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私の天皇論

2009-11-12 | 概念規定
最近、面白いなと思った本に『対話・日本人論』(林房雄+三島由紀夫)があります。
昭和の(ある意味で)代表的な二人の文学者の対談で、しかも非常に突っ込んだ内容が話されており、なかなかにスリリングであります。
特に三島由紀夫に関しては、私は小説家としては評価して来ましたが、思想家としては全く興味が無かったので(この点、文学者としては全く興味が持てない石原慎太郎さんと逆ですね)いわゆる目からウロコと言いますか、なかなか面白い人だなぁと感じるところがありました。

で、中で林房雄が言った言葉に「日本の知識人は天皇論を避けて通ってはいけない」というのがありまして、私もまとめておこうと言う気持ちになりました。
丁度うれしい事に、SAPIO誌上では小林よしのりさんが天皇論を連載開始されています。
いつも通り、読者の皆様の“考え事のきっかけ”になればと思っています。


天皇について論じる場合、その切り口はいろいろに考えられます。
①初源論(いつ、どのように始まったのか)
②政治的制度論(天皇制という制度は何ぞや)
③歴史的機能論(日本の歴史の中で果たしてきた機能は?)
④文化論(日本文化に於ける天皇制は?宗教的側面を含む)
⑤法的意味論(法的な天皇の意味は?)
これらの切り口全てを論じることは、この場では難しいので、それに拘らず、私の立ち位置だけでも明らかにしながら、皆様と一緒に考えて行こうと思います。

以前にも述べたことですが、天皇家の紋章と言われる所謂“菊の御紋章”は、私は太陽紋だと確信しています。
また天皇家と非常に関わりが深い神社の鳥居は、古代中国の商帝国に於ける家の門の形に非常に似ています。
商帝国は太陽信仰と言って良いので、菊の紋章も符号します。
そして恐らく日本米の起源は揚子江流域にあり、また宮中の祭事に用いる4つ目の仮面の原型は、古代の蜀、揚子江文明(例えば三星堆文明)の仮面と関係があります。
また所謂、徐福伝説。
そして古事記、日本書紀の記述や古墳から出土する遺物の類似性から想定される古代朝鮮半島文化との関係性。
あるいは中国の史書の記述に於ける倭国の南方的太平洋的要素の重要性。
同時に宮中を始め、神道の祭祀に於ける海洋的要素の重要性。
また特に考古遺物からの縄文文化(及びその後の文化)に於ける蝦夷的要素、アイヌ的要素との緊密な類似性・関係性。
これらの状況証拠を総合すると、縄文時代を含めた非常に長い年月をかけて、育まれた日本文化には、大陸的・半島的・太平洋的・東北アジア的側面・アイヌ的側面があり、その上に厩戸皇子に見られるキリスト教的要素、仏教を始めとする南アジア的要素、秦氏や籠目紋などに見られる中央アジア的要素もあり、また山形県の海岸で出土したスキタイの短剣に見られる中東的要素も含まれ、極めて多様性に富んだものであることは間違いが無いでしょう。
しかし、それらの多様性とは別に、なかなか特異性に富んだ“日本語”と言うシステムが全体を統一しているわけです。
日本書紀を読んでも方丈記を読んでも東海道中膝栗毛を読んでも、程度の差こそあれ我々が理解できるのも、この“日本語”という、文化の中心で全てを束ねる強力なツールのお陰です。
そして天皇とは、この巨大な複雑系の中で(卑弥呼以来)1800年もの間行われてきた祭祀の主催者であり依代であり、またその御位であり、その御位に就かれた方(まぁ、天皇陛下の場合、位に就くという表現は妥当では無いのかも知れませんが)のことを示す言葉であると言って良いでしょう。
言わば、日本文化総体は日本語によって制御され、天皇によって象徴されてきたと言っても良いのかも知れません。

