神話の世界から降りてきたニコン
2007年10月31日 NB ON LINE 鶴岡 弘之
ニコンが劇的な復活を遂げた。その復活のさまは、まさに「どん底から這い上がった」という表現がふさわしい。
ニコンの連結売上高と営業利益の最終損益の推移
2002年3月期、2003年3月期と2年連続の最終赤字に直面した。追い詰められた状況の中で、経営改革に着手。次年度以降、業績は右肩上がりで回復し、2007年3月期は過去最高の売上高と利益を達成した(売上高が8228億円、営業利益が1020億円、最終利益が548億円)。2008年3月期は、さらなる更新を見込む。
戦場で生まれた数々の神話
いわゆる「ニコン神話」というものがある。「ニコンほど頑丈なカメラはない」──。数々の伝説的なエピソードによって、ニコンのカメラはそのタフネスぶりが語り継がれてきた。例えば次のようなエピソードである。
・朝鮮戦争当時、報道カメラマンたちがニコンのカメラを戦場に持参。極寒の中でライカやコンタックスといったドイツ製カメラはシャッターが切れなくなったが、ニコンのカメラだけは動き続けた。
・ベトナム戦争の戦場に行った報道カメラマンが被弾。胸に下げていたチタンボディーのニコンFが銃弾を受け止めたおかげで、カメラマンは一命を取り留めた。
・飛行機が墜落した現場から、遺品としてニコンのカメラが出てきた。炎に包まれた様子だったが、中のフィルムは無事だった。現像するときちんと写真が写っていた──。
こうした様々なエピソードによって、ニコンは神話の世界に君臨するようになった。神話がつきまとう日本の会社はニコンだけではない。かつては「ソニー神話」もあれば「ホンダ神話」もあった。だが、ニコンの場合は一線を画している。
ソニーやホンダは、奇跡的な成長ぶりが、創業者の強烈なキャラクターとともに、あたかも神話のように語られた(ホンダの場合はF1における活躍も神話だった)。だがニコンは企業としての成長ぶりが際立っていたわけではない。神話はもっぱらニコンの製品、つまりカメラそのものについてまわっていた。
だからソニーやホンダと比べると、ニコンという会社の内側はなかなか見えてこなかった。製品が放つ光があまりにも強すぎたからかもしれない。
設計者が神様のようだった
では、ニコンとはどのような会社だったのか。一言で言えば、「“実直、真面目”を絵に描いたような、頑固なまでの技術者集団」ということになるだろう。ニコンと聞くと多くの人は「技術力の会社」だと思い浮かべる。それは決して間違いではなく、一般的なイメージを上回るほど徹底的に技術志向の会社だった。
社内では設計者がまるで神様のような存在だった。新商品を開発する際は、設計者が作りたいように作る。あくまでも自分たちが理想とするカメラの完成形を追い求めるのだ。
だからこそ、ニコンのカメラは多くのプロカメラマンたちの信頼を得ることができた。だが「良いものを作れば売れる」という設計者たちの姿勢は、“独善”と表裏一体だった。設計者は外部の意見に耳を傾けることはせず、外部の人間と議論をする風潮もなかった。組織として風通しが悪く、硬直していたのである。
結果的に、消費者の目線で商品を開発するという姿勢がおろそかになっていた。消費者がどのような商品を求めているのかを調査し、そのニーズに合った商品を開発したり、今までにない商品を提案して、市場を押し広げようという発想が見られなかった。
また、コストに対する意識も欠けていた。「より良い性能を実現するためには、コストがかかっても仕方がない」という考えが設計者たちを覆っていた。メーカーなら当然あって然るべき「良い製品を安く作る」という発想がなかった。
かつて木村眞琴専務・映像カンパニー プレジデントが、一眼レフカメラの最高機種「ニコンF3」(1980年発売)を設計した時のことだ。設計が大詰めを迎えた段階で上司から受けた指示は、「コストは無視してかまわない。性能1本で行け!」というものだった。自動車メーカーをはじめ、他の多くの製造業のメーカーがコストダウンに心血を注ぐ中、コスト度外視で商品を開発していた。神話の世界にいたニコンは、経営においても普通の会社とは別世界にいた。
このままでは会社が破綻する
こうした経営体質が壁に突き当たるのは、自然の成り行きだったのかもしれない。その弊害は、まずステッパー(半導体や液晶の製造に用いる縮小投影型露光装置)事業に表れた。
