怨霊と御霊神社

2013-09-06 22:01:32 | 歴史に関する雑学

日本の三大怨霊といえば・・・・菅原道真・平将門・崇徳天皇です。

 

菅原道真は第59代宇多天皇の治世、寛平の治を支えた一人ですが、

皇室の外戚として権勢を振るいつつあった藤原氏を牽制し、

901年、宇多上皇が道真の娘婿である上皇の皇子・斉世親王を皇位につけ、

醍醐天皇から皇位を簒奪しようとしていると疑われ、

大宰権に左遷され、子どもたちも連座され、流刑となります。(昌泰の変)

903年、大宰府で亡くなると、京には異変が相次ぎ、醍醐天皇も体調を崩し、崩御します。

これらを道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行い、

子供たちも京に呼び返されました。


平将門は平安時代中ごろの豪族で、桓武天皇の5世にあたる桓武平氏です。

939年、「新しい天皇」という意味での「新皇」を自称し、東国独立を目指し、

朝敵とみなされます(平将門の乱)。

戦の最中、飛んできた矢が額を命中し、討ち死。首は京でさらし首となります。

将門塚(平将門を葬った墳墓)の周辺で、天変地異が頻繁に起こり、

将門の祟りだと恐れられました。


崇徳天皇は第75代天皇です。

父は第74代鳥羽天皇。母は中宮・待賢門院璋子。

しかしこの璋子は、鳥羽天皇の祖父・白河院(法王)の養女で、

崇徳天皇は白河院との不義密通の子どもと言われています。

そのため父・鳥羽天皇から「叔父子」と言われ、疎まれていたようで、

1141年、鳥羽上皇は崇徳天皇に譲位をせまり、異母弟・近衛天皇が即位。

病弱な近衛天皇が崩御すると、皇位を異母弟・後白河天皇が即位。

治天の君である鳥羽上皇が崩御すると、皇位継承問題や摂関家の内紛が要因となり、

後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し武力衝突に至る「保元の乱」が起こります。

崇徳上皇と讃岐に配流となり、8年後の1164年、讃岐の地で崩御します。

1176年、後白河法皇の周囲の者が相次いで亡くなったり、社会情勢が不安定となり、

崇徳天皇の怨霊の仕業と言われるようになります。

 

 

 

恨みを持った死者は怨霊となり、天変地異や戦乱、病を招くとされ、

こうした亡霊を復位や諡号・官位を贈りることで、その霊を鎮め、神として祀れば、

「御霊」となり、鎮護の神となるという考え方が平安時代におこります。

これが御霊信仰です。

古くは藤原広嗣、井上内親王、他戸親王、早良親王などがあげられ、

全国に御霊神社は存在します。

 

 

学問の神様として知られる太宰府天満宮や北野天満宮も、

元々、この御霊信仰から端を発したものです。

 

祀られるようになった謂れは、またおいおい・・・・・

 

 

 

 



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