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お母さんピアノを弾いてください

優しい母が認知症、強制入院。介護で体を壊し退職。弟とのメールのやりとり、詩や短歌で介護の現実を紹介していきます。

もういいでしょ、もう安心だろ

2008-11-12 20:26:18 | Weblog
 入院は終わりじゃなかった。すべての始まりだった。
 母を置いて帰るのはすごく精神的に苦痛だった。誰だって自分の親を強制入院させたくはない。

 弟とご苦労様を言いあい、それぞれのねぐらに向かった。隣同士だから。

 夜、病院から電話があった。介護士さんから、お母さんが電話したいというのでかけさせました、とのことだった。

 入院の際にこれは確認済みだった。

「幸道さんじゃないのでしょう。」

「えっ、だって私ですよ。」

「違う、声が違う、、。ねっ幸道さんじゃないのでしょ。」

 家が乗っ取られて別のひとがいるのだと思っているのです。

 しばらく、やりとりして看護師さんと交代した。

「大丈夫ですよ、落ち着かれたら寝られると思いますよ。」

 その夜は電話は一回だけだった。

 翌日、ちゃんと仕事に行った。
朝の打ち合わせで私は立ちあがって

「家庭のことですが、昨日母親を強制入院させました。これからもまだご迷惑をおかけするかもしれませんがよろしくお願いします。」

 目の前の席にいた美術の男性教諭のみうなずいてくれたが、、、。

 ほかは何も言わない。じゃあ理解していないかと言うとそうではない。

 放課後、部活があった。
その時もう一人の顧問から

「こう言っちゃあ何ですが、お母さんが入院したことだし、もういいでしょ。今度から土日も出てくれませんかねえ、私も子供が小さいので、、。」

 怒りが頂点に達した、、、

 要するに、お前は母親の世話をしなくても良いだろ、土日も部活をやれ、俺は休むから、という意味である。

「母親を日曜に連れ出しますし、まだやることは多いですから。」

 この顧問は弟と同じ年だ、だが口のきき方を知らない。猫の毛を逆なでにするようなこと、神経に触るようなことを平気で言ったりしたりする。

 ほかの教員は

「天野さんかわいそうに、こき使われて、、、。」
「あまり言うことをきかない方がいいよ、わがままなんだから。」

 部活だけではない、校務分掌もみな同じにされている、例の無神経な女子教諭もそうだった。

 後年、私が療休をとるとき、
「どうしてみな一緒にさせたのですか。校長は私だと年上で文句も言わず、御しやすいと思ったのではないのですか。」

 と聞いたら、

「うーーーーん」

 と腕を組んで黙ってしまった。

 たぶんその通りでしょう、他の教師がみな陰口をきくようなトラブルメーカーとただでさえ苦しい思いをしているのに組ませるのか、、。

 もちろん強制入院のことも校長や教頭に話した。

 ご苦労様も言わない、「あっそ、、」

 これほど無神経な管理職がいるものか!

 同じ苦労でも、周囲に理解があればかなり楽だ。事実以前勤務したところは、もっとたがいにいたわり合っていた。

 それがこの学校、、結局辞める羽目になった学校だが、、、、嬉しいことなどない。カリカリとして足を引っ張り、わがままを言う人間がのさばっていた。

 部活をやらない女性教諭は、相変わらず文句ばかり言い、私は遠距離だ、病気だ、そのくせ大量に酒を飲んでいる。

 部活の顧問は、木曜の午後が総合学習の授業なのだがその日になると、急にやってきて

「午後休むから教室に行ってくれ。」

と話してくる。

 私にいいに来ているが、管理職に話してない。それは無断欠勤ではないか。
最初はきがつかなかった、今となっては学活、道徳、総合、みんな体よくこの教員は私にやらせていた。

 逮捕されても良いから、殴りつけてもけりを入れても、飽き足らないやつらだ。

 少なくとも事情を知った後、退職後私から抗議の手紙を見たら

「すみません」なりわびる気持ちや行為があってしかるべきだ。

 体に変調をきたしたのもこの頃だった。だるさが治らない、、、。

 7月29日、東京家庭裁判所に行く。

 「成人保護者」の決定なのだ。

 母の保護者に私がなるのだ。

 精神衛生法では家庭裁判所で保護者に認定されないと、入院させることができない。
 今思うと、病院が時間をずらして、そうしたのであろう。日付は家裁に行った日が「保護入院」になっているから。

 福祉センターからは、「特別養護老人ホーム」の申込書と一覧を渡された。また老人保健施設の一覧も渡された。

 特別養護老人ホームの意味はわかったし、入所できるまで待つのが大変だと言うことも知っていた。

 しかし、老人保健施設については、甘く考えていたというか、よく理解できなかった。また保護入院が、三か月だと言うことも後で知った。

 医者が説明不足と言うか、流れを図式にして渡すとかすればよいのに。

 ネットとかで検索しても新しい資料と古い資料が交錯していた。

 その後、母を特別養護老人ホームに入れるまでまた、戦いが始まる。





 





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入院は終わりじゃなかった。

2008-11-11 22:39:46 | Weblog
 病院に行く途中、私たちは絶えず母に語りかけていた。

「ほら環八だよ。」

「木がずいぶん大きくなったね。」

「ここから杉並区だよ。」

”まだつかないの。場所はどこ?”

