鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

学校の中へ!水戸城本丸

2014-04-01 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 4 年 3 月 2 9 日 ( 土 )

午 前 9 時 2 9 分

水 戸 市 立 第 二 中 学 校 前



水戸城の跡地に設置されている三の丸小学校、茨城大学付属小学校、第二中学校、水戸第三高等学校
小学校はともかく、中学と高校では部活動を絶賛開催中
水戸城跡通りに沿って敷設されているテニスコートでは、女子が独特の掛け声をあげながらソフトテニスをしています。

・・・・・・これは立ち止まったら変質者扱いされるぞ。

そういったある種の緊張感を前に、私は本丸をつなぐ本城橋までたどり着きました。



橋の下は、もともとはひとつの台地であったものを、本丸・二の丸を分けるために掘った切通しです。



現在はJR水郡線が通っています。



それにしても深くて大きい空堀です。


そして橋を渡った先は、



思いっきり水戸一高(茨城県立水戸第一高等学校)の敷地内です!!
橋の前の看板に「水戸一高関係者と史跡見学者以外の通行はご遠慮ください」とありました。
しかしながら、この水戸一高の敷地全体が水戸城の本丸にあたるのです。

意を決して校門を通過し、水戸一高の敷地内に突入!



校門から少し進んだところに建っている橋詰門(薬医門)【茨城県指定文化財】です。



もともとは本城橋のたもと、現在の一高の校門付近に建っていました。
一時水戸市内の寺院に移築されていましたが、再び水戸城本丸の現在地に移されたそうです。


水戸城の築城は古く、馬場資幹すけもとにより1190年代に築かれたといいます。
以後、馬場氏の居城となり、佐竹氏が入城するまでは「馬場城」とも呼ばれていました。

応永23年(1416年)から続いた室町時代の上杉禅秀の乱で、足利幕府方の江戸通房みちふさが馬場城を奪い、以降江戸氏が7代、約170年間城主となりました。

天正18年(1590年)豊臣秀吉小田原攻めで、城主の江戸重通は北条氏側に加担し、太田城(常陸太田市)の佐竹義重・義宣父子は秀吉軍に参陣しました。
これにより佐竹氏は秀吉より常陸一国54万石を与えられ、義重・義宣は江戸氏の籠城する馬場城を攻め、文禄3年(1594年)に重通を追放しました。

義宣はそれまでの居城であった太田城から拠点を移し、城を大改修し、城名もそれまでの馬場城から水戸城に改めました。
ところが義宣は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで、東西どちらにつくか態度をあいまいにしたため、慶長7年(1602年)には徳川家康によって水戸から出羽国秋田に転居させられました。

家康は、水戸を奥州の抑えの地として五男の武田信吉を、翌年信吉が死ぬと十男の徳川頼宣を入城させました。
慶長14年(1609年)頼宣を駿府に移し、末子で十一男の徳川頼房が入城して以降は、廃城まで水戸徳川家の居城となりました。

幕末には水戸藩の藩論が分かれ、改革派の天狗党と保守派の諸生党の対立が起きます。
この対立は明治維新まで続き、明治元年(1868年)には水戸城下で戦闘が行われ、弘道館に立て籠もる諸生党を天狗党が攻撃するなど(弘道館戦争)、血で血を洗う内部抗争に終始してしまいました。
この際に城内の多くの建物が焼失しています。



そして現存する唯一の遺構が薬医門です。
この門をもっとじっくり見ていたかったのですが・・・・・・薬医門の近くにはまたもテニスコート&部活動絶賛開催中ではないか!!

・・・・・・テニス部の視線がこっちに来る前に帰ろう。


水戸城跡通りをこのまま進んで、国道51号に合流。



水戸二中からのルートはこんなもんです。




水戸城の登城はひとまずここまで。





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