2001年、半導体不況がステッパー事業を直撃する。ニコンはカメラ事業で培ったレンズ技術を生かして、1980年からステッパー事業に参入。2000年度にはステッパー事業を擁する精機事業の売上高が全体の49%を占めるまでの主力事業になっていた。しかし、ステッパー事業は半導体業界の好不況の波(シリコンサイクル)に大きく左右される。ニコンには、その波を乗り切るだけのコスト対応力がなかった。ステッパー事業の不振が大きく響き、2002年3月期、2003年3月期と、ニコンは2年連続の最終赤字に陥った。
ニコンの苅谷社長
「このままシリコンサイクルに振り回されていたら、いつか会社は破綻してしまう」──。強い危機感を抱き、改革ののろしを上げた人物がいた。現在、社長を務める苅谷道郎氏だ。
「当時、私は映像カンパニープレジデントとしてカメラ事業を任されていました。カメラ事業はデジタルカメラの需要拡大に支えられ、利益を出していた。ところが、ステッパー事業の落ち込みがひどかった。私は見るに見かねて、“一体あなた方は何をやっているんだ”と、当時の社長、会長を責め立ててしまったんです。すると、それだけのことを言うなら自分で立て直してみろと言われまして、ステッパー事業の改革に臨んだというわけです」。2002年10月、苅谷氏は異動。ステッパー事業を擁する精機カンパニーのトップ(プレジデント)に就任した。
コミュニケーションと議論がなかった社内
喫緊の課題はコスト体質の改善だった。だが苅谷氏はその実現のために、もっと根本的な問題から手をつけることにした。硬直していた組織風土の改革である。「私一人で事業の立て直しをできるとは、思っていませんでした。社内外にはいろいろな改善のアイデアが眠っていた。でも、それまでのニコンは、そうしたアイデアを集めて生かすという風潮がなかった」。
例えば、商品開発には設計部門の人間だけではなく、工場、部品を製造する協力会社など、いろいろな立場の人間が携わる。だが、そうした異なる組織の人間同士が議論する機会は、ニコンにはほとんどなかった。そこで苅谷氏は、いろいろな立場からの意見をどんどん言わせるようにした。すると、コストダウンのアイデアが次々と出てきた。そうしたアイデアをどんどん取り入れることで、あるモジュールは、性能を維持したまま、部品点数が以前の10分の1になり、値段も10分の1で作れるようになった。
また、現場の声を生かす改革も行った。当時、設計現場や製造現場では、いろいろな技術的な問題が発生していた。その解決のために、役員たちが毎週のように現場に行って自らチェックしていた。苅谷氏は、役員たちのそうした行動が大きな問題だと考えた。なぜならば現場の自由な意見が抑えられてしまうからである。そこで苅谷氏は役員たちに言った。「あなたたちが行ってはダメです。現場に好き勝手にやらせてみてほしい」。
「現場の技術者に話を聞くと、いいアイデアがたくさんあるんです。理論を飛び越えたような天才的なアイデアもある。技術者たちはそれを言いたくて、うずうずしている。そういうアイデアを実際にやらせてみたら、いろいろな問題がどんどん解決できるようになったのです」
こうしてステッパー事業は、半導体不況の影響を最小限に抑え、確実に利益を生み出せる体質に生まれ変わっていく。
ステッパー事業の改革は、他の事業にも波及していった。事業ごとの社内カンパニー制を取っていたニコンでは、従来、カンパニー間に見えない「壁」が存在していたという。苅谷氏は技術者たちに連携を呼びかけるとともに、人事交流などを積極的に行い、組織の壁をなくしていった。その結果、ステッパーのレンズ技術やコストダウンに関するノウハウが、カメラ事業や、顕微鏡や測定機の事業などにどんどん流れ、活用されるようになった。
意見を曲げずに3度も左遷された
こうした組織風土改革が成功したのは、苅谷氏の人となりや仕事の進め方に負うところが極めて大きいと思われる。
苅谷氏には、表向きの経歴書には表れてこない、全く人とは違う経歴がある。なんと3回も左遷されたことがあるのだ。苅谷氏は若い頃から、相手の役職や立場などおかまいなく、誰にでも正しいと思う意見をぶつけてしまう社員だった。会社や組織のどこに問題があるのか、どうすれば良くなるのかを常に書き留め、徹底的に考えていた。だから引くことをよしとしない。その妥協のなさが上司にとってはうとましく、生意気だと思われる。揚げ句の果てには飛ばされるというわけだ。