「練馬だよ。」

”遠いわねえ。”

 母の世代だと練馬は遠い田舎なのだ。母は決して閉じこもりではない。一人でどこにでも出かけたものだ。交通機関や道などは実によく知っていた。タクシーに乗れば、大体一度で道筋を覚えた。

 もう過去と現在が混在し始めていたのだ。

”入院はどのくらい”

”本当はおかあちゃまの頭がおかしいから病院へ行くの?”

 その後二人とも返す言葉がなかった。泣きそうだ、、、。

 病院が見えてきた、弟に病院の玄関前までつけるように言う。

 なんとしても病院内へ一歩でも入れねば、、、、。

 玄関前で弟が駐車場から来るのを待つ。母は弟が一番可愛いのだ、だから少しでも離れると不安なのだ。無理して病院内へ入れると、危険と考えた。

 弟が荷物を持って入っきた、母の方を抱くようにして歩いて行く弟。

 受付で話しをする、病棟を案内される。庭に坊さんの像があった。

”ここは仏教なのね。”
 
 若いころ洗礼を受けた母にはいろんな苦労もあったろう、、。でもその母に、発症した後の教会は冷たかった。

 病棟で職員に会う。

 老人精神病棟、、、、まるで映画の世界。

 ギャー、来ちゃダメ!いっちゃダメ!おい!

 机をたたき続ける老人、、、、母はそれを見てすくむ。



 すぐに看護師さんが母を連れて行った。

「お母さんこちらへ行きましょう。」

 なれている、瞬間的に母の不安を察知したのだろう。にっこりと母に笑いかけて連れて行った。

 それが母が実社会から去った瞬間である。 

 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、


 病院の人と話をした。持ち物チエック。

「メガネは渡しません。危ないので。」

英語の本を見つけた。

「これは?」

「母は英文科なので、少しでも読ませたいのです。」

 かかりのひとはブスッとした表情になった。

「読みたければ週刊誌もあります。」

「母親は週刊誌など読みません。」

 弟と声が合わさってしまった、、。

 余計気に障ったみたいだった、、、。


 この日以来、、、、

 母は年に数回家に戻すだけになった。最初は正月とか二泊でもさせようと思った。でも無理だった。

 この日から、母は認知症がさらに進んだ、、、、、、、。


  母は過去と現在をさまよい、「老人語」「家族語」を話す。
 家族にしか想像できないこと、それを母の言葉から瞬間的に想像して理解する。
 言語能力に最も優れていた母、その言語中枢をやられた。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 とうとうこの日のことを書くことになったのだなあ、、、、今書いててそう思う。
 発症したきっかけは1997年12月、発症したのが1998年5月頃、入院が2002年7月。
2007年3月私は病気退職、、、、。

 入院は終わりじゃなかった。


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入院前日、当日の朝、エピソード

2008-11-10 22:20:06 | Weblog
 入院の前にいくつか書き忘れたことがあったので、話が前後しますが、書いておきます。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 2002年の5月ごろです。保健婦さんから手紙が来たのです。
母のところをヘルパーの派遣会社のケアマネと尋ねた時のことを書いてくれたのです。

”えーと、どれから書いていいのか、、、。先日○○のケアマネの○○さんと尋ねました。お母様とお話をしていたのですが、会話が途切れました。その沈黙を破ったのはおかあ様でした。

「実は、毎晩あの人が寝ているところへやってきては、私を脅かそうとしてお化けの真似をするのですよ。でも私は気がつかないふりをするのです。警察に話しても信じてもらえないし、世の中頼りになりませんね。」
 
 ○○さんとこの話を聞いて二人ともどう言葉を返していいのか分かりませんでした。”

 この手紙もとってあります。保健婦さんもケアマネさんはとてもよく母に接していただいたと今でも感謝しています。仕事とはいえ、親身になっていただいたと本当にそう思います。
 この手紙の件はもちろん、医者にも伝えました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 母の強制入院が決まってから、しばらくしある日、体が持たず年休を取りました。慢性の睡眠不足がもう限界に来てました。朝職場に電話して、また寝ていたのです。
 しかし、昼ごろ表ががやがやしてきました。サイレンの音も聞こえますし、赤いランプが窓に反射しています。
 もうそれだけで、何が起きたのか分かりました。

