城内の見物を許す。
同年8月、近江や京都から相撲取を集め興行する。
天正7年(1579年)5月11日、吉日につき、正式に安土城「天主」に移る。
天正8年(1580年)、宣教師に安土城下での教会建設の敷地を与える。
同年5月5日、5月17日、6月24日、国中の相撲取を召し集め、興行、終日見物する。


・・・と、信長公は相当の相撲好きのご様子。

天正9年(1581年)安土城の北、松原町に馬場を築かせ、1月15日左義長(三毬杖)(どんど焼き)を盛大に行う。
同年7月15日、天主および見寺に提灯を吊るし、江中に舟を浮かべ巡察師バリニャーニをもてなす。
同年9月8日、安土城築城に関与した職人頭に小袖を与える。
同年10月20日、セミヨナリを南北二道にするため町屋敷を築く。


・・・と、天正9年は安土城が規模の大きなエンタメの場になっています。
職人頭に小袖、というエピソードが、苛烈な魔王の面が表に立つ信長公の、民政を極めて重視したという戦国時代ではまれなる善政を敷いていた面を表しています。
そして事蹟表は激動の天正10年(1582年)へ。

天正10年元旦、諸将を礼金100文にて見寺と本丸御殿の見学を許す。

・・・さすがは覇王、臣下から抜け目なく上納金を取り立てます。

5月19日、見寺にて能興行をもよおす。
5月20日、徳川家康一行を城中の江雲寺御殿で接待。


・・・このとき家康を接待したのが明智光秀です。
俗説では、このときの接待に不手際があり、信長が光秀を厳しく叱責。
これと同時に、中国攻めを担当していた羽柴秀吉より援軍の要請を受け、光秀に秀吉支援を命じるわけですが・・・

5月29日、信長上洛し、本能寺へ入る。

そして・・・

6月2日、明智光秀、本能寺を襲撃、織田信長自刃。
6月5日、光秀、安土入城。


ですが・・・

6月13日、秀吉、山崎で合戦して、光秀を破る。
6月15日、安土城天主炎上、焼失する。


この炎上は、明智光秀の娘婿・明智秀満が山崎の敗戦後に退却の際に放火した説、織田信長の次男・織田信雄がとち狂って放火した説と、秀満の退却後に主がいなくなった安土城を土民が略奪した時に炎上した説があり、近年は略奪説が有力となっているようです。



受付で預けた荷物を回収し、



見寺のご朱印を拝領し、

 



信長号で安土城を後にしました。





安土城・第2章~天主

2015-07-05 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 3 月 1 9 日 ( 木 )

午 後 2 時 3 0 分

滋 賀 県 近 江 八 幡 市

安 土 城 黒 金 門 址





大きな石で組まれた石垣の虎口、黒金門址

往時は、金箔が施された瓦が使われるなど絢爛豪華な造りで、天下人の住まうところにふさわしいものだったといいます。
本能寺の変後に起きた大火で、黒金門も焼失してしまいました。
しかし門の礎となっていた石垣はその後も残り、400年以上たった今もなお、豪壮な構えをなしています。



黒金門より先は、信長が居住し、政務を執っていた中枢部分となります。


順路を外れた脇道の先には、織田家四代の墓塔がありました。



しかしこのとおりの水ひたし、墓塔に近づくことはままなりません。
傍らに「誰々の墓」という看板はあったのですが、よく見えない。

織田家4代というと、有名どころで信秀、信長、信忠、秀信(三坊師)あたりかな?
信長のお父さんの名前は信秀ですよぉ~、決して恒彦ではありませんよぉ~。
まぁ、試験に出ないから覚えなくてもいいですけどね。

あとから調べてみたら、どうもこの4つの墓は信長の次男・「茶筅丸」信雄からの4代らしいです。

茶筅丸くんはとにかくいいエピソードがない。
信長に無断で伊賀を攻めて敗北、「お前を勘当してやる」と信長パパを激怒させます。
本能寺の変後のゴタゴタでは、なにをとち狂ったか安土城を焼いてしまったとも。(現在は、土民の略奪にあって炎上したとの説が有力)
豊臣秀吉徳川家康の直接対決である小牧長久手の戦いでは、家康とタッグを組むも、秀吉に懐柔されて単独講和。
そして領国の尾張からの領地転換を提示されてダダをこね、秀吉が激怒、領地没収される、など。
茶筅丸くんの最大の功績といえば・・・信長の直系の血縁を現在に伝えていることでしょうか?



さて、順路に戻ります。



400年の時を経て、今もなおそびえ立つ石垣。



順路を進み、石碑が立つところで、二の丸と本丸との分岐。



岐路を左に曲がり、まずは二の丸へ。
水たまりが行く手を阻みますが、水のないところをなんとか選んで通過。



二の丸には織田信長公廟が建立されています。



本能寺に斃れた覇者は、天主の脇にある二の丸にて祀られています。



織田信長公廟のそばに設置されている100名城スタンプ。
ボックスのあちらこちらで試し押しをされていて、なんとも残念な心持ちになります・・・。
たしかにシャチハタ形式のスタンプは、きれいに押すのが難しいのではありますがねぇ。



スタンプ自体は、2011年に収得済みではありますが、51番、安土城!