「一番飛ばされたのは、課長時代に副社長とけんかした時かな。窓際というよりも、ほとんど窓の外まで飛ばされた(笑)」
部下は誰もいなくなり、仕事も取り上げられた。やることがないので、昼間はずっと調べ物をしていたという。図書館に行ったり、社内の資料を漁って、レンズの技術の進展や品質管理の方法を調べた。いつの間にか、いろいろな技術分野の専門家になっていた。
就業時間が終わると、誰よりも早く家に帰る。そして趣味に没頭した。「時間を持て余していましたから。ガレージにこもってヨットの自作です。おかげでヨットを2隻作ることができました」
普通は3度も飛ばされたらすっかりやる気をなくして、会社を辞めてしまうものではないだろうか。しかし、苅谷氏はへこたれない。「飛ばされても、必ず誰かが見てくれていると思っていたんです。いつか必ずどこかで自分が必要になると。そして、いつも実際にその通りになった」。
苅谷氏はどんな境遇になっても、「どんどん意見をぶつけ合って、議論すべし」という信念を曲げない。この信念が、ニコンを大きく変えることになった。
次回(11月16日に公開予定)は、カメラ事業の改革を見ていく。カメラがフィルムからデジタルへと移り変わったのに伴い、過去の「神話」だけでは生き抜いていけなくなった。ニコンのカメラ事業の最大の課題は、マーケティング力とコスト対応力を高めることにあった。
(日経ビジネスオンライン 鶴岡 弘之)
・・・・・・・・・・
コスト度外視ね。
ホント、今では笑うしかないけれど、ニコンのレンズって値段がすごいですよ。
今では素晴らしいレンズメーカーに成長した、タムロン、シグマ、トキナーなどの製品の倍の価格は当たり前。
実際の販売価格は3倍なんてことも多かった。
まぁ、それでもライカの純正品よりは安かったりして、何となく納得させてくれるモノではあった。
中古品の市場が確立していて、純正品ならお金に困った時に売るのも簡単でしたね。
私もニコンF2ASって言うボディを持ってます。
名器とされるニコンFよりも使いやすく、同じくらい丈夫です。
露出計も信頼できる。
かなり稼ぎましたね。
あのカメラで。
スレーブユニットを使って、普通では撮影できないような写真も撮りました。
発掘調査って良いバイトでしたが、今はどうなんでしょうね。
2007年10月31日 NB ON LINE 鶴岡 弘之
ニコンが劇的な復活を遂げた。その復活のさまは、まさに「どん底から這い上がった」という表現がふさわしい。
ニコンの連結売上高と営業利益の最終損益の推移
2002年3月期、2003年3月期と2年連続の最終赤字に直面した。追い詰められた状況の中で、経営改革に着手。次年度以降、業績は右肩上がりで回復し、2007年3月期は過去最高の売上高と利益を達成した(売上高が8228億円、営業利益が1020億円、最終利益が548億円)。2008年3月期は、さらなる更新を見込む。
戦場で生まれた数々の神話
いわゆる「ニコン神話」というものがある。「ニコンほど頑丈なカメラはない」──。数々の伝説的なエピソードによって、ニコンのカメラはそのタフネスぶりが語り継がれてきた。例えば次のようなエピソードである。
・朝鮮戦争当時、報道カメラマンたちがニコンのカメラを戦場に持参。極寒の中でライカやコンタックスといったドイツ製カメラはシャッターが切れなくなったが、ニコンのカメラだけは動き続けた。
・ベトナム戦争の戦場に行った報道カメラマンが被弾。胸に下げていたチタンボディーのニコンFが銃弾を受け止めたおかげで、カメラマンは一命を取り留めた。
・飛行機が墜落した現場から、遺品としてニコンのカメラが出てきた。炎に包まれた様子だったが、中のフィルムは無事だった。現像するときちんと写真が写っていた──。
こうした様々なエピソードによって、ニコンは神話の世界に君臨するようになった。神話がつきまとう日本の会社はニコンだけではない。かつては「ソニー神話」もあれば「ホンダ神話」もあった。だが、ニコンの場合は一線を画している。
ソニーやホンダは、奇跡的な成長ぶりが、創業者の強烈なキャラクターとともに、あたかも神話のように語られた(ホンダの場合はF1における活躍も神話だった)。だがニコンは企業としての成長ぶりが際立っていたわけではない。神話はもっぱらニコンの製品、つまりカメラそのものについてまわっていた。
だからソニーやホンダと比べると、ニコンという会社の内側はなかなか見えてこなかった。製品が放つ光があまりにも強すぎたからかもしれない。
