残された人が死者を思えば思うほど、その不憫さを嘆けば嘆くほど、それは死者の苦しみを増す因(もと)となる。
なぜなら、自分の死によって残された人を嘆かせるということは、死者自身の罪だ、と仏教では考えるからです。
★空也上人の作といわれる「地蔵和讃」は、そういうことをうたっているそうです。
野口雨情は最初の妻との間に長女をもうけますが、長女は生まれて7日で死んでしまいます。
野口は長女の死を嘆きに嘆き、日々泣き暮らします。百箇日法要の夜、雨情は夢を見ます。
子どもたちが楽しげに遊んでいるのですが、その中でたった一人、雨情の長女が、その遊びの輪から離れて、シクシク泣いているのです。
それを見た雨情が声をかけます。
「どうしたのか?」と。
すると長女は、こう答えるのです。
「だってね、お父さんがあんまり嘆くから、私の天使の羽が濡れてしまって、空を飛ぶことができないの」
夢からさめた雨情は、それ以降泣くのをやめようと決心したといわれます。
雨情の代表作のひとつ「しゃぼん玉」が作られたのは、それから十数年たってからのことでした。
私自身(ひろさちやさん)のことを言えば、母を送った時、私は気持ちがとても楽になったものです。
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もうお浄土にいったのだから、こんなに安心なことはない。
ただ、「南無阿弥陀仏」を唱えていれば、なんの嘆きも、憂いもない。
きょうも来てくださって、ありがとうございます