但し歴史のある時期に於いて、天皇の祭祀王としての性格に対応する、女性の斎王の存在もありました。
恐らくは天照大神(≒卑弥呼)=伊勢神社の大神から連なる系譜には女性祭祀的な要素が抜きがたく存在していたためでしょう。
ではその場合の男子の帝王の役割は何なのか?魏志倭人伝に於ける卑弥呼に対する男弟の存在が考えられるでしょう。神界と人界の媒介者である斎王の言葉を人間に分かるように翻訳する人間。
あるいは推古天皇に対する聖徳太子の立場も、そうであったのかも知れません。
と考えると、男子の天皇の歴史的機能とは祭祀の主催者であり総括者であり判定者であったのでしょう。
それがいつしか祭祀の実行者にして自らが依代たるべき立場に変わっていった。
それが最も強力に発揮されたのが、明治維新というイベントに於いてであったのかも知れません。
少なくとも京都にひっそりとおられた人間の祭祀皇帝が東京に移った後、俄かに神と人との媒介者としての機能をあからさまに発揮し始めたという側面は否めません。

これは、当時の絶望的な孤立無援の状態、人種差別が当たり前の“世界”の中で、たった一人、有色人種の国家として独立を保つための形振り構わぬ文化変容であったのかも知れません。

元々、その(縄文時代の)人口に較べて極めて豊かであった日本列島は、将に「いつでも何とかなる」クニでした。
つまり決断を必要としない文化が醸成されてきたわけです。
それはそれは伸びやかなものだったでしょう。
恐ろしいのは天災や病気や事故のような、言わば「人智の及ばぬ」領域のみだったのですから。
でもそれは手の届かない「神」の領域ですから、お祭りして忘れてしまう。

戦争での死者には過敏とも言える反応をするのに、交通事故の死者に対しては(少なくとも共同体としては)非常に無神経な国民性の深源は、ここにあるのかも知れません。
そして決断を必要としない風土が培った、お祭りして忘れてしまう国民性こそが、今日も政治を始めとするあらゆる分野に於いて、日本を束縛しているのかも知れません。

弥生時代~古墳時代ってのは案外、政治的には激動の時代で、ここで確固としたポジションを築いたのが古代の天皇家でした。
といっても、当時からどちらかと言うと物部や大伴、蘇我などの有力な豪族に守られていた存在ではあったようですが。
つまり権威者ではあるが権力者としてはどうなのか?
むしろ物部なんていう氏族ってのは、軽く天皇の一族に数倍する武力を持っていた可能性があります。
つまりは、当時から祭祀長としての意味合いが強かったのかも知れません。
そう考えると、平安以降、武家に政権が移ろうが、明治以降、所謂近代的な国家システムが国を統治しようが、これ全く影響は無かったわけですね。
権威ある祭祀王としての天皇には。

決断しない文化の民の歴史の中で、それでも何人か決断した、あるいは決断できる言わば英雄と言うかトリックスターと言うか、そう言った人間も現れました。
一人は聖徳太子であり、一人は織田信長、そして最後に現れた人々は明治維新を成し遂げました。
聖徳太子は和魂漢才を推し進め(ながら隋王朝からの完全独立を目指し)た人ですし、織田信長は後の明治維新を用意した人であります。そして明治の群像は、将に神国たる日本を白人諸国家の侵略から守った偉人でありました。

先に述べた三島由紀夫との対談に於いて、林房雄が述べていることですが、明治の偉人達に共通していたのは、実は攘夷の一事なんですね。
ただ違っていたのは、開国して和魂洋才を成し遂げてから諸外国に対抗しようとしたか否か、という一点で、そもそも尊王も佐幕も大差は無いんですよね。
だって徳川家ってのは尊王なんだから。
もちろん天皇家の権威を恐れてもいましたけど。
しかし、当時の心ある日本人のすべてが、そう思う程、当時の清やインド(というか有色人種)に対する欧米の遣り口ってのはヒドイものでした。
それを同時代に見て、聞いて、彼らは知っていたわけです。
だから攘夷は攘夷に決まってた。開国論者も。
だから大東亜聖戦末期、アメリカ軍、ロシア軍に侵略された日本人は自殺者が続出したわけですよ。
死んだ方がましと言うことを知っていたから。
これまで戦って、抵抗してきた誇りが許さなかったんですね。