 すぐに私の家のチャイムがなりました。
 ドアを開けると、消防士の人が立ってました。
「お隣の方はおかあ様ですか?」
「はい。」

 で、消防士の人は私を制止しました。私もピンときました。母が家の外に出て来たのです。会話が聞こえました。

”じゃあ、何も心配しなくていいのですね”

”大丈夫です、何も燃えていませんよ。お母さん、あまり心配しすぎないようにね。すぐに消防車よんだらだめですよ。”

 しばらくして、母は家の中に入り、消防士が手招きをしました。
下に降りていき、消防士と会話をしました。

「お母さまは、何かご病気のようですね。」
「はい、妄想がひどくて、○○病院に通ってて、○○日に強制入院することも決まってるのですよ。私も体がまいって今日は年休を取っていたのです。」

 それを聞いて消防士はすぐに理解したようです。もっともこういうことは一回や二回ではないので、情報は伝わっていたと思います。私も、最初こういうことがあったとき、すぐに状況をしらせましたから。

 時に、区の無料法律相談会から電話があったと福祉センターから連絡もあったりしました。

「家に住み着いている人を追い出したいがどうしたら良いかという内容だったので、内容を変だと思い、福祉センターに紹介が来たのです。事情をお話してよろしいですか。」

 こうした連絡は本当にありがたいことでした。とても気が良くつくといいますか、悩んでいる人の立場になってると思います。

 私自身、母のこうした症状を隠さずにいました。どんどん知らせていきました。
それがことを大きくさせなかった結果にもなりました。
 ただ、母はどこへ連絡しても本気で活動してくれないことにいら立ちも募らせたことだろうとは思います。

 でも私がそうした行動を取る以外にどんな方法があるでしょうか。一番よいのは母の不安を少しでも取り除くために、家にいる時間を多くすることだったはずです。それを職場の人は理解してくれなかったのです。

 結果、ろくに休養も取れず、母の症状を悪化させ、私自身体を壊したのですもの。おまけにリフレッシュ休暇まで妨害する、、、、どういう神経をしているのか、、。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ある夜など、12時頃帰宅した、、。
私だって人間です、ずっと家にいることはつらいものです。それで外出しました。

 家に帰ると 沢山の人がいました。覆面パトカーでしょう、赤いランプが回っている車もありました。

「息子さんですか?」
「はいそうです。」
 私をみつけた、私服の方ですが呼びとめました。
 どこかで見かけたのかなあ?

「不審者がいると電話があって、来たのですが。あっ、あなたの家の方を指さしてますよ。知らせろということでしょうね。」
 
 母は私に妄想じゃないんだと言うことを分からせようとしてるのです。そのために警察を呼んだりしているのです。

”警察も来た、だから不審者がいるの、それを信じて”

「お母さんはどこか病院とかに行かせてます?」

 病院に行かせてることも、警察でそのために御厄介になったこと、強制入院の手づきをしてること、、、など話した。

「おかあさん、もうちょっとしたことで警察よんだりしたらだめだよ。」

 警察のひとは母にそう言っていた。

 私もおまわりさんたちにあやまったりした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 強制入院前日、事情を校長に話した

「あっ、そ。」

 一言なんか言えないのか、、怒りがこみ上げる。主任も、うなずくだけだ。ことの重大さを全く理解していない。

 弟からメール
・・・・・・・・・・・・・・・

 会社に明日母の強制入院で休みます。涙ぐんで言いました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 こんな状況で私が泣くわけにいかないでしょ。分かりますか?

 その夜は三人でごはんを食べました。

「明日、○時に出かけるよ。」

 拒否られたら、、、それが最大の不安。

 そして当日の朝、もう弟は暗黙の目での合図で行動、だった。
着替えさせる、荷物を持つ、家の外に出る、鍵をかける、車をおとうとが取りに行き、家の前に止める、母を中に入れる。

 すべて笑顔で行った、少しでも不安を与えたら、拒否されるだろうから、、。


 
 
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母が入院への承諾をする…本当はだましたのだが

2008-11-08 22:04:31 | Weblog
入院の日は決まっている、しかし、母へは話せないでいた。

 警備保障会社にも聞いてみた、

”やってるところもありますが私どもでは行っていません。あえてと言われればやりますが、一人20万以上は行きますよ。”

「行っている会社を紹介してくれませんか・」

”それは分からないですよ”

仕方がないので、入院予定先に電話してみた。

「迎えに来るとかはできませんか?」

”それは無理です”