設計者が神様のようだった
では、ニコンとはどのような会社だったのか。一言で言えば、「“実直、真面目”を絵に描いたような、頑固なまでの技術者集団」ということになるだろう。ニコンと聞くと多くの人は「技術力の会社」だと思い浮かべる。それは決して間違いではなく、一般的なイメージを上回るほど徹底的に技術志向の会社だった。
社内では設計者がまるで神様のような存在だった。新商品を開発する際は、設計者が作りたいように作る。あくまでも自分たちが理想とするカメラの完成形を追い求めるのだ。
だからこそ、ニコンのカメラは多くのプロカメラマンたちの信頼を得ることができた。だが「良いものを作れば売れる」という設計者たちの姿勢は、“独善”と表裏一体だった。設計者は外部の意見に耳を傾けることはせず、外部の人間と議論をする風潮もなかった。組織として風通しが悪く、硬直していたのである。
結果的に、消費者の目線で商品を開発するという姿勢がおろそかになっていた。消費者がどのような商品を求めているのかを調査し、そのニーズに合った商品を開発したり、今までにない商品を提案して、市場を押し広げようという発想が見られなかった。
また、コストに対する意識も欠けていた。「より良い性能を実現するためには、コストがかかっても仕方がない」という考えが設計者たちを覆っていた。メーカーなら当然あって然るべき「良い製品を安く作る」という発想がなかった。
かつて木村眞琴専務・映像カンパニー プレジデントが、一眼レフカメラの最高機種「ニコンF3」(1980年発売)を設計した時のことだ。設計が大詰めを迎えた段階で上司から受けた指示は、「コストは無視してかまわない。性能1本で行け!」というものだった。自動車メーカーをはじめ、他の多くの製造業のメーカーがコストダウンに心血を注ぐ中、コスト度外視で商品を開発していた。神話の世界にいたニコンは、経営においても普通の会社とは別世界にいた。
このままでは会社が破綻する
こうした経営体質が壁に突き当たるのは、自然の成り行きだったのかもしれない。その弊害は、まずステッパー(半導体や液晶の製造に用いる縮小投影型露光装置)事業に表れた。
2001年、半導体不況がステッパー事業を直撃する。ニコンはカメラ事業で培ったレンズ技術を生かして、1980年からステッパー事業に参入。2000年度にはステッパー事業を擁する精機事業の売上高が全体の49%を占めるまでの主力事業になっていた。しかし、ステッパー事業は半導体業界の好不況の波(シリコンサイクル)に大きく左右される。ニコンには、その波を乗り切るだけのコスト対応力がなかった。ステッパー事業の不振が大きく響き、2002年3月期、2003年3月期と、ニコンは2年連続の最終赤字に陥った。
ニコンの苅谷社長
「このままシリコンサイクルに振り回されていたら、いつか会社は破綻してしまう」──。強い危機感を抱き、改革ののろしを上げた人物がいた。現在、社長を務める苅谷道郎氏だ。
「当時、私は映像カンパニープレジデントとしてカメラ事業を任されていました。カメラ事業はデジタルカメラの需要拡大に支えられ、利益を出していた。ところが、ステッパー事業の落ち込みがひどかった。私は見るに見かねて、“一体あなた方は何をやっているんだ”と、当時の社長、会長を責め立ててしまったんです。すると、それだけのことを言うなら自分で立て直してみろと言われまして、ステッパー事業の改革に臨んだというわけです」。2002年10月、苅谷氏は異動。ステッパー事業を擁する精機カンパニーのトップ(プレジデント)に就任した。
コミュニケーションと議論がなかった社内
喫緊の課題はコスト体質の改善だった。だが苅谷氏はその実現のために、もっと根本的な問題から手をつけることにした。硬直していた組織風土の改革である。「私一人で事業の立て直しをできるとは、思っていませんでした。社内外にはいろいろな改善のアイデアが眠っていた。でも、それまでのニコンは、そうしたアイデアを集めて生かすという風潮がなかった」。
例えば、商品開発には設計部門の人間だけではなく、工場、部品を製造する協力会社など、いろいろな立場の人間が携わる。だが、そうした異なる組織の人間同士が議論する機会は、ニコンにはほとんどなかった。そこで苅谷氏は、いろいろな立場からの意見をどんどん言わせるようにした。すると、コストダウンのアイデアが次々と出てきた。そうしたアイデアをどんどん取り入れることで、あるモジュールは、性能を維持したまま、部品点数が以前の10分の1になり、値段も10分の1で作れるようになった。