この辺は加害者である白人諸国の人間には理解しようも無いでしょう。
彼らには開国派は通商派でそれ以外は鎖国派としか認識できない。
この辺の認識の在り方ってのは、将にGHQの洗脳が上手く言ってるかどうかの試金石でもありますよね。
自虐史観の連中ってのは、この辺が分かってない。
アメリカや中国に媚びる現在の経済界の連中もです。
同じ日本国民や日本の文化にはあんなに冷たいのに、外国人との友好にあれ程心を砕く人間の気が知れませんね。
彼らは当時の有色人種の痛みを分かっていないのですね。
まぁ教養が無いから自国の良さが分からないというのもありますが。
私はヨーロッパの文化を尊敬してはいますが、白人が有色人種に騎士道精神を発揮するなんて、想像したこともありません。
これは文化であり伝統の問題ですから。
彼らの自覚を待つしか無いんですよ。
いや、永劫の未来かもなのですけれどね。
アボリジニーをアウシュビッツのユダヤ人より酷く扱ったオーストラリア人達が、何の冗談か「クジラを殺すな!クジラを喰う日本人は野蛮だ!」ですから。
まぁ、馬鹿馬鹿しくて。どの口で?ってことですよね。
この辺はアメリカの白人もご同様です。特にWASPはね。
運命的に正しいと思い込んでる、言わば、お病気の方々ですから。
この辺のことがちゃんと認識出来ない人は、もう幕末から明治・大正・昭和の世界史の流れは理解出来ないんですね。
例えば、幕末のサムライが白人諸国で賞賛されたのは当然なんです。
だって軽蔑していたわけだから。
虫唾が走るほど嫌悪していたと言い換えても良いですが。
高貴に見えるし堂々としてもいたでしょう。
彼らはどっちが野蛮か知っていたわけだから。

だから天皇だったのですね。
神仏に頼るほど恐ろしかったのですよ。
有色人種にとって、当時の白人諸国は。
だから祭祀王であり名君である、法的にも守られた天皇を欲したのですね。
欧米人の“権威”とか“由緒”とかに対抗するには、やはり我が国の文化とか尊厳の精髄たる部分を出すしか無かったんでしょうね。
つまり、幕末の偉人たちにとっても何かに縋らざるを得ない世界史的状況というモノが厳然とあったわけで、それを責めることなんか誰にも出来ない、ましてやちょっとした宗門の門主さん程度の生活をしていた天皇が、望んだわけでも無く、まさに祀り上げられてしまったわけで、これについては本当に御可愛そうだと(まぁ、こんな庶民感覚の感想は的が外れているのを承知の上で言えば)言うしかないでしょう。
勿論、どちらにも責任なんぞあるわけも無く、良くぞ頑張って下さった、良くぞ耐えて下さったと後世の我々は感謝する以外にないのです。
特に天皇陛下始め皇族の皆様には申し訳なしとお詫びするしかありません。
そして何ものかに縋らずに居られなかった日本の象徴として、今後も申し訳ないけれども耐えて戴くしか無いのです。
しかし、我々がタスマニアアボリジニーの運命を辿らずに済んだのは、まさにこうした先人のご苦労のお陰なのだと言うことだけは、再確認しておきたいと思います。

よく言うことですが、この時代の日本のうら寂しい状況を思えば、現在日本の状況なんてのは極楽みたいなものなので、我々国民が智慧を出せば何でも解決できるのです。
不況だ経済危機だと大騒ぎするのは、単なる欲に駆られた連中が我欲をはっているからに過ぎないと思います。
一部の見識無き経営者層が問題なだけなのです。
日本人を数万単位で首切ろうという時に、労働力が必要だから1000万人の移民を受け入れろなぞと言うのは、将に亡国、無責任以外の何物でもない考えだとしか言えません。

