キャラバン サライ

夢は大空へ、努力は足元で、世界に目を向けながら足元から子供たちを見直していきたいと思っています。

僕たちが夜中の国立競技場を12時間も走る理由

2012年04月22日 | Weblog
「走ることの楽しさを教えてください」

ある飲み会で、後輩からそんな質問が出た。
ランニングの練習会後の飲み会だったので、走り好きばかりが集まっていた。
仕事の話題は全く出ず、ひたすら練習方法やら大会やらシューズの話やらで盛り上がる、そんな飲み会だった。
その中で唯一、その後輩だけが走ることに理解を示していないのだった。

そのときに、「走ることの楽しさ」を明確に説明できる者はいなかった。
実を言うと、簡単にそれを説明する人が現れないことを僕は心の隅で祈っていた。
その疑問は、僕にとってもおよそ重要な問題であり、そしてこと「走ること」のみに限定したとき、僕はそれを好きだと思ったことも明言したこともないからだった。



4月20日から21日にかけて、フライデーナイトリレーマラソンという大会に出場した。
20日の午後7時から21日の午前7時まで、国立競技場の周回コースを複数人で襷をつないで走り続けるというレース。
夜中の競技場を、12時間もの間みんなでひたすら走るという、変わった大会。

この日の夜、国立競技にはテントや寝袋が所狭しと並び、ビールがないことを除けばまるで夜の花見状態に。
一度走ると、最低でも40分は休憩になるため、カードゲームやジグゾーパズルを用意しているチームもいた。
また、車座になって話し込んでいるチームもいる。
銘々が、春の夜長を楽しんでいるように見えた。

でも、それは走ることを楽しんでいるわけでは決してない(と思う)。
走ること自体はやはり辛いのだ。
夜も午前3時ごろになると、走っている人の顔は一様に苦しそうな表情になる。
もう、スタートから8時間にもなるのだ。
しかも、まだ4時間もあるのだ。
苦しい。
肉体的にも、精神的にも苦しい時だ。

そんなとき、きっと多くの人が改めて自問自答するだろう。
中には、チームメイトにぼそっと囁いた者もいたかもしれない。
「なんで僕らはこんな苦しい思いをしてまで、走っているんだ?」


一般的に言って、走ること自体を楽しいとか気持ちいいと思っている人はほとんどいないと思う。
ランニングハイで、走ることに快感を覚えているという人は、ほんのごく一部ではないだろうか。
特に、この大会について言えば、本当にクレイジーだ。
時間に比例して疲労が蓄積され、体のいろんなところが痛くなる(うちのチームでも1名が負傷棄権、1名が一時的に戦線離脱した)。
寒かったり、眠かったり。
得することは何一つない。
きれいな景色が見れるわけでもないし、うまいビールが飲めるわけでもない(大会終了時は午前7時でどこの飲み屋もやっていない)。

それなのに、これだけの人々がこの大会に参加するのはなぜか(締切前に定員オーバーになる程の人気がある)。
それは、好奇心だと思う。
そして、現実の生活とは違う世界に行ってみたいという願望。

こんな、何の見返りも期待できない、苦しいだけのクレイジーな大会。
そこには、きっと普通では味わうことのできない場があって、空気があって、そして人々がいる。
そんな中に自分も入っていき、ひとときだけれどもその世界に浸りたい。
そこで何かを見つけられるかもしれないけれど、それはきっとあまり期待してい。
何かを得たいという願望よりも、そこに行きたいという興味。


たぶん、走る理由というのもそれに近いんじゃないかと思う。
少なくとも僕について言えば。

走ること自体が楽しいわけではなく、あの日常と違う場や空気や人々のいる世界に、興味があるから。
それは、たぶん好奇心という言葉に関係している。
だから、好奇心が無くなったら、走ることはできないと思う。


そんな似通った傾向の好奇心を持ち合わせた、(一般的に言って)(でも、好意的な意味で)クレイジーな人たちが集まって、こうして一緒に走れることを幸せに思う。





これからの「正義」の話をしよう

2012年04月19日 | Weblog
マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』を読んでいる。

