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国家・民族・人種などのこと

2005-02-14 | 人間のこと
さて、今回は、ちょっと気ままに、国家や民族、人種などについてのpersonal opinionを綴ってみたいと思います。
まず国家ですが、特定の領域に、同一の法体系によって得られる利益を受ける人の集団と定義します。
逆に言えば、国家とは、人の集団で、その利益を公正に享受させるシステムが法体系であると考えます。
そして国土とは、法体系の及ぶ範囲、領域。
国の資産とは、国土や自然環境を含む物質的存在、制度的社会的存在(法体系や天皇制など)、文化的精神的歴史的存在(思想、芸術はもちろん、ゲームやアニメも含みます)を総合したもの。イコール国民の共有資産。
つまり、国民とは、同一の法体系のもとに、利益を共有する集団ですから、当然、愛国心や帰属意識も共有するわけです。
愛国心も国家の資産だから。なぜかというと、愛国心がしっかりある人が、子供を誘拐して殺したり、傷つけたりしますか?
しませんよね。だって、こどもも利益を共有する仲間だから。大人になったら、スゴイ発明をして、国を救うかもしれないし(空想的だな)、その子供の子孫が、国家の危機を切り抜ける政治家になるかも知れない。未来の自分や自分の子孫のために、どんな子供だって大切に思えるはずです。ツーリストや滞在中の外国籍の子供だって同じ。自分の国を好きになってくれて将来他国の外交官として味方してくれるかも知れない。
愛国心がある人なら、外国でも、恥ずかしいこと、人間性を疑われることはしないに違いない。
だって自分の国の恥でしょう?名誉はプラスの資産だし、恥はマイナスの資産です。
愛国者は自分の国の資産を増やすように行動するはずです。
本当に愛国者ばかりの国家なら、殺人だの詐欺なんて起きないでしょう?
だから、愛国心も国家の資産なのです。

えっ?利益だけで生きてるのかですって?では絶対的な善悪の判断基準はありますか?
自分の属する集団にとっての利益的行動こそが、その集団にとっての善なのではないですか?
孔子は「正しい人は、自然に正しい行動をとる。賢い人は、正しい行動が得になることを知っている」と言いましたが。歴史上、軽蔑される人々は、全て最終的に得になる行動をとっていませんよね。
始皇帝は優れた政治家でした。項羽は優れた将軍でした。しかしどちらも人道的行動をとれなかったから、最終的に国は滅び、軍は敗れたのではないですか?
ヒトラーが、ホロコーストを指示していないとしたら、彼は、単なる敗戦国の長であったのではないですか?
織田信長だって、そうですよね?彼の先見性や合理性より、残酷さのほうが印象深い。
アメリカが嫌われるのは、その拡張主義、覇権主義のせいじゃないですか?
中国が嫌われるのは、中華意識のせいではないですか?
みんな、孔子の言葉を借りれば仁とか忠恕とかいうものと違うから、好まれない。

まあ、その他の視点もありますし、もっとtypicalな例もあると思います。
でも、上の例は、多くの人が強く否定できないことだと思います。

そうした視点で民族や人種について考えると、人種は外形的な相違を表すだけで、生物学的相違ではない。
民族は血統的な集団の概念と地理的・文化的集団の概念が場合により複雑に混交したものです。
みなさんも、イスラエルのユダヤ人が古代のユダヤ人と同系の人間集団とは思わないですよね。
大和民族が、北、西、南からの諸民族、諸部族の複合体であることは御存知ですよね。

つまり、人種とか民族なんて、その程度のもの。あなたは、反日的な日本人と、日本を愛している善良なムスリムと、どちらが日本国民に相応しいと思います?
答えは簡単ですよね。
逆に、自分の国が、自分や家族を守ってくれないとしたら、そんな国に愛国心を感じるでしょうか?
愛国心を踏みにじる教育をされたり、不公正な国家資産の配分がなされたり、治安が十分に維持されなかったり、美しい自然が平然と破壊されたりしたら、それでも愛国心を感じますか?
私は無理ですね。
はっきり言って、ある限界を超えたら、住みやすい国に移住しますし、その国に愛国心を感じたら、ためらいなく帰化しますね。

私にとっての愛国心とか、帰属意識とは、そういったものです。
共感されない方も大勢いると思います。
例えば、何度も書いてきました、歴史の問題。
私は、自分で日本の歴史を書くなら、公正な視点で愛国的な歴史を書きますね。
公正な視点というのは、別にすべての国に平等な、とか中立な、とか言うことではありませんので。
ですから、外国がどんな歴史を書いて教育しようが、全然平気です。
それぞれの国が愛国的教育をするのが当然だからです。
むしろ学問的に不公正な視点で歴史を書いて、教育すれば笑われるのはその国の人です。
それは、その国の問題。
もし日本がもっともっとダメになって、他国に帰化したら、その国の視点で歴史を書きます。
パラオの国民になったら、日本人でいる時より、もっと親日的な歴史を書くかもしれない。

そう言った感覚がわからない人が多いのが、東アジアの人達であり、これが中国歴代王朝における“正史”の存在と無縁ではない、というのが私の仮説で、これは既に書きました。

私にとって重要なのは、そういった学問の根本にかかわる問題で、実は、あんまり個別具体的な問題を論じる気はないのです。少なくともNET上では。
私の専門は考古学方法論(歴史解釈学を含む)ですよ、と表明したのは、その為です。
良く誤解されますが、別に歴史上の知識が豊富なわけではない。
どういう風に研究するのが妥当であるか、その方法を知っている、ということです。
良く、この部分を逸脱して、不公正な意見を述べちらかして、皆さんに御不快の念を生ぜしめているのですが(この点はお詫びします)。

というわけで、自分が変わり者(?)なので、人種的にも、民族的にも、国籍でも、宗教でも身体的特徴でも、差別意識は全くありません。
どの国の、どの民族にも、好きになれない人はいますし、友人にしたい人もいる。
むしろ、そういった、好き嫌いは人一倍激しいかも知れない。
でもそれが、単なる個人的志向であることを判っていますから、普遍化する気はありません。

嫌いなタイプの美人といるより、犬といた方が良い。
また、利益的、ということから、ゼニゲバ(古い!)に見られても困る。
100兆円でも1000兆円でも、自分の家族とは引き換えにできない。
人道主義かも知れないが、利己主義でもある。
自分の娘と引き換えに、1億人が助かるといわれても、自分の娘を守ります。
それで1億人死んでも、そんな状況におちいった、その人達の自己責任。
他人の子供のためにホームから線路に飛び降りるかも知れないが、それはそれ。

支離滅裂?人間ってそんなもんでしょう。
みんな独自だし、みんな個性的、みんな状況のなかで対応している。
それを認めるのが人道主義だと思う。

次回は、もっと具体的な事を書きます。



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