そして水たまりを越えて、道を戻ります。




二の丸の次は、本丸です。
(三の丸は順路を外れたところにあったので、行きそびれてしまいました)

本丸には御所の清涼殿を真似たという御殿がありました。
現在はただの広場になっています。この日は行く手を阻む水障害になってました。

その先の石段・・・



ここを上っていくと・・・



安土城のてっぺん、天主台址です。


普通、「てんしゅ」は「天守」と書きます。
しかしこの安土城だけは「天主」と書くのが正しいとされます。

安土城の「天主」が、その後の城郭建築の花形ともいうべき「天守閣」のさきがけとなりました。
しかし「天主」と「天守」とは決定的な違いがあります。

「天守」は「守」の字が表すように、防御施設のひとつでした。
城郭を防衛し、武器を収納するやぐら。そのやぐらに、権威の象徴という意味合いを込めたのが「天守閣」です。

それに対し「天主」は、防御施設の意味合いが(ないとはいえないにしても)薄いのです。
天主には武器を収納したのではなく、信長その人が住んでいたのです。

信長は、日本で最初に高層建築に居住した人物ともいえます。


天主台に立つと、雨は相変わらずでしたが、それ以上に強い風が吹き抜けていました。
大垣で買ったかわいい傘が、たった1日で壊れてしまうのではないか、と思うくらいの風。



信長その人が住んでいた場所から、信長その人が祀られている廟を見下ろします。







琵琶湖はもやがかかってあまりよくは見えなかったものの、そこそこ長い石段を上ってきた者にとっては、疲れをいやす景色でした。
それにしても、風に耐えながら傘を差し、デジカメをいじる。なかなか難儀です。



天主台から本丸、黒金門址へと下っていきました。





安土城・第1章~大手道

2015-07-05 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 3 月 1 9 日 ( 木 )

午 後 1 時 2 6 分

滋 賀 県 近 江 八 幡 市

J R 安 土 駅



城攻め旅では2度目の安土駅下車。
目的はもちろん、安土城の登城。
そして、安土城から4kmほど離れたところの観音寺城も行ってしまおうというのです。



はじめて安土に下り立ったのは、4年前の2011年1月。



朝7時ごろ電車を下りた私を待っていたのは、雪国かと見紛うほどの大雪

 

ハタから見る分には絵になりますが、これから登城しようという身にとっては、これほど迷惑なものはありません。
早朝に到着したので、開城時刻の9時になるまで休憩所で待機していました。

9時を回り、大手道の入口に行ってみると・・・



まったく開く気配がない。
電話で問い合わせると、「雪崩の危険もあるので、本日は閉鎖する」との無情の返答を浴びせられたのでした。




さて、安土駅から安土城まではだいたい2kmの道のりがあります。
また、観音寺城までの道のりはさらに長いので、ここはためらわずレンタサイクルの力を借ります。



駅を出てからいちばん右手にある「安土観光レンタサイクルふかお」。

じつはここのレンタサイクル屋さんには「借り」があるのです。
4年前の早朝、安土駅前に下り立った私は、想像だにしていなかった銀世界にたじろいでしまいました。
そして雪はしんしんと降っていて、当時傘のなかった私は、開店準備をしていた「ふかお」さんに駆け込み、ビニール傘を借りたのでした。

というわけで、隣にもレンタサイクル屋はあったのですが、私にとっては「ふかお」さん以外のレンタサイクルを利用することは考えていなかったのです。

4年ぶりに「ふかお」さんへ。あのときの翁と媼は健在でした。

ここで自転車を借りますが、料金は1時間200円、3時間500円、1日1000円の3つのコースがあります。
安土城だけなら3時間で500円のコースを選ぶのですが、今回は観音寺城も行くつもりなので、1日1000円のコースを選びます。

「4年前、お世話になったんですよ」と話しましたが、さすがに覚えてはいなかったようです。
けれども翁と媼の世話好きは健在で、雨具が折り畳み傘しか持ち合わせていない私に、雨カッパを貸してくださいました。
安土城へ行くと話したら、観光マップを用意してくれて、行程を丁寧に説明してくれました。
さらに観音寺城へ行くと話したら、「それは無理なんじゃないの?」と言いつつも、やはりマップをくれました。
自転車に乗せる手荷物を雨から守るために、近江八幡市指定のごみ袋もくださいました。

 

信長号、出陣!




午 後 1 時 4 2 分

安 土 城 に 到 着


信長号とともに出陣してから10分。
媼から教わったとおりのルートをたどって、安土城に到着しました。



安土城の濠の役割をしていたであろう小川、それにかかる百々どどを渡ると、



「安土城址」の石碑と、上へと伸びる石段。
こちらは百々橋口で、安土城の裏口のひとつです。
ここの石段は踏み場が狭いため、通行が禁止されています。


百々橋口から道なりに進んでいくと、



立ち並ぶ石塁と、その切れ目には虎口があり、



木造の建物が見えてきます。
あれこそ、4年前に安土城の開城を待って約2時間いた休憩所
休憩所の前に、駐輪スペースがあります。


ここで雨カッパを脱いで、



例の「一番可愛くない傘」を広げる時がきました。
とてもコンパクトな折り畳み傘だったので「小さいなぁ~」、そして「やっぱり可愛いなぁ~」。
30過ぎの男にはあまり似つかわしくないものだったのでした。

とはいってもここまで来た以上、そして雨が強く降っている以上は、この可愛い傘に頼らざるを得ません。

しかし・・・安土城に来るときはいつも天気にヤラれているなぁ。




午 後 1 時 5 7 分

登 城 開 始


4年前は固く閉ざされていた門扉も、この日は確実に開いています!