これまで、何が正義かなんて考えたこともなかった。
というより、何が正義で何が正しくないことかなんて、考えるまでもなくみんながみんな同じ意見だと思っていた。
アンパンマンの世界と同じで、だれの目から見ても、悪いやつは悪い、というシンプルな世界。


でも、この本を読んでいると、そもそも簡単には正義を定義することすらできないことがわかった。

正義を定義するには、人類全体の幸せを考える必要があるのか?個々人の自由の尊重が結果として正義となるのか?それとも、人の考える美徳に従った行動が正義となるのか。


特に、これまで僕の中でもやもやしていた軍隊の徴兵制と志願制についての議論が興味深い。

志願制とした場合では、兵士への給料が上がり市場原理が働くため、軍隊の中での低所得者の割合が多くなる。
国民全員のために血を流し、死んでいく者たちが低所得者ばかりで、中流・富裕層は何もしなくてもいいのか。
その場合、戦争自体が中流・富裕層から切り離され、責任を感じられなくなるのではないか。
このような特殊な性質のある軍隊については、国民全員が責任を持つべきという点から、徴兵制にすべきではないのか。

一方で、徴兵制にした場合、志願制に比べ給料が安くなる。
そうなれば、志願制に比べて貧困層の所得が減り、社会全体の幸福度は下がるのではないか。
社会全体の幸福度を上げることが正義ではないのか。
それならば、正義は志願制にあるのではないのか。

そんな、正義を廻る議論。
答えはでないけれど、もやもやしていた問題に対して、どのように考え、アプローチしていけばいいのか、道筋やアイデアを示してくれる、とても興味深い本だ。

末端意識からの決別

2012年04月18日 | Weblog
去年の始めあたりから、前足部で接地する走り方を意識してきた。
きっかけは『Born To Run』。
その後、裸足ランのブームもあり、Five FingerシューズやNIKEのFreeを履いたりして、積極的に前足部からの接地走法を試していた。

実際に前足部から接地していると、以下の効能がある。

1) 疲れてきてもスピードが落ちない(踵からの接地は、ダレたときの失速が大きい)

2) 膝への負担が軽減される(そのかわりふくらはぎと足底筋に負担がある)

3) 腹筋など上半身を積極的に使いやすい(短距離の走りに近い)


今シーズンは、フルマラソンでも3分の2くらいは前足部接地で走りきれるようになった。
ただし、足底筋がぴきぴきなってしまうので、ずっとこの走り方ではまだ無理。


ところが、アシックスショップで走り方を見てもらったところ、前足部接地を全否定された。
うむ、でも一流ランナーは少なくとも踵から接地はしていないように見えるし、アシックスの人が言っていたのはどういうことなんだ!?

と、考えていたら、先週末に相模原の米軍基地で走った東日本国際親善マラソンで、一つ答えのようなものが見えた。


末端意識ではいけないのだ。


体の末端も末端の足先の接地方法なんて、どうでもいいのだ。
大切なのは、体の中心をいかに使うか。
腹筋や背筋といった大きな筋肉をいかに動員して、力をしっかり効率よく地面に伝えるか。
足先がどのように地面に接地するかは、その結果に過ぎず、それが目的ではない。

これは、高校の3年間と大学の4年間を通して学び、当たり前のこととしていたはずだ。
なのにどうして、こんなにあっさりと忘れてしまったんだろう。

大学3年生くらいからは、「腹筋で走る」とまで言って、できる限り末端の意識を消し、体の中心から動かす感覚を養ってきた。
それが長距離に当てはめられていなかったのは、不覚である。

全盲の僕が弁護士になった理由

2012年04月10日 | Weblog
誤解を恐れずに、『全盲の僕が弁護士になった理由』を読んだ素妻直な感想を記す。なんだか思い上がりのような事も書くが、それも含めて、読後の正直な気持ち。


