入院の日は決まっている、しかし、母へは話せないでいた。
警備保障会社にも聞いてみた、
”やってるところもありますが私どもでは行っていません。あえてと言われればやりますが、一人20万以上は行きますよ。”
「行っている会社を紹介してくれませんか・」
”それは分からないですよ”
仕方がないので、入院予定先に電話してみた。
「迎えに来るとかはできませんか?」
”それは無理です”
「では警備会社など紹介してください。」
”そう言うケースもありますが、私の方では把握してません。”
強制入院とはこんなにも難しいことだった。なぜこうした詳細をあらかじめ家族に明かさないのか、、、。
これらの電話は、みな休憩時間とか放課後、こっそり携帯でしていた。
それくらいは許してほしい、ただし次にすぐ授業があるときなどは無理だ。時間など無いし、あったとしても気持ち的に無理だ。
もちろん、入院先の担当者にも会った。年休を取っていくほかない。それをすごい嫌な眼で見られた。特に転勤したばかりの女子教諭とか部活の顧問は、、、。
仕事をさぼってるかのような嫌味も言う。
管理職にも理由は話す、しかしただの一度も
「ご苦労様」「大変だね」も言われたことがない。
よほど、鈍感と言うか自分のことしか興味がないのだろうか。
ある日、早く家に帰ることができる日があった。
もう何も考えてなかった。入院は1週間後、、、
私の悪だくみが、頭の中で渦巻いている、なぜか私の心は平静で、笑みが浮かんできていた。
家に帰った。早い時間だから、母は安心したのだろう。
そこで私は切りだした、、、
「あのね、おかあちゃま、病院のK先生から電話があったよ。この間総合内科で健康診断したでしょ。そうしたら、病気がみつかかってね早く入院した方がいいよだって。それでね、K先生が親切にも病院を見つけてくれたよ。良かったね。」
通院させた時もそうだったが、、、私の人生時々、なんだか大変なことをたいして考えもせず、行ってしまうことがある。
大それたことをしてしまう。こうして生きるほかなかった、苦しみを最低限にするためにも、それしかない。
「そうだったの、それは驚いたけど良かったわ。」
「ほんとによかったね、先生にお礼の電話しようね。」
すぐに携帯で病院に電話した、もちろんだましたことも、そして入院することに本人同意してるから、意志を変えないようにお礼の電話だといってること、だから母と話してくれないかとも。
電話で母は
「どうもありがとうございました、本当にお世話様でした。」
母はどんな時でもこういう時は冷静で、丁寧であった。
すぐにカレンダーに入院と書いておいた。忘れないように母の椅子の近くにいつもカレンダーを置いてある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
弟にメール
弟の返事
「神の摂理か。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・
終生、母をだましたことは悔いる、、、、他にどういう方法があったのか、ふんじばって連れて行くことなんかできない。
入院や入所させた方法もよく聞かれる、それでみんな一番苦労しているのだ。
私は
「だましました。」
と言います。・…本当は泣きだしたい気持ちだ。
その夜、母は急に気持が悪いと言いだした。
弟と国立の夜間救急外来へ連れて行く。顔が青ざめて、真っ白な青。
「お袋、死ぬなよ。」
弟が母の頭を抱いて言った。
私は母の体調の変化の理由は想像できました。
入院する、体が悪い、死の恐怖、、、です。
担当した医師にいきさつを話す、ここの病院に通院してるわけですぐにカルテも
見て、了解したみたい。
「異常はありませんね。お疲れなのでしょう。」
私が、たぶん入院への不安からだと思います、と言うと
「そうだと思います。」
と言われた。
歳を取ると死ぬのが怖くない、認知症になると何も分からなくなる、、、とんでもない全部わかるのだ。それを常識にしてほしい。
動揺する弟の前で平静を装う、仕事場では相変わらずバリバリやり、冗談ばかり言っていた。
苦しみを出したくない、そうすればより理解されるだろう、、、、全く違っていた。
後になって
「あんまり母親のことばかりしつこく言うな。」
「苦労を顔に出さないのが人生だ」
とか偉そうに、まったく逆のことを言い始める、それが許せない。
介護休暇すら取らせなかったり、介護ための年休だって苦情を言い、介護への配慮すらせず運動部をもたせ、家の近いものがさっさと帰り、学年で最後に残るのが私だったり、若いくせに部活を持たない者がいたり、、、拒否したのに副主任にしたり、一切配慮はされていない。
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警備保障会社にも聞いてみた、