登城の前に、ここで入城料500円を支払います。
ここでは無料で荷物を預けることができるほか、總見寺のご朱印もいただけます。



安土城は山城なので、杖が用意されています。
が、ここは自分の健脚を信じて、杖なしで上っていきます。



安土城、最初は長い石段がまっすぐ伸びる大手道です。



この大手道こそ、安土城が他の城とは別格であるゆえんです。
城の通路は、敵に攻め込まれたときを想定して、何度も曲げて造られるのが普通です。
しかし安土城の大手道は、山の中腹までまっすぐ伸びているのです。
このことからも、安土城が戦のための城ではなく、むしろ政庁の機能を重視した城と考えられています。

石垣、通路、石塁と、圧巻ともいうべき石造りの遺構。
これらの遺構は復元されたものではあるのですが、土塁や空堀などの土造りの城が主流であった戦国時代に、これだけ多くの石でできた城はまさに先鋭的なものでした。


大手道の中腹。
左に伝羽柴秀吉邸址、右に伝前田利家邸址が並んでいます。
意外にも、重臣の羽柴秀吉の屋敷が城の入口近くにあります。
その盟友ともいうべき前田利家の屋敷が向かいにあるのも面白いです。
「お~い、又左衛門、一杯やろうじゃないか、おお、松どのもご一緒に」なんて会話が繰り広げられたのでしょうか。
でも実際は、秀吉は当時すでに長浜城の城主であり、しかも中国攻めで姫路城に出張ったままだったはずです。
利家も柴田勝家の寄騎として、北陸に出張っていたはずです。
彼らが安土に滞在した時間はそうそうなかったかもしれません。

 

まずは伝前田利家邸址。あくまで「伝」なので確定しているわけではないのです。

 



次は伝羽柴秀吉邸址。
さすがは織田きっての重臣、個人の屋敷なのに複数の曲輪で成り立っているようです。



羽柴秀吉邸の復元図です。
ここだけで一合戦できそうな感じもします。



少し上って右側には、現在の見寺の仮本堂があります。この日は立ち入ることができませんでした。
またこのあたりは、伝徳川家康邸址ともなっています。
徳川といえば、当時はいちおう織田家から独立した大名家のはずですが、こういったところに屋敷が宛がわれている以上、織田徳川は従属関係となっていたと見ることができます。

本能寺の変が起きる15日前、徳川家康は安土城で織田信長の接待を受けています。
このときの接待役の責任者は明智光秀。
接待の中途で光秀は役目を解任され、中国攻めの羽柴秀吉の助勢を命ぜられます。
あとで信長も出立することとなりますが・・・あとは周知のとおり。

こういった歴史の転換点であった場所に立っていると想像するだけで、なんとなく心奮い立つものがあります。



大手道を上って振り返ると、あっという間に絶景。



大手道がまっすぐ続いていることもおわかりいただけるでしょう。

後半は七曲り坂といって、多少の入り組みはあるものの、あっち行ったりこっち行ったりというようなきつい曲がりはありません。



石造りの城なので、莫大な量の石が必要となります。
そのため、灯篭や石仏なども転用されました。



大手道を過ぎ、石段上りがひと段落。
このあたりは信長のそば近くに仕えた家臣と、織田一族の屋敷がありました。



まずは伝武井夕庵邸址
武井夕庵ははじめ美濃国の斎藤氏に仕えていましたが、斎藤氏が信長によって滅ぶとそのまま信長に仕え、右筆(身近に仕える秘書)を務めました。
年齢は信長よりも20以上も上で、後世の説話ではよく信長に諫言をすることが多く(あくまで後世の説話なので信憑性は疑問ですが)、信長の信頼は厚かったようです。



広い平坦な地には、伝織田信忠邸址
今となっては多くの木々が立つところも、往時は豪奢な屋敷が建っていたのでしょう。
織田信忠は信長の長男で、幼名は「奇妙な顔をしているなぁ~」ってことで奇妙丸。
現代のDQNキラキラネームに通じる信長のネーミングセンスの最初の犠牲者ともいえます。
(二男の信雄は「髪型が茶せんに似ている」から茶筅丸、三男の信孝は「三月七日生まれ」だから三七丸)



伝織田信忠邸址の前で、道は二手に分かれます。
ひとつは見寺へと下る道、いまひとつは天主址へと上る道です。



雨は相変わらずですが、あたりを覆っているもやが夢幻の雰囲気を醸し出しているような気がします。



道の傍らには、伝織田信澄邸址伝森蘭丸邸址の石碑がひっそりとたたずんでいます。

織田信澄は、信長の弟・信行信勝とも)の子です。
本能寺の変が起こった当時は、3月7日生まれの織田信孝率いる四国征伐軍に属していましたが、信澄は明智光秀の娘婿であったために内通を疑われて謀殺されてしまいました。