また、現場の声を生かす改革も行った。当時、設計現場や製造現場では、いろいろな技術的な問題が発生していた。その解決のために、役員たちが毎週のように現場に行って自らチェックしていた。苅谷氏は、役員たちのそうした行動が大きな問題だと考えた。なぜならば現場の自由な意見が抑えられてしまうからである。そこで苅谷氏は役員たちに言った。「あなたたちが行ってはダメです。現場に好き勝手にやらせてみてほしい」。
「現場の技術者に話を聞くと、いいアイデアがたくさんあるんです。理論を飛び越えたような天才的なアイデアもある。技術者たちはそれを言いたくて、うずうずしている。そういうアイデアを実際にやらせてみたら、いろいろな問題がどんどん解決できるようになったのです」
こうしてステッパー事業は、半導体不況の影響を最小限に抑え、確実に利益を生み出せる体質に生まれ変わっていく。
ステッパー事業の改革は、他の事業にも波及していった。事業ごとの社内カンパニー制を取っていたニコンでは、従来、カンパニー間に見えない「壁」が存在していたという。苅谷氏は技術者たちに連携を呼びかけるとともに、人事交流などを積極的に行い、組織の壁をなくしていった。その結果、ステッパーのレンズ技術やコストダウンに関するノウハウが、カメラ事業や、顕微鏡や測定機の事業などにどんどん流れ、活用されるようになった。
意見を曲げずに3度も左遷された
こうした組織風土改革が成功したのは、苅谷氏の人となりや仕事の進め方に負うところが極めて大きいと思われる。
苅谷氏には、表向きの経歴書には表れてこない、全く人とは違う経歴がある。なんと3回も左遷されたことがあるのだ。苅谷氏は若い頃から、相手の役職や立場などおかまいなく、誰にでも正しいと思う意見をぶつけてしまう社員だった。会社や組織のどこに問題があるのか、どうすれば良くなるのかを常に書き留め、徹底的に考えていた。だから引くことをよしとしない。その妥協のなさが上司にとってはうとましく、生意気だと思われる。揚げ句の果てには飛ばされるというわけだ。
「一番飛ばされたのは、課長時代に副社長とけんかした時かな。窓際というよりも、ほとんど窓の外まで飛ばされた(笑)」
部下は誰もいなくなり、仕事も取り上げられた。やることがないので、昼間はずっと調べ物をしていたという。図書館に行ったり、社内の資料を漁って、レンズの技術の進展や品質管理の方法を調べた。いつの間にか、いろいろな技術分野の専門家になっていた。
就業時間が終わると、誰よりも早く家に帰る。そして趣味に没頭した。「時間を持て余していましたから。ガレージにこもってヨットの自作です。おかげでヨットを2隻作ることができました」
普通は3度も飛ばされたらすっかりやる気をなくして、会社を辞めてしまうものではないだろうか。しかし、苅谷氏はへこたれない。「飛ばされても、必ず誰かが見てくれていると思っていたんです。いつか必ずどこかで自分が必要になると。そして、いつも実際にその通りになった」。
苅谷氏はどんな境遇になっても、「どんどん意見をぶつけ合って、議論すべし」という信念を曲げない。この信念が、ニコンを大きく変えることになった。
次回(11月16日に公開予定)は、カメラ事業の改革を見ていく。カメラがフィルムからデジタルへと移り変わったのに伴い、過去の「神話」だけでは生き抜いていけなくなった。ニコンのカメラ事業の最大の課題は、マーケティング力とコスト対応力を高めることにあった。
(日経ビジネスオンライン 鶴岡 弘之)
・・・・・・・・・・
コスト度外視ね。
ホント、今では笑うしかないけれど、ニコンのレンズって値段がすごいですよ。
今では素晴らしいレンズメーカーに成長した、タムロン、シグマ、トキナーなどの製品の倍の価格は当たり前。
実際の販売価格は3倍なんてことも多かった。
まぁ、それでもライカの純正品よりは安かったりして、何となく納得させてくれるモノではあった。
中古品の市場が確立していて、純正品ならお金に困った時に売るのも簡単でしたね。
私もニコンF2ASって言うボディを持ってます。
名器とされるニコンFよりも使いやすく、同じくらい丈夫です。
露出計も信頼できる。
かなり稼ぎましたね。
あのカメラで。
スレーブユニットを使って、普通では撮影できないような写真も撮りました。
発掘調査って良いバイトでしたが、今はどうなんでしょうね。