”やってるところもありますが私どもでは行っていません。あえてと言われればやりますが、一人20万以上は行きますよ。”
「行っている会社を紹介してくれませんか・」
”それは分からないですよ”
仕方がないので、入院予定先に電話してみた。
「迎えに来るとかはできませんか?」
”それは無理です”
「では警備会社など紹介してください。」
”そう言うケースもありますが、私の方では把握してません。”
強制入院とはこんなにも難しいことだった。なぜこうした詳細をあらかじめ家族に明かさないのか、、、。
これらの電話は、みな休憩時間とか放課後、こっそり携帯でしていた。
それくらいは許してほしい、ただし次にすぐ授業があるときなどは無理だ。時間など無いし、あったとしても気持ち的に無理だ。
もちろん、入院先の担当者にも会った。年休を取っていくほかない。それをすごい嫌な眼で見られた。特に転勤したばかりの女子教諭とか部活の顧問は、、、。
仕事をさぼってるかのような嫌味も言う。
管理職にも理由は話す、しかしただの一度も
「ご苦労様」「大変だね」も言われたことがない。
よほど、鈍感と言うか自分のことしか興味がないのだろうか。
ある日、早く家に帰ることができる日があった。
もう何も考えてなかった。入院は1週間後、、、
私の悪だくみが、頭の中で渦巻いている、なぜか私の心は平静で、笑みが浮かんできていた。
家に帰った。早い時間だから、母は安心したのだろう。
そこで私は切りだした、、、
「あのね、おかあちゃま、病院のK先生から電話があったよ。この間総合内科で健康診断したでしょ。そうしたら、病気がみつかかってね早く入院した方がいいよだって。それでね、K先生が親切にも病院を見つけてくれたよ。良かったね。」
通院させた時もそうだったが、、、私の人生時々、なんだか大変なことをたいして考えもせず、行ってしまうことがある。
大それたことをしてしまう。こうして生きるほかなかった、苦しみを最低限にするためにも、それしかない。
「そうだったの、それは驚いたけど良かったわ。」
「ほんとによかったね、先生にお礼の電話しようね。」
すぐに携帯で病院に電話した、もちろんだましたことも、そして入院することに本人同意してるから、意志を変えないようにお礼の電話だといってること、だから母と話してくれないかとも。
電話で母は
「どうもありがとうございました、本当にお世話様でした。」
母はどんな時でもこういう時は冷静で、丁寧であった。
すぐにカレンダーに入院と書いておいた。忘れないように母の椅子の近くにいつもカレンダーを置いてある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
弟にメール
弟の返事
「神の摂理か。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・
終生、母をだましたことは悔いる、、、、他にどういう方法があったのか、ふんじばって連れて行くことなんかできない。
入院や入所させた方法もよく聞かれる、それでみんな一番苦労しているのだ。
私は
「だましました。」
と言います。・…本当は泣きだしたい気持ちだ。
その夜、母は急に気持が悪いと言いだした。
弟と国立の夜間救急外来へ連れて行く。顔が青ざめて、真っ白な青。
「お袋、死ぬなよ。」
弟が母の頭を抱いて言った。
私は母の体調の変化の理由は想像できました。
入院する、体が悪い、死の恐怖、、、です。
担当した医師にいきさつを話す、ここの病院に通院してるわけですぐにカルテも
見て、了解したみたい。
「異常はありませんね。お疲れなのでしょう。」
私が、たぶん入院への不安からだと思います、と言うと
「そうだと思います。」
と言われた。
歳を取ると死ぬのが怖くない、認知症になると何も分からなくなる、、、とんでもない全部わかるのだ。それを常識にしてほしい。
動揺する弟の前で平静を装う、仕事場では相変わらずバリバリやり、冗談ばかり言っていた。
苦しみを出したくない、そうすればより理解されるだろう、、、、全く違っていた。
後になって
「あんまり母親のことばかりしつこく言うな。」
「苦労を顔に出さないのが人生だ」
とか偉そうに、まったく逆のことを言い始める、それが許せない。
介護休暇すら取らせなかったり、介護ための年休だって苦情を言い、介護への配慮すらせず運動部をもたせ、家の近いものがさっさと帰り、学年で最後に残るのが私だったり、若いくせに部活を持たない者がいたり、、、拒否したのに副主任にしたり、一切配慮はされていない。
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