森蘭丸は諱を茂利といい、信長の側近として活躍しましたが、本能寺の変で信長とともに討死しました。

それにしても、嫡男の信忠を差し置いて、側近の森蘭丸が信長の居住地の近くに屋敷を構えているのも、信長の実用性重視の考え方が顕れているように感じます。




ひときわ大きな石で組まれた石垣の虎口は、黒金門址です。

これより、安土城の中枢に入っていきます。




江戸城・千鳥ヶ淵で花見

2015-04-11 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 4 月 2 日 ( 木 )

午 後 2 時 5 8 分

東 京 都 千 代 田 区

東 京 メ ト ロ 九 段 下 駅



2015年4月。
季節は移ろい、天気は変わりやすい春の候。

この日振休となった私は、花見を思い立ち、東葉高速線&東西線に乗って九段下へ向かったのでした。

週間天気によれば、次の日からは雨が続くということでした。
今年の花見は、この日を置いてほかにはない。



そして九段下の駅から地上へ出て、九段下交差点の角にある昭和館。



此岸の桜、お濠を隔てて対岸の桜、そして日本武道館の光るタマネギ。



この日は桜が満開で、花びらはあまり散っていなかったので、お濠に浮かぶピンクのじゅうたんもやや小さめでした。



昭和館から靖国通りを歩いて、日本武道館の入口・田安門【国指定重要文化財】へ。





田安門二の門と、千鳥ヶ淵の桜。
うっすらと浮かぶピンクのじゅうたんがまた至高です。



せっかくなので、今年最初の靖国神社参拝へ。

大鳥居からの参道は、露店でぎっしり。大村益次郎像までずら~っと続きます。
私は参道に出ている露店の誘惑を跳ねのけ続け、跳ねのけ・・・られず、五平餅(300円)を食べてしまいます。

さらに靖国神社の売店で・・・



さくらソフトクリーム(250円)を購入。さっそく外に出て食べようとしたら・・・



あ゛あ゛っ!!
デジカメにソフトクリームを収めようとして、クリームが付け根からボトッと落ちてしまいました。
そして、このフォントくらい大きなリアクションをしてしまい、衆目を浴びるハメに。

あまりにもくやしかったので、ソフトクリームを再購入。
あらかじめ売店の人に落としたことを伝えていたので、無償で新しいクリームをいただけました。

落ちたクリームは、売店の方がお掃除されていました。ホントにすみません。。。



靖国の英霊を詣でて午後4時前、遊就館にも足を運びます。
ただし閉館時刻が4時30分だというので、奥には入らずエントランスホールのみ見学。



零式艦上戦闘機(通称「零戦」)の52型が復元されています。
「ゼロ」とは、この戦闘機が海軍に制式採用されたのが皇紀2600年(昭和15年)だったので、皇紀の下2桁にちなんで命名されました。







零戦をじっくり見入って、ふたたび外へ。





靖国神社の桜もまた、美しい。



靖国神社を出てからは、千鳥ヶ淵緑道を歩きました。







平日の午後5時前だというのに、人出があまりにも多かったので、あまり深くは立ち入らずに後にしました。



日本100名城の旅番外編「江戸城・千鳥ヶ淵で花見」 完


天長節・一般参賀

2015-04-07 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 4 年 1 2 月 2 3 日 ( 天 皇 誕 生 日 )

午 前 1 0 時 5 6 分

J R 東 京 駅 丸 の 内 北 口



この日は天長節(天皇誕生日)。
天皇陛下のお誕生日を祝して、皇居内の宮殿前広場にて一般参賀が行われます。


この日は、鬼ヅモ同好会副会長・たか先生と一緒。
私は前日に大宮の先生宅に宿泊。
そして翌朝、なんとなくダラダラして出発時刻が遅れ、東京駅に着いたのは午前11時前になっていました。


一般参賀は、皇居の中で行われます。
普段は予約しないと入れない二重橋の向こう側に、天長節の一般参賀と、新年1月2日の一般参賀のときだけは予約なしで入ることができます。

ただし天長節の一般参賀では、皇居正門の閉門時刻が午前11時20分となっています。
この時刻を過ぎると、天皇陛下に謁見することができません。
当然、天皇陛下のお言葉もいただくことはできません。
祝賀の記帳をすることはできるのですが、その場所は坂下門付近となり、皇居内の移動範囲が狭まってしまうことにもなります。


皇居正門の閉門時刻まで20分ほどということで、さすがに私も、たか先生も口々に、
「もっと早く出ればよかった」
と言いつつ、速足で歩きます。


日比谷通りから行幸通りへと入ると、



反社会的人物に備え、護送車がスタンバイしています。


人の列は皇居外苑付近から始まる長蛇の列。
ああ、これは閉門時刻に間に合うのか??

