goo blog サービス終了のお知らせ 

キャラバン サライ

夢は大空へ、努力は足元で、世界に目を向けながら足元から子供たちを見直していきたいと思っています。

キャッチボール

2006年01月18日 | Weblog
僕に子供ができたら、それが男でも女でも、一緒にキャッチボールをしたい。
できれば親子3人で。

キャッチボールで会話をするというが、そんな感じが好きだ。
本当に会話なんてできないけど、お互いがボールを投げ合っているときは、気持ちがつながっている気がする。

クリスマスのプレゼントに彼女にグローブをあげた。
彼女は肩が強い。
ずいぶん、気持ちがつながってきた気がする。

フリーーダーーーーーム!!

2006年01月18日 | Weblog
「自由ーー!!」

『ブレイブハート』の主人公ウォレスはそう叫びながら処刑された。
僕の最も好きな映画だ。メルギブソン主演。

史実をもとにした映画だ。舞台はスコットランド。ウォレスはイギリス軍に村を襲われ恋人を殺されたことで、怒り狂う。スコットランドをイギリスから独立させようと、人々を率いて命をかけた戦いを始める。

どこまでも続く静かな草原、バグパイプの音色、スコットランド人の荒々しくも明るい気質、そして自由を求めて戦う戦士達。

僕らが暮らしているこの国では自由(本当の自由がどんなものかは置いといて、ここでは一般的な自由)というのは当たり前すぎる前提条件だ。そんな自由のために命を賭ける、そして多くは死んでいく、そんな自由を渇望する気持ちがずしんとくる。自由ってそんなに大切なことなのかな。そんな根本的な疑問が重たくなる。

「自由ーー!!」
そう叫んで死んでいったウォレスはその後のスコットランドを変えた。

一所に長くいると荷物が増える

2006年01月18日 | Weblog
旅に出よう

そう思ってたくさんのものを捨てていったら

僕の生活は

たった一つの小さな鞄に

いとも簡単に入ってしまった


僕の好きな詩だ。
僕はこの詩にあるように、できるだけ荷物を持たずに生きたいと思っている。
僕が長期の旅行に行くときは、生きるために必要最低限のものと少しの自分を豊かにしてくれるものだけをリュックに詰める。
下着2枚、Tシャツ1枚、本1冊、カメラ。
これだけで旅に出られる。通学の時と同じリュックに詰め込んで旅した。

でも、日常生活はそうもいかない。
どんどん生きるのに必要ないものが垢のように増えていき、部屋を占領する。
その大部分が思い出という厄介な重荷を背負っている。
だからなかなか捨てられない。

思い出に囲まれて生きるのも悪くない。特に年をとって不自由になると思い出は生きる肥やしになる(かもしれない)。
でも、荷物が増えすぎて身動きできないのは嫌だ。
行けるところにも行けず、できることもできなくなる。

一所に長くいると荷物が増える。
だから、たまに引越しをしたくなる。
こびりついた垢を落とし、思い出をごっそりと置いていき、身一つで新生活を始める。
きっと、身軽で縛られない、自由な生き方ができる。
旅にもすぐに出ることができる。

同じ根っこ:タダウチさん

2006年01月18日 | Weblog
世の中には自分にそっくりな顔の人が4人はいるっていうけど、自分と考え方がそっくりな人もいるもんだ。研究室にそんな先輩がいる。たぶん、このブログも見てる。

これまで、そんな人はせいぜい親父くらいだった(いても、それほど話さなかったから気づかなかった)。それは僕が親父から影響を受けたことも少なからずあるので全くの偶然ではない。旅先で出会う日本人旅行者は多かれ少なかれ同じような性質の人間が多いが、それはおいとこう。

似てるっていうのは、全部が一緒というわけじゃなくて、根本的な部分、発想の元になる大きな考え方が似ているということ。もちろん、全く違う部分もある。正確には似ている部分が多い。

こういう人と一緒に話しているとしょっちゅう意見がぶつかる。発想のもととなる部分は同じでも、生きてきた軌跡が違うから考えの結論は違ってくる。根っこが同じ養分を吸っても、枝先は同じにならない、という感じ。
でも、意見が違っても、相手がどうしてそういう考えに至ったのかはわかる。だからこそ、譲れない。譲ったら自分の生き方を否定することになる。だって、根っこは同じなんだから。

あと、嘘もつけない。つけばばれる。背伸びをしても見透かされる。だから真正面から話さないといけない。相手を理解できてしまうからこそ、誤魔化せない。

まるで鏡に向かって話しているようだ。もう一人の自分。しかも、僕とは別の人生を歩んできた自分。ともすれば、僕は目の前の人と同じような考えになっていたのかもしれない。そんな風に思いながら話す。自分の考えを再確認する。何度も言うが、だからこそ誤魔化せない。譲れない。

人にはそれぞれその集団の中で役割があって住み分けている。だから、似ている人は2人もいらないのかもしれない。でも、自分と同じ根っこを持っている人がいるってだけで、僕だけ特別なんじゃないって分かるだけで、うれしい。

補強大会の意味

2006年01月18日 | Weblog
先日、土曜日だっていうのに雨が降って、仕方ないのでみんなで補強大会をした。

清原が高校のときのネタをもとにメニューを作ってくれて、6人くらいのグループに分かれて6種目くらいの補強を行った。
普段やらないことだし、雨だってこともあり、だんだんテンションがあがって、みんなで辛い補強を乗り切った。3日たった今でもまだ腹筋が痛い。

で、この補強大会は陸上競技にとってどんな意味があるのだろう。
たぶん、足が速くなることはない。
今後の練習にもつながらない。
筋力も上がらない。
それは、補強大会が一過性のものであるからだ。
継続しないと、全く力にはならない。
思いつきで、衝動的に、いつもは聞かない英語のラジオを聞くのと同じ。
いくら、次の日に筋肉痛に悲鳴を上げても時が過ぎれば元通り。

これがフィジカルな面。
でも、メンタルな面では、いつもはやらないことでリフレッシュになるし、
テンションが上がれば楽しいし、仲間と一緒にやることで連帯感が生まれる。
こういう練習は大好きだ。

あくまで僕の意見だが、こういうことを忘れて、補強大会でお腹いっぱい、速くなれると思っていると、そのうちに実を伴わない練習になる恐れがあるということをいつも意識している。

泣ける映画

2006年01月18日 | Weblog
「この映画すっごく泣けたよ」
というよくある言葉。
「泣けた」ってなんで泣きたいのか。
泣くって本来、そういうためのものか?

日常の中で泣くって事はあまりない。
多くの人は殆どない。
だから泣きたい?

日常では感情の波が小さくなっている現代社会。
泣くという感情の落差が欲しいらしい。
昔は喜怒哀楽が豊かだったから、そんなものは必要なかったかもしれない。

泣きたい。泣けなかったよ。泣けた~。涙が止まりませんでした。こんなに泣けたのは初めてです。
なんか変な感じ。