僕は、そして少なくとも僕の周りにいる多くの人たちが、(少なくとも)経済的にという意味で、日本の平均以上の豊かさを得ている。

また、日本人の多くが経済的にという意味において、世界の平均以上の豊かさの中にいると言っていいだろう。

では、このうちどれくらいの人が、人を助ける側にいるだろう。


通勤電車の中。
目の前には、じっとこちらを見つめ続けるアフリカの子供のポスター。1日150円で救える命があります。そんなキャッチコピーに心は揺れても、結局150円すら払わない。

朝起きて、お昼ごはんを食べて、夜寝るまでに、僕は誰を助けただろうか。助けようとしただろうか。

僕の会社は、人を助ける側にいるのだろうか。会社の活動の何か一つでも、困っている人に手をさしのべているだろうか。僕らが一生懸命働いたその結果は、少しでも誰かの支えや救い、希望につながっているのだろうか。

残念ながら、そんなことは想像できなかった。

平均以上の豊さの中にいる。それならば、困窮していたり、病や障害をかかえていたり、孤独や悲しみの中にいたり、そんな人を少しでも助ける側になぜまわらないのか。

そんな当たり前のことが、当たり前だと昔は思っていたことが、なぜだか当たり前のように現実の生活から遠く離れている。

そのことにすら気づかないくらいに。

冗談を言おう

2012年04月06日 | Weblog
社外での仕事が続き、久しぶりに本社で業務をした日、どうも気分が乗らなかった。
まるで、長期休暇明けで、久々に出勤した日のよう。

チームメンバーに対しても、どうも余裕をもった接し方ができない。
つい、追いかけるような、急かすような、そして責めるような言い方をしてしまう。

これはいけない。
集中力も欠いている。

こんなときはと、早めに退社して近所の居酒屋に一人で入った。

暫くカウンターでビールを飲んでいると、若い女性が隣に座った。
彼女は店員と親しげに話している。
その話からすると、彼女は今日がこの居酒屋のアルバイト初日で、賄を食べながら初日の感想なりを話している模様。

店長と呼ばれている男性は、僕と同じくらいの年齢か。
その店長が、僕の隣に座っているバイト初日の子にこう言っていた。

「こんな雰囲気の店だから。お互いに冗談を言い合って楽しくやっている」

冗談…。

そういえば、仕事中に、チームメンバーに、冗談を言うことって殆どないな。
それだけ、僕に余裕がないということか。
それだけ、相手に圧迫感を与えているということか。

顧みると、なんとも窮屈なチームに思えてくる。
なんとも、僕の余裕がなく、その余裕のないことを表に出して、チームの雰囲気を悪くしているような。

もっと、仕事中に冗談を言おう。
ユーモアを持とう。

村上春樹作品とアイロン

2012年04月03日 | Weblog
村上春樹作品の主人公は、アイロンがけを好きなことが多い。
明確にそうと書いていなくても、いかにもアイロンがけが好きそうな人物ばかりだ。
しかも晴れた休日に、家で黙々とアイロンがけをし、それに対して寂しさよりもむしろ喜びを感じるような。

そんな、村上春樹作品の主人公が過ごすような休日が好きだ。
アイロンがけをしたり、スーパーに買い出しに行ったり、料理を作ったり、読書をしたり。
もちろん、多くの作品の主人公がするような、一般的には罪な、あるいは軽い、女遊びはしないけれど。

その影響もあって、アイロンを買った。
大型の電気屋でどちらかというと安めなアイロンと、ホームセンターに唯一置いてあった何も主張することのない無地のアイロン台を買った。

村上春樹作品に登場するアイロンがけは、実に魅力的だ。
じっくり時間をかけて、シャツの一枚一枚を丁寧に仕上げていく。
一つ一つの皺を伸ばしていくのは、集中力と工夫が必要だ。

実際にアイロンがけをしていて、本当に集中力が必要だなと思った。
しかも、心地よい集中だ。
同じことの繰り返し作業のように思えて、シャツの一つ一つに個性があり、ドラマがある。

来週着ていくシャツを全てアイロがけし、ぴしっとハンガーに掛けられて並んでいるのを見ると、ほどよい達成感があった。
人間、これくらいの達成感を常に持っていられたら、もっと余裕のある生き方ができるだろうに。
休日にはシャツを5枚アイロン掛けすることという法律を作ればいいのに。