人待ち列の脇では、ボランティアの小学生が日章旗を配っていました。
「意識高い系」の学生ずれがやっているものよりもずっと殊勝な高尚なボランティアです。
私とたか先生は丁寧に「ありがとうございます」とお礼を申し上げたのでした。

皇居へ向かう人の群れは、ゆっくりながらも着実に進みます。
警視庁からの交通整理員によって人列は制御され、立ち止まることが許されない状況。



こんな状況下でも、晴天に映える桜田櫓【復元】をスルーすることはできません。
なんとかデジカメさんにその姿を収めます。



桜田櫓から水濠を隔てた上方にそびえるのは富士見櫓【現存】。
普段はチラ見程度しか見られないのですが、皇居に入れるこの日だけはたっぷりとお姿を拝むことができるのです。


そうこうしているうちに、皇居前広場に到着。
ここで警視庁による荷物チェック&ボディチェックが行われます。
そういえば桜田門は警視庁のおひざ元でしたね。



こんな日に限ってカバンを2つも持ってきてしまった!
ああっ、カバンの中にカッターナイフが入ってる・・・。


職場で使ったカッターナイフをそのままカバンに入れてきてしまったようです。
そしてそのままたか先生宅に宿泊してしまったのでした。

皇居に入る人の列は、荷物を持つ人とそうでない人とに振り分けられます。
荷物持ちの人のほうが当然時間がかかります。
荷物はコインロッカーにでも預けたほうが無難でしょう。


―――荷物チェック―――ボディチェック―――


心配していた荷物チェックは問題なく通過。
ボディチェックは意外にも女性の警官が行いました。もっとさわっていいんだよ~?

なんて思っていたら、小柄な女性警官が野太い声で人列整理をしていました。
こういう職業の人って、剣道の先生みたいなしゃべり方になってしまうのでしょうか。

まえぇ~ あとぉ~ 右斜めまえぇ~




午 前 1 1 時 3 6 分

皇 居 正 門 前


ボディチェックが終わって皇居正門前に到達。
その時刻はなんと閉門の4分前

なんというギリギリの時刻でしょうか。
思えば東京駅丸の内北口前の信号を強行突破気味に通過したことが功を奏したようです。

・・・だったらもっと早く大宮を出ろよと。

それはともかく、



いつもは固く閉じられ、皇宮警察職員によって守られている皇居正門が開いています。



皇居正門前にかかる正門石橋を渡っています。普段は渡ることができません。
正門石橋から見えるのは正門鉄橋と伏見櫓です。

ちなみに二重橋とはこの正門鉄橋のことを言います。
江戸時代、皇居がまだ江戸城であったころは、ここには木製の橋がかかっていました。
橋からお濠までがあまりにも深かったため、低い橋をかけ、その上にもう一本橋をかけて通行できるようにした二重の橋だったのです。




午 前 1 1 時 4 0 分

つ い に 皇 居 の 中 へ


日本人として生を受けて35年、ついに皇居に入りました!

皇居正門からは、いささか急な坂道とともに180度曲がる急カーブを経て、本当の二重橋に差しかかります。



皇居前広場の正門石橋からはチラ見程度しか見えない伏見櫓【現存】をじっくりと拝むことができます。

ほかにも、正門鉄橋から正門石橋を眺めるなど、普段ではできない貴重な体験が続きます。



正門鉄橋の先にある宮殿東庭門をくぐると、いよいよ天皇陛下がお出ましになる宮殿前広場です。


先に進んでいた参加者たちが、天皇陛下のお出ましを待っています。
手には、おそらく小学生のボランティアが配っていた紙製の日章旗。
自前の大きな日章旗を持ってきた人もいました。




午 前 1 1 時 4 5 分

天 皇 陛 下 お 出 ま し


皇居長和殿のテラスに、天皇・皇后両陛下、皇太子ご夫妻、秋篠宮ご夫妻、眞子内親王がお出ましになりました。



歓声とともに乱舞するかのごとき日章旗。

静粛の後に天皇陛下がお言葉を述べられました。

お言葉が終わるとふたたび日章旗は乱舞。
そして「天皇陛下、万歳!」の歓声が・・・みんな言っているわけではないようです。
たぶん半々ぐらいだった印象です。



皇族の皆様方が立っておられたテラス。



天皇陛下がお言葉を述べられた際のマイク。



長和殿の脇に立っているこのオブジェは、「松の塔」というものらしいです。



しばらく宮殿前広場にたたずんだあとで、皇居からの退出口へ。



皇居二の丸方面へ下る坂道から、とてもよく見える富士見櫓【現存】。
江戸城で唯一現存する三階櫓で、江戸城の天守が再建されなくなってからは、この富士見櫓が事実上の天守となっていました。

江戸城の天守が再建されなくなったことにより、将軍の臣下である大名が居城を修復、改築した際には、
「将軍家のお膝元である江戸城に天守閣がないのに、ウチの城に天守があっちゃあ気まずいよね・・・そうだ! 見てくれは天守閣だけど『三階櫓』って名前にしちゃおう!」
という城がかなり存在します。
有名なところでは、松平定信の居城であった白河小峰城です。

・・・と、こんな話をたか先生に延々とまくし立てていました。





皇居からの退出門である坂下門です。
この門も普段は固く閉じられています。
ここから出ると皇居前広場の北側に出られます。

しかし坂下門からは退出せず、普段は入れない皇居をもう少し歩きます。



坂下門の近くにあるモダンな建築物は、宮内庁庁舎です。
天皇陛下への祝賀の記帳は、ここに設けられたテントで行います。



坂下門からさらに北のほうへと歩き、富士見櫓に近づいてきました。



櫓の足下に積まれている石垣は、自然石をそのまま積んだ野面積みで、角は見事な「扇の勾配」。
江戸城の普請には各地の大名が動員されていますが(いわゆる「天下普請」)、ここを担当したのは普請の名手・加藤清正だそうです。



進行方向の右手側にある富士見櫓に対して、その反対側にあって人々に見向きもされないのは富士見多聞(たもん)【現存】。
こちらをじっくり見る人はかなりの城好きだと思います。

