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多文化共生社会は究極の個人主義社会

2007-01-04 | 概念規定
↓以前に理想的な多文化共生社会であるネパールについて述べました。
http://blog.goo.ne.jp/melody777_001/e/cbedb15f547b4c3786d0a6fc4144dc8c

日本で言うところの多文化共生主義の中には、単なる移民大歓迎主義とか、日本国内の在住外国人の方に国民と同様な権利を認めよう主義(長いね)の場合があります。

私は明らかな多文化共生主義者(シュギシャって言葉はアナーキーな響きがあって良いですね)ですが、上に挙げたような主義とは、ちょっと違います。

1.外国の方々が日本に旅行、滞在、居住されるのは大歓迎。
  ○但し、以前からも申し上げておりますがバイオデータの保管などにより個人特定を厳密にすること(これは成りすまし防止の観点から、日本の全国民も行うべきです)、また不法滞在は決して許さない。
2.外国の方々が、その文化を保持されるのは当然。
  ○しかし、日本国内では土地の固有文化を尊重しながら友好的・平和的・合法的に文化的生活を送って欲しい。
3.外国籍の方々の権利が日本国民より少ないのは当然です。
  ○例えば選挙権は国籍に付与される権利です。
   また、これは指摘されることが少ないのですが、外国籍の方が生活保護を受けるのはおかしいのです。日本国は日本国民についてのみ、生命財産を保証するわけですから。
   同様に年金も“国民年金制度”です。
4.外国籍の方であろうと、国籍について付与されるのではない全ての権利(選挙権・生活保護・年金制度などを除く)全ての人間としての権利を行使することができます。
   ○自動車・船舶・弁護士・医師・調理師などの免許の全て。
   合法的である全ての行為。
   また逆に外国籍の場合、一夫多妻も多夫一妻もOKです。日本に帰化したら重婚は違法です。
5.むしろここが一番強調したいところですが、外国籍であると日本人であるとに因らず、全ての人間は思想・信条・信仰の自由を許されているということです。
   ○これは日本人同士の場合にも問題があります。「日本人ならば、こうに決まってるでしょ」という態度。
   あるいは、産業社会で問題になっているパワハラなどもそうですが、命令調のしゃべり。態度など。これらは違法性が極めて高く、外国籍や若年者・身障者など、相対的に弱い立場の人間に押し付ける人間は(というかバカモノは)・・・日本を出て行って戴きたいモノです。
6.一定の条件(実際に生活できる、10年以上の在留年数、日本人の配偶者など)があれば、日本人に帰化されるのは、どなたも大歓迎。
   ○ただし、日本国と日本国憲法への忠誠と服従を誓って戴く。これは国民として当たり前ですから。日本人でもこれができないのなら海外へどうぞ。私なら、そうします。それから、憲法改正問題は、また別ですから。あくまで現行の法に従うということです。

当たり前のことですね。
法の規定に従って生活しましょうよ、ということで、法治国家では当然の事。
ただ、多文化共生という理想の追求には、それ以上の問題もあります。
それは特に上の5に挙げた問題。思想・信条・信仰など人間の自由権の問題です。
これは恐らく“文化”というモノの捉え方に問題があるのです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96
↑はwikipediaの記事ですが、いくつかの点で“文化”について理解に問題がありますね。

例えば大きな問題は
>文化の概念は、通常、ある程度以上のサイズの人間集団に対してのみ用いられ、個人に適用されることはない。

だから文化についての深い考察が妨げられておるのですね。

一番判りやすい例として食文化を挙げましょうか。
食文化というと形而下の下部構造の下世話な文化、下等な文化と思われる方もおられるのですが、それは人間とか文化についての考察を欠いた浅薄な論議なのですね。
食文化が人間の存在や尊厳までも規定してしまうことも在り得る、いわば文化構造のなかでも上位に属するものであることを知らないという意味ですが。
この点「日本人は食べ物、生活態度からして違う。だから戦争も強いんだ」と言った蒋介石は、さすがに人間について良く知っていましたね。日本で学んだせいもありますが。
逆に彼は罰を厳しくしすぎて国家を掌握することができませんでしたが。
中国では日本であり得ないことが起こるので。
日本人を基準にしちゃったのが敗因ですね。

さて、閑話休題。
生物種は、みな同じ食生活が可能です。
ただ人間を除いては。
サルもトンボもイワシも同じ種であれば同じ食べ物で生活できます。
人間のみ、個人個人、異なった食べ物を欲する。
何故なら“それ”こそが文化だから。
その“差異”こそが文化です。
“差異”は“才”。
全ての人類の優れた文化的所産は、その“差異”こそが培ってきたモノなのです。
バッハだから“アノ”曲を作れた。
フェルメールだから“アノ”絵が描けた。
ミーシャだから“アノ”唄が歌えるのです。
内田善美が存在しない世界には“アノ”漫画は存在できない。

差異が文化。
差異が能力。
差異は人間存在そのもの。

個性が力。
個性が美。
個性が賢さ。

だから“同じ釜の飯を喰う”ってのは特別な意味があるんですよ。
文化を共有することだから。
誰でも友達になりたくなると、一緒に食事をしたくなる。
それは、こういうことなんですね。

でも一人で好きなモノが食べたい時だってあるでしょ?
そういう時は好きなモノを食べようよ、というのが私の言う、多文化共生主義。

つまり、他人の個性に干渉しない友好的で個人主義的で、しかも法律もいらない程、弱者に思いやりを持つ社会が、私の描く多文化共生社会です。

私は作れると思いますよ。

例えば日本の一部であったころ、台湾では夜、鍵をかける必要がなかったと言います。
昔の日本もそうだったんでしょうね。
今はどうなんでしょう?

日本の場合、今の方がむしろ画一的な感じなんですけど。

教育が貧困だから、規律と豊かな個性の両立ができなくなったんですかね?



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