宋書や梁書に記されている「倭の五王」の倭王・武。
第21代 雄略天皇が比定されています。
大泊瀬幼武尊、大長谷若建命(おおはつせわかたけるのみこと)と記紀に記されています。
1968年、埼玉県行田市の埼玉古墳群内にある稲荷山古墳から、
金錯銘鉄剣が出土。
1978年、腐食の進む鉄剣の保護処理の為、X線検査が行われ、
鉄剣の両面に115文字の漢字が、
金象嵌(窪みに金をはめ込む技法)で表されていることがわかりました。
ここに記されていたのが、以下の文字(wikiより)
(表)
辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、
辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。
其児多加利足尼、其児名弓已加利獲居、
其の児、名はタカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。
其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弓比
其の児、名はタカハシワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。
(裏)
其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、
其の児、名はカサハヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。
獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也
ワカタケルの大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、
此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。
5世紀後半には、雄略天皇による大和の権力が、
九州~北関東まで及んでいたことです。
大阪府羽曳野市島泉にある、
高鷲丸山古墳(島泉丸山古墳・円墳)と、平塚古墳(方墳)が、
丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)に比定されています。
円墳の周囲に堀があり、方墳側に拝所があります。
無理やり前方後円墳に見立てた感がすごい!
古事記には、顕宗天皇の父(市辺押磐皇子)の仇討ちをすべく、
意祁命(後の仁賢天皇)が雄略天皇陵の墳丘の一部を破壊したとあり、
つじつまは合うけどね・・・・
間違いなく・・・・・違うやろ(笑)
一度、行ってみて
大阪府羽曳野市 丹比高鷲原陵