多聞櫓とは、防衛の役割を果たした長屋のような建物の武器庫です。
「多聞」は大和国にあった多聞山城のことで、城主であった戦国一の梟雄・松永久秀がはじめて建造したことから「多聞櫓」と呼ばれています。

多聞櫓の下側にそびえる石垣がなんとも見事。
(くるわ)を取り巻く石垣は入り組んでいて、石垣を上ってくる敵兵を横から矢で狙撃できる横矢掛かりという仕掛けが組まれています。




皇居二の丸・百人番屋【現存】の前に出ました。
これにて、普段は入れない皇居の散策はおしまいです。




午 後 1 2 時 3 2 分

皇 居 を 出 る


皇居二の丸と本丸を散策し、皇居を出たのは正午過ぎ。
この後は、北の丸を歩いて、靖国神社へ。

靖国神社の参道に立っている銅像が誰だか思い出せなくて・・・
旧名の「村田蔵六」はパッと出てきたのですが・・・
頭の中で悶々と、知識の引出しをかき回して思い出そうとするも、ダメ。

ついに立て看板を見て、大村益次郎だったことを確認しました。
(思い出せなかったのが悔しいので、フォントを大きくしました)

英霊の前で、鬼ヅモ大会の勝利を祈願。



その後は、千鳥ヶ淵の中華料理屋に入って昼食。
歌舞伎町以来の私の引きはこの日も健在でした(T_T)

清澄庭園で散策。
さまざまな巨石が配され「岩の庭園」ともいわれているそうですがたか先生は、
「おんなじ岩ばっかりじゃねぇか」
と暴言。すぐそばに清澄庭園のガイドのじいさんがいました(・.・;)

東京スカイツリー・・・には上らず、とうきょうスカイツリータウンの中にある「うどん本陣山田家」のざるぶっかけうどんを食べてお開きとなりました。



第64回鬼ヅモ同好会麻雀大会顛末記へ。


川越城本丸御殿

2014-10-05 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 4 年 8 月 1 5 日 ( 金 )

午 後 1 時 1 1 分

埼 玉 県 川 越 市

小 江 戸 川 越 ・ 時 の 鐘



国道16号を外れ、川越の街にやってきました。



小江戸川越のシンボル・時の鐘【川越市指定文化財】から。
今回の川越ぶら~りはあまり時間がないので、ピンポイントで、川越城の登城のみをしていくことにしました。

それにしてもお盆休みの川越、人出は多くにぎやかです。
川越の街並みを通る道はそれほど広くないので、通っていくにもひと苦労です。


川越城の歴史は大きく中世・戦国期と近世・江戸期のふたつに分けることができ、中世では「河越」、近世以降は「川越」と分けて表記することがあります。

扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の当主である上杉持朝(もちとも)が、長禄元年(1457年)に家臣の太田道真(資清)・道灌(資長)父子に命じ、河越城が築城されました。
扇谷上杉氏は、古河(茨城県)に本拠地のあった足利一門・古河公方家や上州に本拠地のある同族・山内上杉氏と抗争を繰り返して衰退していき、関東では小田原の北条氏が台頭してきます。
北条氏2代当主・北条氏綱は、相模から武蔵への勢力拡大を本格化、ついに天文6年(1537年)川越城を占拠しました。

代替わりして3代氏康のとき、駿河の今川義元が甲斐の武田晴信(信玄)とともに当時北条の領地であった東駿河に攻めてきました。
名将・今川義元は武蔵にも手を回し、扇谷上杉氏の当主・朝定(ともさだ)は山内上杉家と和睦、さらに氏康の妹婿であった古河公方もあわせて「北条包囲網」というべき共同戦線を組みます。
天文15年(1546年)、ついに上杉連合軍8万が大挙して河越に迫ってきました。河越城の城兵は3千、城代はのちに「地黄八幡」と畏怖された名将・北条綱成(つなしげ)
北条氏康は東駿河を割譲して今川・武田と和睦し、軍兵8千を率いて河越の救出に向かいます。それでも兵数は合わせて1万強、数ではまったくかないません。
そこで氏康は連合軍に和睦を申し入れます。

 氏康「城の者は助けてやってください・・・河越はお返ししますから」
 上杉「今さら何を言ってんだ、攻撃!!」
 氏康「ヒエェェェ~、ご、ごめんなさい、北条家一丸となって古河公方様に従いますからお許しをぉぉ」
 上杉「公方様、こんなたわごとは無視して、北条を叩いてしまいましょう!攻撃!攻撃!!」
 氏康「いやぁぁぁ~ん・・・・・・・・・ニヤリ」

河越城は城代の北条綱成が持ちこたえること半年、上杉連合軍は長期の滞陣と氏康の土下座外交ですっかり弛緩してしまいます。
そして夜、氏康はついに奇襲を敢行。河越城の綱成も打って出て連合軍は大混乱、扇谷の上杉朝定は戦死してしまいます。世にいう河越夜戦(よいくさ)です。
これにより北条氏の武蔵における覇権が確立、古河公方家は完全に北条に取り込まれ、山内上杉家の上杉憲政(のりまさ)は越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)のもとへ落ちのびました。