「では警備会社など紹介してください。」

”そう言うケースもありますが、私の方では把握してません。”

 強制入院とはこんなにも難しいことだった。なぜこうした詳細をあらかじめ家族に明かさないのか、、、。

 これらの電話は、みな休憩時間とか放課後、こっそり携帯でしていた。
それくらいは許してほしい、ただし次にすぐ授業があるときなどは無理だ。時間など無いし、あったとしても気持ち的に無理だ。

 もちろん、入院先の担当者にも会った。年休を取っていくほかない。それをすごい嫌な眼で見られた。特に転勤したばかりの女子教諭とか部活の顧問は、、、。
 仕事をさぼってるかのような嫌味も言う。

 管理職にも理由は話す、しかしただの一度も
「ご苦労様」「大変だね」も言われたことがない。
 よほど、鈍感と言うか自分のことしか興味がないのだろうか。

 ある日、早く家に帰ることができる日があった。

 もう何も考えてなかった。入院は1週間後、、、

 私の悪だくみが、頭の中で渦巻いている、なぜか私の心は平静で、笑みが浮かんできていた。

 家に帰った。早い時間だから、母は安心したのだろう。

 そこで私は切りだした、、、

「あのね、おかあちゃま、病院のK先生から電話があったよ。この間総合内科で健康診断したでしょ。そうしたら、病気がみつかかってね早く入院した方がいいよだって。それでね、K先生が親切にも病院を見つけてくれたよ。良かったね。」

 通院させた時もそうだったが、、、私の人生時々、なんだか大変なことをたいして考えもせず、行ってしまうことがある。

 大それたことをしてしまう。こうして生きるほかなかった、苦しみを最低限にするためにも、それしかない。


「そうだったの、それは驚いたけど良かったわ。」

「ほんとによかったね、先生にお礼の電話しようね。」

 すぐに携帯で病院に電話した、もちろんだましたことも、そして入院することに本人同意してるから、意志を変えないようにお礼の電話だといってること、だから母と話してくれないかとも。

 電話で母は
「どうもありがとうございました、本当にお世話様でした。」

 母はどんな時でもこういう時は冷静で、丁寧であった。

 すぐにカレンダーに入院と書いておいた。忘れないように母の椅子の近くにいつもカレンダーを置いてある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

弟にメール
弟の返事

「神の摂理か。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・

 終生、母をだましたことは悔いる、、、、他にどういう方法があったのか、ふんじばって連れて行くことなんかできない。

 入院や入所させた方法もよく聞かれる、それでみんな一番苦労しているのだ。
私は

「だましました。」
 
と言います。・…本当は泣きだしたい気持ちだ。

 その夜、母は急に気持が悪いと言いだした。

 弟と国立の夜間救急外来へ連れて行く。顔が青ざめて、真っ白な青。

「お袋、死ぬなよ。」

 弟が母の頭を抱いて言った。

 私は母の体調の変化の理由は想像できました。

 入院する、体が悪い、死の恐怖、、、です。

 担当した医師にいきさつを話す、ここの病院に通院してるわけですぐにカルテも
見て、了解したみたい。

「異常はありませんね。お疲れなのでしょう。」

 私が、たぶん入院への不安からだと思います、と言うと

「そうだと思います。」

と言われた。

 歳を取ると死ぬのが怖くない、認知症になると何も分からなくなる、、、とんでもない全部わかるのだ。それを常識にしてほしい。

 動揺する弟の前で平静を装う、仕事場では相変わらずバリバリやり、冗談ばかり言っていた。

 苦しみを出したくない、そうすればより理解されるだろう、、、、全く違っていた。

 後になって

「あんまり母親のことばかりしつこく言うな。」
「苦労を顔に出さないのが人生だ」

 とか偉そうに、まったく逆のことを言い始める、それが許せない。


介護休暇すら取らせなかったり、介護ための年休だって苦情を言い、介護への配慮すらせず運動部をもたせ、家の近いものがさっさと帰り、学年で最後に残るのが私だったり、若いくせに部活を持たない者がいたり、、、拒否したのに副主任にしたり、一切配慮はされていない。 


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入院の手続き

2008-11-08 00:42:29 | Weblog
医者に今後を相談した。

「強制入院させたことで、恨みは残らないか。」

”恨みは残らないようにしていきます。”

「もしも本人が嫌がったら、どうしましょうか。」

”病院で連れて行く手段を考えます。必要ならば専門の業者もいるので紹介します。”

”指定病院をいくつか紹介しますから、訪問されお話を聞かれその後は予定とかは決めてください。それに合わせて、診断書を書きますから。”

