大蔵大臣就任の頃
【大蔵大臣になる】~1962/S37年 第2次池田勇人内閣
7月改造で最重要閣僚の大蔵大臣に・・・田中も私も周囲も驚く人事だった。
夜9時過ぎに大蔵省秘書官室に事務用品搬入し引越。
44歳での蔵相就任は憲政史上最年少、田中も重責に緊張している。
田中は、大蔵省の講堂に集まった大蔵官僚たちに大臣就任の挨拶。
'こ存じだろうが、私は高等小学校卒業。諸君は全国から集まった秀才で、
'こ存じだろうが、私は高等小学校卒業。諸君は全国から集まった秀才で、
金融財政の専門家だ。だが、棘のある門松は諸君より多く潜って来た。
わたしは出来ることはやるが、出来ないことは約束しない。
今日から諸君と一緒に仕事をするが、お互いをよく理解したい。
大臣室の扉は常に開けておくから、我と思わん者は誰でも訪ねて来てくれ。
上司の許可はいらん。仕事は諸君が思うように、思いっ切りやってくれ。
しかし、すべての責任は、この田中角栄が負う。以上。'
今までの大臣には無い型破りの挨拶に、官僚たちは度肝を抜かれた。
こんな話もある。新卒20人の入省式。
田中は、何も見ることなく、一人ずつ名前を呼んで握手して訓示。
'諸君の上司には馬鹿がいたり、アイデアが理解できない者もいるだろう。
そんな時はいつでも私の部屋を訪ねて来てくれたまえ'
~官僚たちの田中人気が窺えるエピソードだろう。
もっとも、その背後には昭子の献身的な努力があったことだろう。~
【アメリカ訪問】~1962/S37年9月 IMF(国際通貨基金)年次総会出席
田中の初めての海外旅行。英語でのスピーチも初の体験だった。
ニューヨークのお別れパーティでは、「王将」を歌って好評だったとか・・・。
【幹事長就任】~1965/S40年6月 佐藤内閣 自由民主党幹事長に就任
国会運営から人事、選挙とすべてをする激務、田中の体力が少し心配。
'お前は個人事務所の統括をしてくれ'と言われて引き受ける。
【黒い霧事件解散】~1966/S41年8月
田中彰治、荒船清十郎代議士ほか閣僚が次々と汚職収賄で逮捕
12月 佐藤内閣は田中幹事長ら党三役を更迭し、内閣改造実施
'何であんたが辞めなきゃいけないの?' '泥をかぶるのも俺の仕事だ'
佐藤政権への国民の不信感が募り、暮れに解散・衆議院総選挙実施。
【列島改造へ】~1967/S42年3月 党の都市政策調査会長に就任
国会議員八十七名参加、官僚・学者・文化人も参加した政策調査会。
田中が陣頭指揮を取り、「都市政策大綱」となって結実した。
そして、これが列島改造へとつながってゆく。
今日はここまで。最後に列島改造につながる田中角栄の遊説演説を。
それでは明日またお会いしましょう。
[Rosey]