その後も北条氏は順調に勢力を拡大していきましたが、西から巨大猿・豊臣秀吉がやってきます。
天正18年(1590年)河越城は前田利家に攻められて落城し、当主の北条氏直も降伏、大名としての北条氏は滅亡しました。
秀吉の天下統一後は徳川家康が関東に移り、河越には酒井重忠が1万石をもって封じられ、ここに川越藩の基礎が成立しました。

寛永16年(1639年)に藩主となった松平信綱は、川越城の大幅な拡張・整備を行いました。
川越は「江戸への搦め手」(江戸を攻める裏口)とされ、信綱や酒井忠勝柳沢吉保など幕府の要職にある大名が配置されました。



川越城の登城は川越市役所からスタート。



市役所は改修工事の真っ最中。
そして市役所付近には大手門が構えていました。

 

市役所前の交差点を向いて立っている太田道灌公像、その足下に大手門跡の碑が立っています。
太田道灌は、川越城のほかにも江戸城を築城するなど築城の名手でした。


川越市役所から川越市博物館へ向かう初雁城通りを進みます。
かつては、大手門から本丸へと向かう正規のルートでした。
「初雁城」は川越城の雅称です。



通りの途中、住宅街にある公園のような空間。
こちらには復元された中ノ門堀があります。



中ノ門とその周囲の空堀は、松平信綱が城主となったおりに、江戸の搦め手を守る要所ということであらたに整備されたものです。
天下泰平が成ってからまだ20年ほどしかたっていないため、あえて時流に逆行して戦闘に備えた縄張りを構えました。



中ノ門にまつわる空堀はかつて3本あり、進撃する兵士の進路を曲げることにより勢いをそぎ、そこに銃弾や弓矢を浴びせるものです。
堀の先には中ノ門が構えておりました。


中ノ門堀の跡地から300メートルほど進むと、左手に川越市博物館が現れ、右手に川越城本丸御殿【埼玉県指定文化財】があります。

 

本丸御殿の入場料は大人100円。

 

はじめ川越城には本丸と二の丸の2ヵ所に御殿がありました。
藩主が居住用に用いたのは二の丸の御殿であり、本丸御殿は3代将軍・徳川家光が鷹狩で来訪した際に使われました。
家光以降の将軍家は川越を訪れることもなく、いつしか本丸御殿は解体されて更地になってしまいました。

ところが弘化3年(1846年)、二の丸御殿が火災によって焼失してしまいました。
城主・松平斉典(なりつね)は、新たな御殿を更地となっていた本丸に建てることとしました。
嘉永元年(1848年)、本丸御殿が完成しました。
当時の川越藩は石高17万石を領しており、本丸御殿の敷地面積は現存の8倍ほどもあったそうです。

明治維新を迎えると川越城は次第に解体されていきましたが、本丸御殿の大広間及び玄関部分は入間郡役所などに流用されました。
本邦で本丸御殿が現存している例はきわめてまれで、昭和42年に埼玉県の指定文化財に登録されました。


 

私個人としては、御殿そのものよりも、御殿から眺める庭に惹かれました。



御殿の離れにあるのは家老詰所です。
明治維新後に民間に払い下げられていましたが、昭和63年に復元移築しました。
往時は他の建物からは独立して土塀に囲まれていたそうです。



川越藩は当時17万石で関東では名だたる雄藩で、しかも徳川家の親戚であるため、幕末の外国の脅威に対して大きな役割を期待されました。
相模国の三浦半島に領地(飛び地)を有していたので、相模国一帯の沿岸警備を負担しました。
ペリーが浦賀に来航すると、沿岸警備は一層強化され、あらたに品川台場の整備費用を負担させられたそうです。

説明書きによると、幕末の沿岸警備の費用負担に頭を悩ませる家老、だそうです。

 

最後に大広間を見て、あっさりと本丸御殿を後にしました。


なお、100名城スタンプは、3年半前に受領済み。



当時は本丸御殿は修復工事をしていて入れず、川越市博物館の受付でもらいました。
現在は本丸御殿の受付でもらえます。
個人的な見解ですが、本丸御殿だけだと驚くほどあっさり終了してしまうので、となりの川越市博物館とセットで訪れるのがいいと思います。


本丸御殿を滞在時間20分で後にしました。
そこから住宅街に分け入り、進むこと約200メートル。



御嶽神社浅間神社がおわす鎮守の森。
ここはかつて川越城の富士見櫓が建っていました。
川越城には天守閣がなかったので、富士見櫓は天守閣の代わりをなしたといいます。

富士見櫓跡のふたつの社で旅の無事を祈願・・・することなく、そのまま川越城を後にしました。



思えばこの日は、旅立ちに参拝するつもりだった氷川神社を詣でず、本丸御殿のそばにある三芳野神社も詣でず、こちらの2社も詣でませんでした。



◆参考文献
川越城本丸御殿 http://museum.city.kawagoe.saitama.jp/hommaru/
川越市博物館 http://museum.city.kawagoe.saitama.jp/
戦国乱世を生きた人々(teltel_woo 様) ~ 北条氏康、死線を潜り抜け関東の雄へと飛躍する





水戸城完全制覇

2014-04-04 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 4 年 3 月 2 9 日 ( 土 )

