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これは読み直す価値がありましたね

2009-09-03 | 歴史について
【正論】増殖する韓国の「自尊史観」 筑波大学大学院教授・古田博司

2008.12.17  MSN SANKEI NEWS
このニュースのトピックス:正論


「チャングム」のまやかし

 近頃、会合で話をすると10人に1人位は韓国時代劇チャングムのファンがいて、物語をそのまま史実だと思いこんでいることが多いので、正しておきたい。まず朝鮮の李朝では、女子が宮中に出仕すると王様と疑似婚姻関係に入るので一生外に出られない。チャングム女史のように出たり入ったりはできない。
 ドラマでは李朝時代は色彩にあふれているが、ほんとうは顔料がないので民間に色はない。中国の清朝でも日本の江戸時代でも陶磁器に赤絵があるが、朝鮮には白磁しかないのはそのためで、民衆の衣服が白なのも顔料が自給できないからである。民芸研究家による「朝鮮の白は悲哀の色」というのも、今では真っ赤なウソである。上流階級だけは中国で交易する御用商人から色のある布を買っていた。
 李朝は清朝や江戸時代と異なり、技術革新を嫌い、低レベルの実物経済で500年もの統治を可能にしたのであり、どこに似ているかといえば、いまの北朝鮮に似ている。19世紀初めの朝鮮の儒者が、「(我が国の拙(つたな)きところ)針なし、羊なし、車なし」(鄭東●『晝永編』)といっている。
 針は粗雑なものがあったが、ちゃんと縫うには中国から針を買わねばならなかった。当時の中国針は優秀で、日本も輸入している。羊はモンゴルに征服された高麗にはいたが、いつの間にか滅びた。車は西洋文化が流入するまではない。木を曲げる技術がなかったからである。だから李朝には樽(たる)もない。液体を遠方に運ぶことすらできなかった。かつて日本が保護したとき、韓国はそのような国であった。

 ●=志の士を兪に

歴史教科書にも国内批判

 韓国の歴史教科書について、最近では韓国の学者の間でも批判が出始めている。日本がやってきて、せっかく李朝期にあった韓国近代化の芽を摘み、植民地期にひたすら収奪したという論はもはや無理の限界に来ている。批判には、「このような収奪論には実証的な根拠が確実ではないという問題点がある。コメは日本に収奪されたのではなく、経済論理に従って日本に輸出されたのであり、それにともなって日本人を含む韓半島(韓国人は朝鮮半島をこう呼ぶ)全体の所得が増加した」(教科書フォーラム編『代案教科書 韓国近・現代史』2008年3月)と書かれてある。
 振り返れば韓国の歴史教科書もはじめからナショナリズム一辺倒であったわけではない。初期には、日清戦争で「日本の勝利となり、下関条約が結ばれ朝鮮の独立が認められた」(★佐鎬『中等世界史』英志文化社、1959年)とか、朝鮮は清の「半属国」だった(金聲近『高等世界史』高等学校2・3学年用、教友社、1962年)とか、平然と言っていた。
 日本が強制的に保護条約を押しつけたと居直るのは、70年代の中頃からのことで、朴正煕政権の後半、力量を持った民族ではなかったことが被植民地支配の原因だったと、ひそかに反省し始めたときであった。

利権あさる一部マスコミ

 ところが、82年6月26日に日本のマスコミが、教科書検定で日本の中国への「侵略」が「進出」に書き換えられたという誤報を行った。日本ではちょうど検定制度をめぐって政府と日教組が大揉(も)めだったときだ。
 中国・韓国からのはげしい抗議が始まり、結果として近隣諸国条項(1982年11月24日、教科用図書検定基準)が設けられ、その影響で文部省の第6期学習指導要領(1989年告示)で、「とくに朝鮮については我が国と深いかかわりがあり、従前よりもさらに重視するようにする」という但(ただ)し書きがついてしまった。

 ★=恵の心を日に

反省の機会を失った韓国の歴史教科書は、日本の自虐史観に反比例するように、どんどんと自尊的になり、「しかし日本は帝国主義列強よりもさらに残忍にアジア各国を蹂躙(じゅうりん)し、20世紀の歴史を悲劇で飾った第二次世界大戦を起こした。このような悲劇は日本の朝鮮強占ではじまり、これは隣の国との友好関係を破壊したところにその原因がある」(申チェシク・洪ソンピョ『高等学校世界史』ポヂンヂェ、1990年)とまで、歴史の歪曲(わいきょく)を行うようになっていったのである。
 日本の自虐史観の対照には韓国の自尊史観があるのであり、それはひずんだ鏡のように日韓の関係を歪(ゆが)めてきた。もはやポストモダン期にある日韓では、世論は反日でも贖罪(しょくざい)でも盛りあがらない。盛りあがっているのは、韓国の反日市場で利権をあさり、同じく日本の贖罪市場で利権の維持に汲々(きゅうきゅう)とする、一部マスコミと学者たちにすぎないのではないか。(ふるた ひろし)
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人は自分が自分であるという確固とした認識を持っています。

アイデンティティですね。

その認識が損なわれると社会生活に支障をきたしたりしますね。

で、そのアイデンティティの元になってるのは、自分の経験を一つのストーリーとして認識していることなんですね。

経験を物語に再構成している。


それを国家や文化、文明のレベルで行ったのが“歴史”です。

歴史的事実がある(個人にとっての経験)。

それを物語に直す(再構成する)。

その物語を文章に表す(コレが歴史叙述)。

所謂、史実の歴史化ということです。


だから良く“地球の歴史”なんて言葉がありますけど、これは本当はおかしい。

地球には過去の事実はあるけど物語は無いから。

個人の視点じゃないし。


勿論、過去を認識するのは人間の主観ですから、地球の過去を認識した個人が物語として文章にするには問題ないですけどね。


だから良いんですよ。

歴史認識が違うのは。

叙述=物語も。


でも枉げてはいけないこともある。

それが歴史事実。


いわゆる東アジア諸国、“中国”と言われるエリアと韓半島は、そこが勘違いしちゃってるんですね。

昔の“中国”で書かれた歴史的著作の根本原理ってのは、次のようなモノだったから。

○歴史事実は現在の王朝が決定する。

つまり、現在の王朝(軍事・行政権者)が“歴史事実”をいくらでも作れたワケですよ。

だから“中国”の史書ってのは荒唐無稽な記述が多いんですね。

あれは確かに物語だけれど、全てが事実を元にした記述ではありません。

だから現代の我々が言う、歴史とは似て異なるモノなのですよ。


そう言った、根本的な問題“歴史とは何か”をきちんと把握しておかないと議論にならないワケです。


所謂“中国”とか韓半島エリアの方々と議論する場合は、ソコを最初に議論しなきゃいけないワケ。

漢字で歴史って書いても、言ってるコトが全然違うんだから。



チャングムはあれで良いんです。

『大岡越前』みたいなモノだから。

でもさすがに真っ赤なキムチは出てこなかった。

唐辛子は“秀吉以後”のモノですから。



秀吉と言えばお勧めなのが『秀吉が聴いたヴァイオリン』(石井高著 三信文庫)。

これは傑作ですよ。

クラシック音楽が好きな人にもお奨めです。


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