「とてもそんな余裕がありません。また年休も取れません、先生がよいと思われる病院に決めてください。」

 こうして、母の行先が数日後に決まった。

 N区にあるJ病院だった。老人専門病院で、精神保健法に基づいた収容ができる病院だった。

・・・・・
 この間、良い意味では携帯メールが実に活躍した。
 弟とメールで常に情報交換していた。
 
 涙が出てくる、、、

 入院が決まったときのメールだった。

・・・・・

 やがて、J病院の担当者とも連絡が取れて日取りも決まった、、、。

 だが、またしても

「恨みが残らないようにしてください。」

”そんなこと分かんないよ、”

「えっ、でもそう言ったでしょ!」

”そんなこと言わないよ。”

「ついては、本人はまだ入院を嫌がってます、連れて行くサービス会社を溶解してください。」

”そんな会社知らないよ。警備保障会社とか聞いてみてください、1回25めんくらいでしょう。でそれがだめだったら、家族で連れて行ってください。”

「でもそれが難しいのですが。」

”だって年寄りでしょ、いざとなったらふんじばっても連れていけるでしょ。”
 
 まただ、、、、なぜ皆言葉をたがえるのだろう、、、。そして


    「そんなこと言わなかった、言ってない」

 無責任すぎる、、、。
 決して私はうそを書いてもいない、また誇張もしていない。

 また私自身憐れみを乞うために、書いているのでもない。
 いじめをテーマに本を書かれた人が以前こう話していた

「本当はいじめの体験など話すことはすごく、精神的につかれるし苦しいのです。でもそうしないと、そうすることが自分の義務のように思うのです。」

 私もそれと同じなのです。思い出せば苦しいです、頭が興奮します。怒りも爆発します。やり場のない怒りです。人はすべて責任を回避するからです。
見たくないものにふたをしてしまうのです。

 しかし、語らないと同じことが繰り返されるでしょう。

 また今家族に認知症の人がいたり介護のことで悩んでる人に少しでも、解決のヒントになってくれればと思うのです。

 だから書き続けます、言い続けます。

 私たち自身、どれほど人の体験が役立ったか知れません。ありがたかったのです。


 

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強制入院まで

2008-11-06 22:58:24 | Weblog
 修学旅行を控え、帰宅時間がさらに遅くなる、、。

 繰り返すが私が転職したのが32歳、そのころから感じているのが会議の長さと会議の非効率さ。

 教師はどうしてかくも理屈やで話が長いのか、、、、教師と言うよりは大学進学率が増加して、自称インテリが増えたせいか、理屈で世の中を縛り付けている人が増えたと痛切に感じる。

 五月から近くのデイホームに行くようになった。ここは家からも車で5分、しかも新しく設備もよい。ロングステイも可能で特別養護老人ホームにもなっている。

 いざとなったらここに入居できるとも思ったのだ。それが実は誤算だった。
そんなに簡単に入居できない場所だった。

 デイホームには都合3回くらいしか行かなかったと思う。

 ヘルパー周4回に増やしたにもかかわらず、母の症状は激化して行った。

 1回が2時間、これを午前と午後交互に入れた。だから4時までなら私が一時間年休を取れば、家には五時過ぎには帰宅できる、それをさんざん管理職にも同僚にも言った。

校長はノーコメント、「あっそ」だけ。

主任は「施錠する人がいないからなあ。」
 学年の鍵の施錠くらいみんなでなぜやれないのか、、。私は学年に、家族や自身が病気の人とかいた場合は自ら仕事を代わったりし声がけをして、