午 前 1 0 時 5 3 分

水 戸 市 三 の 丸

弘 道 館 公 園









弘道館公園で見事に咲き誇る梅をながめつつ、水戸城登城の仕上げとまいります。



100名城スタンプの絵柄に採用されているのは、まず水戸一高の敷地内に入らないと見られない橋詰門(薬医門)【茨城県指定文化財】。



それに掘りの深い空堀です。



三の丸と二の丸を隔てる切通し、



二の丸と本丸を隔てる切通しもそれぞれ規模の大きな空堀といえますが、どうもスタンプの絵柄の空堀とは違います。


その点についてもしっかり予習をしてきました。
どうも三の丸の北側にあるらしいのです。

・・・・・・何だろう、そのふわっとした情報は。

まぁいいや、いざとなったらスマホさんでググればいいんだ。
そういう軽い気持ちで空堀探しが始まりました。






弘道館公園の裏口?で空堀&土塁のような遺構を発見。





土塁は私の背丈より少々高い2メートル前後ですが、空堀はずいぶん浅い感じがします。
スタンプの絵柄のものとはイメージが違います。



いったん弘道館公園に戻り、孔子廟や鹿島神社を拝んだ後、隣接する茨城県三の丸庁舎の方へ歩いていきました。



茨城県三の丸庁舎は昭和5年に建築された洋風の建造物で、平成11年(1999年)までは本庁舎でした。
ドラマのロケ地としてもよく利用されるそうです。



建物正面中央に懸っている県章は一世代前のものです。



現在の茨城県章はこちら。
いずれも県の花であるバラをモチーフとしたものですが、かつて茨城県民であった身の私としては三の丸庁舎の旧県章のほうがなじみがありますね。





三の丸庁舎の広い駐車場から公道に出るところに、空堀&土塁がありました。







さきほどの空堀&土塁とは段違いの規模を誇ります。
空堀の深さは5メートル超、そして土塁の斜度はかなりのものがあります。

この空堀こそ、スタンプの絵柄として採用されたものに違いありません。


以上で水戸城は完全制覇! と言っちゃっていいのかな(^_^;)




弘道館公園

2014-04-03 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 4 年 3 月 2 9 日 ( 土 )

午 前 1 0 時 5 3 分

水 戸 市 三 の 丸

国 指 定 特 別 史 跡 ・ 弘 道 館



弘道館の敷地を出ました。
これで弘道館は終わり、ではありません。



弘道館の裏手に弘道館公園があり、弘道館の付随施設が置かれ、梅林がひろがっています。
この地図には載っていませんが、学生警鐘と孔子廟の間に鹿島神社の鳥居があり、太い道をたどった先に鹿島神社の本殿が建っています。



弘道館公園も梅の名所として知られています。









1株だけ様子が異なる梅。



強風か何かによっていったんは倒れてしまった梅の木が、なおも生き続け満開の花を咲かせています。
なんという生命力でしょうか。
このような姿も、徳川斉昭(烈公)が梅を愛したゆえんかも知れません。


弘道館の施設を順番に回っていきます。
まずは孔子廟
この日は特別公開で、門内に入ることができ御廟も開いていました。



孔子廟は昭和20年の戦災で焼失し、後に再建されました。
戟門(正門)は焼失を免れ、現存しています。

水戸学は儒教の考え方も受け入れています。(この点で国学とは一線を画すものといわれます)
そのため烈公は弘道館内に孔子廟を建て、孔子、孟子、顔回らを祀りました。


次は鹿島神社です。



鹿島神宮の末社であり、武神・建御雷大神(たけみかづちのおおかみ)をお祀りしています。
水戸学の主張であった尊皇攘夷(皇室を奉じ、外敵を打ち払う)にふさわしいものです。

※「建御雷大神」は「武甕槌大神」とも書きます。前者は古事記上の表記、後者は日本書紀上の表記です。

鹿島神社の境内には烈公御手植えの梅があります。



「鈴梅」という白梅で、鹿島神社の神木となっています。
もともと御手植えの梅は3株あったのですが、戦災のため、「鈴梅」のみが残りました。


お次は種梅記碑です。





烈公が藩主に就任したとき、水戸領内に梅が少ないことを知り、江戸屋敷の梅の実を集め、水戸に送って育てさせたという由来を記した碑文です。


その隣りにあるのが八卦堂です。



八角形のお堂で、中には弘道館記碑が納められています。
この日は特別公開のため、八卦堂の扉は開かれ弘道館記碑が公開されていました。



藤田東湖が考案し烈公が撰文した弘道館記を、常陸太田産の寒水石に刻んだものです。



平成23年の東日本大震災では、八卦堂は無事でしたが弘道館記碑が大きく損壊しました。
この修復が完了したということで特別公開をしていました。


もうひとつの碑文、要石歌碑





日本人が実践すべき太古からの道を歌い上げています。
鹿島神宮にあり地震を起こす大ナマズの頭を押さえているという要石になぞらえています。



歌碑の両脇にあるシイの木もなかなかの大きさです。




鹿島神社の鳥居から出ました。



弘道館の学生に時刻などを知らせた学生警鐘です。
寺院の鐘とは異なり小さめです。
外にあるのはレプリカで、本物は弘道館内の資料室に展示されています。



弘道館公園の敷地は、隣接する茨城県三の丸庁舎の敷地に隣接しています。
行き来も自由なので、弘道館の入口に戻らず、そのまま三の丸庁舎の方へ歩いていきました。