かかりつけのお坊さん 奮闘編

転勤も定年もリストラもない、失うものは何もない最強な坊主が日頃の“感謝”を言葉にこめて、日常を綴ります。

下山の思想

2012-02-09 19:38:12 | 裏技・拾い読み
      「民」(たみ)という字の語源には、
      残酷な意味がある。
      『漢字源』によれば、<目を針で刺すさまを
      描いたもので、目を針で突いて見えなくした
      奴隷をあらわす。(中略)物のわからない
      多くの人々、支配下におかれる人々の意となる>と、
      述べてある。
      国民の民、というのは、そういう意味なのだ。

今、ベストセラーになっている五木寛之さんの

『下山の思想』を手にして、読み始めた。


ついに、未曾有の時代がやってきた。

それに、私たちが気づかなかったのではない。

気づきながら、気づかないふりをしてきただけなのだ。


そんな、書き出しから始まる。

「知らしむべからず」は、古代からの国家統治の原点であった。

私たちは、本当に国の「たみ」であった。

すでに半世紀も前に、海も空も大地も、農薬と核に汚染され、

それでも、草木は根づき、私たちは生きてきた。


今、再生の道。

再び世界の経済大国をめざす道はない。

敗戦から、見事な登頂を果たした今こそ、

実り多き「下山」を思い描くべきではないか。


登山と下山とを同じように登山の本質と見なすのは

当然のことである。そしていま、下山のほうに登山より

さらに大きな関心が深まる時代にはいったように

思われる。

安全に、しかも確実に下山する、ということだけのことではない。

下山のなかに、登山の本質を見いだそうということだ。

下山の途中で、登山者は登山の努力と労苦を再評価するだろう。

下界を眺める余裕も生まれてくるだろう。

山を下りれば、日常が待っている。そこでしばし体をやすめ、

また新しい山行を計画する。


頂上をきわめたあとは、

下山しなければならない。

実り多い成熟した下山こそ思い描くべきではないのか。


広島ブログ いつも、ありがとうございます

5年前、五木寛之さんは、『林住期』を書かれました。

そのときの思いが今ふたたび、

未曾有の時代を生きる私たちへの、究極のヒントと

なって、届けられています。

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