「どうぞお帰りください、後は私がやりますから。」

 と言ってきたつもりだ。


部活熱心な教員は「部活は誰が面倒見るんだ」

 以前の学校では、父親が病気で毎日1時間年休を取っていた教師がいた。当然私もそれが許されると思っていた。

 一言でいえば思いやりがなさすぎる。

 学校の目玉が「人権」だと転勤した時、校長は話したが、どこに人権があるのだろうか。

 母はヘルパーをつけても、デイホームに行かせても、認知症の症状は進んで行った。

 家に帰ると、

「財布がない」「あの人が来た」「これは妄想じゃない。」「どうしてわかってくれないのか。」

 財布を弟と探していると、
「いくら探したってないよ」
と母が言う。

 とんでもないところから出てくる。
冷蔵庫だったり、食器棚だったり、箪笥の裏だったり

 見つけると思わずこちらがついいらだつと
「みんなで馬鹿にして、、」
と涙ぐむ、、、。

 布団で祈る母の姿を何度も見た。
弟が言う
「きっと僕たちが信じてくれるように祈ってるんだよ、」

 私もそう思った。

 デイホームから帰ると、何がない、あれがないと騒ぎだす、、。

「だから外出なんてしたくない。あの人が来て持って行ってしまう。」

 自信ありげに言う、でもそれは皆自分で隠してしまったことだ。

 電話の発信記録で、警察、消防、弁護士、警備会社、、親戚、お隣、、、、ありとあらゆるところにかけていることが分かった。

 デイホームに電話すると、
「今日は具合が悪くて外出できません。」
と話して行ってないことも分かった。

 真夜中母から電話があった

「とうとうあの人が穴を掘り始めた、それだけ。」

 と電話を切った。母は何とかして私にその人がいると信じてほしいのだ。

すぐに家に行くと、弟が懐中電灯で周辺を照らしている

「いや、母親があの人がいるなんて言うから一応みてるんだけ ど、、、。」

 母は床に伏せていたが私を見ると

「あの人が機械で穴を掘り始めたのよ。あの人はこの家がどうしても欲しいんだから。おかあちゃまが○○さん(以前私が頼んできてもらった警察の人の名)に遠慮してるとでも思うの。」

 その形相はもう昔の知的で優しい母ではなかった。ピアノを独学で弾き、曲を簡単に採譜し、数ヶ国語を話す母ではない。
 フランスのパリ大学の講師でもあるジョエルさんに
「彼女は私さえ行ったことのないパリの道を知っていて道順まで話せた。」
と言わしめた母はいない。

「誰も見えなかったよ、、。」
「だっておかあちゃまが懐中電灯で照らすと、ぱっと体を小さくしてササと逃げて行くの。」

 目の前で母が狂って行く、、、。
こらえきれず、弟が
「僕だって殴りたい気持ちだよ。」
「だったら殴ってよ。」

 医者に話した、

「うーん、もう強制入院しかないですね。」

 
 

  

 



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入院、退院、デイホーム

2008-11-05 22:37:15 | Weblog
母を入院させて、夜尋ねて

「寝られますか?」

と聞くと良く寝られると答える。

「もう少しここにいたいですか?」

と聞くと

「いたいわねえ。」

と言う。
 
 医者にそう言う気持ちになることがこの入院の目的だから、そのように仕向けるようにと言われたのだ。

 しかし、退院前日、訪問すると

「何しに来たの?」

と険しい顔、

「誰だっていたくないわよ」 

 言葉がだんだんきつくなっていく

翌日、弟と病院へ行く
医者が

「まだ入院しますか?」

と聞くと

「いえ、結構です。」

 家に帰ると母親は

「誰だって家が良いに決まっている。」

 また口論になった

「お医者様は、ちゃんと治る病気だと言ったよ。」

「えっそうなの?」

「そうだよ、いろんな人と日中合うようにしたりすると、いいんだよ。」

 そこで、デイホームにとりあえず、通うことになった。

 母が施設を嫌う一つの理由は、こう書いては申し訳ないのだが、でもどの家族も同じ悩みを打ち明ける、、、。

 ”こんなこどもじみたことができるか!”

 なのだ、、、、。悲しいことだが、ギリギリの人には

「自分がそこまで落ちたのか」

 と言う思いがわいてしまうのだ。

「これじゃあ幼稚園じゃないか。」
 
 その言葉を聞くのは家族にもつらいのだ、、。

 結局私が三か所一緒に見て回り、一番近い場所を選んだ。母もここは新しくてきれいだと話した。

 大事なことだけど、外見はやはりきれいで清潔感があること、決してそこに入ることで、自分はもうダメなんだという意識を持たせてはいけないのだ。

 このあたりは実に難しい。

 毎週土曜とか行くわけにもいかない、部活の試合がまじかだった。
校長は、忙しい時は俺が引率するとか言っていたが、そんなことは一度もない、、、。

 同じ顧問にも嫌味を言われる、、、。

 3年になったばかりで副主任、なんでそうなるのか、今まで副主任をしていたものが部活で市の代表になるから忙しい、だから天野さんやりなさい、、、だという。

 母の介護のことなど一切考慮などしていないのだ。

 こうして母の症状はエスカレートしていく。


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介護への無知は、人事や人間関係で薄情な仕打ちにしかならない

2008-11-04 20:24:35 | Weblog
2002年4月2日

 一晩悶々として仕事場へ行く。
 私の仕事場は、田園都市線 中央林間駅から徒歩15分くらいのところ。
 自宅世田谷といっても、自由が丘(目黒区)に近い。自由が丘からなら、東急コーチで二つ目のバス停。
 その前は、小田急相模原駅からさらにバスのところだった。朝5:45分に家を出ていた。校長の計らいで、一番近いT中に転勤させてもらったのだ。