閑話休題。

こうして確立した天皇、あるいは皇室という存在は、当然のことながら特権階級云々、階級制度云々というような議論にはそぐわないものです。
公平に見て、気ままに暮らせた京都時代の天皇と皇室の方がずっと気楽であり、少なくとも現在の天皇陛下のように年に1000回を越える程の公務で“酷使”されることも無かったし、直系男子の存続に危機感を持つような状況にもならなかったのは事実です。
明治以降の天皇という存在は、やはり国民国家の依代だったのです。
しかしこれを御可愛そうなどと表現することも、これまた的外れであることは、現在の先進国、大国の殆どが未だに白人諸国である現状を見れば明らかでしょう。

大東亜聖戦によって勝ち取った、人種の平等も、日本と皇室の存在抜きには大波の前の泡沫のごときものであることは論を待ちません。
ローマ法王に等しい権威を有する皇帝を我々有色人種の国家が保っていることの意味は、それ程に大きいのですから。
つまり天皇の現在的意義の一つには、この権威というものが挙げられます。
そしてそれは世界史的意義なんですが、それでは日本における意義は?って問題があるのです。
国内的意義ですね。

それはまず日本って何?ってことを考えなければなりません。
歴史上、最も強大な文明の起こったエリアの真裏に位置する日本の国。
16000年前とも言われる最も古い土器文化を、その歴史の中に有する国。
排他的であるよりも融和的であるように、豊かな自然に育まれた文化の国。
ほぼモノ・カルチャーでありながら同時に豊かな多様性を有する国。
日本ってね、ある意味、アジアのヨーロッパなんですね。
北には北の文化があり、西には西の文化がある。
東にも太平洋側にも固有の文化があり、南にも日本海側にも固有の文化がある。
ラテン語からフランス語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、ルーマニア語が分かれたように、日本にも各地に各地の言葉がある。
この多様性のゆえに1国1文明なんですよ。
ヨーロッパと同じく。
世界地図を見るから日本は島国だけれど、本当は大陸なんですよ。ある意味。
ただサイズが違うだけ。
地中海に対比される瀬戸内海もある。
ヨーロッパ文明の精神的支柱がギリシアとキリストなら、日本文明の精神的支柱は天皇に象徴される神と精霊の文化なんです。
世界の反対側で育まれたのは自然を支配する文明でした。
でも、ここ日本で育まれた文明は自然を友とする文明でした。

例えばクルマ好きな方、あなたの好きなクルマ、可愛いでしょ?
機械だけど。
クルマにも霊を感じるのが日本文明の美質なんです。
ヨーロッパ文明ではロボットは奴隷(日本では奴隷は人間ですがヨーロッパ文明では“財産”つまりモノ)ですよ。
でも日本ではロボットは仲間でしょ?
欧米の文明ではゴジラなんか敵ですよ。
でも日本ではガメラもモスラも神でしょ?
これが凄いんですよ。
ここが飛びぬけた日本文明の美点なんですよ。
日本はもっともっと素晴らしいモノを生み出すチカラがある。
宮崎アニメに世界が驚愕するのはココなんですよ。
日本人なら日本を愛せるはずなんです。
日本とは日本文化の日本文明の日本なんです。
天皇の存在意義はココにもあります。
カミの国のカミとヒトとの媒介者。
天皇が日本の為に日本のクニのタミの為に祈っている。
それが日本の絶対的な強みなんですよ。

ある意味、人間としての天皇なんか、どうでも良いんですよ。
人間のツールに過ぎない法を超えた処にこそ、天皇という文化の価値はある。
まぁ、価値なんて粗末な言葉ですが。
日本文明の尊厳の源なんですね。
幸いにも文化の体現者としての今上陛下は素晴らしい方ですが。
この幸運はありがたいことに明治以降、続いている感じですね。






このエントリは当分の間、TOPに置いておきます。
勿論、適宜書き直していきますので宜しくお願い致します。

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