 母のことを話し、運動部以外はなんでもやるから、と懇願したにもかかわらず、T中の校長は全く理解してないし、学年主任もその事情が判されていない。

 それで一年が過ぎた。転勤してきた女性教師がいきなり

「天野先生も遠距離通勤だけど私も遠距離だから。」

 いきなり初対面の挨拶で、何を言っているのか全く分からない、、。職員会議で唖然とした。

 その女性教員、部活を持ってない、、、。

 ことあるごとに、

「私は遠距離通勤だ、私だって病気だ。」「車が運転できないから電車で来る。だから1時間以上もかかる。」
という。

 こんなことが遠距離通勤の理由になり、部活を免除される理由になるのか、、、、、。

 私は、この地で勤め始めた年に免許を取った。でないと移動が極めて不便である。それ以前は、自転車を駅に置いて通ったものだ。

 11kmなら自転車で通えば1時間もかからない。もよりの駅まで自転車を使うとかすれば、1時間なんてかからない。
 頭が悪いというより、性格異常だ。

 病気のことも、以前の学校で、酒を飲みすぎ体を壊したことを言っているのだ。
転勤してからも、部活はしないのに、酒だけは飲んでいる。

 住んでいるところは、同じS市のY台、、、googleで調べても11km、、、。

 後で知ったが、校長と同じ北海道の出身、それもあるのか、、。私のリフレッシュ休暇を妨害したのもこの教師。
 そのくせ、3年生を卒業した後、介護休暇で北海道へ帰っている、ちょうど学年旅行が北海道へ行った後だ。
 もちろん、学校はやっている、、、。
 校長も、私が一年半の療休後偶然、市民会館前で会ったとき
「おーー、今度は休めるでしょう。」

 転勤した後になんで私の、療休後の処遇、「毎日2時間とれという処遇」を知っているのか。しかもその慮休は、教頭がハンコを取り上げ勝手に取ったことにして押されていた。

「休めませんよ。」

と話したら

「いや、まあ、その、、」

 そばに教え子がいたからか、、、。

 とその場を去って行った。卑怯すぎる、、、。自分の人事がまずかったことを知っている証拠ではないか、、、。


 4月2日、私がどんな思いで、職員会議で人事の発表を聞いていたことか、、。

 母が二週間の入院中も
「母が入院してますから、早く帰宅させてください。」
 と話しても、全くの配慮もない、、、。入院先は東京医療センター、、、家から車で行けば10分くらいだ、だが家につくまでの時間がない、、。

 結局、土日とかしか行けない。
教会の牧師にそのことを話しても、問題視しない、みんなに話すわけでもない。
この牧師、ただの一度でも母のところを訪ねたか、、というと今に至るまで無い。


 介護への無知は、人事や人間関係で薄情な仕打ちにしかならない

 それは、ニートやフリーター、うつ病への偏見と同じようなものだ。怠けてるとか、被害妄想だとか、自己管理ができてないとか、誰でもそれを克服するのだとか、自分がその立場になれば初めて分かることだ。

 それが悲しいことだが。




 





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母の入院、、、眠れる夜だが

2008-11-03 23:08:24 | Weblog
 家出のまねごとをしていたある日、、といっても隣の家にいて弟と連絡を取りつつ、母の様子をうかがっいていたのだが、、弟から電話。

「以前家に住んでいた、スイス人の○○さんが家に来た。逢いたがってる。」

 電話で彼女と話した、母のことを説明し、知り合いの方々に事情を説明してくれともたのんだ。

 以来、そのかたとは連絡はとれていない。
というより、母は住所録から手紙から、かなり処分してしまったのだ。父親が亡くなり25年目の頃、家じゅうを片づけてしまっていた。

 入院前日、3月31日、弟から入院に付き添ってくれるかどうかの確認の電話。
もちろん、行く。
 前日は母のところへ戻り食事をともにし翌日、4月1日、病院へ連れて行く。

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 職場では、臨時の担任のクラスの生徒が、歌を担任に送りたいというから、歌を練習して、録音して最後に
「先生大好き」という言葉を全員で言うのを録音した。

 4月1日の夜は私も弟も複雑な気持ち、、、、ともかくゆっくり眠れる、、、。
 
 入院前医者から

「ここは開放房です、しかし逃げ出したり、暴れたりすることがあれば閉鎖房に入れることもありますがよいですか。」

「はい」としか言いようがない、、、。


 翌日、4月2日、、悪夢のような出来事が職場で起きる。
 
  




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家出、、、柱に頭をぶつける

2008-11-02 21:22:32 | Weblog
 2002年、この年は毎日が地獄だった。

 母の症状は悪化の一途、医者は入院を勧める。

「入院することにより、入院が安心できる場所だと分からせるためだという。」

「母は入院を嫌がりますが。」

「それをさせるのが家族でしょ。」

 この医者の言葉遣いというか、語調はトゲがあるようで、それだけでもストレスになったが、、、。

 医学上のムントテラピーの大切さぐらい、今どきの人間なら分かる。そういう医学上の分野を知らずとも、患者や家族の者の心理をもっと配慮するような発言をするべきだとあらためて思う。

 母の入院は四月1日に決まった、しかし母は入院を拒否する。

 ますます、妄想の症状を悪化させた。

 入院すれば家を離れる、そのすきに「あの人」が来て家を乗っとってしまう。

 それが母の理由だ。

 どうしたら、入院させることができるか、私の取った行動は

「あなたが入院しないのなら、私は家を出て行く。」

「そんなことはしないで!」

「あなたは私たちをボロボロにしている、仕事もできない、結婚だってできないんだ。」

 どなりながら、私は柱に頭をぶつけた、ゴンゴン音がした、額も割れた、、。

 そして家を飛び出て、隣の自分の家に帰った。

 もちろん弟とメールでやり取りした、そして母への手紙を書いた。

・母の行動はおかしい。
 それに気づいてください。
 入院するまでは家に帰らない。


 翌日弟からメール

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 こたつの上にある手紙を母は読んでました。
「やっぱり私はおかしいのかしら。」と聞くから
「うんおかしいよ」
と答えました。
「やはり入院しようかしら。」
と母は言ってました。
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 母が入院するまで家には帰りませんでした。入院には同行しましたが。 

・通院させること
・入院させること

 家族にとってそれがどんなに大変なことか、理解する人はまだ少ない。
私の兄も

「痴ほうになって何も分からなければその方が幸せだろ。」

 ですましてしまう。

 退職してNPOに参加してからも、良く聞かれるのが

「どうやって、病院に通わせたの?」
「どうやって入院させたの?」

 これほどみんな悩んでるのです。それができないから苦しんでるのです。

 私はこう答えました。

「だましました。」
「演技しました。」

 認知症になったからと言ってすべてが分からないのではない、いわば「老人語」を話してると思えば理解できる。

 あなたが子供のころ、幼いころ、何も分からなかったですか?ちゃんと人格をもっていたでしょ、言語化できなくても、嫌なこと楽しいことは分かっていたでしょ。それと同じですよ。


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 この間、臨時の担任としてクラスの生徒の家庭訪問、毎日の学級新聞、そして療休した先生へクラスの生徒から全員の手紙と、合唱を録音したり、、、。

 途中で担任が変わる時気をつけること。

・本担任のことを忘れさせてはいけない。
・しかし、前の担任の方が良かったと思わさせてもいけない。

 私が気をつけたことはそのことだ。だからこそ、毎日学級通信を出したり、通知表も書きなおした。

 校長など、管理職がどれだけ同じことをしてきたか、、正直怪しい。


 










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お母さんピアノを弾いてください

タイトルとなった「お母さんピアノをひいてください」は抒情文芸平成13年春季号に掲載されたものです。 オリジナルモジュールで設置したので、常に上に来てしまうのですが、詩の形が崩れてしまいます。 妄想の中に一日いて おびえ閉じこもる母よ 死ぬほど私は辛いのです 小学生から大学まで首席の母 数カ国語を話し、独学で弾くピアノ 簡単なメロディーはすぐに採譜してしまう母私には できすぎた母だった 高等文官の娘に生まれ 私にも明治流の武士の作法を教えた母 母よ、あなたは私には重かった 父が浮気症でなかったら あなたはもっと幸せでおおらかに私を育てたろうに 悲しみとやり場のない怒り 私はもう子供じゃない 母には私はまだ十五の子供に見えるらしい 二度目の童子となった母 母を悲しませまいと自分を殺して生きてきた少年時 代、青年時代 母よ時には恨みもあるのです 私は普通の人なのです、あなたの家族のようなエリ ートにはなれません それもあなたの悲しみの一つです 私は独りです、それもあなたには悲しみですか 両親の不仲が私を学習に集中させなくなったほとん ど上の空の授業、とうとう不安神経症になった私 荒れた少年時代、机も椅子もよく投げた 立ち直らせてくれたのはあなただった 母よそのあなたが目の前で狂ってく なぜ、なぜ、なぜと叫ばずにおられない 心優しき弟はけなげに母をいたわり料理を作る 他の親族は己の主義に走り、以来家には無関心 挙げ句の果てに「お前達でやれ」とはそれがあなた の主義が出した正義ですか 私だって弱いのだ、いや本当に私は弱いのだでも仕 事でも、家でも強い自分を演じてきたそうしなきゃ 誰があなたをはげませたでしょう 私の救いはどこにある 私を慰める人はどこにいる 二度目の童子となった母 もう一度ピアノを弾いてください 私は歌うから、、、、、、。